第23話 温度差
――――え?
瑞樹は間宮の呼吸のリズムが変わった事に気が付き、間宮の胸元を見てみると、やはり胸周りの動きが昨晩とは違っていた。
その動きを見て瑞樹は喉をゴクリと鳴らす。
ゆっくりと静かに頭を上げて、間宮の顔に祈る様な気持ちで視線を移すと僅かだが、間宮の瞼が開いていた。
「ま、間宮さん……」
瑞樹はまるで壊れ物を扱うように、小さな声で間宮に呼びかけると、間宮の瞼が更に僅かに開きボンヤリした表情で、黒目がゆっくりと動いて瑞樹の目を見つめた。
「……おす」
掠れた声で瑞樹の呼びかけに一言だけ返す。
あの日以来、初めて間宮の声を聞いた。
その声が耳に届いた時、我慢していた涙が溢れだしそうになる。
でも、まだだ。
まだ、泣き崩れる前にやる事がある。
瑞樹は間宮から一切目を離さずに、手探りでナースコールのボタンを探し始めた。
目を離すと、また瞼を閉じてしまいそうな気がしたから。
少し手間取ったが、ナースコールを震える手で握り力いっぱいボタンを押した。
その後、震えが止まらない瑞樹の手は、再び一晩中握っていた間宮の手を優しく握り、恐る恐る間宮に声をかける。
「間宮さん……私が分かる?」
「……分かるよ。怖い思いさせてごめんな。瑞樹」
……もう無理だ。
我慢なんて出来るわけがない。
泣き虫とか弱いとか、何とでも言えばいい。
涙腺が一気に決壊を起こして、溜まりに溜まった涙が溢れだした。
手を口元に当てる事すら忘れて、ただ、ただ流れ落ちる涙が握っている間宮の手に落ちるのを見つめていた。
話したい事が沢山あったはずなのに、全く言葉が出てこない。
人は心の底から安堵した時、何も発する事が出来なくなるのだと初めて知った。
ずっと視線を外す事なく、見つめ続けてくれている間宮に、軽く深呼吸をしてようやく口を開く事が出来た。
「な……何で間宮さんが謝るかなぁ……もう」
「そうか……じゃあ、おはよ……瑞樹」
ずっと意識がなく、点滴だけで栄養を摂っていた間宮の頬がこける程やつれていたが、ずっと見たかったいつもの柔らかい笑顔を見せてくれた。
すぐにでも抱き締めたかった。
彼の体温を体で感じたかった。
でも、呼吸器や体から伸びている管を見ると、今はそんな事は出来ない。
だから、今は言葉が中々出てこないけど、これだけはちゃんと言おう。
「おはよう……間宮さん。助けてくれてありがとう」
その後、呼び出した看護師に間宮の意識が戻ったと伝えると、担当医が駆けつけて少し落ち着いてから再度検査を行う事になった。
瑞樹は検査の準備にかかるからと、看護師達に一旦病室から出て行って欲しいと言われた。
まだ意識がしっかりとは戻っていないようで心配だったのだが、素人には何も出来ないと諦めて休憩スペースに移動して、涼子に電話で間宮の意識が戻った事を伝えた。
これで間宮家の人間には伝わるはずだ。
次にまだ早朝で気が引けたのだが、きっと本当は心配でたまらないはずだからと、優希の番号をタップして携帯を耳に当てた。
長いコール音が流れた後、優希が慌てた様子で電話にでた。
やはりまだ寝ていたようだったが、何かあればすぐに連絡をすると告げていた相手からの電話だった為か、飛び起きて電話に出た感じだった。
その際ベッドから落ちたようで、「キャッ」と声が電話越しに聞こえて何だか可愛らしいとクスッと笑った。
こうして笑えるのは、間宮が意識を取り戻してくれたからだ。
この電話が最悪の結果を報告する電話なら、苛立ってしまっていたかもしれない。
「お、おはよう! 志乃!えっと、何かあった?」
「おはよう優希さん。ついさっき間宮さんの意識が戻ったんです!」
「ほ、ホントに!?」
優希の驚いた声が聞こえた後に、ドサッとに何か落ちる様な音が聞こえた。
「どうしたんですか!? 」
「あ、あはは! 安心したら急に足に力が抜けちゃって」
優香はどうやら床に崩れるように座り込んでしまったらしい。
「よ……よか……った……ホントに……よかった……良ちゃん」
電話越しに優希の声が掠れて、やがて涙声が聞こえてきた。
優希のそんな声を聞いた瑞樹の目にも、再び涙が溢れだした。
