第19話 絶望
優希の実家を出て、今は最寄り駅のA駅に向かう電車に揺られている。
車窓から流れる街の明かりを眺めながら、1人小さく鼻歌なんて歌ってみる。
心と体が凄く軽い。
こんな事っていつ以来だろう。
思えばこの数か月は特に色々な事があり、その度に思い悩み眠れない夜だってあった。
そんな時、優香の両親との和解、それになにより優香を身近に感じて、一瞬だけで幻かもしれないが、優香の笑顔が見れた事が何よりも嬉しかった。
A駅に電車が到着して、下車する乗客の流れに乗って間宮も電車を降りた。
帰ったら荷造り片付けないとな。
後少しだけ残っている荷造りの事を思い浮かべながら、帰宅する足を少し早めて歩いていると、急に間宮の足がピタリと止まった。
足を止めたのは、ベンチに俯いて座っている男性が、妙に気になったからだ。
間宮は少し覗き込む様に、俯いて座っている男の顔を確認する。
「やっぱり岸田君じゃないか」
「あ……間宮さん」
岸田は声をかけかられてそう返すが、目に力がなかった。
間宮の岸田への印象は、目力が凄く強い男という印象を受けた。
多少の誤差も強引に帳消しにしてしまう感じと言えば伝わるだろうか。
だから、瑞樹から聞いた印象とはかけ離れていて、初めは戸惑ってしまったものだ。
しかし、今の彼からはそれが全く感じられない。
どちらかというと、迷子の子供のような目をしている。
「もうこっちに来てたんだね」
「はい、先日に……それで今日は、瑞樹さんの卒業式だったから祝ってあげたくて、瑞樹さんの学校に行ったんですけど」
「そうなんだ。それで? 瑞樹はいないみたいだけど、帰ったのか」
「それがどうやら、余計な事を言ってしまって怒らせてしまったみたいで」
岸田はそう話して。再び俯いてしまった。
なるほど、目力がすっかり影をひそめてしまったのは、それが原因か。
「余計な事って?」
「あの……つい話しちゃったんですよ。間宮さんに瑞樹の事を頼むって言われた事を……」
「……え?」
本当に余計な事話したなと、間宮は溜息をついた。
当人がいない所で、話を完結された事を知ったのだ。
瑞樹じゃなくても怒るのは当然だろう。
「それで? 瑞樹は怒って帰ったのか?」
「いえ、寄る所が出来たから、ここでいいって置いて行かれたんです」
この駅を出て、瑞樹が一人で寄りたがる場所……ウチだろうな。
「分かった。後の事は俺に任せて、岸田君はもう帰った方がいいよ。寮生活なら門限とかあるんだろ?」
「ありますけど、とっくに門限は過ぎてるんですよ」
「なにやってんだよ……とにかくもう帰りな」
間宮も瑞樹と同じく、ションボリしている岸田を置いて駅を出た。
この駐輪所は今日までで契約を切っている為、ここへ訪れるのも今日で最後になる。
自分の自転車の元に到着して、鍵を開錠して両手でハンドルを持ち、自転車を支える。
もう何も停まっていない瑞樹が契約している所に目をやると、あの時の事を思い出す。
始めて瑞樹と出会った時の事を。
最悪な出会いで、本当に腹が立った。
年甲斐もなく缶を地面に投げつけたっけ。
なのに、いつの間にか大切な存在になっている。
初対面の印象なんて、役に立たないんだなとクスっとほくそ笑んだ。
チリン
建物の中で風はなく、キーホルダーを付けている鞄も肩にかけているだけで動かしてはいない。
なのに、キーホルダーに付いている鈴の音が聞こえた。
そういえば、優希の父親から逃げ出そうとした時も、この音色が聞こえて鞄を引っ張られた。
そう考えると、この音色は意味もなく鳴っているのではない気がしてきた。
――何だか胸騒ぎがする。
間宮は急いで自転車を駐輪所から押し出して、ペダルを力いっぱい漕ぎ出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
