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四月の新生活(上)



 俺には、二つ下の妹がいた。

 

 かわいいやつだった。幼い頃は何かとつけてお兄ちゃんと呼んでは甘えてきて、何かある度に褒めてほめてとねだってきた。そして俺がよくやったなぁと頭をなでてやるとまるで猫のように喉を鳴らすのだ。小学校高学年になっても、相変わらず頭を撫でられるのが好きなやつだった。俺が小学校を卒業すると、家ではいつでも会えるというのに「これからは学校で会えなくなる」と俺以上に泣いた。

 でも妹も中学に上がるとそこまで俺に直接的な好意を向けてくることは少なくなった。呼び名も兄さんに変わった。それでも相変わらず頭を撫でられるのは好きだった。

 俺も妹のことには何かと気にかけていた。妹が告白されようものならその相手の男のことを洗いざらい調べ上げた。最終的にはどんな相手であっても妹はすげなく断ってはいたが、断るくせして告白されたという情報だけはいちいち俺に伝えてくるのだからいじらしい。因みにこれは俺にも言える話で、俺も告白されたら付き合うにしろ付き合わないにしろ妹に話を吹っ掛けた。その時の妹の反応が面白かったからだ。

 まぁここまで話せば大体みんな気付いてしまうのだが、俺は友人たちからはよくシスコンと呼ばれていた。別にシスターコンプレックスは病気ではない。そこまで不思議なことでもないだろう。親が子を愛し同じく子が親を愛するのと同じで、俺が妹を好いて同じように妹が俺を好いてくれることに何ら悪いこともいけないこともない。だから俺は特にシスコンと呼ばれようが気になどしていなかった。妹が泣いていれば、たとえ世界の裏側であろうと俺は助けに行く自信すら一時期は持ったほどだ。


 だが……。


 俺の妹と母は、事故で死んだ。


 高速道路での衝突事故だった。即死だったらしい。

 俺たちのもとに届けられた遺体は、見るも無残なほどにひしゃげていた。

 俺の妹は、十四という若さでこの世を去った。




 **********




 高校三年の春。そろそろ大学進学を考えている場合は、真剣に将来を考え勉強しださないとまずい時期だ。一応俺も、地元山梨県ではそこそこの伝統がある進学校の高校に通っているだけあって、大学に進学するつもりでいる。昨今の就職難を見れば嫌でも高学歴に飛びつこうとするのが人情というものだろう。俺たちは父子家庭ではあるものの、親父はそれなりに高収入で、学費の心配はしなくていいらしい。行けるのであればそこそこ名の馳せた大学を狙いたいところだ。狙っちゃえるのであれば東大とかよさそうである。

 などと今年一年勉強に明け暮れることを心に固めた俺、佐久間(さくま)かけるは進路指導室で怒られていた。


 春先ということもあって窓から外をうかがってみれば、山々は命の芽吹きを感じさせる若葉の色で彩られ、見る者の心に春の訪れを感じさせるであろう風景が広がっている。

 まぁ、基本山に生えている木は常緑樹であることが多く、秋に紅葉を見せる木もちらほらあれど、基本的に甲府の山が見せるのは雪化粧と今のような緑の山だ。そもそも街中でも街路樹は山ほどあるし、北を向けども南を向けども東も西もすべて山なのだ。今更山の一つや二つに季節を感じるもくそもない。

 しかし、そんな山に囲まれ、地平線に広がっているはずの広大な海を見ることもなく過ごす善良な山梨県人が、さらに狭苦しく一年中険しい顔の人間ばかりが集まる生徒指導室に閉じ込められれば、いやでも窓の外の風景に心の安らぎを求めたいと思ってしまうものだ。逆に言えば、それほどまでに現実に目を向けることが憂鬱になる場所であるということでもある。

「それで、これはどういう意図で書いたのか説明してもらえるんだろうね?」

 狭苦しい生徒指導室の一角に設けられている来客用のソファーと机が用意されているスペースに凛と強い女の声が紡がれた。ダンっと不快な音をわざとらしく立てながら一枚の紙が机に置かれる。それを一目流しみて確認すればなんということはない。確か昨日書けと言われ仕方なく書いた作文だった。タイトルなんぞ覚えてはいないが、確かこれからの学校教育の在り方についてという趣旨の作文だったはず。つまりは作文のことについて物申したいということがあるということだろう。まったく、進路指導室に来いなどと言うからどんなことかと思ってきてみれば。