長い長い暗闇から、眩しい光が差す場所に出た時の安堵感に似ている。
本当に、本当に良かった。
2人はその後、涙を流しながら間宮の無事を喜び電話を切った。
電話を切った瑞樹は、加藤達に電話だと迷惑がかかるからと、各人へLineで間宮の意識が戻った事を伝えていると、丁度通路に検査準備を行っていた看護師達を見かけた。
どうやら準備が終わったようなので、再び間宮の病室へ戻る事にした。
病室へ戻ると、間宮が上体を立たせる為にリクライニングを起こして、窓から外の景色を眺めていた。
髪はボサボサで髭も相当生えていて、いつもの間宮と比べるとパッと見た感じは別人に見える程だったが、その表情は凄く穏やかで、とても死線を彷徨った者とは思えなかった。
もう少し体調を整えて、午後から検査に入る事を間宮から聞いた瑞樹はまだ時間に余裕がある事を知る。
「瑞樹を襲った犯人の事なんだけど、何か聞いてるか?」
「うん……じつはね」
瑞樹は間宮を刺した犯人が平田であった事、そしてその平田に対して松崎が起こした行動の事、最後に平田が自首した事を話して聞かせた。
「そうか……松崎がな……あの馬鹿が」
「私は松崎さんの気持ちも分かるけど、愛菜が止めてくれて本当によかったって思う」
「そうだな」
「……うん」
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――――
――
「ねぇ、何かしたい事ってない?」
久しぶりに間宮の声が聞けて、体の真ん中がキュッと締め付けられる感覚を感じた瑞樹は、唐突にそんな事を口にしていた。
「したい事? そうだなぁ……とりあえず早く風呂に入りたいかな」
ずっと意識が無くて、寝たきりだったんだ。
きっと体中が気持ち悪いのだろう。
クスっと笑って間宮に近づこうとする瑞樹に、間宮は慌てて近づかないでと瑞樹の足を止めた。
「え? どうして?」
「ほら! ずっと風呂に入ってなかったから匂うと思うしさ」
「なんだ、そんな事か。それなら全然気にならないよ! だって……」
「だって?」
「ここに入院してから、私も泊まり込んでずっと間宮さんの側にいたんだもん」
泊まり込んでいた事を聞いた間宮は「は?」っと複雑な顔になり、辺りを慌ただしく見回し始めた。
「どうしたの?」
「今何月何日だ? 俺が入院してからどのくらい経った?」
「一週間くらいかな」
「一週間って……もう大学始まってるんじゃないのか!?」
「大丈夫! 間に合ったよ。まぁ、間宮さんの意識が戻るまでずっと傍にいるつもりだったんだけどね!」
瑞樹がそう告げると、間宮は間に合って良かったと心底安堵した顔を見せた。
彼の性格からすれば喜ばないのは分かっていたが、そこまで露骨な態度を見せられると、何だか微妙な気分になる。
「そ、そうか。でもこの通り意識は戻ったんだから、久しぶりに自分のベッドで眠れるな」
「……それなんだけどさ」
「ん?」
「このまま入学式の前日まで、このままここにいていいかな」
我ながら、中々大胆な事を言っているのは自覚している。
今朝までと違い、もう意識が戻っている男性の病室に泊まり込むと言っているのだ。
怪我をさせたのは自分の責任だという事を差し引いても、少し軽率な提案だったかもしれない。
彼の意識が戻った事は本当に嬉しいけれど、それは止まっていた時間が動き出した事を意味している。
再び、別れなければいけない事を考えないといけないのなら、少しでも長く同じ時間の中にいて、少しでも自分の気持ちを伝える事が出来るのなら、少し位軽蔑されても構わない。
「何言ってんだよ。そんな事親御さん達が許すわけないだろ」
「それは大丈夫だと思うよ。何と言っても間宮さんは、私の命の恩人なわけだしね!」
「……」
「間宮さん?」
「そんな恩着せがましい事はしたくないんだ」
間宮はそう言っているが、私には他に別の理由があるように思えた。
「私がいるのは迷惑?」
それでも諦めたくない気持ちが強かった私は、ズルい言葉が口から出た。
間宮の性格を考えると、こう言えば必ず否定してくれるはずだ。
「あぁ、悪いけど迷惑だ」
――え?