瑞樹は間宮のマンションに到着して、エントランスの前でしゃがみ込んでいた。
到着してから約1時間程待っている。
その間、何度か親から携帯が鳴り帰宅を促されたが、瑞樹はどうしても今日じゃないといけない用事があるからと、半ば強引にそう告げて頑としてこの場を離れようとしなかった。
瑞樹はいつもの癖で、キーホルダーに付いている鈴を指でコロコロと転がしていた。
ただ、以前と違うのは弄っているキーホルダーが岸田に貰った物ではなく、間宮とお揃いで買った物に変わっている事だ。
そのキーホルダーをギュッと握りしめて、間宮の事を考える。
今日じゃないと、明日になれば間宮さんいなくなっちゃうんだから。
本当ならもう会わずに別れるつもりだった。
送別会も断られて、間宮と会う理由を失ってしまったからだ。
だから、文句を言うつもりでもなんでも、間宮と会える口実が出来た事に、瑞樹の口元の角度が自然に上がっていた。
腕に付けている時計を見ると、23時を過ぎている。
時計にそっと触れる。
いつも大事な予定がある時だけしか付けない、間宮からプレゼントされた腕時計。
今日は卒業式だった為、バレンタインのお返しとして貰った新しいバンドに交換して、益々瑞樹にとって大切なアイテムになった時計を腕に巻いていた。
明日から高校生ではなくなる。
特に寂しいとか、まだ高校生でいたいとか、今日のクラス会の席で皆が口々に漏らしていた気持ちは、今の瑞樹にはなかった。
これで少しだけ大人に近づけた喜びの方が勝っているからだ。
これでようやく少しだけ、間宮の世界に近づく事が出来る。
叶うなら、たとえ隣でなくてもいい、大切な友人の1人としてでも構わないから、これからの自分を見ていて欲しかった。
だけど、あの人は明日にはいなくなる。
確かあの人に怒りを覚えていたハズだった。
場合によっては、引っぱたくつもりでいた。
でも、そんな気はいつの間にか失せてしまい、今はただ寂しくて切ない感情が全身を支配している。
自然と涙が零れ落ちそうになり、しゃがみ込んでいた膝に額を押し当てて堪えようとした。
泣いてしまったら、目が腫れてしまい間宮が来た時に気付かれてしまう。
こんな場所で泣いていたのがバレてしまったら、新潟に行くのを止めに来たのかと思われてしまうかもしれない。
そんな事になったら、何の為に旅行の別れ際に自分の気持ちを押し込めて、間宮が気兼ねなく旅立てる様にしたのか分からなくなる。
癇癪を起しそうになるのを、呼吸を整えて気持ちを落ち着けた時、少し離れた場所からカシャン、カシャンと擦る様な、乾いた軽い金属音が聞こえてきた。
この音は、自転車でよく耳にする音だ。
伸びたチェーンがチェーンカバーの内側を叩く音だろう。
それに車輪が少しぎこちなく回る音も聞こえる。
その二つの音で、中々に年季が入っている自転車だという事が分かる。
間宮さんの自転車の音だ。
そう確信した瑞樹は、慌てて立ち上がりお尻をパンパンと叩いた。
やがて自転車に乗った人影が見えだした。
その姿を見て、ついさっきまで泣くのを我慢していたとは思えない程、目を輝かせて出迎えるように、近づいてくる自転車の正面に立つ。
だが、その姿が近づくにつれて、瑞樹の表情がドンドン強張っていく。
角度が上がった口元は瞬時に閉ざし、嬉しそうに跳ね上がっていた眉も、厳しい角度になる。
前に出そうになっていた足は、本能的に後退し始めた。
男が漕いでいた自転車は、キィっとブレーキの音をたてて、瑞樹の前で止まった。
男はジーンズにスニーカー、上着はやたらとフードが大きいパーカーを羽織っている。
フードを深被りしていてマスクを着用していた為、よく顔が見えない。
だが、こちらを見た時、一瞬だけ男と目が合った。
その目を見た瑞樹は、自分の身が危ないと脳から全身に警戒信号を発令したが、体は数歩後退しただけで固まってしまった。
ガシャン!!