「勉学に対して非効率的な感情の誘発を防ぐための共学の廃止だと?なんだこれは?非リア充の僻みか?いやらしい」

「はっ、バカですか?あんな――」

「あん?」

 非リア充という言葉を当たり前のように使う教師に俺も鼻で笑って返そうとしたのだが、その瞬間に鋭い目で恫喝された。さすがは三十路独身の女教師だ。この部屋に席を持つだけあって貫禄が違う。俺はすぐさま襟と姿勢を正した。

「おい佐久間、尊大不遜なお前がまかりなりにも教師であるこの私と会話することが許されているのは、貴様の申し訳程度に礼儀正しい言葉遣いとお前の落ち葉に張り付いた芋虫程度の権利を考慮してのことだということをよぉく理解しておけよ」

 俺と対面しているのは今年三十路になる女教師、山田やまだ教員だ。唯一生徒指導室の女教師ではあるが、まったく華がない。声のトーンと体つきが間違って女になってしまっているだけで中身は男でおっさんだ。単なるうわさではあるが休日はアキバに行ったり一人でカラオケに行っているらしい。ちなみに英語の教員で俺の担任でもある。

「おほん、私があんな恋愛だの青春だのと病気のように騒ぐ連中と一緒にしないでいただきたい。常日頃からそのような三年もたてば覚めるような感情に熱狂している彼らと同じ学校にいるということ自体が、俺、じゃなくて私のように勉学に真剣に取り組みたいと考えているものにとってはマイナスな影響を受けかねないことを考慮した意見だったはずです。ちゃんとただの思い付きでないことも証明するため具体的な要綱も添付させていただいたはずですが」

「ああ、あれは要綱だったのかね。ただの作文を課題としたはずなのに、いったいどこで手に入れたのか本学校の指導要綱までも参考資料として持ち出してあった時はさすがに目を剥いたよ。まあ熟読する価値はないと一目で分かったんで来年の暖炉にでもくべておこうと思うがね」

 「作文の規定は守られているはずです。特に反社会的な思想を書いたわけでもありませんし、提示された趣旨とはずれた内容を書いたわけでもないでしょう?どこか問題が?……ありますね、わかっています。なので暴力はやめてください」

 少々うんざりながらも教師と対面するうえでの最低限の礼節を守り問い返すが、さらにきつくなる視線に俺の頭は反射的に下がってしまった。ただ、意外なことに、頭を下げた瞬間飛び出してきたものは叱責ではなくため息だった

 どういうわけかと気になって顔をあげて見ると、山田教員は眉間にしわを寄せ何やら気難しい顔をしていた。「ああまたか」と俺の気分が沈んだ。山田教員は、俺の事情を知っている。

「君はそれなりに成績はいいんだ。大学進学についてもそれなりのところを狙える実力はある。君のその性格は、マイナスでしかない」

 山田教員は打って変わって女性らしい声を出した。

「そうは言いますけど、性格はそんな簡単には変えられないので」

「もう少し友人と交友を持つ時間を増やせ」

「それ、教師が言っちゃいます?受験生に向かって」

 俺は胸の中では苦い顔をしながら、表面にだけは何とか取り繕うような笑みを浮かべた。

「君にとってはそちらのほうが大事だ。どうせ受験生とはいっても今年の三年は遊び心が強い学生が多すぎる。まだ部活を続けているものが大半だし、夏休みに入るまではそれほど受験モードにはならんだろうさ」

「だからこその教学制の廃止を提案させていただいたんですが」

「またその話を持ち出すかね?」

「すみませんなんでもありません」

「言わせてもらうが君の成績を鑑みても目を見張るのが協調性の低さだ。勉強だけが下手にとりえになってしまった人間がなりがちのやつだ。せめて人や友人と話すときぐらいは笑顔になれ。そこら辺は、少し考えるようにしてくれ」

 そこからまたしばらくは山田教員の愚痴や小言に付き合い、俺は進路指導室を後にした。

「あ、そうそう……」

 ただ、進路指導室の扉を開けたところで、言い忘れたことがあることに気付いて俺は振り返り山田教員にもう一言だけ声をかけた。 

「性格のことについては、あきらめてください。この性格は俺自身どうかと思っていますけど、それを補って余りあるほど勉学で実力をつけます。それに、今更性格を矯正したとしても半年も不登校になったことのある私は推薦入試はできませんから、どっちにしろ受験にとってはいいことはありませんので」