想定外の返答に、瑞樹の思考が緊急停止した。
間宮は目を合わせる事なく、あっさりと肯定したのだ。
瑞樹にとって、それは天地がひっくり返る程の衝撃で、次の言葉が全く出てこなくなった。
「俺にずっとついてたのなら、大学の準備とかまだなんじゃないか? 俺の事はいいから、もう帰った方がいいよ」
以前より距離を感じる。
何故? 私が傍にいたのがそんなに苦痛だった?
それとも、私のせいで大怪我させられたから?
どちらにしても、これ以上無理を言ったら余計に離れていってしまう気がする。
「そ、そっか……うん! そうだね! じゃ、じゃあ……荷物纏めたら……帰るよ。変な事言って……ごめんね」
瑞樹はその後は一言も発さずに、黙々と荷物を纏めだした。
その間、引き留められる事を期待していたが、引き留められるどころか間宮も一言も話す事はなかった。
泊まり込んでいる最中、いつも荷物整理はしてあったから纏めるのにそう時間はかからなかった。
「えっと……叔母さんと優希さんには、私から意識が戻った事を伝えておいたから」
「……そうか」
「それじゃ、私帰るね。お大事に……」
「あぁ、迷惑かけて悪かったな」
言いたい事が沢山あった。
話したい事が沢山あった。
でも、帰れって言われたから、我慢していたのに……
「迷惑ってなに?」
「え?」
「迷惑って何よ!! 迷惑かけたのは私じゃない!」
「み、瑞樹?」
「私の事が迷惑なら、優しくしないでよ! 助けたりしないでよ! そんな事されたら……期待しちゃうじゃない! バカ!!」
瑞樹は溜めていた感情を爆発させるように、声を荒げて間宮を一方的に責めてバンッ!と力いっぱい病室のドアを閉めて駆け足で立ち去った。
病室に1人残された間宮は、只々呆然と勢いよく閉められたドアを眺めている事しか出来なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
なによ!間宮のバカ!バカ!
瑞樹は眉間に皺を寄せて一階のロビーへ降りてきた。
外来の時間前で照明があまり灯っておらず、辺りは静まり返っている。
受付には数名開院の準備に追われているようだ。
いつもなら受付のスタッフに挨拶をしているところだが、心中穏やかではない今の瑞樹にはそんな余裕はなく、無言のまま病院を出た。
病院の外に出ると、今朝は天気が良く青空が広がっていた。
日差しで瑞樹は少し眩しそうに目を細めた先に、誰かがいる気配を感じた。
「おはよ! 瑞樹さん」
「岸田君? おはよう。こんな朝早くにどうしたの?」
「間宮さんの意識が戻ったって瑞樹さんから連絡貰ったから、早速お見舞いにと思って」
確かに加藤達にLineで連絡した時に、岸田にも連絡はしたがせっかちな程に早いお見舞いに、瑞樹は苦笑いを浮かべた。
「そうなんだ。でも一般の面会時間まで、まだ1時間以上あるよ?」
「え!? そうなの!? どうりで病院の中が薄暗いと思ったよ」
岸田が困った顔で後頭部を掻いている姿を見て、少し苛立ちが収まった気がした。
「あれ? 荷物なんて持ってどうしたの?」
岸田は瑞樹の手に持っている、大きな鞄に気が付いた。
「あぁ、これは、その……」
「ああ! 一旦帰って荷物の整理とかするんだね。連日泊まり込んだら、洗濯物とか溜まっちゃうもんな」
「ううん。一旦じゃなくて、ホントに今から帰るとこだったんだ」
自宅へ帰る事を告げた瑞樹は、間宮が意識を取り戻してからの経緯を岸田に話して聞かせた。
「間宮さんがそんな事を? ホントに?」
間宮に迷惑だと瑞樹に言った事に、岸田は解せないと言わんばかりの顔つきで首を傾げた。
「こんな嘘つくわけないじゃん。まぁ、そう言う事だから私は帰るね」
溜息交じりにそう話した瑞樹は、そのまま重い鞄を持ち直して帰宅しようと歩き出した。
「まぁいいか! それより瑞樹さんって朝飯食べた?」
そう言えば明け方に間宮の意識が戻ってから慌ただしくなって、朝食を摂っていない事に言われて初めて気が付いた瑞樹は、岸田に背を向けたまま無言で首を左右に振った。
