逃走少女
六月終わりの日曜日、病院の売店には、赤井恵美奈ちゃんがいた。僕に気が付くと、笑顔になる。そこで何かに気が付いたらしく、慌てて目を逸らすと、こそこそと近くに寄ってくる。
「外出許可はもらえたの?」
冊子コーナーで隣に立って、適当に雑誌を取り上げて捲った絵美奈ちゃんに、僕はこそりと問い掛けた。
「……ダメでした。今藤さんのことは話せないし、お友達が来るからって言ってみたんだけれど、未成年じゃダメって……」
「じゃあ、僕でもダメだったね」
そう言って目くばせすると、先に僕は病院の外に出る。しばらくして絵美奈ちゃんが、とてとてと歩いてきた。
「じゃ、行きますか?」
「はい」
もちろん、無許可だ。
危ないから、危険だから、体に障るから。安全を第一とする大人の都合もわかるけれど、身長が伸びるように見たいことやしたいことが広がる時期に、全部を押さえろという方が理不尽だ。じめじめする曇り空を見上げて、深く深呼吸する。こんな時は、自分の思いのままに進まなきゃ、何も始まらない。
「行こうか、絵美奈ちゃん」
「はい、今藤さん」
ちょっと待て、そこで苗字で呼ばれるのは、何だか士気が上がらない。
「……それ、仲間っぽくなくて、ダメだな。ケイトでいいよ、そう呼んで?」
こちらを見つめる絵美奈ちゃんの眼差しが、ほわっと緩んだ。
「……ケイトさん」
うん、悪くない。
そのままイイネ! とハンドサインをして、少しだけ汗ばむ空気の中を、二人で歩き始めた。
「いきなり休憩ですか?」
不満をにじませる絵美奈ちゃん。これだから中学生は、と言いそうになるのをぐっと堪える。
「疲れると動けなくなるのに、最初から全力疾走は間違っている。出来ることからこつこつと」
ふっ、と息が漏れて、高い声が笑う。
「疲れちゃダメ、なんですね」
「そう、だから失敗していた」
目的地の東京タワーへは、病院から徒歩で行こうと思えば行ける距離だ。どうして地下鉄に乗ろうとしたのか聞くと、最寄駅が芝公園だと思っていたらしい。
「だって、よく知らないんですよ」
生粋の岩手県民だという彼女は、病気で初めて東京に来たそうだ。親戚一同地元で、一度も県外に出たことはなかったらしい。しかし、地元の言葉で話されると、僕には英語より聞き取り不能だった。同じ日本語でも地域が違うと言葉や習慣も違うらしい。
僕の通う高校は、東京タワーと病院のほぼ中間にある。通い慣れたいつもの通学路をゆっくりと歩く。土曜日は特別授業が入ったりして、同級生に会う確率が高かった。もう少しで一年半通い慣れ始めた高校へは行かなくなるのだと思うと、少し寂しさが湧く。
絵美奈ちゃんの息が乱れ始めた。また少し、休憩が必要だ。
「こんな距離、全然平気だったのに」
安静を強いられる時間の分だけ、普通に生活する力を失う。焦りの滲む声に引きずられない様に、僕は休息を促した。
「ごめんなさい、暑くって……」
やはりこちらよりは東北の方が涼しいだろう。病院の中にいてばかりでは、こちらの気候に慣れなくても致し方ない。
緩やかであれど、こんな蒸し暑い日に登り坂は、ちょっと堪える。運動部でもないし。
「あ、ケイト! どうした? 女連れ?」
ビクッと肩が跳ねる。ヤバい、そうだ、部活があった。よりによって同級生だ。
「……ヒロ。部活の帰り?」
大柄・大声・大雑把。所属部は柔道部の五島博之は、へへっと笑った。ん? どっかで見た……気がする。しかも最近。
「……松崎さんに似てますね」
絵美奈ちゃんが、小声で呟く。そう、あのコアックマに似ている。主に素行が。
「松崎って、松崎静? そこの病院で働いてるよ。イトコのねーちゃん」
え?
「おい、なんかの間違いだろ? あのコアックマ、静なんて名前じゃな」
必死で否定したい僕の言葉を遮って、絵美奈ちゃんが言った。
「……静さんですよ? 松崎さんの名前」
「ああ、じゃあ、しーねぇちゃんだ!」
世間って、非常に狭すぎないか?
