虹霓少女
石畳の上り坂の途中にある、小さな店にはトルコランプの明かりが漏れ出ている。
店員さんの優しい微笑みに導かれるように二階のロフト席へ上がると、こじんまりとした空間には二組が食事をしていた。空いている席へ向かい合わせで座ると、絵美奈は手早くメニューを捲る。
「私はいつも、ファラフェルのラップサンドなんだけど、慶人さん、何がいい?」
どれもおいしいよ?と、微笑む絵美奈は、あの頃には感じられなかった溌剌とした年相応の空気を纏っていた。オススメをいくつか頼み、料理を待つ。
「幽霊でも見ているみたいな瞳」
からかう様に話すその声も、あの時のような深い闇がない。
「…………もう、会えないと思っていた」
両手をきつく握ってやっと絞り出した言葉に、ずっと見たいと願っていた翳りの無い笑顔が返された。
「少し、長くなってしまうけれど」
そう前置きした絵美奈は、僕が消えた後の事を、ゆっくりと話し始めた。
★☆★☆★☆★
慶人さんが私の所に来なくなって、一か月が過ぎていた。頭が酷く痛んで、起きられる時間も短くなっていた。お母さんが泣きながら病室に入ってきたのは、そんな時だった。
「えみちゃん、えみちゃん」
何度も名前から先の言葉を継げないお母さんに、自分はもう長くないのだという絶望感が押し寄せてくる。きつく目を閉じたその時に、ありえない言葉が聞こえた。
「してくれるの。えみちゃんの手術、してくれるって!」
左手を痛い程握りしめられて感覚が曖昧になっている。ついに幻覚を見たかと溜息をつきかけた時、更に言葉が継がれた。
「僕が助けますって、言ってくれたのよ!」
夢だ、夢に違いない。
確かに最近、神の手とか匠の手とかの、凄腕のお医者さんがいるって話題はあったけれど、その人は遠く離れたところに住んでいる人だった。もう動くことも辛い私がそこに行けようはずもない。なんて性質の悪い夢なんだろう。希望を煽っても、もう、種火さえない私の、その先があるはずもないのに。
全部、終わらせたんだ。後は最後の時が来るのを待つだけだったはずだ。
「ここまで、来てくれるんだって!」
そこまで言って、お母さんは笑いながら泣き、その声に失っていたはずの感覚が呼び戻されてゆく。部屋に入ってきた梨木先生の顔を見ると、それは、確信に変わった。
「君を助けてくれるという人が見つかったんだ。手術だから百パーセント成功という保証はないけど、賭けてみるかい?」
暗い病室に、傾いた太陽の日差しが熱く長く射してくる。昼と夜の長さが揃ったその日、黒く塗り潰されていた私の行く先は、眩しい程の光に包まれた。
「僕、医者辞めたら漁師になろうと思っていたんだよね」
淡々と語るその声は、思ったよりも優しく若々しい。太い指先がきれいな線を描いたかと思うと、あっという間に私の脳の中が絵に示されていた。白黒の画像を見ながら、こんなにカラフルな絵が描けるなんて。漁師じゃなくて絵描きでも食べていけそうな気がする。こんな子供に言われても、説得力ないだろうけど。
何枚かの画像をパソコンで示しながら、私と両親に明日の予定を説明していく。TVなどで見るのより、全然緊張感がない。そして、意外と興味の幅が広い人の様だ。雑談を交えながら、私だけでなく両親の、特にお母さんの緊張を解いていく。
「大丈夫でしょう」
そう話が締めくくられると、久しぶりにお母さんの幸せそうな笑顔に出会った。もう六か月も緊張で張りつめた顔しか見ていなかったんだと、その時気が付いた。
話が終わったところで、私はやっと、本当に聞きたかったことを聞く。
「先生。先生はどうして、私の所に来てくれたんですか?」
「ああ」
意外にもいたずらっ子のようなチャーミングな笑顔を見せたその人は、予想もしなかった人の名を口にした。
「慶人君、だったかな? 相談のメールが来たんですよ。僕に」
私の家の電話番号が書いてあって、先生はお母さんに連絡してくれたそうだ。よかったですね、とそう言って去っていく、意外と丸っこいその背中を家族で見送ると。
――――不意に視界が歪んだ。
お父さんが目を赤くして、私にいきなりタオルを差し出してきた。
お母さんは顔を真っ赤にして泣いている。
どうして二度と会わないって言ったんだろう。
どうしてあの手を離してしまったんだろう。
本当は誰よりも傍にいて欲しかった。望めるなら一緒に歩いてみたかった。最初に手を引いてくれたあの時から、ずっとそうだったのに。
まるで、抱えきれないほどの光の花束を腕に抱いているみたい。あの人は、真っ黒な未来に全てを諦めた私の眼差しの先に、最後に希望を示してくれた。
