第38話 藤崎からの依頼
5月26日 間宮の誕生日前日
瑞樹はO駅にいた。
何だかこの駅で降りるのは久しぶりだ。
瑞樹は懐かしく感じる駅の構内を見渡しながら、いつものルートをなぞる。
ここも久しぶり。相変わらずここは人通りが少ないな。
いつも間宮と待ち合わせに使っていた、不人気なホームに設置しているベンチの背もたれ部分にそっと触れた。
ここで色んな話をあの人とした。
このまま時間が止まればいいのにって、いつも思ってた。
そしてこの場所で、K大の受験結果を間宮さんに報告したんだっけ。
つい最近の事なのに、随分昔の事の様に感じるのは、あの人がもうここにはいない現実のせいなのかもしれない。
ベンチに触れながら、瑞樹はここで間宮に抱きしめられた事を鮮明に思い出してしまい、顔を真っ赤に染めた。
O駅を出た瑞樹は通い慣れた懐かしい道を歩いていくと、三年間通い続けたゼミの前に到着した。
ゼミが入っているビルを眩しそうに見上げていると「瑞樹ちゃん?」と声をかけられた。
「松崎さん」
「こんな所でどうしたの?」
声をかけてきたのは、スーツ姿の松崎だった。
「松崎さんこそどうしたんですか? 今日って土曜日だからお休みなんじゃないんですか?」
松崎は最近外回りが忙しくて、書類の処理をする時間が取れなかった為、休日に出社しないと片付かないのだと話した。
「んで! これから愛菜と待ち合わせなんだよ」
「ふふ! 今頃、愛菜はソワソワして待ってるんでしょうね」
「……元気そうで安心したよ」
「え?」
「いや、ほら……岸田君だっけ? 愛菜から聞いたんだけど、別れたんだってな」
松崎にまで心配をかけていた事を知った瑞樹は、申し訳ない気持ちになった。
「……はい。心配かけてしまってすみません」
「いや! 女子大生にもなれば色々あるよな」
気にするなと笑顔を向けてくれる松崎は、やはりどことなく間宮に似ていると感じた。
勿論性格は全然違うのだが、何というか要所要所で感じる雰囲気が似ている気がする。
「おっと! そろそろ行かないと遅刻しちまうわ!」
「あ、はい。愛菜に宜しく伝えて下さい」
「おう! じゃあ、またな!」
駅に向かって立ち去ろうとした松崎の背中を見て「待って下さい!」と思わず呼び止めてしまった。
「ん? どうした?」
ずっと聞こうか迷っていた事がある。
でも、もし返ってきた質問の答えが、自分の望む事ではなかった場合の事を考えると、怖くて今まで聞けなかった事を思い切って聞く事にした。
「えっと、間宮さんから何か連絡ありました?」
「間宮? いや、まだ住所も連絡先も教えてもらえてないんだよ」
少しホッとした。
自分にだけ連絡が来ていないかもしれないと、気になっていたからだ。
だが、それはそれで違う心配をしてしまう。
「松崎さんに連絡が来てないなんて、もしかして間宮さんに何かあったんじゃないですか!? 容体が急変してしまったとか」
松崎はそれはないと言い切った。
その裏付けとして、先日同僚が仕事で向こうに電話した時、間宮と同じ部署の人間が、先週末に間宮の歓迎会を開いたと話した事を伝え聞いたからだと説明した。
「だから仕事は元気に頑張ってるみたいだよ」
「そ、そうですか」
元気にしていると聞いて安堵した瑞樹だったが、それなら何故と疑問が再び湧いてきた。
「間宮ほど周りを気遣ってきた人間ってそうはいないと思うんだ。だから、あいつが俺達を蔑ろにするなんて考えにくい」
「……はい」
松崎はまるで瑞樹が考えている事が、分かっていたかのようにそう話した。
「きっと、あいつなりに考えがあっての事だと思うから、俺達は連絡がくるのを待っていればいいんだよ」
「そう……ですよね」
松崎は「それじゃ」と駅に向かって姿を消した。
確かにそうかもしれない。
だけど、私にはそんなにのんびりしている時間はないんだ。
あ、私も予定があったんだった。
ここへ来た本来の予定を思い出した瑞樹は、立ち止まっていた足を再び前に進め始めた。
えっと、ゼミと間宮さんの会社の中間地点の向かい側のお店って、ここでいいんだよね。
瑞樹は場所を確認しながら、辿り着いたのは関と杏の店『scene』だった。
昨日の夜、瑞樹の携帯に藤崎から電話があった。
