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シーソーで考える欧米と日本の文学性の違いについての私見

作者: 橋本洋一

シーソーを英語で書くと『Seesaw』となりますが、その語源は諸説あります。


一つはマザーグースの歌、『See, saw, Marjorie Daw』が元になっている説です。この場合の『Saw』は『のこぎりを引く』と言う意味で、大きなのこぎりを二人で引いている姿がシーソーをしているみたいだからとのこと。


もう一つは『Seesaw』を『see』と『saw』に分けて、それぞれ『見る』と『見えた』と分ける説です。


シーソーを二人でやっていると互いが見えたり見えなかったりします。その様子をストレートに表現して、シーソーと名付けたらしいです。


僕はこの二つの説のうち、後者のほうに惹かれてしまいます。説得力云々ではなく、どちらが好きかと聞かれたらの話ですが。


理由としてはシンプルに分かりやすいし、前者のマザーグースをよく知らないからです。まあ無知ゆえの好き嫌いと言ってしまえば元もこうもありませんけど。


ではそのシーソーは英語だということは言いましたが、日本語訳をした場合どうなるのでしょう?


調べてみたところ、『ぎっこんばったん』というらしいです。シーソーで遊ぶ際に発生する音がネーミングになっているそうです。


なんだかユニークな名前だと思います。それに名付け方も面白いです。


英語の『Seesaw』は見た目、つまり視覚から由来しています。これは二つの説に共有している由来でもあります。


一方、『ぎっこんばったん』は音、つまりは聴覚に由来しています。


この違いは欧米と日本の文学性の違いにつながるのではないかと思います。


視覚と聴覚。どちらが文章に置きづらいか考えてみると、ほんの少しの差で、聴覚のほうに軍配が上がる気がします。これは個人的な考えですが。


例を挙げるならば、文章で『黄色』と書けば、大体の人間が『黄色』を想像できます。まあ人によっては明るかったり暗かったりしますけど、それは誤差の範囲内でしょう。『黄色』と書いて『青色』を想像する人間はいないですし。


しかし『黄色い歓声』と書いたならばどうでしょう? 人によっては女子高生の声だったり、小学生の声だったり、中年の声だったりと想像が千差万別になるでしょう。


何故なら、色と違って絶対的なものがないからです。


この違いこそが、欧米と日本の文学の違いになるのだと考えます。


宗教的見地から察するに、欧米は絶対的な価値観を重視します。全知全能の神に従い生きているので、この感性は当然のものだと思います。


誰にでも分かりやすい芸術性が求められているからこそ、シンプルイズベストの芸術が生まれるのです。そして誰にでも分かるというのは、一目で分かるということに他ならないのです。


ここでシェークスピアの詩を抜粋します。


When daisies pied, and violets blue,


And lady-smocks all silver-white,


And cuckoo-buds of yellow hue


Do paint the meadows with delight,


The cuckoo then, on every tree,


Mocks married men, for thus sings he:


'Cuckoo!


Cuckoo, cuckoo!'


これは『春』と呼ばれる詩ですが、内容が分からなくても視覚的に美しさを感じることができます。眼で見て分かる美しさと読んで分かる美しさが内包しているのが欧米文化です。


では、今度は日本の文学を整理しましょう。


日本の根底にあるのは、八百万の神です。彼らは欧米の神と違って、人間に何も強制しません。むしろ好き勝手やらせます。だから日本人は多種多様の宗教を信じられるのです。


だから万人に分かりやすい芸術を作る必要はありません。解釈は他人に任せます。分かりやすい美の左右対称ではなく、左右非対称の芸術が多いのも、理由としてあるのかもしれません。


再び例を挙げさせていただきます。日本が生んだ文学である俳句。その代表とされる俳人、松尾芭蕉の俳句を二編抜粋します。


古池や 蛙飛び込む 水の音


閑さや 岩にしみいる 蝉の声


これはどちらも聴覚に主眼を置いた作品です。蛙が飛び込んだ音を表現していますし、逆に沈黙を表現している、言い換えるなら『無音』を表現しています。


視覚的な美しさはほんの僅かしかありません。五七五の形式は確かに視覚的にバランスが良いとされますが、そもそも五七五になったのは音感やリズムを表現したいからこその五七五なのです。


このように欧米と日本の文学は視覚と聴覚の違いによって分類されると言えます。


しかし、どちらが優れているというわけではありません。


一目で分かる美しさと詠んで分かる美しさ。それに優劣があるでしょうか?


これは小説も然りです。


勧善懲悪の単純ストーリーは分かりやすく面白いですし、複雑な心理を描いた純文学も読み解くことが楽しいと感じられます。


小説とは作者の意図を読者が読み解く遊びのようなものだと思います。だからこそ、こんなにも文化として発展していったのでしょう。


要はどれだけ楽しめたかが大事なのです。


余計な雑音は気にせず、伸び伸びと創作活動と読書生活を楽しみましょう。


最後に、小説とシーソーは同じようなものです。


作者と読者。二人いなければ遊べない、遊戯なのです。


読んでくださりありがとうございます

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― 新着の感想 ―
[一言] 作者と読者が楽しめる、ですか・・・。 そうですね。 なろうで小説を投稿する事で、わかりました。 ライブ感。感想が、リアルタイムでやってくる。 その感想から、次のエッセイが生まれたり。 確かに…
2018/11/16 12:42 退会済み
管理
[一言] 日本がどちらかというと、視覚優位or聴覚優位というよりも、言語優位、音さえも言語化した文化なのかなあと思っています。 擬音語の数が多く、漫画では翻訳に苦労するとよく聞きますし、多くの国では雑…
[一言] 初めまして、こんにちは。日本と欧米、という観点からは少しずれますが、コメントさせていただきます。 視覚と聴覚、それは、形式によっても違いますね。 詩や演劇は視覚的なものを音で伝える。 …
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