第36話 本当に好きな事
大事な大会だった。
この大会は、新しく入部してきた特待生達にとって、部内での立ち位置を決定づける場だったんだ。
俺は第二予選で何とかファイナルへの出場権をギリギリで手に入れた。
泳ぎ終わって団体の控室へ戻ってきた時、鬼コーチから怒号が飛んできた。
まぁ、そうなるよな。
俺を呼んだコーチの元へ向かう。
「岸田!! 第一予選、第二予選と何やってんだ!!」
「すみません」
コーチが怒るのは無理はなかった。
K大の水泳部は、何名も全国クラスの選手を抱えている名門クラブだ。
だから、ファイナルへの出場権を手に入れたとはいえ、こんな内容では怒り心頭なのも自分でも分かっていた。
「いいか! ファイナルでもそんな気のない泳ぎをしてみろ! 今後のお前の立場がヤバくなると思え! 分かったな!!」
「はい。すみません」
岸田がそう平謝りをすると、コーチは苛立ちを隠さないまま、この場を立ち去った。
コーチが立ち去る姿を黙って見届けている岸田に、恐る恐る津田が近寄ってくる。
「き、岸田君なら大丈夫だよ! そ、そうだ! お腹空かない?」
津田はチェック柄の巾着袋に入った弁当を、岸田に差し出した。
「その……瑞樹ちゃんのお弁当には敵わないかもだけど、私なりに栄養バランスとか考えて作ってみたんだ……」
「すみません。食欲がないので遠慮します」
「で、でも! 少しでも食べないと」
「アップまで一人にして下さい」
津田の顔も見ずに立ち去る岸田の背中を、見送るしか出来ない悔しさをぶつける様に、手に持っていた巾着袋を握りしめた。
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津田の前から立ち去った岸田は、第一プールがある会場の観客席にいた。
ついさっきまである程度、席が埋まっていたのだが、その殆どが各大学の水泳部員ばかりで、元々大した規模の大会ではなかった為か、本当の観客なんて殆ど来ていなかった。
大学側の人間は、ファイナルの準備や昼食を摂るのに席を離れた為、観客席が殆ど空の状態だったのだが、岸田は最後尾の端の席に腰を下ろす。
眼下に広がるプールを見渡すと、水面がキラキラと眩しく輝いていた。
ひっそりと静まり返った水面を見ていると、意識が自分の中に入ってくるのが分かる。
ポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、LINEのアプリを起動させると、ずっと開いていない瑞樹のアイコンにメッセージが届いている事を知らせる数字が表示されている。
あれから何度も瑞樹からLineや電話がかかってきていた。
いつものテラスに行かなかったのだから当然なのだが、岸田はその連絡を全て無視していた。
あの夜、瑞樹に背を向けてから、ずっと苛立っていた。
それはあの日の瑞樹にではなく、自分自身に腹が立って仕方がなかったのだ。
何があの人の事は気にしていないだ……。
俺が一番気にしてんじゃん。
挙句の果てに、会わない様にしたり連絡を無視したり……ガキ過ぎるだろうが!
瑞樹さんは努力して俺を見ようとしてくれていたのは、一番傍にいたんだから分かっていたんだ。
なのに、時間をかけてとか言っておきながら、焦る気持ちを抑えられなかった。
元々傷だらけの瑞樹さんを、余計に傷つけてどうすんだよ!!
挙句に拗ねて無視するとか、本当にどうしようもないな……俺。
それにこの現状だってそうだ。
K大からスカウトの声がかかって即答で承諾したけど、俺は本当に水泳に賭ける覚悟があるのだろうか。
心のどこかで受験勉強から逃げる事が出来ると、思っていたんじゃないか。
もしそうなら、そんないい加減な奴が特待で入学して、本気で水泳に賭けている奴が、俺みたいな奴のせいで泣く事があっていいのか。
……そもそも、俺は本当に水泳が好きなんだろうか。
小さい頃から得意だったから、ずっと続けてきたけれど、得意と好きは違う事なんじゃないか?