 そう告げると、山田教員はまた気難しい顔をする。そんな顔をするときだけは山田教員もいじらしいほどに女性らしくなる。



**********



 俺は、母と妹を一年三か月前に事故で失った。母、美智子みちこは享年五十歳。妹、佐奈さなは享年十六歳。ただし満年齢でいえば、二つほど下がって四十八と十四という若さで、二人はこの世から去った。

 その日の朝、妹と母は親せきの家に行くと言って笑いながら出かけて行った。

 朝飯だって一緒だった。目玉焼きだった。それだけじゃない。部屋は別々でも、二人大体同じ時間に目を覚ましては、いっしょに洗面所の鏡の前に立って、眠い目をこすりながら歯を磨いたりだってした。

 その先もそんな普通の毎日が続いていくものだと思っていた。

だから、それが唐突に終わりを告げられたことが、どうしても信じられなかった。

 妹の部屋を訪れても、妹がそこで元気に「兄さん」と言ってくる姿だけははっきりと想像できるのに、妹の姿がないことが、ひどく苦しかった。

 親父が朝飯を作るという日常が、信じられなかった。

 頭を撫でたくても撫でられないという現実が、俺は受け入れられなかった。

 俺は二人を失った高校一年の冬から半年ほど、不登校になったのだ。


 自分でも情けない話だとは思う。


 でも、それほどまでに二人の存在は俺の中で大きくて、受け入れることができなかったんだ。

 でも不登校になり何もしていなかったかといえばそうでもなかった。

 俺は狂ったように勉学に明け暮れた。別に勉学に身を投じようと思った目的があったわけじゃなかった。ただ日々ベットの上で毛布にくるまっている日常ばかりを過ごす中で、たまたま手に取った参考書に目を通したとき、それに没頭してしまうようになっただけだ。

 だから、重い体を引きずって登校を再開した高校二年の夏も、勉学の面で取り残されているということはなかった。

 登校を再開したのはしばらくたって気持ちがようやく整理できたからだ。

 親父が作る朝食にも、俺が夕食を作る日常にも、ようやく慣れた。妹のことも記憶がフラッシュバックするようなことはあってもそうそう取り乱すこともなくなっていた。ようやく立ち直れたと思っていた。


 でも、俺はやはり、佐奈を失ったことから一生立ち直ることができないと悟ったのは、俺が三年に進級することを意識しだした時だ。

 中学の時、俺が三年に進級すると、妹は一年生として入学してくることになる。妹はようやくまた俺と同じ学校に通えることを喜んだ。

 そのことを思い出した瞬間、妹はもういないという現実が俺の心を砕いて、泣いた。

 そのときはそう、俺は一晩中泣いた。


 その時になって俺はようやく理解した。失ったものに代わるものなんてない。佐奈を失ったこの心を埋める方法なんて、どこにもないのだということを。




 

**********



 進路指導室からようやく解放された俺は、部活動連中の掛け声のやかましい校舎を出て帰路についた。

 自転車を走らせ細道を通ること十数分、古く廃れた温泉街を抜けると家にたどり着く。

 親父はそれなりに稼いでいるとは言っても、家の外見はかなり古い。俺が生まれたばかりの時に中古で買ったという話なので築三十年は越しているだろう。

 花壇に植えられた何の木だかわからないような木がずいぶん大きくなっていたり、家の屋根に穴が開いていたりと、外見についてはさながらお化け屋敷のようではあるが、物置や花壇もあるし、車が二台ほど止められる庭もある。

 こんななりではあるが、俺たち家族を守ってきた木造二階建ての一軒家だ。

「ただいま」

 誰もいない空間に俺の声が響く。男二人だけの生活で普段あまり手の行き届いていない埃たちが、住人の帰りを受けて、いくらか舞い上がった。掃除もしなくてはいけないとは思っているのだが、それもなかなか行動には移せてはいない。