病室に戻ると、虹色の折鶴が私の枕元を照らしている。曇っていた眼が開かれると、白熱灯に照らされたそれは空に架かる希望の梯子のように見えた。
「…………私、絶対に生きる。生きるから。お母さん」
そう言った私を、また新たな涙で顔を濡らしたお母さんが頷きながら抱きしめてくれた。
麻酔から覚めると、泣き笑いの両親が見えた。夢の中で何度も名前を呼んだのに、慶人さんは現れてはくれなかった。一番にお礼を言いたかったのに。
安静を強いられた体に、リハビリはきつかった。けれど、病気が治ったという気持ちが、私の気持ちを前に向かせていた。
「本当に奇跡を起こしやがった。ケイト、凄ぇ……」
私が普通に歩いているのを見て、五島さんが泣きそうな顔をする。元気になったことを伝えたくて連絡先を聞くと、信じられない答えが返ってきた。
「あいつの連絡先は、誰も知らない」
意味が解らなくて聞き返すと。
「アイツ、言ったんだ。君の為に、自分の幸せの全てを賭けるって。でかい願掛けだよな」
――君が生きるために、自分の大切なものを全て手放した――
あの少し釣り目がちの目に隠された、真っ直ぐな眼差しを思い出した。月明かりの下で、その人が見せた、優しい笑顔も。あの人が私の為に手を離したものは、あの人が大切にしていたものばかり。私の弱さが慶人さんを苦しめたことに、私はその時やっと気が付いた。
退院準備をしていた時、あの虹色の鶴が一つだけ紐から外れてしまった。赤い色紙に不自然な曲線が描かれているのが見て取れて、破かないようにそっと、折鶴を解いてゆく。私の名前がすぐに見えた。そのままゆっくりと元の平面に戻していく。
僕は絵美奈と――
私と、なに?
病気はもう治ったはずなのに、指先が痺れたようにうまく動いてくれなくて、もどかしい。
文字の続きはこうだった。
「僕は絵美奈と一緒に生きる」
振り返った時、荷造りの段ボール箱に中途半端に収められた、虹色の千羽鶴の本当の声が聴こえた。よく折鶴をみると、どの鶴にも不自然な線が浮いている。もちろん折り目ではなく、曲線が。
震える手は、うまく折鶴を戻せない。涙でぐちゃぐちゃになったその折り紙を必死に手で伸ばしながら、私も、祈るしか出来なかった。
「――私も、私も、慶人さんと一緒に生きたい」
でも、それが難しいことは自分でも解る程には大人になっていた。
高校には行かず大検を取って、短大に進学した。年に数回あった定期検診は、もう、一年に一回になっている。梨木先生の顔を毎日見ていたのは、もう三年も前だった。
「もう、大分落ち着いたようだね。で、どこに進学するの?」
笑いながら地方のある都市の名前を口にすると、少し驚いた後に、にっこりと笑ってくれた。
正直、ほんの少しの憧れと、自分の足で歩いてみたいという、ささやかな願いだけで決めた。慶人さんの様に外国にはとても行けないけれど、願うまま歩みを進めることができる幸せをやっと得た。短大で保育士免許を取り、そのままこの街に住むことにした。適度に田舎で、人と人との距離が近いのに意外にも干渉されない。友達の友達が増えてゆくと、病気の時の辛い記憶も幾分和らいだ。けれど短い夏の夜、夜空に二つの星が並ぶその時期には、あの暑くて寒い夏の幻が胸を占めた。
「結局、何をどうやって伝えてたら良いかもわからないまま、連絡できませんでした」
瞳に少し涙を溜めて、唇を震わせて絵美奈は笑う。無造作に置かれた震える手にそっと自分の手を重ねると、目を丸くして僕を凝視する彼女がいた。
「…………きてぃて、くれた、から、いい」
喉元まで何かが込み上げてきて掠れた声は、うまく言葉を紡げない。聞き返す彼女の前で精一杯の虚勢を張って、必死に声にしていく。
「……生きていてくれて、良かった……」
――――伝えようとした事は、やっとのことで声になった。
★☆★☆★☆★
「離れるのイヤです」
空港で、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。体に抱き着いてくるその力は、覚えていた儚さを微塵も感じさせない。
「ちゃんと9月には帰ってきますから」
そう言って体を離そうとするのに、なかなか離れていかない。がっちりと抱きついてくる。
「浮気したら困ります」
一度も聞いたことのないカワイイ嫉妬に、思わず腕の力が緩む。なんだ、結局僕は、彼女のおねだりには弱いらしい。そう、出会ったあの瞬間から。
「ちゃんと絵美奈の所に帰ってきます。だから、今度は貴方が僕を信じて待っていて下さい」
ふくれっ面を隠しもしない彼女は、次の瞬間僕に飛びついて。そして、僕達は、しばしのお別れのキスを、した。
あの時折った折鶴は、僕らの未来に希望という名の虹を架けて、道の先を照らしている。