迷走少女
この間会った看護師さんは、今日はリラックスしたクマのエプロンだった。しかし本人はまったくリラックスしていない。むしろコワイ。
「この……っ、脱走犯!」
子供を叱るには迫力が有りすぎる大声が、廊下に響き渡った。
病院が嫌で、脱け出す事が犯罪なのかと思うと、少し落ち込む。幼児ならともかく、自由が欲しいお年頃なのだ。そこを察して、少しは見守ってくれてもいいのに。
「そこの少年! 事の重大さ、わかってんの?」
あろうことか、渦巻く怒りは僕の方にまで飛び火した。重大も何も、脱走犯(仮)を捕獲して返納した良識ある大人の対応だろうに、八つ当たりなど失礼千万だ。
「事情も分からない上、たまたま偶然彼女を見つけただけの僕に、無理難題振らないで下さい」
僕がそう言うと、コアックマの看護師は、やたらと少女と僕とを交互に見て、ポツリと呟いた。
「そういう事か……」
どういう事か説明されることもなく、僕は無罪放免された。代わりに少女はナースステーションの横の部屋へ連行される。
「ご、ごめんなさい、今藤さん!」
必死に謝りながら、彼女は個室の中へと消えた。まさかこの状態で、帰るわけにもいかない。英語の勉強はどうしよう。僕、こんなんで生活出来るのかな?
怒鳴り声がするかと思ったら、思ったより穏やかに話しているようで安心する。カンファレンス室と書かれた場所に入っていった少女は、十分程度で俯いたまま、そこから出てきた。顔を真っ赤にして、目に涙を貯めている。
「大丈夫?」
そう声を掛けると、ガバッと顔を上げ、更に顔が赤くなった。
「大丈夫? 熱出てきたんじゃない?」
「だ、だだっ、だ、大丈夫ですっ!」
そうは言っても、本当に顔はどんどん赤くなっていくし、声もうわずって、滑舌も悪い。
「休んだ方がいい。部屋まで送るから」
「あ、あ、いや、も、も、申し訳な、いし、あの、その、あ、あたし、ひとりでっ」
「遠慮しない。病気なんだから」
さっと手を取ると、手までもが熱い。体調が悪いのにフラフラ外に出るなんて、本当に駄目な子だな。そんな事をを考えながら、この間行った彼女の病室へと手を引く。小さな声で「ごめんなさい」の声がした。
「しかし、頭ごなしに怒るよね、あのコアックマ」
話題を変えようと思って、うっかり本音が口に出る。
「こ、こ、こあっくまっ?」
「あ、知らない? リラックスな方じゃ無くて、口から血を流している方のキャラがいるんだよ。ま、あの看護師さん、そのキャラより怖かったけどね」
少女が、プッと吹き出す。
「す、凄いです。……っ。ぴったりっ!」
「だろ?」
涙を流して笑う顔は、さっきまでの寂しそうな影が消えて……可愛かった。
★☆★☆★☆★
今日は塾の予定もない。なんとなく呼ばれた気がして、いつもの駅で振り返っても彼女はいない。外れないイヤホンの向こうから、ひたすら英語の会話が流れてくる。いつもの日常なのに、なぜか落ち着かなかった。大丈夫だろうか、と、ふと心配になる。一番最初に彼女に会った時、本当は、彼女は何か出掛ける目的があったのではないだろうか。
――諦めてばかり、なんだろうな。
みんなが外で遊んでいる時、家の中で悶々とするしかなかった小さかった頃を思い出す。皆と思い切り走ったりしてみたかった。帰りに手を振った彼女の顔に、そんな自分の記憶が重なる。背中に背負った時の軽さが、なんだか無性に気になった。ホームに滑り込んだ電車に背を向けて、僕は歩き始めていた。
シャーベットオレンジの線を辿って、その場所の入り口に辿り着く。
「おい少年!」
自動ドアが開いた瞬間、奥から飛び出してきた影があった。今度は白いネコのエプロンをしているコアックマが、むんずと僕の肩を掴んでいた。妙齢女子の言葉とは思えない。しかも声が大きい。お前は本当にクマかと突っ込みたくなる。
「赤井絵美奈、見なかった?」
「え?」
見ていたら、ここに一緒に連れてくる。会わないからここまで来たのに。当惑する僕の顔を見たコアックマが、たちまち厳しい顔になった。
「事務に電話して! 御家族に連絡! 絵美奈がいない!」
後ろにいたほっそりとした看護師に、いきなり怒鳴りつけた。
「……彼女、いないんですか?」
厳しい顔のまま頷くコアックマの手を、僕は振りほどいていた。
「僕、捜してきます。」
踵を返す僕を女の人とは思えない力で引っ張ったコアックマは、無駄にファンシーなメモ帳に電話番号を書いて、僕に渡す。
「東二階病棟の松崎、って言ってくれれば繋がるから」
頷くと僕は、すぐさまダッシュをかけた。
「――廊下は走るな!」
コアックマの忠告は、もちろん無視していた。
もう一度地下鉄のホームに戻る。でも、彼女は見当たらない。動けなくて苦しんでいるのではないかと、ベンチなどの座れる場所を重点的に探すけれど、それらしい人影はどこにもなかった。ひっきりなしに人は歩いているのに、彼女の姿はない。慌てて飛び出してきたので、どんな服装かも聞いていなかった。人探しの基本だったのに。
「……どこだ」
焦りが、無駄に言葉を吐き出させる。何人かに不審そうに眼を向けられた時、もう一つの人探しの基本を思い出した。
「すみません、女の子を探しているんです」
見ず知らずの人に声を掛けるなんて、ほとんど経験がない。声が震えて、いらない汗が体を伝う。でも、それ以上に、青い顔でどこかで蹲っているかもしれない彼女の事が、心配だった。震える声で、僕は何人かに声を掛けた。
「女の子を見ませんでしたか、中学生くらいの女の子です」
迷惑そうな顔、通り過ぎる人、無数の人が足早に通り過ぎる。その中で、僕の肩を叩く手があった。同じくらいの年の、お嬢様学校の制服を来た女の子が、優しく言った。
「さっき医務室に女の子を連れて行ったよ。その子かもしれない」
「ありがとう!」
そう言うと、僕は窓口の人に声を掛けて、案内してもらった。
「大丈夫です。帰れます」
何度か聞いたことのある声に、ほっと胸を撫で下ろす。
ちっとも大丈夫じゃない顔色のその少女は、唇を噛んで下を向いていた。
「赤井……絵美奈ちゃん?」
僕の声に、ガバッと顔を上げ、途端にくしゃくしゃに歪める。
「……ごめんなさい。今藤さん」
今にも泣きそうなその子に、目の高さを合わせた。
「みんな心配しているから。病院に連絡するね?」
黙って頷いた彼女を確認して、病院へ電話する。
「少年? 赤井絵美奈ちゃん、いた?」
「今、医務室で休んでいます。落ち着いたら連れ帰ります」
「待て! 私が行くから!」
ガチャンとばかりに電話が切れる。声だけじゃなく、物音も大きすぎる。
しょんぼりと肩を落とすその姿を、僕はじっと見つめた。何かを言いたげに開きかけては閉じる口が、音を乗せたがっているのがわかった。
「絵美奈ちゃん、どこか行きたいところがあるの?」
俯く彼女に話し掛ける。
「…………東京タワー」
その細い、小さな声を、僕の耳は拾っていた。