 親父は午後七時ぐらいになるまで帰ってはこないだろう。帰宅一番に台所に向かった俺は、飯盒の七時にご飯が炊けるようにセットだけして、早々に二階の自室に向かった。

 でもその途中、俺の隣の部屋を、ノックしてから開いた。

 妹の部屋だ。壁に掛けてある中学の制服から、小学校の時に親に買ってもらった勉強机まで、事故の前と変わらない妹の部屋がここにある。

「ただいま」俺は笑って言った。

 お帰りは返ってこない。

 この部屋に入ると視線は自然と妹の勉強机の上に立てかけられてある写真たてに向く。その写真の中に閉じ込められている佐奈の写真は、確か二年前の中学の始業式の日に撮った写真だ。その時はちょうど俺が高校に進学した年でもあって、結局また一年間同じ中学で時間を過ごしたもののバラバラになってしまったあの時だ。その時、佐奈は泣きはしなかったものの、学校がまた離れ離れだとしかめっ面していた。せっかく進級した日なんだからと、「いい顔しろ」とカメラを構える親父に言われて、俺にあてつけるような笑顔を向けた瞬間をとらえた一枚だ。そんな些細な思い出とともに佐奈の生前の笑顔がその写真の中には込められている。

その写真を見て、少しばかり懐かしい気持ちで心を満たした後、締め切っていたカーテンを開け、窓も開けた。

 外はすっかり夕焼け色だ。

 解放した窓から自然の多いこの地ではぐくまれた清純な空気が、そよ風に乗って佐奈の部屋に満たされていく。

 そんな風を全身で感じながら見るこの景色が、俺たちは好きだった。この家で一番日当たりがよく、見晴らしのいい場所だ。

 ここで風を感じる時間が、最近の俺には一番の安らぎの時間だ。

 ここから見える空とここで感じる風だけは、きっと変わってはいないのだ。

「せっかく日当たりが一番いい部屋なのに、カーテン閉め切ってるばっかりじゃ疲れちまうよな」

 それに、佐奈も晴れの日が好きだ。

 「締め切ったまんまじゃ、あんまり空気もおいしくないしな」

 家の中で遊ぶことよりも、外に出ていく方が好きだったからな。俺たち二人ともちっさい時は山の中駆けずり回って、虫やら動物やらを捕まえて、泥んこになることが多かった。

 だからきっと、佐奈も少しは外の空気を感じれる方がうれしいはずだ。

 俺は少し窓辺に腰かけて、この景色を眺めた。

「んん、あそこの団地が改築されることがなかったら、もっときれいに富士山が見れたのにな」

 甲府の住宅の南の窓から外を覗けばほとんどは富士山が一望できる。だが、あいにく少し前にできてしまった団地が邪魔をして山の頂上の方しか見ることはできない。まぁいつも目にする者にとっては富士山なんぞあるのが当たり前で見れたからと言ってありがたみなんかこれっぽっちもない。

 ないが……。

 これは、妹がいなくなってしまってから変わった風景だ。

「もう一年も経つんだもんな。……変わってほしくなかったけどなぁ。ここから見える景色ぐらい」

 でも、それだけは仕方のないことなのかもしれない。

だが、こればかりはもう仕方がない。過ぎ去ってしまう時間にだけは、どうしたって逆らうことができない。時間というのは変化の流れそのものだ。

時間が立てば何かが決定的に変わっていく。

俺だってそうだ。

 俺だってきっと変わっていて、これからもきっと変わっていく。

「…………さて、俺はそろそろ勉強しないとな。推薦入試は全く望みないし」

 俺はそのまましばらくたそがれた後、勢いをつけて窓辺から立ち上がって、佐奈の写真にそう言って部屋を出た。


 勉強を始め、ペンが進み始めるとよく時間を忘れそうになる。なるが、慣れてくるとひと段落つく頃にはちょうどいい時間になるように時間を調節できるようになっていて、ちょうどひと段落ついたと伸びをしながら時計を見れば六時半を回ったころだった。ぴったしの時間だ。俺は机の上はどうせ後で続きをするのでそのままにして、佐奈の部屋の窓とカーテンだけ閉めて、俺は階段を降り台所に向かった。冷蔵庫の中を流し見て今日のメニューは何をしようかなどと一瞬考える。卵を一つ掴んで今日は怒られたことだし気晴らしにオムライスでも作ってみようかなど考え、ご飯が炊けるまでの間にした準備を始めた。

 そして飯盒がご飯の炊き上がりを知らせるタイマーが鳴るとそのままチキンライスを作りにかかった。

 ちょうどその時に親父も帰ってきた。

「おぅ、今日はえらい手間かけてるんだな」

 台所で調理していた俺と目を合わせると、うれしそうににやつきながら、仕事で疲れているだろうに、随分とでかい声でずかずかといってきた。それがいつもの親父ではあるのだけれど。まぁ親父が驚くのも無理はないだろう。台所のテーブルは久しく見ないほどに大量の下準備をした材料がおかれているのだから。焼き魚が夜飯の定番メニューである我が家ではたいそう珍しい。