本当に好きな事なのなら、恋愛事情程度でここまで好不調の波が大きくなったりしないんじゃないだろうか。
いや、違うな。
恋愛相手が瑞樹さんだから、露骨に影響が出るんだろう。
良くも悪くも俺にとって瑞樹さんの存在は、自分で思っているよりも大きいものになっていたんだな。
……そんな存在の瑞樹を……俺は。
その時スマホが震えて、アップを始める時間になった事を知らされた岸田は、自分の中に入っていた意識を表に戻して、アップを始める為に控室へ戻る事にした。
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総合体育館の正面入り口に腕時計を頻繁に気にしながら、ソワソワと施設の門を不安げな表情で見つめる。
もうファイナルが始まるアナウンスが流れてから、数分経っていた。
だが、まだ待ち人は姿を現してくれない
お願い!お願いだから!
心で強く叫んでいる津田の姿がそこにあった。
ファイナルが始まる時間になった為、警備員以外の人間は建物の中に入っていき、体育館前は殺伐とした空気が漂っている。
津田は岸田にあんな態度をとられたにも関わらず、岸田の為にここへ来て欲しいと頼み込んだ瑞樹が到着するのを待っていた。
幸いな事に、確かにファイナルは始まってしまったが、岸田が出場する100M自由形は三種目で、まだ僅かだが時間に猶予があった。
大丈夫!あの子はきっと来てくれる!
岸田君が本気で好きになった女の子なんだから!
きっと!必ず!
その時、握りしめていたスマホから、設定していた時刻になった事を告げるアラームが耳に響く。
この時刻は二種目の競技が終わる事を意味していた。
だが、ずっと睨むように見ている門の外には、こちらを気にする素振りも見せない通行人と、その奥を走り抜けていく車しか見えない。
……お願い……します。
津田が目をギュッと閉じて、天にそう念じた時だった。
「津田先輩!!」
ずっと待っていた声が聞こえた。
閉じていた目を瞬時に開く。
暗闇から一気に広がった視界の先に、心の底から待っていた姿を捉える。
「瑞樹さん!!」
津田の視線を独占して離さない瑞樹は、激しく息を切らしてこちらに走ってくる。
瑞樹の姿を見て、津田は瞬時に理解する。
着ている服装が、ファッション性を削って機動性重視だった事を。
それは、駅からここまで走ってくる事を始めから決めてきたのだと。
つまり、間に合わない可能性が高い状況の中、諦めずにここまで走ってきたんだ。
津田の目頭が自然と熱くなる。
あぁ、私はなんて人と勝負を挑んだんだ。
私は、初めて瑞樹さんに、そして岸田君にした事を心の底から後悔した。
「まだ間に合いますか!?」
心に痛みを感じていた津田は、瑞樹の必死に絞りだした声で我に返る。
「う、うん! ギリギリだけどまだ間に合う!!」
「案内お願いします!!」
「まかせて! こっちよ!」
瑞樹は津田の元へ駆けつけ終える前に、案内を頼み走ってきた足を止める事なく、そのまま津田と施設に駆けこんだ。
瑞樹の前を走る津田が、後ろを走る瑞樹に目をやると、辛そうに脇腹を抑えながらついてきている。
汗だくで、髪も乱れて、大学で見かける彼女とは程遠い姿だった。
でも、自分の中にある瑞樹のどんなイメージよりも、今の彼女は綺麗に見えた。
「ここを降りた所にウチの応援席があるから、このまま最前列まで降りて、岸田君に声をかけてあげて!」
「はい!!」
ここからは通路が狭くなる為、前にいると危険だと判断した津田は足を止めて、瑞樹が目指す場所を指し示す。
瑞樹が津田を追い越して、階段を駆け下りていく背中がやたらと眩しく見えた。
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階段を駆け下りていると、左側の団体から岸田の名前を叫ぶ声が聞こえる。
その声で、今岸田が選手紹介されている事を知った。
ラストスパートをかける瑞樹は、「貸して!」と叫びながら有無を言わさず、擦違い様に誰かが手に持っていたメガホンを奪い取り、そのまま最前列に辿り着いた。
