失望少女
久しぶりに訪れた病室は、冷たい気配に満ちていた。
まだ夏休みだというのに、クーラーが効きすぎているかのように冷えていて、鳥肌が立つ。母親と入れ替わりで入ったその部屋には、何も映さないガラスのような瞳が、かろうじて僕の方を向いていた。
「ごめん、なかなか時間が取れなくて。……一週間後に出発だけど、来年には一度帰って来るから」
微かに微笑を湛えたその顔には、何の熱も感じられなかった。
――離れたくない。でも、それも出来ない。
「……じゃ、さようなら。ですね」
暗闇に堕ちる声。
「そんな…………」
言葉を失った僕に、闇の色が深さを増していく。
「たぶん、その頃には、私はここにいない」
僕が訪ねることの無かった四日間で、絵美奈は完全に広がっていたはずの未来を閉じていた。
目に映ったはずの風景が、モノクロのように感じる。
何をどうすれば、彼女に届くのだろう。
「僕を……待っていては、くれませんか……」
なんて都合のいい夢ばかり、僕は彼女に押し付けているんだろう。
そんな事を言っても仕方がないのに、なんて言ったらいいのかわからない。
何も出来ないくせに、苦しむ彼女に言っていい言葉じゃないのもわかっている。
――――それでも。
生きていてほしい、と、願ってしまう。
呼吸の音が、やけに大きく聞こえる。
いつもの病院を覆う賑やかな音も、今は全く聞こえない。
どうしたら、彼女は出会った時のような笑顔に戻れるのだろう。
どうしたら、彼女は閉ざした未来にもう一度挑もうと思ってくれるんだろう。
現実の様でまったく現実味がない光景だけが、眼前に横たわっている。
静寂に、細い息が落ちた。
「…………もう、辛いの」
生気を失った仮面のような面持ちから、冷たい滴のように言葉が背中に落ちる。
悪寒がするほど、冷え切った声だった。
「……」
「……私を、忘れて?」
そういって無理に作った笑顔には、なんの感情もない。
立ち尽くす僕を無視するように、黙ってナースコールを押す。
すぐに母親が入ってきた。
何も言えないまま病室を出る。
「慶人さん……今まで、ありがとうございました」
廊下で深々と頭を下げる彼女の母親の表情からも、厳しい現実が伺えた。
「僕は、また来ます…………絵美奈に会えなくても」
そう言い切った僕の前で、彼女の母親は声を殺して、泣いた。
それから一週間、結局部屋に入ることは出来なかった。
「脳出血、また起こしていたの」
彼女の母親の嗚咽を含んだ声が、待合室に籠る。
「発作があって……今まで見たことないくらいの大きな痙攣でね。どうせ何もできないのなら、家に帰ろうかと言っていた矢先だったの。怖くて。…………私がいない時にあんなことになったら、多分一生悔やむわ」
体の軸を無理矢理捻じられたような息苦しさに、思わず胸を抑えた。
まるで懺悔のように、告白が続く。
「梨木先生も、ガンマナイフで照射では治療効果が出るまでに時間がかかるかもしれないって、もう一度手術も検討してくれたの。けれど、小さな出血を起こした上に、場所が悪すぎて難しい、って」
母親の震える声が、その重さを僕に伝えた。
彼女が完全に希望を消した理由が、僕の目の前で暴かれてゆく。
もどかしさに疑問が口をつく。
「……難しいからって、やらなくていいんですか?」
堪え切れずに、潤ませた瞳から涙を流したその人の顔が、絵美奈のものと、重なった。
「――障害が、残る可能性が、高いそうよ」
いや! これ以上誰かの負担になりたくない!
梨木先生の説明に、絵美奈はそう叫んだ事は、他の人からも聞いていた。
絵美奈自身が拒絶するなら、本当に手を出すのは難しいのだろう。
「慶人くん、ごめんね。貴方を巻き込んでしまって、傷つけて」
「……違いますよ」
否定したいのに、傷が痛んでそれ以上の言葉が継げない。
毎日、その病室に絵美奈がいるのかを確かめに来ずにはいられなかった。夜眠るときも、朝起きた時も、絵美奈が大丈夫なのかが一番に気になった。あんなに脆い彼女が、僕を拒絶した本当の意味を考えると、今すぐにドアを開けて気持ちをぶつけてしまいたい。だけど、それは絵美奈の選んだことを全否定するように思えて、どうしても出来なかった。
日本にいる最後の日が来た。
「ケイト、大丈夫か?」
五島の声に振り返る。思えばいつも助けてくれていた。絵美奈と僕を、ずっと。
絵美奈の様子を教えて欲しいと願ったら、多分五島は必ずそうしてくれるだろう。とてもいいヤツだから。絵美奈の病気を知った時、僕はヒロにどれだけ救われただろう。
「ヒロ、ひとつ頼みがある」
だからこそ。だからこそ僕は、その願いを口にした。
「僕が、みんなの連絡先を全部消してしまったって、みんなに伝えてくれないか?」
絵美奈が全てを失うというのなら、僕は僕の幸運を全て、絵美奈にあげたい。
「僕の持っている幸せの全てを賭けて、絵美奈の病気を消したいんだ」
五島が、口を手で覆った。
「ヒロは、僕にとって掛け替えのない友達だ。クラスメイトのみんなも、短い付き合いの僕に、いつも親切だった。僕は幸運だ。向こうに行っても、絶対に忘れない」
五島は、動かない。
「だから、賭けるんだ。大切なものだから。僕が捨てた幸運を絵美奈が拾うとは限らないけれど、今の僕には、それしか賭けられるものがないんだ」
五島の肩を、ポンと叩く。五島は何も言わなかった。
「ありがとう。ヒロ。どんなことがあっても、大切だよ。感謝している」
もう、この場所に来ることは出来ない。午後の飛行機でこの国を出る。日付変更線を越えると、そこには絵美奈もヒロもいない昨日が待っている。
「ケイト? ……ケイトっ、ケイト!」
後ろから聞こえる五島の声が、どんどん大きくなる。それでも振り返ることは出来なかった。振り返ってら取り消してしまいそうだった。でも、僕は賭けたかった。絵美奈が幸せになる明日が来る方に。どんな対価を払ったとしても。
その日の午後、僕は昨日という未来へと旅立った。
以降の彼女の生死を、僕は知らない。