何でも大事な話があるから、明日のランチを一緒にどうかと言う誘いだった。
その待ち合わせがこの店で、何でも藤崎だけではなく、ゼミのスタッフや天谷社長も通っているらしく、松崎やあの間宮も常連の店だと聞いていた。
こんな所に、こんな大人っぽいお店があったんだ。
全然知らなったな。
瑞樹は少し入り辛そうに、sceneのドアを開き中の様子を伺った。
カウンター席に客が2人座っているが、藤崎の姿がない。
カウンターの中央に立っている女性と目が合った。
「いらっしゃい」
その女性は優しく微笑んで、迎えてくれた。
「あ、あの、待ち合わせなんですけど」
「もしかして、瑞樹さん?」
恐る恐る店内に入り、この店のママらしき女性にそう話すと、突然自分の名前を呼ばれて驚いた。
「は、はい! 瑞樹です……けど、えっと」
「あはは! そりゃ驚くよね。藤崎先生に聞いてるよ」
ママはそう話すと、誰かが座っていた形跡がある隣の席を勧めてきた。
藤崎はお手洗いに席を外しているだけだと聞いて、瑞樹は安心して勧められた席に座ると、温かいおしぼりを手渡された。
「私はここのママをやってる杏って言うの! 宜しくね」
「あ、はい。瑞樹と言います。こちらこそ宜しくお願いします」
「あ! 俺は近藤って言うんだけど!」
「アンタの紹介なんて聞いてない!」
いきなりこんな綺麗な若い女性が店内に入ってきたからか、カウンター席にいた男がすかさず割り込もうとしたが、杏に一蹴された。
「そうですよ、近藤さん。この子は私の連れなんだから、ちょっかい出さないでよ」
「だって、先生が全然構ってくれないからさぁ」
「当たり前でしょ! 私はもっとあり得ないからね」
杏が2人のやり取りに笑いだすと、連鎖するように瑞樹以外の客達も笑い出した。
店の奥から聞き慣れた声が聞こえてきて、近藤という客と話して笑っていたのは、瑞樹をここへ呼んだ藤崎だった。
「やっ! 瑞樹さん! 久しぶりだね」
「お久しぶりです。藤崎先生」
瑞樹の隣のカウンター席に座った藤崎は、相変わらず綺麗な顔立ちで笑顔を向ける。
いや、以前会った時より美しさに深みが増した気さえした。
「紹介するね。こちらがsceneの名物ママの杏さんで、こっちが私の元恋敵の瑞樹さん」
「ちょ、こ、恋敵って藤崎先生!」
「あはは! 噂はよく聞いてるよ。そうか、アンタが藤崎先生を負かした瑞樹さんか! 確かに先生が負けるのも納得の美人さんじゃないか」
「い、いえ! そんな! それに藤崎先生と勝負なんてしてません」
「そう? 間宮君を狙ってたけど、ライバルが瑞樹さんだったから諦めたって藤崎先生から聞いたけど?」
一体、藤崎先生は杏さんにどこまで話いるのだろうと、呆れて溜息をついた。
「そんな事より、お話ってなんですか?」
「あ! 話し逸らしたなぁ! まぁ、その話は杏さんのランチを食べた後に、珈琲でも飲みながら話すよ。時間は大丈夫なんだよね?」
「まぁ、この後は特に予定はありませんけど」
この後も、折角の土曜日に何も予定がないなんて、若いのに勿体ないとか色々言われた。
ほっといてよ。
「それじゃ、杏さん」
藤崎が杏に合図を送ると、「了解! 二つでいいのよね?」と言い袖を捲った。
「うん! 宜しくね! 杏さん」
杏が厨房に姿を消した後に、そういえば何を頼むか注文もしていない事に気が付いた。
「あの、私って何も注文してないんですけど」
「あぁ、うん! 瑞樹さんと会うのにここを指定したのは、杏さんの看板ランチを食べさせてあげようと思ってね! だから、注文は食後の珈琲をどれにするかくらいかな」
メニューすら見せずに自分の注文まで決めてしまう程、その看板メニューは御馳走なんだろうかと思ったのだが、藤崎に何を頼んだかと聞くと、オムライスと教えられて呆気にとられた。
正直、もっと凄い特別なメニューを想像していたから、一般的なオムライスと聞かされて、肩透かしを食らったのは仕方がなかった。
ただ、藤崎は自信満々に絶対に後悔させないからと胸を張った。
言われてみれば、カウンターで食事をしている他の客達もオムライスを美味しそうに食べている。
sceneのオムライスは裏メニューで、杏が気に入った常連客にしか出さないらしい。