「なんだ、何かいいことでもあったのか?」

「逆。変なことで説教されたから、その気晴らし」

「ほぉ。久々にお前のこった料理が食べられると思うと楽しみだ」

 親父は喜ばしいと笑顔を向けてから、居間に荷物だけおいて自室に引っ込んでいった。

 親父はいつもテンションが高い。いつもいちいち小さなことでやかましく声をあげるし、子供のように「いっただっきまーす」などというのだから少々大人としてどうかと思う。

 でも、親父がそう振る舞うようになったのは、二人を事故で亡くしてからだ。

 鬱陶しく思うこともあるが、何故親父がそうふるまうようになったかについては思うところもあったので俺も何も言わないでいる。



************



 親父が着替えも済んで戻ってくる頃には、ちょうどオムライスも出来上がった。食卓に二人分のオムライスとコンソメスープ、適当に野菜を切って入れただけのサラダを出す。すると運ぶなり親父は手を合わせて「いっただっきまーす」などとわざとらしく大きな声で言って、オムライスを一口頬張った。俺もさっさと居間にある妹と母の仏壇に一口サイズのオムライスをお供えして手を合わせてから、俺もオムライスに手を付けた。頭に栄養をいきわたらせることだけを考えて、そのまま黙々と食べ進めた。

 そんな時だ。親父も俺の作ったオムライスをうまいうまいと言いながら食っていたのにもかかわらず、オムライスが半分のこっている状態でその手が止まった。

「なぁ翔、お父さんな、再婚しようと思うんだ」少し緊張が見える顔で、親父はそういった。

「……は?」俺の手も止まった。

 言われていることの意味が分からず、かろうじて聞き取ることができた単語を口の中で反芻した。サイコン。いったいどんな漢字を当てるのだろうか。面食らった思考がそんなことを考え始めた。

「小百合さんって人なんだけどな。若くてきれいな人なんだ」

「ちょ、ちょっと待って」俺が固まっている間も矢継ぎ早に言葉を重ねてくる親父をいったん手で制した。「何、その急な話……サイコンって?」

 考えたくはないが、誰かわからない女の名前まで出てきたことから、再び結婚するという字を当てる再婚のことを言っているのだろう。あまりに急な話で正直ついていけてない。

「急であることは重々承知しているんだけどな。一度、会ってみてはくれないか?」

 などと親父は言ってくるが、この急な話に困惑以上の感情が出てくるわけもなく、返答などできるはずがなかった。

「実は、今週末家に来ることになっているんだ。お前も同席してくれないか?」

「はっ?……え?はぁ?」

 なおも話の勢いは止まらず新情報が矢継ぎ早に出てきて処理しきれずに頓狂な声を上げた。

「え?何?来るの?家に?」

「ああ」

「ああ、じゃないよ!何だってそんな話に……、そんなの聞いてないよ」

 もはや聞いている話が現実であるのかどうかすら判断できかねて俺は額を抑えて激しく手を振って話を止めた。

「待って待って待って、もう一度初めから、わかるように説明してくれよ。え?つまり何?どういうこと?」

 俺は一度初めから話を聞かなくては、とても今の気持ちを整理できるとは思えなかった。


 親父の話す内容は、いたってシンプルな話だ。


 親父の知り合いに、現在三十八歳の新藤しんどう小百合さゆりさんという女性がいるらしい。その小百合さんとは、会社の仕事の関係から知り合ったようだが、意気投合したので付き合うことにしたと。そういうことらしい。

