幻想少女
山の黒い影の頂きには、いくつかの灯火が見える。稜線を浮かび上がらせていた日の光は、そろそろ沈みかけていた。知らない街の宵闇が、苦しい記憶ごと僕に降りて来ていた。
行方の知れない僕の初恋は、今頃どこで蹲っているんだろう。最初に彼女を見つけたの時の青白い顔が、今でも僕の胸を締め付ける。一番苦しいときに手を放した後悔は、多分一生消えることはないだろう。一度だけ帰国した時に、あの病院の受付で名前を尋ねた。けれどもう、入院患者の中に、赤井絵美奈の名前はなかった。僕は、それ以上先には進めなかった。
シャーベットオレンジの線を辿って、夢の中でも何度も会いに行ったのに、一度も絵美奈は顔を見せてはくれなかった。最後に見たはずの悲しい顔は、もう、うまく思い出せない。弱い日の光も避けて俯いた顔は、影を集めて表情を消してしまっていたような気がする。
彼女の郷里に訪れた恐ろしい津波の映像を、留学先で何度も見た。遠い故国の災害の惨状は、歯噛みをする程無力さを煽るものだった。彼女の見たであろう風景が流される。彼女の生きていた場所が流される。そう思うと、まるで彼女が二度も死んでしまった様な気持ちになった。実際には彼女の生死を調べることも出来ない程、事実を知る事を恐れているのに。
悲しみは波の様に、折に触れて僕の足元を深く掬っていく。あの時必死で折った折鶴は、絵美奈を幸せな場所へ導いてくれているだろうか。あの時願ったように、一緒に生きる事は、叶わなくても。
ふと目を向けた窓の外も、大分暗くなってきた。用意周到に懐中電灯まで持参した子供達も、夕暮れと共に家に帰る決まりらしい。窓の外から聞こえる子供たちの声も、大分少なくなってきていた。
「完売御礼って所ね」
空になった段ボールの箱を見て、笑いながら仁菜さんが言う。
一体何組来ただろう。そして何度も驚いた。
「あそこの笹は豪華だから、きっとお菓子も豪華だ!」
「毎年あそこの家はヨーヨーだから、早く行かないと」
子供を甘く見てはいけないと思い知る。情報収集能力に長け、適切な判断能力を持っていた。しかもチームプレーも完璧だ。小さい子の面倒を見ながら回る姉妹もいた。交通量の多い道で、きちんと車の邪魔にならないよう、年長者が小さい子を見ている。学校の指導もある様だけど、微笑ましい光景だ。
「大変なのにやめられないのが、このイベントの罠」
不穏なことを和則さんも言う。
確かにそうだった。
少しの煩わしさや、「少ない」などの、ずうずうしい子供たちの率直な感想に顔をしかめつつも、接点のない人同士が交流する楽しさのようなものがある。毎回、趣向を凝らす人を笑えなくなってしまった。無邪気な笑顔に触れるのは、いつも楽しい。こうやって、近所の人と交流出来る機会になるのも、面白かった。まぁ、五年の間、美容室に行かなかったために結構伸びてしまった髪をいきなり引っ張られたのは、御愛嬌ということにしておこう。
「慶人君。笹、回収してきて。アレあると、また子供来ちゃうかもしれないから」
そうは言っても、話しているうちに、もう午後七時半。さすがにそれはないだろう。そう思いながら笹を回収しに外に出ると、六人の文字通りの餓鬼にバッタリ出くわした。超神足で笹を回収したが、後ろを子供たちが踏み石をスキップしながら玄関まで憑いてくる。
「ね、ギリ間に合ったよね?」
――――いいえ、もろアウトです。
そう言って家の中に逃げられるなら良かったものを!
その時、後ろで女の人の声がした。
「だめよ? 笹を飾っていないお家を回るのは禁止…………」
そう言いながら子供を止めた女性は、僕の顔を見るとそのまま固まっている。
知っているようで知らない。
知らないようで知っている。
その不可思議な感覚の正体が掴めないまま、お互い視線を逸らせない。
「赤井先生!」
「やべっ、赤井先生だ!」
赤井?
一目散に逃げていく子供の存在も遠くに感じるほど、全ての感覚が一人だけに集中している。
――嘘だ、いるはずがない。
記憶にある青白い顔も、影を集めたような儚い笑顔も、最後の冷たい声も、今、目の前のその人から感じない。僕が手を放したその人は、こんな風に子供に注意したりしない。
弱くて、寂しくて、孤独で、僕が守らなきゃいけない少女だった。
あの頃から、僕がずっと願い続けた、元気になった赤井絵美奈の幻が、目の前にあった。
動けなかった。声を上げることも出来ない。彼女かどうか確かめることも。僕が戻らないことを心配して、玄関の扉が開かれた。でも僕も、絵美奈の幻も、動かなかった。僕らをみた仁菜さんも、和則さんも、押し黙る。
空には星が瞬く。都会の空では見ることは叶わなかった。
あの日、病室の窓から二人で探した二つの星が、今、頭上で瞬いている。
沈黙を破ったのは、彼女の方だった。
「慶人さん……」
あの時の儚い声とは別物の様だけれど、確かにその声は。
「……絵美奈?」
あの時彼女と永遠に分かたれたはずなのに。
目の前で微笑むその姿は、赤井絵美奈だった。