でも、今日は事前に私を連れてくるからと、特別に作ってくれる事になっていたそうだ。
そこまで言われると、期待しないわけにはいかない。
「おまちど! 一つずつしか作れないんだけど、どっちが先に食べる?」
杏が皿に綺麗に盛り付けられたオムライスを運んできた。
「ここはやっぱり初見の彼女でしょ!」
藤崎が私に先に食べるように勧めてくれた。
テーブルに置かれたオムライスは、確かに綺麗な仕上がりだったが、見た目は特別な感じはなく、ごく普通のオムライスに見えた。
温かいうちにと藤崎が勧めるから、「それじゃ、お先です」と告げてスプーンでオムライスをすくって口に運んだ。
口に運んだ手が止まる。
ゆっくりとスプーンを下げて、良く味わって呑み込んだ。
「どう?」
藤崎がニヤニヤしながら、瑞樹の顔を覗き込むように見る。
「な……なんですか?……これ」
「美味しいでしょ!」
「美味しい……物凄く美味しいです! こんなオムライス食べた事ないですよ!」
瑞樹は興奮気味に、杏特製のオムライスを絶賛した。
「あはは! 気に入ってもらえて良かったわ!」
杏が藤崎のオムライスを運びに現れ、瑞樹の絶賛する姿を見て嬉しそうに笑った。
「でしょ! このオムライスは間宮さんも大好物なんだよ」
「間宮さんも……そうなんですね!」
何だか嬉しそうに、ここでオムライスを食べている間宮さんが想像できちゃうな。
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「え? 私が講師ですか!?」
食事を終えて珈琲を飲んで一息ついている時、藤崎が瑞樹を呼んだ本題を話し出した。
「そう! 瑞樹さんが去年参加した夏期勉強合宿があるでしょ? 今年の英語担当として臨時講師をお願いしたいのよ」
「でも、あの合宿の講師って学生のアルバイトは使わないって聞きましたよ」
「えぇ、通常ならそうなんだけど、瑞樹さんには特別枠として参加してほしいって社長直々のご指名なのよ」
確かにあの合宿は学生のアルバイトではなく、正規雇用を希望して一次面接をパスした者だけが、参加を許されている云わば、採用最終試験の場であった。
去年は間宮が臨時講師として参加したが、その時も天谷が特別枠として参加を要請したものだと、間宮本人から聞いた事があった。
藤崎は今回の指名された理由に、storymagicに一番影響を受けて、しかも一番効果を発揮した人間だったからだと説明した。
「それにウチの生徒で、難関大学のK大現役合格ってのもポイント高いよね!」
そう言って片目を閉じる藤崎の顔は自信に満ち溢れていた。
その自信の根拠がどこから来るものなのか、かなり不安を感じていると藤崎が軽く咳をして妙な事を言い出した。
「瑞樹さんって、もう間宮さんと付き合ってるんだよね?」
「ふぇ!? い、いえいえ! つ、付き合ってなんていません!」
「えぇ!? アンタ達まだ付き合ってなかったの!?」
優希や岸田の一件を知らない藤崎にしてみれば、自分がフラれて瑞樹と付き合っていると思い込んでいても、不思議な事ではなかったのだが、事実あれから色々な事があって、すれ違ってばかりなのは間違いなかった。
「あれ? でも、社長は……」
何やら藤崎はブツブツと呟きだした。
そもそも講師を引き受ける事と、間宮と付き合う事のどこに接点があるのか瑞樹には分からなかった。
「でも、瑞樹さんが刺されそうになった時、自分の危険を顧みずに助けにはいったんだよね?」
「え? ……はい。でも、それは間宮さんが優しい人だったからで」
「それは違う! 絶対に違うよ! 瑞樹さん」
何が違うのだろう。
間宮さんなら、誰があの状況になっていても助けてくれそうな気がするけどな。
「あのね瑞樹さん! 間宮さんに近しい人ならまだしも、赤の他人であんな状況で助けに入ったら、それは優しいを通り越して只の馬鹿だよ」
「そんな事は……」
「あるよ! あの時襲われているのが瑞樹さんだったから、間宮さんは危険を顧みずに体を張って、貴方を守ったんだよ」
誰でも助けに入るなんて事は、映画やドラマの中だけで、現実でそんな事あるわけがないと、藤崎は付け足した。
「あ、あの! じ、実は私」
「うん?」