「――しげるの間違いだろ?」
思わず呟いた僕の言葉は、五島によって、速攻でコアックマのメールボックスに送信されてしまった。あとでバレた時が怖い。ただでさえ怖いのに、二倍に。絵美奈ちゃんにいろいろ質問し始めたので、必死でそれ以上ネタバレしない様に嘆願する。仕方がないので詳細を五島に説明した。目的地まであともう少し。出来れば絵美奈ちゃんの願いを叶えたい。
「まー、その体力じゃ、歩くの結構辛いかもね」
絵美奈の様子を見た五島は、そのまましゃがんだ。
「行きだけ手伝ってやるよ。乗りな?」
その体力自慢の同級生の言葉は、僕にとっても有難かった。
大人になると、平穏な毎日が、実は奇跡の連続であることを知っている。しかし子供は、今日と同じ明日を無条件に信じている。大人は平穏な日常が続くよう、あらゆる危機に対して保険を掛けている。その保険が絵美奈を背負って歩いていることを、僕はこの時、少しも気が付くことが出来なかった。
東京タワーが目の前に聳える。絵美奈の口が「わ」のまま止まった。実は僕も、これが二度目。一度目は学校行事だった。ドラマの舞台になったりしている名所に限って、住民は行かないところかもしれない。観光客が多い。と、いきなり金髪碧眼の人に話しかけられた。良かった。英語だ。
最寄りの駅を聞かれ、今まで絵美奈ちゃんと歩いてきた道順を示す。五島と絵美奈ちゃんは、ぽかん、と口を開けていた。
「さすが、ケイトだな! 学校の期待の星!」
変な褒められ方をして、ちょっと冷や汗をかく。期待の星ってなんだろう?
「……本当に凄いです。あんなにペラペラって」
絵美奈ちゃんも、不思議な褒め方をした。お願いします。褒められると照れるほうなので、勘弁してください。こそばゆい。
「必須項目です。五島、ありがとう。助かったよ」
五島は、ニコリと笑うと、意地悪く言った。
「期待の星のケイトが、間違いを犯さない様に、中まで付き合ってやるよ」
その申し出に、僕は頷いた。二人いたほうが、絵美奈ちゃんが安全だと思ったから。
エレベーターで上へ上ると、東京を一望する景色が待っていた。こういう風景だったな、なんてぼんやり思い出す僕の横で、わぁ、と感嘆の声を上げる絵美奈ちゃん。五島はうろちょろと、フロアを足早に回っていく。
横顔が、少し疲れているように見える。その横顔に、前に感じた不安が蘇る。ぽそりと尋ねてしまっていた。
「どうして入院してるのか、聞いていい?」
「あ、はい。でも、私、あの、良く覚えていなくって」
何だろう。不安。不安が少しずつ膨らむ。
「覚えていない?」
「なんか、気がついたら倒れていたって事が、何度かあって」
ちょっと絶句した。
「そっか……」
ガラスに映し出される自分の顔は、戸惑いで塗りつぶされていた。
太陽が西に傾く頃、少し休んだ絵美奈ちゃんは、やっと体力を取り戻した。あとは下り道とはいえ、体力を温存しながら帰らなければならない。
眼下に、いつの間にか暮れ始めた街が広がる。薄明光線が降りるその風景は、天国から地上を見ているみたいだった。
「ほ~ら、見てみろ! 人がゴミ」
「うっさい!」
ふざける五島の口を両手で塞ぐ。
「ふぇ~い」
そう言いながら、五島は携帯の着信を確認して俺たちから離れた。
「……もし、本当は東京タワーに来たい訳じゃなかったって言ったら、私の事嫌いになりますか?」
突然そんな事を言い始める絵美奈ちゃんに、思わず首を傾げた。
「最初はそうだったけれど、二回目からは違います。ケイトさんを探していました」
さっきまでの幼い笑顔が、緊張を隠せない顔から消えている。細い手足も、儚げな微笑も、確かに絵美奈ちゃんなのに、ひどく大人びて別の人の様だ。
「好きです」
真っ直ぐな視線。震える声。正真正銘、告られている、という状況だ。
「……ありがとう」
なんとかそう言えたけど、あまりの急変ぶりだ。それ以上の言葉は、どう頑張っても僕の口から出そうになかった。