第26話 うれしはずかし朝帰り
「これが私の黒歴史のお話でした・・・へへへ・・・」
この話をするのは二度目で、初めて話した相手は加藤だ。
加藤は聞き終えると、自分の事の様に悔し涙を流してくれたが、
話し終えた後の間宮の顔が、怖くて見れなくてベッドに座り込んで俯きながら、話を続けた。
「でも結局、岸田君にも裏切られていた事を、今日平田に聞かされて知ったんだ。」
聞き終えた間宮は、何も言わなかった。
再び沈黙が生まれる。壁に掛けてある時計の秒針の音と、さっき瑞樹が使っていた風呂場のシャワーから、時々雫が落ちる音が耳にやたらと響く。
そんな沈黙に耐え切れなくなり、ゆっくりと顔を上げて間宮の顔を見た。
目が合った瞬間、間宮の表情が、今まで見た事がない程、優しい表情で見つめてくれていた。その目をじっと見つめていると・・・
ポロポロポロ・・・・
意識もなく気付く事すらなく、静かに本当に静かに涙がこぼれ落ちた。
「瑞樹・・・」
優しい声で名前を呼ばれた時、初めて自分が涙を流している事に気が付き、慌てて涙を拭いだした。
「ご、ごめんね!何泣いてるんだろ・・・私・・・ほんと、ごめん・・・」
そう謝りながら乱暴に涙を拭っていたが、涙が次々と溢れ落ちて止まらない。
滲む視界に間宮の胸元が入った瞬間、無意識に立ち上がり、PCチェアに座っている間宮の前で膝をついて、涙を拭うのを諦めた瑞樹は静かにゆっくりと間宮の胸元に顔を潜り込ませた。
「よく頑張ったな・・・お前は本当に頑張った。もう大丈夫だ・・・おつかれさま・・・」
その言葉と同時に優しい手つきだが、どこか力強い手が瑞樹の頭を撫でる。
頭の上から優しい声が落ちてくる。まるで子供が大好きな父親に優しく抱きしめられて、優しい声色で努力した事を労うように、そして何より心から安心を与えるような、そんなあたたかい言葉とあたたかい温もりが、瑞樹を包み込んだ。
その言葉を聞いた時、もう塞き止める物を完全に失い、感情が全部表に出てししまった瑞樹は、両腕を間宮の背中へ回して、顔を間宮の胸元へ強く押し付けた。
う、うう・・・うわあぁぁぁぁぁん!!!うわあぁぁぁぁ!!!
もう見栄や恥じらいなど微塵もない、ただ、ただ、子供の様に大声で泣きじゃくるだけしか出来なかった。
これで間宮の胸を借りて泣くのは何度目だろう・・・
自分から胸元に顔を埋めて身を任せて泣くのは初めてだ。
もう何も考えられない・・・・ただ、ただ、本能に任せて泣き尽くす事しか出来ない。
あの悪夢のような日から、ずっと、ずっと・・・気を張り詰めて生きてきた。
緩めるとあの悪夢がまた、自分を襲いに来る。
その恐怖から、自分を守る為に色々な事を犠牲にして、今日まで耐え抜いてきた。
だが、間宮の『よく頑張った』『もう大丈夫だ』『おつかれさま』
この三つの言葉が、今まで張り巡らせていた壁のような物を一瞬で溶かしてしまう。この人は一体、私にとってどれだけの存在なのかを思い知った。
これは、彼が与えてくれた少し早い『卒業式』なんだと体の細胞の一つ一つがそう理解した。
思えば、この話を間宮にしたのは、自分のトラウマになった過去を話して本当の自分を知ってもらう為だった。
だが、その必要はなかったんだ。
何故なら、合宿で再会してから色々あり、初めて間宮の胸を借りて大声で泣いた時に、もう自分を見せていたから・・・・
間宮はその時から私の事を理解してくれて、今まで優しく見守ってくれていたんだと・・・今日だって何も言わないが、きっと自分の知らない所で助けてくれていたんだ。
私は自分の事で、これ以上彼に迷惑をかけたくなくて、頑張ってみたが・・・
きっとこの人には勝てないんだ。この人の優しさ、寛大さ、そして強さの前には、私のちっぽけな意地なんて霞んでしまう。