「明日、自分の気持ちを伝える為に、間宮さんの所へ行こうって思ってるんです」
「間宮さんの所って、新潟まで会いに行くって事!?」
「はい!」
突然の新潟行き宣言で、藤崎と杏が固まる。
それはそうだろう。
隣町に会いに行くのとはわけが違うのだから。
「何で明日なの?」
「明日が間宮さんの誕生日なので、どうしてもお祝いをしたくて」
杏がそう問うと、瑞樹は少し辛そうな表情で、そう答えた。
「そっか。うん! 新潟まで会いに行くって聞いた時は驚いたけど、いいんじゃない」
「はい! 頑張ってきます!」
藤崎と瑞樹が明日の事で盛り上がっていると、杏が厨房から何か赤い物が入ったタッパを持ってきた。
「アッハッハッハ! いいねぇ! 最近の若い子は消極的でつまらない子ばっかりだと思ってたけど、瑞樹さんみたいな子もいるんだね」
杏はどこか嬉しそうに笑いながら、手に持っていたタッパを瑞樹に差し出した。
「あの、これは?」
「ウチのオムライスでも使っている特製のケチャップよ! これを持って行って間宮君に食べさせてあげるといい。きっと私のオムライスが恋しくなってる頃だと思うしね」
「で、でもこのケチャップって、ラーメン屋さんでいう秘伝のスープみたいな物じゃないんでか!?」
「あっはっは! そこまで大層な物じゃないよ。まぁ、レシピは教えられないけど、たまに藤崎先生にも分ける事だってあるし」
「そうそう! でもこのケチャップ使っても杏さんの味を再現出来ないんだよねぇ」
杏は得意気に「そりゃそうだよ」と鼻息を荒くして、ケチャップが味の決め手になっているが、他にもケチャップライスの炒め方や、包む卵にも工夫がされていると話してくれた。
「結構多めに入れてあるから、余り時間はないだろうけど、少し練習してみるといいよ」
「はい! ありがとうございます!」
杏から手渡されたタッパを大事に鞄に仕舞うと、そろそろお開きにする事になり、藤崎と瑞樹は店を出た。
「それじゃ、臨時講師の件考えておいてね」
「でも、私やっぱり自信ないです」
「じゃあ、明日間宮さんに気持ちを受け入れてもらえたら、臨時講師の事を間宮さんに相談してみてくれない?」
「間宮さんに……ですか?」
「そ! それで話が進むはずだから」
「は、はぁ。受け入れてもらえたらでいいんですよね?」
「うん! それでいいよ! それじゃ、またね!」
「あ、はい! 御馳走様でした」
藤崎は少し仕事を残しているからと、そのままゼミが入っているビルに入っていった。
瑞樹は何だか釈然としなかったが、今この事を考え込んでいる場合ではないと、家路についた。
何だか一度新潟へ行くと決めてから、体が軽く感じた。
心がもう間宮の元へ向かっている様な感覚がある。
私はやっぱり単純なのかもね。
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「ね、ねえ、お姉ちゃん」
「ん~?」
「確かにさ、晩御飯がオムライスだって喜んだよ? でもさ」
「でも、なによ」
「色んなパターンを試したいからって、こんなに大量のオムライス食べ切れるわけないじゃん!」
希の眼下に広がるオムライスの大群に、うんざりした表情で瑞樹にそう訴えた。
「何も完食しなくていいから、どれが一番美味しいか教えて欲しいんだよ! 私は試食し過ぎて、味覚がおかしくなってどれが美味しいか分からなくなっちゃったんだもん」
瑞樹は帰宅して、早速杏のケチャップを使ってオムライスの練習に取り掛かった。
だが、どれも杏の味には及ばなく、しつこく作っては試食を繰り返している内に、味覚がマヒしてどれが一番杏の味に近いか分からなくなってしまった。
「どれも美味しいじゃ駄目なの?」
「駄目! このケチャップ使ってるんだから、美味しいのは当たり前なの! だから、一番美味しいオムライスを選んで!」
「そう言われても、もうお腹一杯でどれがどれだか……」
「仕方がない! もうすぐお父さん達帰ってくる頃だから、2人に決めてもらおう!」
「う、うん! そ、それがいいよ」
希はまだ見ぬ両親に同情するも、そそくさと逃げる様に自室へ戻っていった。
その後、瑞樹の両親は帰宅してオムライス地獄を味わされ、早々に寝込んでしまったのは言うまでもない。