 少なくとも親父のいった話の要約としては間違っていない。間違えようがない。

「親父、それを本気で言っているのか?」

 すべての話を聞き終えてようやく事の次第を理解した俺の心が、穏やかなはずは当然なかった。

「なぁ親父、母さんと佐奈が死んで、まだ一年しかたっていないんだぜ?どうして再婚しようなんて発想が出てくるんだよ?」

 理解できなかった。母さんと生涯愛しあうことを誓っておきながら、他の女の人と結婚しようとするその神経が。その気持ちが。

 俺たちは四人で家族だ。母さんと佐奈と親父と俺との、四人家族だ。その四人だけが、俺たちの家族だ。

 それなのに、親父はそうとは思っていなかったということになるのだ。そんなの、納得できるわけがない。

 そんなことがまかり通ってしまうのなら、佐奈の母さんまで、変わってしまう。

「あ、いや、再婚というのは言いすぎだったかもしれない。あのな、その、グループホームみたいに、同居仲間が増えるって話なんだ」

少々強い口調で問い詰めた後にはそんな言葉を返してきた。この期に及んで言い逃れようとする魂胆が透けて見えるようで、俺はさらに激しくなった激情を乗せて唸った。

「そんなのどっちだっていいんだよ変わんねえだろ!何?親父はもう母さんのこととかどうでもよくなったわけ?」

「そんなことはない。母さんは今でも一番大切な人だ。それは変わらない」

 そうたじたじと返してくる親父に、俺の不満はさらに強まる。

「親父さぁ、言っていることとやっていることが無茶苦茶だって自覚はねえの?」

「あ、あぁ、その……確かにめちゃくちゃな部分もあるかもしれないが、俺は口下手なんだ」

そして少し口論した結果の親父の開き直りに、俺はただ嘆息を漏らすほかなかった。

べつに、俺たち家族は不仲だったというわけではない。

母さんは親父のことは伴侶として信頼もしていたし愛してもいたと思う。それは親父も同じだ。別に近所からおしどり夫婦と形容されるようなことはなかったとは言え、こんな風にわずか一年で新しい人と関係を作るような浅い関係ではなかったはずだ。

「なぁ、どうしちまったんだよ。親父」

 そのはずなのに、何故親父がこんな行動をとるのか全く理解ができず、俺は頭を抱えて嘆くように言った。

「もちろん、家族が一番大切なんだぞ?ただ……お前も今年は受験だし、男二人でこの家を切り盛りしていくのにも、なかなか厳しいことだってある。いつまでもお前に夜飯を作ってもらうわけにもいかんだろう」

「俺は今まで、それに対して弱音なんかぶつけちゃいねえだろうがよ。夜飯ぐらい、別に何の問題もねえ」

 おそらくそれがすべてではないのだろうが、理由に中で俺の名前が挙げられたことに、少し言葉荒く言い返した。

 すると親父は一度口をつぐんだ後、ぽつりと、本当にぽつりとつぶやいた。「あぁ、でも、お父さんは、そっちの方が楽なんだ」

 その言葉に、喉のすぐそこまで出てきた次の言葉は出てこなくなってしまった。

 それは言外に、今の生活は辛いと言われているも同じだからだ。

なんだよそれと、反感する気持ちも当然出てきた。

何故ならその言葉は、俺にも責任の一端があると言っているのと同じようなものなのだから。

俺の相手をすることが辛くなったか?俺の世話をすることが辛くなったか?俺がいるから、再婚だなんてものを選んだのか?