そう痛感したが、何故か悔しさとか情けないという感情が沸いてこない。
それどころか、泣いているのに、大声で泣きじゃくっているのに、口元は嬉しそうな形を作っていた。
午後23時21分
長い・・・・本当に長かった孤独な瑞樹の戦いが、間宮の胸の中で終戦・・・いや、卒業を迎えた瞬間だった。
10分・・・いや、15分程泣き続けていた瑞樹が、間宮の腕の中でその泣き声を止めた。
それと同時に身体を預けていた瑞樹の重みが増した。
その事に気が付いた間宮は、そっと瑞樹の両肩に手を置いて、スッポリと腕の中に収まっていた体を少し離して、瑞樹の顔を覗き込んだ。
ス~ス~ス~
小さな寝息が聞こえる・・・
「ね、寝てるのか?・・・・嘘だろ・・・」
思えば、文化祭の看板メニューのリサーチから始まり、ベーカリーOOTANIとの交渉にプレゼンを経て契約。慣れない猫娘のコスでの接客対応、遅くまでパン作りを手伝い、また早朝から搬入の手伝い、そのまま連日、大盛況のカフェでの奮闘。
おまけに平田達との騒動を体を張って乗り越えたのだ。疲れて眠ってしまって当然と言えば当然だった。
その疲れを溜め込んだ状態で、気を許せる間宮の腕の中で涙が枯れる程大声で泣き尽くしたのだ・・・今は本当に深い、深い眠りに落ちているのだろう。
涙で顔がボロボロだったが、安心しきって、幸せそうな寝顔を見れば容易に想像がついた。
間宮は慌てて起こそうとしたが、そのあまりに気持ち良さそうな寝顔を見せられてしまうと、起こそうとした手を止めて、その腕を太ももの裏に回し、反対の腕は肩を抱くように回してゆっくりと立ち上がった。
俗に言うお姫様だっこで瑞樹を持ち上げた間宮は、ゆっくりと優しく側にあるベッドに横たわらせて、そっと体を離すと瑞樹の寝姿が視界にはいった。
間宮のワイシャツだけを羽織った瑞樹の姿は、胸元が開いて、捲れた裾から長くて白い足が露わになり、間宮の心臓をドキリと跳ねさせた。
慌てて、成るべく見えないようにと部屋の電気を消したのだが、部屋の窓から差し込んだ明かりがワイシャツを透かして、瑞樹の体のラインを浮かび上がらせた。
そのあまりにも美しく、そして無防備な瑞樹の姿を見せつけられた間宮は、吸い込まれるように、一度離れた体を再び寄せて瑞樹の顔の側に腕をつき、自分の顔を瑞樹の顔に近づけた。
小さく穏やかな寝息が聞こえる。その寝息が漏れる口を塞ごうと、自分の口を
寝息がかかる距離まで運んだ。
「ん・・・・まみ・・・や・・さん・・」
小さい声で自分の名前を呼ばれた時、失いかけていた理性を取り戻し我に返った間宮は、勢いよく瑞樹から離れた。
目を閉じて、数回顔を左右に振って邪な感情を振り払い、ベッドの足元に畳んであったブランケットを広げて、そっと瑞樹の体にかけた。
そうするとより一層気持ち良さそうな寝顔を浮べた瑞樹を見て
「戦士・・・いや、天使の休息だな・・・」
こんなに気持ち良さそうに眠る瑞樹を、無碍に起こす事が出来ない間宮は、1時間程眠らせてから、タクシーで加藤の自宅まで送ろうと考えリビングを離れてスマホを手に取り、加藤の番号をタップした。
「もしも~し!間宮さん?」
いつもの加藤の元気な声が届く。
「あぁ、夜遅くにわるいな。」
「いえいえ、それでどうしたの?」
「いや、それがさ・・・瑞樹が今俺の部屋にいるんだよ・・・」
間宮は簡単に今の状況を加藤に説明して、後でタクシーでそっちに送ると話した。
「なるほど!送ってくれるのはいいですけど、無理に起こす事もないんじゃないの?」
「は?いやいや、それは流石にマズイだろ!」
思わず声が大きくなったのに、気が付いた間宮はそう言ってから、自分の口を塞いだ。
