病床少女
何故か、僕らの逃避行は、ある時点から全てバレていた。病棟主任と呼ばれる人が、頭の上から言語とは呼べない音階でガミガミと頭に噛みつきそうな勢いで怒鳴っている。
「――警察に連絡する所だったんだからね!」
未成年略取誘拐の罪かな? ふっと笑った僕に、女のヒスった声が落ちてきた。
「笑ってる場合じゃないんです! 少年!」
僕が本当に笑っている場合じゃないことを知ったのは、これから少し後になる。
カンファレンスルームと呼ばれるお仕置き部屋から出てきた僕達の間には、さっきの言葉の余韻が残っていた。お互いうまく、言葉が継げない。僕はさほどモテる方じゃない。
「じゃあ、また」
結局、それ以上何も言えず、僕は静かに戸を閉めた。
中学生相手に、情けなさすぎる。落ち込んだ気持ちで病室を出ると、面倒くさい人に捕まった。
「よ、少年!」
――出たよ、コアックマ。
虚脱しそうな体を必死に伸ばして、一応何ですかとか聞いてみる。
「今月、私行事係でさ。少年、私を助けると思って、ボランティアに来ない?」
と妙な紙を渡された。案の定そこには、「七夕祭り」と書いてある。
「プランニングしたなら、最後まで責任持つべきではないですか? 松崎看護師さん」
この人の名前が静、だとは知らなかった。しげるだろ? と突っ込んで、絵美奈が爆笑していたのは先回の事だ。大柄・大声・大雑把、の松崎さんは、チッチッチッ、と古い昔の人間がしそうな仕草をした。一体何歳だろうこの人?
「少年。君はきっと、こういうの好きだよ? 今後の為にも、参加しておいた方がいい」
このまま絵美奈ちゃんと気まずくなることに、少しだけ惜しむ気持ちがあった。暗示めいた事をいう大人は嫌いだけれど、そんな事情でコアックマの誘いに乗った。
「……何をすればいいんですか?」
不機嫌な声で僕は尋ねた。けれど内心「これでここに来る口実が出来た」と思った。
いわゆる小児科の行事に、中学生とかはあまり関係ないはずなのに。絵美奈ちゃんは、僕の隣で折り紙をしている。うまく指が動かないのか、織り目が少し、ずれていた。
「これ、こんな感じで作っていいんですか?」
隣で折り紙を折る彼女に、コアックマが用意していた折り方の表を見ながら説明する。あんなに何でも大きなコアックマが、何故か文字だけは小さかった。文字だけならみんな騙されてくれるかもしれない。
「そうだね。それで、ここに切れ込みを入れて……」
言いながら、説明のためにその場所を指で示す。絵美奈ちゃんの手に指が触れると、ぱらりと床に折り紙が落ちた。
「……っ、あの、ちょっとっ、私っ」
そのまま真っ赤な顔で、ダダダッと廊下を駆けていく。
「や~らしい! ケイトとエミナ、ラブラブだ~!」
年少の子供たちの囃子声が、プレイルームに響き渡った。
なんでだろう。このベタな展開。取り残された僕はどうする? 子供の声が煩くて、頭が痛い。
「黙らんか! お子様たちめ!」
様を付ければ何でも敬称ってことにはならないと思うけれど。さすがコアックマ、年少にも容赦がない。
「進んでいるかい? 少年」
――今脱走されましたよ。
そうぼやきたくなる気持ちを抑えて、僕はいくつか出来た七夕の飾りを、松崎看護師に見せた。
「おー、器用だ。うまいね」
うん、笑顔も男らしい。何もかもが男より逞しい。
「どのくらい作ったらいいですか?」
「そうだね。今の量の、倍」
年少の子供に教えながら作るのは、思ったより骨が折れる。好きなことやり始めるわ、ハサミを持った手を振り回すわ、本当に危なっかしい。
「うわ、また時間開けて来ますよ。今日はもうギブ」
時計を見たコアックマが言った。
「あ、もういい時間だな。ありがとう、少年」
盛大な年少の子供達の挨拶に見送られ、僕は病棟を後にした。
日の長くなったせいで、まだ空は明るい。特に親に咎められることもないだろう。説明した時には微妙な顔をされたが。一昨日の夜、珍しく母と二人の食卓でのことだ。
「ボランティア? 慶人が?」
驚く母親に、僕は淡々と話す。
「うん、そう。あっちに行ったときとかに、役に立つと思うんだ、多分。そういう奉仕活動とかは、したほうがいいと思うからさ」
その言葉に、母親も押し黙った。僕の留学が近いので、基本的には意思を尊重してくれる。
「あまり遅くならないようにね?」
神経質な母親の声に頷くと、こっそり見えない様に舌を出した。
子供じゃない。僕は、僕の人生を自分で決めていくんだ。いつまでも親の庇護下で甘えるつもりはない。そんな事を考えながら。自立心旺盛だね、などと人に言われる事もある。でも、実際は違った。僕は、一日でも早く、この家を出たかった。
七夕の飾りは、次に訪問した時やっと完成した。はしゃぐ年少を見ていると、無邪気な笑顔がかわいい。病気と戦っているのに、そのことだけに捕われない健全な姿に、ささやかな手伝いが出来て良かったと思った。
「おー、出来たか、少年! ありがとうね」
「いえ」
そう言いながら振り返ると、さっきまでいた絵美奈ちゃんがいない。
「あ、赤井さん、今検査だ」
「……そうですか」
心ここにあらずで返事をした僕に、コアックマが囁く。
「明後日だから、少年も来い!」
その言葉に、明後日会う口実を見つけた。
塾の帰りに寄ったので、面会時間もぎりぎりだ。もうとっくに病棟行事は終わっていた。夕飯を食べた年少は、自分のベッドに戻っている。わかっているけれど、今日を逃したら来る口実がない。
名前を呼ばれて振り返ると、洗面器を持った絵美奈ちゃんが立っていた。
「……ケイトさん? どうして……」
「うまくいったか、気になってね」
本当は、絵美奈ちゃんの方が、気になっていたんだけれど。
検査の結果とか、病気はどうなったか、とか、そんな事よりも重要なことがある。あの日の言葉に、僕はまだ、返事をしていない。
「大成功ですよ。ケイトさん。ありがとうございました」
「……良かった。今日は晴れているしね。星はよく見えなかったけれど」
「え? そうですか?」
そう言いながら絵美奈ちゃんは、自分の部屋に速足で入り、窓から星を探した。電気をつけていない二床部屋の奥に、月の光に照らされた絵美奈ちゃんがいる。青白い光を受けて空を仰ぐ姿が、何時か月に帰ってしまいそうな程、儚く見えた。
僕は、自分で思うよりずっと、子供だったんだろうと思う。引っ掛かる事は多々あったのに、僕には関係ない事だと思い込んでいた。昔の自分を今僕が見たら、多分、止めていたと思う。けれど、子供だったからこそ、自分の気持ちが見えていた。何よりも確かだと思った。迷いは、なかった。
「わからないなぁ、どれが織姫と彦星かなぁ」
呟く絵美奈ちゃんは、今迄通りに見える。けれど僕が近づくと、明らかに緊張した顔つきになった。
「……ケイトさん?」
「この間の返事、してもいい?」
怯えと諦めが、その表情に現れる。なんとかそんな顔をやめてほしくて、僕もぎこちなく微笑んだ。
「僕も、絵美奈が好きだ」
絵美奈の顔が、青白い月の光の下でも、はっきり解る程赤くなる。何気なく口から洩れた言葉は、絵美奈の耳に届いていた。