男が自転車を降りて、無造作にその自転車を地面に倒した。
そのまま男はパーカーのポケットに両手を突っ込み、ジリジリと瑞樹に近づいてくる。
瑞樹まで後、約10歩程に近づいた時、男はポケットから手を出した。
出した手から何か鈍く光る物が見える。
その光る物を凝視した時、瑞樹の顔は生気を失う。
最近、偶々チャンネルがあったテレビ番組で見た事がある。
サバイバルで使う特殊な加工がされた、刃渡りが長いナイフだった。
エントランスから漏れる明かりが反射して、異様な存在感を放つナイフが瑞樹に向けられる。
その剣先を向けられた時、固まっている全身が激しく震えだす。
あと数歩の所まで近づいた時、フードの中から男の目がハッキリと見えた。
この目はどこかで見た事がある。
そうだ、昼間に摩耶に乱暴しようとした男と同じ目だ。
いや、あの時見た目より怒りの感情がハッキリと見えるが、その目からは冷酷な冷たさしか感じない。
その目で睨まれた瑞樹は、腰が抜けそうになるのを必死に我慢する事しか出来ない。
「お前のせいだ」
低くて小さい声。
だが、とてつもなく冷たくて、まるで地の底から聞こえたような錯覚を覚える程、恐ろしい声に聞こえた。
その声を聞いて、瑞樹の全身から汗が噴き出る。
逃げないと! 頭ではそう体に命じているのに、手も足も全くいう事をきいてくれない。
目の前まで迫った男は、構えたナイフのグリップを両手で握り直して、体ごと瑞樹に突進する。
瑞樹は自分の死を覚悟したのか、あまりの恐怖に歯を食いしばり、目を力いっぱい閉じた。
その時、男の後方でまた自転車が倒れる音が聞こえた。
だが、さっきの音とは違い凄い勢いで倒れたのか、地面を滑る様な音が混じっている。
すると今度は、襲ってくる男が「クソがっ!」と叫んで何かを振り払う音がした。
その振り払った音の中にチリンと鈴が鳴る音を瑞樹は聞き逃さない。
目を閉じているせいか、他の感覚が鋭くなっている気がする。
鈴の音が聞こえた直後に、猛スピードでこっちに駆け付ける足音がする。
その足音の主の気配が目の前に感じた直後、ドンっと乱暴に肩を押された衝撃に耐えきれず、後方に体勢を崩して尻餅を着いた。
そこで初めて瞼を開くと、目の前にナイフを持った男と、自分との間に大きな背中がこちらを見下ろしていた。
この背中には見覚えがある。
幾度となく、この背中に守ってもらったからだ。
いつも優しく包み込まれて、安心感さえ抱くこの背中の持ち主を、瑞樹が間違えるはずがない。
「ま、間宮……さん」
襲われていた瑞樹を助けに割って入ったのは、大きく息を切らした間宮だった。
背中の持ち主が間宮だと分かった瞬間、異常な程全身に入っていた力が抜けていく。
だがその直後、間宮の様子がおかしい事に気が付く。
前かがみになり、肩や足が小刻みに震えている。
やがて、何かに耐えている様な声が漏れ始めた。
「間宮さん?」
間宮の異変に、再び体に緊張が走った瑞樹は慌てて立ち上がろうと、視線を地面に向けた時、異変の原因を目撃する。
間宮の震える足元に、ポタポタと黒い液体が落ちている。
え?……これって……血?