「それは丁度よかった! 僕もLineを見て急いで部屋を出てきたからまだだったんだけど、よかったら一緒に食べない? 勿論、御馳走するし」
「一緒に朝ごはんを食べるのはいいけど、それは私に御馳走させてくれない?」
岸田の誘いにまた首を横に振った瑞樹は、岸田に振り返りそう提案した。
「いや、でも誘ったのは僕なんだし」
「あの時、気が動転していて出来なかったんだけど、岸田君にも助けてもらったのに、お礼すら言えてなかったから」
御馳走する理由を述べると、岸田は何もしていないと予想通りの反応を見せた。
「御馳走させてくれないんだったら、私は行かないよ?」
「そういう言い方ズルいよ、瑞樹さん……分かった。御馳走してもらう」
岸田の観念したような仕草にクスクスと笑う瑞樹の姿に、岸田は改めて自分の心を鷲掴みにされた事を実感した
どこか店を探そうと歩き出した瑞樹の隣にならんだ岸田は、「持つよ」とだけ告げて重そうに持っていた鞄を瑞樹の手からそっと引き離した。
重いからいいよと遠慮したが、全然重くなんてないよ!スイマーをナメんなと鞄をそのまま力強く肩に担ぐように、鞄を持ち換えた。
元々中学の時も小学生から水泳をしていた岸田の肩幅は広かったが、高校でさらにその肩幅が広くなり、大きくなった岸田の背中が瑞樹には眩しく映った。
「岸田君って体とか大きくなったね」
「そうかな。瑞樹さんが成長してないだけじゃない?」
「なっ!? 私だって成長してるもん!!」
そう言って、瑞樹は岸田の背中を数回叩いた。
痛いってと反応する岸田は終始ニヤケ顔だったのは言うまでもない。
その後2人は店を探しながら歩いている最中、これから始まる大学生活の話に花を咲かせた。
こうしていると中学生の頃、2人並んで下校していた時と違うと感じる。
隣で歩いている彼は背も伸びて、体も大きくなり逞しくなった。
あのオドオドしていた岸田の面影がすっかりなくなり、周りの人達が話すように確かに格好良くなったと思う。
こんな人がずっと中学の時から、自分に想いを寄せてくれている。
女として嬉しく思うとこなのだろう。
実際、正直に言うと私だって女の端くれとして嬉しいと思うし、光栄だとも思っている。
彼に気持ちを伝えられたが、受け入れる事が出来なかった。
それは勿論、間宮の事を想っていたからだが、今朝間宮に拒否された今でも隣で歩く彼にドキドキしないのは、きっと今朝の夢の事があったからだ。
間宮が眠る傍で眠ってしまったからか、夢の中で間宮が出てきた。
不思議な夢だった。
いつもの様に間宮が柔らかい笑顔を向けてくれていたのだが、その笑顔の裏側を覗き込めたからだ。
その裏にはとても透き通っていて綺麗だが、底がどこにあるのか分からない海があった。
その海を見つけた私は、吸い込まれるようにその海に飛び込んでいた。
不思議な海だった。
水中なのに呼吸が出来るし、水が全然冷たくない。
それどころか、誰かに抱かれているのかと錯覚してしまう温もりを感じた。
その後もっと不思議な事が起こった。
水中にいるはずなのに、間宮と誰かが会話しているのが聞こえてきたんだ。
その会話が耳から聞こえたのではなく、うまく言えないが全身の細胞が反響して聞こえると言うより、感じると言った方が正解かもしれない聞こえ方だった。
肝心の会話は断片的にしか覚えていない。
でも、分かった事がある。
まず声色で間宮が話をしている相手は女性だと分かる。
そして、間宮と話をしていた相手の名前が優香という事だ。
聞いた事がない名前の人だ。
聞いた事がないし、勿論会った事もないのに、その声の主が身近にいた気がするのは何故なんだろう。
そして、その夢の中で一番気になっていた事。
「瑞……樹の……事が……す……き……なん……だ」
この間宮の告白の事だ。
私は目を覚ました時、この告白が自分の夢の中で彼が言ってくれた言葉だと思っていた。
でも、もし私が目を覚ます前に間宮さんの意識が戻っていたとしたら?