「シャワーを浴びて間宮さんのベッドで眠ってしまっている時点で、すでにマズい状況だと思うんだけど?」
「ウッ!そ、それはそうかもだけど・・・」
ついさっき、眠っている瑞樹の唇を奪おうとした罪悪感に加えて、加藤の言い出した正論に、二の句が継げない間宮に加藤は更に追い打ちをかけた。
「大変な事になるのなら、もうとっくになってて、私に電話なんてかけてこないって!だから、もし自分で起きたら送ってあげてよ。」
加藤にそう言われて、そっとリビングに顔を出して、眠っている瑞樹の姿を改めて見つめ、少し考えてから口を開いた。
「わかった。じゃあそうするよ。送る事になったら一度連絡するから。」
「了解!まぁ、何かあっても何も考えずに、間宮さんの部屋へ行った志乃にも責任あるんだから、気にしなくてもいいよん!」
「バッ!?馬鹿か!?そんな事にはならないって!」
「あはは!じゃね!おやすみ、間宮さん!今日は本当にありがとう!」
誂うようにそう言って、焦る間宮のリアクションを楽しみながら、加藤は一方的に電話を切った。
「あいつ・・・完全に遊んでやがったな・・・」
誂われて少しムカついたが、とりあえず用件は伝えて、加藤達に心配をさせる事がなくなったと安堵して、リビングへ戻った。
相変わらず天使の寝顔で、スヤスヤと眠りに就いている瑞樹を見て、間宮は少し嬉しそうに微笑んだ。
「とりあえず、俺もシャワー浴びるかな。」
今日は瑞樹同様に色々あり、汚れた体を洗い流す為に、間宮はバスルームに姿を消した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
チュン!チュン!チチ・・・
カーテンの間から漏れた朝日が、瑞樹の目元を照らす。
眩しさを感じて、ゆっくりを意識を覚醒させて目を開いた。
開いた視界にとんでもない物が写りこんで、半分だけ開けた瞼を一気に見開いた。
「え?・・・・え?・・・」
目を見開いたが、まだ寝ぼけていたのか、状況を全く把握出来ない。
まるで、まだ夢の中にいるんだと錯覚する光景が、瑞樹の目の前に存在した。
「うえっ・・ちょ・・・え?・・・んん?」
な、何で間宮さんが、私の目の前で眠ってるの???
瑞樹の目の前にいるのは、ベッドに両腕を絡めて枕替わりにして、その上に顔を乗せて眠っている間宮がいた。
瑞樹は飛び起きる事も出来ない程、驚き過ぎて体が硬直して動けない。
そんな混乱する中、必死で記憶を辿ろうと試みる。
「えと・・・昨日は、間宮さんの部屋で、私のトラウマ話を聞いてもらって・・・それから・・・」
そこまで思い出して・・・・・血の気が引いた・・・
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「間宮さんに抱きついて、ワンワン泣いて、泣き疲れてそのまま寝ちゃった・・・とか?」
ようやく昨晩何を仕出かしたのか全部思い出した。
ドンドン顔が赤くなる。
「あれ?でも泣いたのって間宮さんが、そこの椅子に座ってる時だったよね・・・じゃあ、どうやってベッドに・・・」
その状況を想像してみた。自力でベッドになんて不可能だ・・・だとすれば・・・間宮さんのお姫様だっこ・・・・とか?
ボンッ!!!!
久しぶりに噴火した。恥ずかしくて死にそうだ。
!!!!!!
そこで気になる事が浮上した。どうしてもこれは確認の必要があった。
ドキドキしながら、かけられていたブランケットの中を覗き込む。
瑞樹が気にしていたのは、衣服の乱れ感だった。
幸い、着ていたワイシャツに目立った乱れはなかった。
ホッとしたような・・・ちょっと残念なような・・・って!何、残念がってるのよ!私は!
