脱走少女
どうやら乗換に失敗したらしいその女の子は、心もとなげにあちこちを伺いながら、身を小さくしている。入り組んだ地下鉄の構内を乗換の為に移動していると、そんなに長い距離ではないのに、息が上がっているのがわかった。立ち止まって様子を見ると、荒く乱れた呼吸を早く整えようと、意識して大きく深呼吸をする。
「ごめんなさい。なんか、歩くの遅くって」
何度も息を継ぎながら話すその仕草が微笑ましく、僕は笑って首を振った。
「息が整ったらでいいんだけど……名前、教えてくれる?」
どうやら生真面目な性格らしく、すぐに返答しようとする少女の肩に優しく触れる。俯く顔がひどく脆く見えて、丁寧に扱わないとなんだか壊してしまいそうだった。
「僕は、慶人、今藤慶人です。一応あの駅の近くの高校の二年です」
わざとゆっくりと話して、時間を稼ぐ。そのうち息が整ってきた女の子が、さっきの質問に答えた。
「私は、絵美奈。赤井絵美奈です。中学3年です」
一瞬、目を見張る。もっと年下だと思っていた。そのくらい幼く儚い印象だった。
「歩くのが早かったらシャツを引っ張って? これ以上君が苦しくならないように、僕も気を付けるから」
そう宣言すると、細い手を無理矢理繋いで乗換のホームへと誘導する。ほんの少しだけ繋いだ手に力を籠めてくれたその手は弱々しく、握り返すと粉々に砕けてしまいそうだった。
御成門の駅から地上へ上がると、彼女は目の前の大きな建物を示す。
「ごめんなさい。買い物に出たらどう戻っていいかわからなくなって」
えーと。
この建物は確か。
「あの、ここに入院している訳じゃないよね?」
「え、あ……入院しています」
「……許可は取っているんだよね?」
「……」
まさかの、脱走犯か。
こうなると関わった方が良かったのか、関わらない方が良かったのか判断に困る。
放置していたら道端で死んでいたなんてバッドエンドじゃなくて良かった、とか、素直に思える性格だったら良かったのに。
「……ご迷惑になるので、やっぱり、ここで」
妙に大人びた物言いに違和感を感じつつ、それでも僕は部屋まで送り届けることにした。
白い壁にシャーベットオレンジのラインがアクセントになった廊下は、悲壮感の無い明るい印象だ。廊下の途中に子供が好きそうな絵が貼ってあり、病棟へ入るガラス戸の自動ドアがあった。
その奥へ進むと、後ろから話しかける人がいる。
「赤井さん。どこに行っていたの?」
肩が跳ねた彼女の代わりに振り返ると、男かと思ったら女の人だった。
白衣を着ているということは看護師さんか。
ええと、白衣って天使が着ている訳じゃないんだな。
腰に手を当てまさかの仁王立ち。もう、そんなに威嚇しなくてもいいんじゃないかと思えるほどの形相。とてもカワイイピンクのウサギの柄のエプロンが、完全に反比例している。
「あの……もう、本がなくなっちゃって」
と、小さな声で答える彼女。
僕が状況を把握する時間も与えられないまま、話が進んでゆく。
「じゃあ、書店に行こうとしていたの?」
「あの、図書館に」
「どこの図書館?」
「…………ど、こか?」
えーと?
多分、カワイイ顔で誤魔化そうとしても、その人には通じないと思う。と思ったら、冷たい声が放たれた。
「反省」
気を付け、の姿勢になった少女がそのまま看護師さんの肩に手を載せて、大きな声で返答する。
「反省します」
ああ、なんか人間と猿でこういう芸をする話あったな……。
って、そーじゃないだろ!
くすくす笑ってしまう僕を、真っ赤な顔でウサギエプロンの看護師さんが見ていた。
実は消毒液の匂いが苦手だ。小さい頃何度かぜんそく発作を起こしていた僕は、夜中に小児科に入院することもしばしばあった。小さい頃の記憶といえども、その物々しさはよく覚えていて、ガラガラと夜中の廊下に響く点滴台やワゴンの音とか、アラームの鳴る音とか、そういう記憶はしっかりと脳裏に焼き付いている。
目の前の部屋を見て、殺風景な白い壁に不自然に貼られた動物たちを見ると、その時の記憶が蘇った。
「ごめんなさい。散らかしていて……」
呟く少女の影が、長く床に伸びる。日の光を仄かに感じる北西向きのその部屋は、他の部屋より薄暗く感じた。独特の空気。無邪気さと真っ黒なものが、同時に存在するような……。
体力はなさそうだけれど、毎日点滴をしているとか、髪が抜けてしまうような強い薬を使っている様子はない。女の子らしい小物がベッドや消灯台のあちこちに置かれている。
「じゃあ、僕、もう帰るから。無理して外出してはダメだよ?」
「……はい」
小さく返事をした少女に笑顔を向けると、僕はその病室を後にした。
★☆★☆★☆★
ただ、その日も電車を待っているだけだった。家に帰ったら、もう一度、英語を復習しなくてはならない。生活の全てが英語漬けになる覚悟がないと、向こうではやっていけないだろう。そんな事をぼんやり考えていた時、何かに引っかかってイヤホンが外れた。
「こんにちわ」
その声に、反射的に振り向く自分がいた。そして、見た瞬間、頭を支える気を失うほどの虚脱感を覚える。
――出た、迷子。
心の中でそっと呟くと、項垂れていた頭を上げて、聞いた。
「今度は、どうしたの?」
「ごめんなさい。道に……」
もう、その顔は青ざめている。体に力を入れることも出来ずに、ベンチに座ったまま、ぐったりとしていた。本当に、しょうがない子だ。
しかし、なんでかなぁ。なんでタイミング良く、イヤホン外れてしまったのだろう。
「今度はどこに行こうとしていたの?」
「…………」
「……何か必要なもの、あるの?」
「……病院、キライで」
至極当たり前の理由で、それ以上言い募ることも出来ない。そこが不自由で居心地の悪い場所なのは、僕にも良く解っていた。溜息と共に手を伸ばす。
「帰ろ?」
そう、少女にも僕にも分かっている。僕らはそこ以外帰る場所がない。どんなに嫌いでも、苦しい治療があっても、病気を治さないことには、普通の生活を送れないんだから。
「迷惑かけて、ごめんなさい……今藤さん」
俯いたまま、赤井絵美奈ちゃんが呟く。素直な子なのに、どうして無茶したかな?
「気にしなくていいから、ほら、背中に乗って?」
屈んで少女が背中に乗るのを待つ。成長と共に丈夫になったので、小学校に入ってからは、ぜんそく発作を起こさなくなった。いつどこで苦しくなるかわからないという不安がなくなった僕は、勉強も運動も、何もかもが楽しくて仕方がなかった。だから、病気で苦しむ女の子を一人面倒見るくらい、僕にとっては大した迷惑ではない。
「ありがとう……」
背中に乗った少女は、とても軽かった。その軽さは、僕を少し不安にさせた。