第19話 ご機嫌取りには度胸が必要
セツと蒼が部屋を出て行った後、ふと先ほどセツに追い詰められていた壁際を見ると、白い壁に見事なヒビが入っていた。
(……うん。私は何も見なかった)
思わず現実を見たくなくて壁から視線をそらすと、薄桃色の可愛いらしいサイドテーブルに置いてあった鬼のぬいぐるみとバッチリ目が合った。私は鬼のぬいぐるみを手に取り、じぃっとそのつぶらな瞳を見つめた。
(神の呪い――か)
考えてしまうのは、昨夜、神と名乗る輩からかけられた呪いについて……。さっきはいつも通りに振舞っていたが、呪いと聞いて恐くないわけじゃない。どんな効果があるのかも全くわからないし、解呪可能な期間だって謎だ。
(恐くないなんて言えない。でも――なんでだろう? セツの傍にいると――)
「妙に安心できちゃうんだよね」
ぬいぐるみをギュッと抱きしめ、背中からフカフカのメルヘンチックなベッドに倒れこむ。
(この世界に拉致されなかったら呪いなんてかけられなかったはずだから、元を辿れば全ての元凶っていってもいいくらいなのに――どうしてだろうね?)
「本当に不思議……」
(セツのことだって、よく恐いって感じるのに……)
「これも、前世のせいなのかな?」
そう呟いてみるが、そもそも前世の記憶なんて鮮明に覚えてなどいない。ただ、たまにデジャヴを感じる程度――
ふと、左手の甲を見つめる。そこにはセツに付けられた雪のような印がほんのりと青く淡く光っていた。
「私は……他の誰でもない私だよ? セツ――」
左手の甲を額にあて、ギュッと目を瞑る。
どうして、こんなにも心が苦しいのか分からない。どうして、こんなにも……もどかしく感じるのか分からない。
セツが――あまりにも私を見ないからかな?
「ねぇ、また名前で呼んでよ」
(私を見てよ――)
昨夜セツから呼ばれた自身の名が耳から離れない。もう、何が何だか分からない。
(だって、私はあんなに執着されたこともなければ、あんなに優しくされたこともないから……)
あ、もちろん、お兄ちゃんは別としてだよ?
(そう、だって、私は……私は――?)
「あ……れ? 私は――なんだっけ?」
何か大事なことを忘れてる気がする。でも、思い出せない。いや――思い出したくない?
(な……に? 私――は?)
答えを求め、目を開こうとした瞬間、ふわりと赤い何かが目の奥で瞬いた気がした。
「?」
思わず部屋の中をキョロキョロと見回す。ここに来た頃からずっと同じ、何も変わらないメルヘンな部屋のままの室内。辺りにあるのは、白とピンクのみで……あんなに鮮やかな赤色はどこにも見当たらなかった。
「ああ、そっか――また寝ちゃってたんだ……ベッドの上での考え事はダメだなあ」
あまりに一人の時間が長いと、ついつい独り言が多くなってしまってダメだ。私はそんなことを呟きながら、体を起こし、うーんと伸びをした。
(でも……一瞬だったけど、何か夢を見たような――?)
「晴菜様――今、よろしいでしょうか?」
「あ、はーい」
突然障子の向こうから聞こえた蒼の声に、慌てて服や髪を整える。
「お休みのところすみません」
スッと襖が開き、蒼がどこかの旅館の女将さんのように洗練された動きで部屋へと入ってくる。
「ううん、全然。暇してたところだから! それよりも、どうしたの?」
「はい。実はちょっと――ご機嫌取りを」
「?」
❅ ❅ ❅
その後、蒼が笑顔で言った言葉に対する衝撃は半端なかったが、私は蒼からあるものを受け取り……今、セツの部屋へと向かっている。しかも、一人で――
今私が歩いている廊下は、私の部屋の床と同じなんの変哲もない木の廊下なのだが、緊張のせいか足元がふわふわしておぼつかない。
(どうしよう……一応、私監禁(?)された状態だったわけだよね? 蒼が手引きしてくれたけど、これじゃあ勝手に出てきちゃったことになるんじゃ?)
頭の中ではグルグルとそんなことを考えており、手に持つお盆はカタカタと絶え間なく震えている。目の前に見える中庭の大きな池やその中で金色に輝く魚が大きく跳ねている様子にいつもなら、感動するところだが――今はそんな余裕がまったくなかった。
(ええい! 何を弱気になってるんだ自分。女は度胸だろうが!)
などと考えているうちに、いつの間にかセツの仕事部屋の前に来てしまう。なんというか、セツと私の部屋はものすごく近かった。セツの仕事部屋にしても寝室にしても……うん。昨夜も私の悲鳴で一番に駆けつけてくれたくらいだからね。
(うぅ、でも……やっぱり、怒られる前に自室(?)に戻った方が良いのかな? 力ある者と仲良くするってミッションは続行中なわけだし、反感買ってより厳重に閉じ込められたら……ヤバイ)
思わず、たらりと冷や汗が流れる。
(でも逆に仲を深めるチャンスにもなりそうなこの機会を逃したらそれこそ……)
赤い盆を持つ手に力がこもる。
(よし、決めた。私――戦うよ。いざ、敵地に!!!)
意気込んで、目の前の襖を開けようと手を伸ばした瞬間、突然、襖が勝手に開き、目標物を失った手は空を掴んだ。そして、何故だかその手を逆に掴まれる形になった――そう、襖を内側から開けたセツ様に……。
「ああ、やっぱり……気配が妙に近いなって思ったら――」
セツはため息混じりにそう呟いた。
「その……ごめんなさい」
「ああ、大丈夫。そんなに怯えないで……蒼の奴が原因だろう?」
セツがニッコリと微笑む。若干黒い笑みのような気はするが、とりあえずお咎めなしらしいということで一気に肩の力が抜ける。すると、そこはかとない疑問が頭に浮かんだ。
「あのう――ところで、何故黒縁メガネをかけていらっしゃるのでしょうか、セツ様?」
なんとも間抜けな質問だが、疑問に思ってしまったのだからしょうがない。オシャレや変装という意味でメガネをかけるのは分かるが、仕事にメガネがどう関係してくるのか単純に気になってしまったのだ。
「ああ、うん……とりあえず、中に入る? 話はそれからにしよう」