頭の中で1人ツッコミをしてブランケットを頭まで被る。
ブランケットから、間宮の匂いがする。
大きく深呼吸をして、間宮の匂いを吸い込んだ。
腕の中に入った時に嗅いだ匂い・・・安心出来る匂い・・・大好きな間宮の匂い・・・
ブランケットの匂いを堪能して、トロンとした表情で再度間宮の寝顔を見る。
泣き疲れて眠ってしまう前までは、なかったはずのガーゼが間宮の頬付近に貼ってあるのに気が付いた。恐らく眠った後に自分で治療したのだろう。
そのガーゼを痛々しく触れた。私のせいで怪我させてしまったんだね・・・
「ごめんね・・・・」
そう小さく呟いて、瑞樹はそのガーゼにキスを落とした。
感謝の気持ち、謝罪の気持ち、そして何より愛おしい気持ちが入り混じった、複雑なガーゼ越しのキスだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
コポコポコポ・・・
良い香りが鼻に届く。いつも朝に楽しむリラックス出来る香り・・・
その香りを少し強く吸い込んで、間宮は意識を覚醒させて目覚めた。
顔を上げて香りがするキッチンの方を見ると、瑞樹が香りを楽しみながら、珈琲をドリップしていた。
鼻歌を歌いながら、楽しそうに珈琲を淹れている姿を眺めていると、その視線に気が付いた瑞樹と目が合った。
「お、おはよう間宮さん・・・えと、勝手にキッチンに入ってごめんね。」
顔を少し赤らめて、急に落ち着かない様子で挨拶した。
「おはよ・・・いや・・・気にしなくていいんだけど・・・珈琲淹れてたのか?」
「あ、うん・・・間宮さんも珈琲好きだって言ってたから、起きたら飲みたいかなって思って。」
そう話しながら、珈琲をマグカップへ移して、間宮がいるリビングへ運んできた。淹れたてのいい香りがリビングに立ち込める。朝はこの香りがないと落ち着かない間宮は、大きく鼻から息を吸い込み香りを楽しんだ。
カチャ、カチャ・・・
「はい、どうぞ。」
瑞樹はベッドの側にある小さめのテーブルにマグカップを2つ置いた。
「サンキュ。」
「あ、私も珈琲いただくね。」
そう言って2人は一緒にマグカップを口に運んだ。
はぁ・・・・
「うん、美味い!珈琲淹れるの上手いじゃん。」
「ほ、ほんと?ドリップして淹れるのって、結構好みが別れたりするから心配だったんだけど・・・そう言ってくれると嬉しいな。」
あははは・・・
2人はにこやかに微笑みあった。
それから少し無言で珈琲を飲んでいた2人だったが、瑞樹がマグカップをテーブルに置いて、少し俯いて話しだした。
「昨日はごめんね。強引に部屋に上がり込んで、聞いて欲しい事を話すだけ話して、泣き疲れて眠ってしまって泊まり込んだりして・・・それにベッドまで占領しちゃって・・・間宮さんだって疲れてるのに・・・」
どうやら、昨日の事は覚えていたようで、迷惑をかけた事を謝罪した。
「いや、それは気にしなくていいんだけど、俺の方こそごめんな。」
「え?何で間宮さんが謝る事があるの?」
「本当は瑞樹が起きたら、タクシーで加藤の家まで送るつもりだったんだけど、俺もシャワー浴びてから起きるのを待っているうちに、いつの間にか寝てしまってたからさ。」
「そんなの間宮さんは全然悪くないじゃん・・」
間宮は悪くなんてないと言いながら、加藤の事を思い出した瑞樹は、鞄に仕舞ってあったスマホを取り出して、画面を見ると何件かlineのメッセが届いていた。初めの方は、クラスメイトの麻美達からお疲れ様という内容のメッセだったが、途中から加藤や、神山からの催促メッセに変わり、最後はついさっき加藤から届いたメッセだった。とりあえず一番新しいその加藤からのlineメッセを開いた
ーーーおはよ!志乃!結局ウチに来なかったって事は、間宮さんの部屋でお泊りしたって事だよね?お泊まり会をすっぽかしたのは謝らなくていいから、今度、詳しく!く・わ・し・く・報告するように!以上!ーーー
「・・・・え?な、何で間宮さんの部屋に泊まったの知ってるの???」
メッセの内容に驚いて、思わずそう口に出してしまった瑞樹を見て、
「あ、ああ!瑞樹が眠ってしまってから、加藤が心配すると思って俺が電話で簡単に事情を説明したんだけど・・・マズかったか?」
「そ、そうなんだ。ありがとう、マズくはないんだよ・・・マズくはないいだけど・・・」