湧き上がってくる憤りと怒りの感情は、確かにあった。

だが、俺は親父の顔を見ると、その気持ちがどうにも殺がれてしまう。先ほどまでいつもと変わらなかった親父の顔が、今は何故か弱弱しく映ってしまうからだ。

初めてだった。親父の弱音を聞いたのは。

「相手は、親父がバツイチで、一年前に伴侶を失ったってことは知っているのか?」

「ああ。知っている」

「それを知ってて親父に近づくとか、そいつもたいがいだろ。何だっけ?三十八歳?もう確実に詐欺だって。そんなの」

 親父は今年で五十になる。十二歳の年の差カップルがここに爆誕だ。

「小百合さんはそんな人じゃないんだ。すごくいい人だ。お前も一度会ってくれれば分かる。わかるはずだ」

「じゃあ何?俺がいいと言わなければ、再婚はしないと?」

「ああ、再婚はしない」

「同居も?」

「……」親父は一瞬たじろいだが「しない」そう明言した。

「お前も、絶対にいい人だと思ってくれるはずだ」

 親父は視線だけはまっすぐと俺に向けてきた。その視線には親父にとっての言葉なのだろう。その視線に親父はそれなりの気持ちを込めて、その視線で俺に語り掛けてきている。

 熱のこもった視線だ。少なくとも今回の再婚話を親父が本気でやろうとしていることは伝わってくる瞳だった。 

 だが、俺はそんな視線と向き合うわけもなく、視線を少し横にずらして佐奈と母さんの仏壇を見た。

「それ、母さんの前でもいえるのかよ。佐奈の前でも、言えるのかよ。その仏壇の前で、言ってみろよ」

 いえるわけない。そう思って言った言葉だった。

「もう、言ってきた」

「は?」だから、その一言に俺はまた頓狂な声を上げた。

「仏壇にだけじゃないんだ。二人の墓の前で土下座して話した。母さんの実家にも行ってこの話をしてきた。もう、思いっきりぶん殴られてきた」

 信じられなかった。

 普段の親父からは想像もつかないほどの行動力だった。そんな親父を前に、俺は力なく俯いて閉口するほかなかった。


 俺は残りのオムライスを食べた。味のしないオムライスだった。



***********



 親父のお相手の新藤小百合さんという人は、もともとは幼稚園の保母さんをしていたらしい。現在はスーパーでパートで働いているようだ。

 親父の話では、その女性はとてもやさしく魅力的でいい人だということだ。この時点でもはや男の理想像を押し付けたような架空の人物のような気がしてならないが、百歩譲ってこんな人がいたとして、そんな人がよりにもよって下腹も出ている白髪交じりの中年のおじさんを交際相手に選んだのだろうか?仕事関係でお近づきになったという話だが、会社員とパートで働いているスーパーの店員とどうやったら出会うことができるのか。まるでがばがばの話だ。

 おそらくどこかの居酒屋にでも通っているうちにその手の詐欺にうまい具合につかまってしまったのだろう。

 そっちの方がより現実的だ。

 そうでなかったら、まだ伴侶と死別して一年しかたっていないこんな中年のおじさんに声を掛けてくる女性なんかいるはずもない。

 何とも滑稽な話だった。

 はたから見れば、というか少しでも冷静な判断能力があれば、こんな話には裏があることは誰にでも想像がつきそうなものなのに。

 目先につるされた虚像の幸福を求めて、母さんの実家にまで足を運んで、どぶに足を踏み入れようとしている。

 そんな親父の姿を見ていると、憤りよりもむしろやるせなさの方を感じてしまう。


 気づかなかった。


 親父は変わってしまっていた。

 あまりに惨めなほどに。


 でも、考えればそこまで不思議なことでもないのかもしれない。

 親父だって最愛の妻と娘を失った。

 親父だって悲しかったのだ。寂しかったのだ。苦しかったのだ。

 この日常を親父が苦痛に思っていても何も不思議はない。


 親父にも必要だったんだろう。寂しさを紛らわせるためのものが。


 ならば、俺は理解しなくてはいけない。

 親父は苦しんでいたんだ。それほどまでに。

 そんな親父を、そのまま放置してしまった。


 ならば、親父がこうなってしまった責任の一端は俺にもある。


 だったら俺も、理解してあげなくてはいけない。この親父を。


 絶望的に、共感はできなかったとしても――。



**********



 新藤小百合さんは、今週末の日曜日に来るらしい。土曜は家の大掃除ということになった。

 今回の面談で俺がもし受け入れたらここに住むことになるらしい。

 俺は絶対に認めるつもりはない。小百合さんと俺との関係は、ただの面会に終わる。だからお茶菓子でも用意していれば十分だと思ったのだが、親父の熱の入れようは相当で、親父が長年コツコツと集めていたゴルフクラブも全部売りに出し、灰皿なんかも全部撤去する始末。果ては庭の木にまで手を伸ばし剪定しようと脚立とのこぎりを物置から取り出して挑むが、途中で脚立の足が折れ、背中から落ちる間抜けをさらしていた。

 俺はその様子を妹の部屋の窓から冷ややかな目で見降ろしていた。


「ただの面会なのに、よくもまあ、そんなに夢中になれるもんだね」


 どうやら母さんが生涯愛を誓った男は、もう母さんのことを忘れてしまったみたいだ。まさか事故で別れた一年後には別の女と関係を持つようになるとか、考えようともしなかっただろう。

 親父は墓の前で土下座で報告したようだが、その時母さんと佐奈はなんと返したのだろう。


「……でも、母さんなら」


 それでも母さんは、親父が幸せになればいいと考えるだろうか。

 なんとなくだけど、母さんなら、親父の幸せを願うような気はした。

 けれど………。


「でも、もう少しくらい、親父の中にもいさせてほしかったよな?……母さん」


 あまりに早すぎる展開に、空しさを覚えずにはいられなかった。



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