そのメガホンは、ライバルである他の大学の物だと岸田の出番が終わってから知る事を、今の瑞樹は知る由もない。
瑞樹は呼吸を整える時間を惜しんで、すぐに握りしめていたメガホンを口元に運び、空気を大量に肺に吸い込み、一気に爆発させるように、吸い込んだ空気と共に言葉を吐き出した。
「岸田君!!!!」
今の瑞樹が出せる最大声量で叫んだタイミングが、まさにドンピシャだった。
岸田を紹介するアナウンスが流れ、観客席からK大のチームメイト達が声援を送る。
その声援が落ち着き、次の選手紹介のアナウンスが流れ始める谷間の瞬間、静寂とは言えないがかなり周囲の音が消えた時に、岸田を呼ぶ瑞樹の声が響き渡った。
その声は本当によく響いてた。瑞樹の周囲は勿論、岸田と並んでいた他の選手もメガホンを構えている瑞樹に視線を向ける程に。
そして、呼びかけた当人である岸田も、呆然と立ち尽くしながらも瑞樹の姿を捉えていた。
「み、瑞樹さん」
「はぁ、はぁ、ゴホッ!ゴホッ!ゼェ……ゼェ……ゴホッ!はぁ、はぁ」
しかし、ここまで一切休まずに走り切り、呼吸を全く整えずに大声を出した瑞樹は、軽く酸欠状態に陥ってしまい苦しそうに体全体で呼吸をしていた。
岸田がこちらに気が付いているのは分かっていたが、瑞樹は自分の意志に反して、両手を膝に付き下を向いてしまった。
その時、瑞樹の両肩を誰かに触られている事に気付く。
瑞樹は顔を上げずに視線だけ見上げると、そこには瑞樹に追いついた津田の姿があった。
津田は瑞樹に何も発する事なく、ただ頷きかける。
津田からの無言のメッセージを理解したのか、瑞樹も頷き返した。
もうすでに次の選手紹介のアナウンスが流れて、観客席から歓声が響いている。
だが、瑞樹はそんな事を一切無視して、暴れる呼吸を無理やり止めて再び肺に空気を吸い込ませる。
肺に少し痛みを感じたが、瑞樹はメガホンを構えて叫んだ。
「頑張れ! 岸田君! はあ、はあ‥‥ カッコいいとこ見せてよ!!」
瑞樹の声は、アナウンスや他の選手に送られている声援の壁を突き抜けて、確かに岸田の鼓膜を震わせた。
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全身の筋肉が締め上がっていく音がする。
今すぐにでも、溜め込んだ力が爆発しそうだ。
鼓膜に響いた瑞樹の声援が身体を突き抜けていく感覚を覚える。
今観客席から自分を見ている瑞樹の顔から仮面が剥がれ落ちている。
ずっと見ていたい笑顔だった。
そしてずっと見たかった笑顔でもあった。
自分だけに向けられている瑞樹の笑顔に、岸田は何かを悟り、そして何かを覚悟した。
全選手の紹介が終わり、各選手は羽織っていたジャージを脱ぎ捨てて、スタート台へ歩いていく。
スタート台に向かう岸田の目は、ついさっきまでとは別人のように、ギラギラと鋭い目つきになっている。スタート台の手前まで来た時、岸田の口元の角度が上がり白い歯を見せ、高々と右腕を天井に突き上げ人差し指を立てた。
他の誰でもない、瑞樹に向けて勝利宣言をしてみせた岸田の体から、自信がみなぎっている。
あいつの前でこれ以上格好悪いとこみせられるかよ!
スタート台に立ち、電子音のスタート合図が会場に鳴り響き、選手達が一斉にスタートを切る。
岸田はこれ以上にない好スタートを切り、水面に浮上した時には3位につけていた。
一説には水泳競技において、予選を最終枠で通過した選手が泳ぐレーンは一番不利だとされている。
それは中央のレーンから作り出される波が障壁になり、他のレーンよりも抵抗が増えるからだ。
しかし、今の岸田にはそんな事は関係なかった。
力強いストロークで障壁ごと切り裂いていく。
まるで、瑞樹が周りの声を切り裂き岸田へ届けたように。
更に圧巻だったのは50mをターンした後だった。
すでにMAXSPEEDだと思われた岸田の泳ぎが更に加速したのだ。
ターン直後に二位浮上、後はトップを追い抜くのみ!