間宮の真後ろに座り込んでいた瑞樹は、恐る恐る少し横に体をずらして、滴り落ちている液体の出所を目で追うと、間宮の横腹にギラリと光る物が見えた。
顔色が真っ青になった瑞樹が見たのは、ナイフで脇腹を刺されている間宮の姿だった。
だが、ナイフは完全に根本まで刺さり切っていない。
間宮は男のナイフを持った手首と、ナイフの刃を鷲掴みにして、刺し切られるのを阻止していた。
ナイフの刃を掴んでいる間宮の手から、血が零れ落ちている。
足元に落ちていた血の出所は、間宮の手からだった。
男はナイフを刺し切ろうと力を込めるが、間宮の押し戻す力が勝りジワジワとナイフが間宮の脇腹から抜けていく。
その気迫に僅かに動揺した隙をついて、間宮は一気にナイフを完全に抜き切った。
ナイフが抜けた時、「グァッ!!」と短い悲鳴のような声が間宮の口から洩れる。
だが、男の手首を掴んだ手を緩める事なく、高く突き上げる様に持ち上げて手首を握っていた手に更に力を込める。
すると、今度は男が「ギャッ!!」と悲鳴を上げて握っていたナイフを手放した。
ナイフが金属音を上げて地面に落ちる。
そのナイフには間宮の血がベットリと付着していた。
ナイフが地面に落ちるのと同時に、間宮は右腕を振りかぶった。
握りしめた拳を一気に男のテンプルに叩き込み、そのまま男の顔を地面に叩きつける様に拳を真下に振り切る。
男は顔から激しく鈍い音と共に地面に叩きつけられた。
間宮はふらつきながらも、転がっていたナイフを遠くへ蹴り飛ばした。
乾いた金属音が鳴り響き、やがてナイフが暗闇で見えなくなる。
男はかなりダメージを負ったが、体を震わせながら立ち上がろうと藻掻いている。
止めを刺そうと脳震盪を起こしている男の方に、向き直り再び拳に力を込めた時、今度は間宮が膝から崩れ落ち両手を地面に着く。
出血が酷く眼が霞み、意識が遠のいていく。
だが男が動ける状態である以上、まだ倒れるわけにはいかない。
今倒れたら、誰が瑞樹を守るんだ……
間宮は意識を保つ為に、地面に着いていた手を振りかぶり、勢いよく地面に叩きつけた。
痛みで一瞬意識がハッキリと戻ったのを機に、勢いよく立ち上がる。
傷口が激しく痛み、更に出血が酷くなった気がする。
間宮は傷口を手で覆い、一人気を吐き男を殺気のこもった目で射抜く。
間宮と対峙している男は、そんな間宮を不敵な笑みを浮かべて睨むと、右の拳に力を込めて、一気に間宮との間合いを詰めた。
「おい!!! 何やってんだ!!! お前!!!」
その時、男の背後から大きな叫び声が聞こえた。
男は拳を振り上げたまま、後ろに視線を向けると、鬼の様な形相でこちら側に全力で走ってくる男がいた。
間宮もその男を目で追い、駆け付けた男の正体を確認すると、フッと微かに笑みを浮かべて、膝から崩れ落ち始めた。
「……早く帰れって言っただろう……バカ」
間宮が倒れ際にそう言い残した相手は、駅で別れたはずの岸田だった。
ナイフの男は、駆け付けた岸田の姿を見て、チッっと舌打ちしナイフや乗っていた自転車を放棄して、間宮達の前から離れて暗闇に姿を消した。
「おい! 待てよ!!」
岸田が逃げる男を追おうとしたが、後ろから瑞樹の震える声を聞いて足を止めて振り向くと、そこには目を見開き顔が真っ青になって座り込んでいる瑞樹と、その下に脇腹を中心に血まみれになった間宮が倒れていた。
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「……いやだ……駄目……駄目だよ!!!間宮さん!!」
間宮の意識は完全に失われてしまい、瑞樹が声をかけても何も応える事はなかった。
「ま、間宮さん……ねぇ……」
瑞樹は傷口から溢れ出る出血を少しでも止めようと、ポケットに入っていたハンカチを傷口に当てて抑え込んだ。
極度の緊張から、喉がカラカラに乾き切っている。
「救急車!! 早く! すぐに救急車を呼んで!! 早く!!」
上手く出てこない声を無理矢理張り上げて、救急車を呼ぶように頼んでからは、もう何を言っているのか分からない言葉を間宮に向けて一方的に話しかける。
恐らく、何でもいいから思いつく言葉をかけて、間宮の意識を戻そうとしているのだろう。
やがて抑えていたハンカチが何色の物だったのか、全く分からなくなる程、間宮の血で真っ赤に染めあがった。
「止まって! お願い止まって! 血が、血が止まらないよ!! いやだ!いやだよ! 間宮さん!!」
瑞樹は声を荒げながら、着ていた制服のブレザーを脱いで傷口を抑えているハンカチの上に被せるが、そのブレザーも被せた瞬間からドンドン真っ赤に染まりだした。
「間宮さん!! 間宮さん!! お願い!! しっかりして!! 目を開けて!! 間宮さん!! いやあぁぁぁーーー!!!!!」