夢だと思っていた事が、本当に間宮さんが言ってくれた言葉だとしたら……。
そう考えるのは自惚れだろうか……自意識過剰なだけだったんだろうか。
本人に聞きたかった事だ。
だけど迷惑と拒否されてしまっては、確認する勇気が湧いてこなくて、逃げ出す様に病室から出ていく事しか出来なかった。
そんな事を考えながら歩いていると、丁度いい感じのカフェを見つけてそこに入る事にした。
店に入って席に着くと、何でもご馳走するから遠慮しないでお腹いっぱい食べてと言ったのだが、彼は食べ盛りのスポーツマンなのに、モーニングしか頼まなかった。
完全に遠慮しているのが見え見えで、癇に障った私はスタッフを呼んで適当に色んなメニューをオーダーした。
勿論、私じゃ半分も食べ切れない量だ。
でも、岸田君なら余裕で平らげるだろう。
自己満足だけど、何でもご馳走すると言ったのに、遠慮されると気分が悪いものなのだ。
始めは次々とテーブルに運ばれるメニューに岸田は困惑していたが、暫くするとモリモリと食べて皿を積み上げていく。
「やっぱりお腹空いてたんじゃん」
「ははは……ごめん」
溜息をついて別に謝る事はないと言った瑞樹は、美味しそうに食べる岸田を嬉しそうに眺めていた。
「これで昼からの練習も頑張れるよ!」
「今日の練習って午後からだったんだ」
「うん。だからここを出たら聞きたい事も出来たし、予定通り間宮さんの見舞いに行くよ」
「聞きたい事って?」
「それは……内緒かな」
そう話す岸田に釈然としなかったが、その後は食事を進めながら色々な話題に花を咲かせた。
ずっと病院にいた瑞樹にとって、その時間は久しぶりなもので楽しい時間だった。
「あ、岸田君。口元にソースがついてるよ」
「え? うそ!」
岸田が慌てておしぼりに手を伸ばそうと視線を落とすと、瑞樹のおしぼりが優しく口元に当てられた。
「ん! 綺麗に取れたよ。フフフ、子供みたいだね」
「……あ、ありがとう」
そんな二人の様子を見ていた他の客達に、微笑ましい視線を向けられていた事に気が付いた瑞樹は、慌てて自分の席に顔を真っ赤にして座った。
「つい反射的に……ごめんね」
「謝らないでよ。嬉しかったんだから」
瑞樹は赤くなった顔を冷まそうと、グラスに入った水を氷ごと口に含ませた。
コロコロと口の中で小さくなった氷を転がす姿が、岸田にまるで昔に戻ったような幼い頃の瑞樹を思い出させた。
「なぁ、瑞樹さん」
「ふぇ? なぁに?」
まだ口で氷を転がしていた為、可笑しな返しになってしまった。
こんな砕けた様子を見せるのは、瑞樹にとって家族を除けば間宮だけだっただろう。
だが、岸田も瑞樹の中にある心を許せる男リストに載る事が出来たようだ。
岸田にとって最後で最大のチャンスが巡ってきた。
それは彼も分かっているようで、表情がどんどん真剣なものに変わっていく。
いつの間にか周りにいる他の客達も、2人の動向に熱い視線を送る異様な雰囲気が店を支配していた。
「あのさ、これで最後にするから。もうこれからは絶対に言わないから、聞いて欲しい事があるんだ」
。瑞樹は雰囲気がガラリと変わった岸田を見て、口の中の氷を慌てて噛み砕いて呑み込んだ。
「……うん」
「やっぱり僕は君の事が好きだ。間宮さんの事が好きなのは知ってる。でも! 僕ならずっと傍にいる! 絶対に寂しい思いなんてさせない!」
岸田が他の人間なんて気にする事なく、思いの丈を瑞樹にぶつけた。
以前、駅のホームで瑞樹に気持ちを伝えた事がある。
その時は、困った顔をされた事を今でもはっきりと覚えている。
だが、今回の告白に対して瑞樹の反応が変わった。
頬を赤らめて視線を恥ずかしそうに逸らしたのだ。
「好きだ! 瑞樹さん。俺と付き合ってほしい!」
最後に岸田がそう瑞樹に告げると、暫くの間沈黙が流れた。
2人を見ていた客達も、何も発せず瑞樹の返事を見守っている。
少し考えた後、瑞樹はフゥっと静かに息を吐いてから、真っ直ぐに岸田を見つめて口を開く。
「ありがとう。岸田君の気持ち凄く嬉しいよ」