不思議な感覚だ。
これまで最大限に集中出来た事は、何度かあった。
だが、その時は周りの音が一切入ってこなくなり。集中している事にのみ、意識を完全に向ける事が出来た。
その状態になった時は、筋肉の動きがイメージ通りに動き、その結果今泳いでいるレースが楽しいと思えた。
でも、今のこの状態はなんなのだろう。
やたらと周りの声が耳に届くし、視界が広がり周囲がよく見える。
だが、集中力が散漫になっているわけではない。
その証拠に体の動きがこれまでで一番よく、正直少し怖く感じる程だ。
広がった視界の中に、息を切らしながら声援を送ってくれた瑞樹が見えた。
瑞樹は、津田先輩と抱き合い観客席の最前列にある手すりをメガホンでバンバン叩きながら、俺に大声で声援を送り続けてくれている。
レース終盤でトップを猛追している自覚があるのに、俺はそんな瑞樹に向けて心の中で呟く。
今の君からは仮面が一切見えない。
そうか……君は答えを出せたんだね。
岸田の中に確かにあった必死に掴んでいた何かが、手元からするりと抜けた気がした時、岸田の右手がプールサイドを叩いていた。
結果はまさかの大逆転勝利!
K大が陣取っている観客席から大歓声が起こる。
その中に瑞樹と津田が本当に嬉しそうに、抱き合っているのが見えた。
俺はこちらを見ながらはしゃいでいる瑞樹に、スタート前と同じように天井に向かって人差し指を立てて、その指を突き刺す様に瑞樹に向けた。
瑞樹はそんな俺を見て、最高の笑顔で応えてくれた。
そして、視線を一切は切らす事なく人差し指を立てて、片目を閉じた。
これだ。
ずっと隠そうとして見せてくれなかった瑞樹の姿だ。
例えその姿を引き出したのが自分でなかったとしても、俺は嬉しさを爆発させた。
ファイナルの全項目が終了して、各種目別に表彰式が行われた。
岸田も自分がエントリーした種目で、一番高い所に立ちチームメイト達の歓声に応える。
だが、視線はチームメイトではなく、レースが終わった直後から姿が見えない瑞樹を探していたのだが、結局見つけ出す事が出来なかった。
表彰式が滞りなく終わり、選手達はそれぞれの控室に向かった。
控室に着くと、ファイナル前は鬼の形相で怒り心頭だったコーチが、「よくやった! 期待していた以上の泳ぎだったぞ!」と上機嫌だった。
現金なものだと溜息をついたが、正直悪い気はしなかった。
そして、自分にとって今日のレースでどれだけ水泳が好きなのかを、教えられた気がした。
撤収準備を整えた岸田達だったが、バスの到着が一時間程遅れると連絡があった為、施設内で待機の指示が出された。
「津田先輩! 瑞樹さんどこ行ったか知りませんか?」
待機指示が出て、岸田はすぐに近くにいた津田にそう話しかけた。
「瑞樹さん? 岸田君のレースが終わった時までは一緒にいたんだけど、ちょっと目を離したらもういなくなってんだ。もしかしたら、帰っちゃったかも」
「そうですか! どうも!」
岸田は控室を飛び出した。
帰ったなんてあり得ない。
あの時の瑞樹の顔を見れば、それだけは断言出来る。
瑞樹は俺に話があるはずなんだ!
そして、俺も瑞樹に言わないといけない事がある。
岸田は、一般の入館者が入っていける場所を隈無く探したが、瑞樹の姿を見つける事が出来なかった。
もしかして俺が思い込んでいただけで、本当に帰ってしまったんじゃ……。
心当たりが無くなってしまった岸田は、意気消沈した様子で少し外の空気を吸おうと正面入り口から外に出た時、思わず息を吞む光景に足を止めた。
高層ビルの間から差し込む真っ赤な光。
その色で夕暮れなんだと知らされた。
そんな光を浴びて、綺麗な赤色に染まる髪が風に揺れて広がっている。
だが、そんな美しい髪が脇役でしかないと感じてしまう程に、整った顔立ちに大きな瞳、そして透き通るような美しい肌を揺れる髪が見事に彩っていた。
目の前に佇むその少女は、あまりに美しく幻想的にすら感じる程で、足を止めた岸田の視線を釘付けにした。