今度加藤に会った時に取り調べされる事を想像すると、恐ろしくなった。
「腹減ったろ?冷蔵庫がかなり寂しいから、大した物は出来ないけど、朝食作るな。」
珈琲を飲み終え立ち上がってそう言いながら、キッチンの方へ向かいだした間宮を見て、瑞樹は慌てて呼び止めた。
「ちょ、朝食なら私に作らせてくれない?」
「え?いや、でも・・・」
そう言われて立ち止まり、振り返って瑞樹の申し出を遠慮しようとした間宮に、間髪入れずに話を続けた。
「迷惑ばかりかけて、こんな事がお礼になるなんて思ってないけど、今はそれ位しか出来ないから、私に作らせてほしいの。」
必死に訴えかける様に、そう言われたら断る理由がなかった。
「わかった。それじゃ、お願いしようかな・・・でも」
「でも?」
「その前にとっくに制服は乾いてるから、着替えてくれないか?・・・その・・目のやり場に困るんだよ・・・」
頬をポリポリと掻いて、視線を天井に向けながらそう提案した。
間宮にそう言われて、自分の今の格好を見て硬直した・・・・
大きなサイズのワイシャツだから、着崩れをおこしていて、襟周りの生地が肩から落ちそうな程ズレてしまっており、ブラの肩紐が見えていて、裾が少し捲れ上がったままで、激しく動くと下着が見えてしまう状態だったのを、間宮に言われるまで気が付かないでいた。
「ば!馬鹿!何でもっと早く教えてくれなかったのよ!エッチ!スケベ!変態!間宮!!」
「ちょ、ちょっと待て!俺が何したってんだよ!それに、最後のは悪口でもなんでもないだろ!」
慌てて脱衣所へ駆け込もうとした瑞樹は、間宮の抗議を無視して、ドアを開きながら、
「覗かないでよ!スケベ!ふんっ!」
そう言って脱衣所のドアを閉めた。
「・・・・・何で変態呼ばわりされないといけないんだよ・・・」
「プッ!あは、あはははは」
脱衣所から笑い声が聞こえてきた。
何だかすっかり憑き物が落ちた様な、明るい笑い声にボロカスに言われた間宮も、何故か無性に可笑しくなって笑った。
着替えとついでに洗顔を済ませて脱衣所から戻ってきた瑞樹は、キョロキョロと何かを探し出した。
「ねぇ!エプロンってないの?」
「ん?あぁ、たしかここに・・・」
クローゼットを開けて、中の棚の奥からエプロンを取り出して渡した。
「何で毎日使うエプロンが、そんな所から出てくるの?」
「始めの方は使ってたんだけど、面倒臭くてさ・・・」
この部屋に入ってきた時は、男の一人暮らしなのに綺麗だなって思っていたが、やはりこうゆう所は、大雑把な男の人なんだと、何だか安心した。
間宮からエプロンを受け取った瑞樹は、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
確かに大した食材はなかったが、入っている食材で朝食の献立を考えだした。
間宮は考えている姿を、まるでどこかの探偵のようだと考えながら、脱衣所へ向かって、洗面台の収納棚から、買い置きしていた歯ブラシを取り出して、歯ブラシ立てに用意した。
献立が決まり、調理器具の場所を確認すると、手早く調理に入った。
両親が共働きで、食事を作る機会が多いと言っていただけあって、手際よく調理を進めていく瑞樹に、間宮が声をかけた。
「瑞樹の歯ブラシ用意したから、朝食の後に歯磨きどうぞ。」
「う、うん・・・」
歯ブラシを用意したと聞いて、瑞樹の顔がドンドン赤らんでいく。
瑞樹の中では、相手の部屋に歯ブラシがあるのは、同棲を強く感じさせるアイテムだったらしく、急に恥ずかしくなったようだ。
暫くすると、キッチンにあるテーブルの上に次々と朝食が並んでいく。
「うわ~!美味そう!」
よくあれだけしかなかった食材で、これだけの料理が出来る物だと、間宮は素直に感心しながら、珈琲をドリップし始めた。
髪を後ろに束ねていたシュシュを取り、エプロンを脱いで満足気にテーブルに並んだ朝食を眺めた瑞樹は、ドリップしている間宮の側にマグカップを2つ置いた。
「間宮さん。朝ごはん出来たよ。」
「うん、ありがとう。すぐに珈琲淹れ終わるから、先に座ってて。」
「は~い。」
食事の準備を終えた瑞樹は、間宮の言うとおり先に席に着いた。
再び部屋に珈琲のいい香りが、嗅覚を刺激する。
マグカップへ珈琲を移し替えた間宮は、そのまま瑞樹の前にカップを置いて、自分の席に着いた。
改めてテーブルを見ると、色々なメニューが並んでいて、どれを見ても盛り付けも綺麗で、美味しそうだった。
「それじゃ、いただこうかな!いただきます。」
「いただきます。」
2人はそう言って合掌して、食事を始めた。
まずは野菜と卵のサンドイッチを口に運んだ。
「お!このサンドイッチ美味い!」
「ほ、ほんと!?よかったぁ!」
間宮に褒められて、嬉しそうに胸を撫で下ろした。
それから、ゆっくりと朝食を取り出した2人の会話が弾んだ。
あるもので作った他愛もない食事でも、好きな人と一緒ならこんなにも美味しく感じるのだと、初めて知った。
自分が作った料理を、好きな人が美味しそうに食べてくれるのを見るのが、こんなに嬉しい事なんだと初めて知った。
好きな人の部屋にいる事が、こんなに幸せな事なんだと初めて知った。
初めて知った事が多い、幸せで大切な時間を心の底から楽しんだ瑞樹は、食事が終わると、後片付けは間宮がやると言い出したので、脱衣所へ向かって歯磨きをする事にした。
自分用に用意してくれた歯ブラシを確認すると、間宮の歯ブラシと並んで立っているのを見て、心臓が跳ねた。
ドキドキしながら、歯ブラシを手に取って、歯磨き粉を付ける時に手の震えが止まらなかった。なんとか歯ブラシを口へ運んで、歯を磨き出すと、歯を磨くブラシの音に混ざって、背中の方から流しの水が流れる音と、カチャカチャと食器がどこかに当たる音が聞こえてきた。
こんな優しい時間が、自分に訪れるなんて、少し前までは考えた事すらなかった。
ずっと自分を守る為に、自分を偽って生きていくものだと思っていた。
もう、本当に素直な自分で生きていっていいんだ。
何てことのない日常の音が、瑞樹にとってはそう思える音だった。
片付けが終わり、帰る支度を済ませて、2人は瑞樹の自宅へ向かう為に部屋を出た。
部屋を出るまでは、キャッキャとはしゃいでいた瑞樹だったが、外に出た途端、あれだけ一緒にいた間宮と別れるのを実感して、口数が極端に減った。
そんな瑞樹の気持ちを察したのか、間宮はなるべく明るい話題を振り続けたが、殆ど相槌に近い反応しか返って来なかった。
そんな重い空気の2人は、あと1つ角を曲がると、瑞樹の自宅に着く所まで到着して、足を止めた間宮は持っていた瑞樹のお泊まりセットが入っている鞄を瑞樹に手渡そうとした。
暗い表情をした瑞樹は、その鞄を無言で受け取る。
「これで文化祭も終わったし、今日からまた受験勉強頑張れよ!」
「うん・・・・」
瑞樹に激を飛ばしたが、相変わらず素っ気ない返事しか返ってこない。
子供のようにショボくれた顔をしている瑞樹を見て、間宮は小さくため息をついてから、瑞樹に一言だけ呟くように話しかけた。
「よかったら、また、遊びにおいで。」
その一言が耳に入った途端に、虚ろな目をしていた瑞樹の目に光が戻り、勢いよく顔を上げて、間宮を見つめた。
「い、いいの?」
「うん、ただし!受験勉強の妨げになるようなら、駄目だからな!あくまで勉強の息抜きになる程度ならいいよ。」
「うん!頑張る!超頑張るよ!だから、また遊びに行っていいよね?」
「あぁ!待ってるよ。」
そう言って間宮は、瑞樹の頭を優しく撫でた。
撫でられた瑞樹は、まるで子猫のように気持ちよさそうな表情を浮べた。
満足した瑞樹は、間宮から少し離れて立ち止まる。
「間宮さん!ほんとに、本当にありがとう!」
気持ちを込めてお礼を間宮に言って、深く頭を下げて感謝した。
「気にしなくていいよ。じゃあな!」
間宮がそう言うと、さっきまでならこの世の終わりみたいな表情を見せただろうが、先の楽しみが出来た瑞樹は、
「うん!またね!間宮さん!」
満面な笑顔を間宮に向けて、手を小さく振りながら、そう言って最後の角を曲がって姿を消した。
帰宅した事を確認した間宮は、帰ろうと歩き出し、道中に加藤へ電話をかけて迷惑をかけてしまった事を詫びながら帰宅した。
最後に見せた笑顔が、今まで見た事がない笑顔だった。
きっとこれからも、色々な事があるのだろうが、今の瑞樹なら心配ないとその笑顔を思い出しながら、間宮も笑顔になり確信して、
2人の歯ブラシが仲良く並んで立っている部屋へ帰っていった。




