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幕間―A

「いってらー」

姉の声を背に受けながら家の玄関を出た途端、朝日が眩しくて思わず顔をしかめ、コートを着ているのにまだ肌寒くて身震いした。

僕は入学したてでまだ歩きなれない、しかし見慣れた道に踏み出し、学校指定の肩掛けの鞄を持ち直した。

歩く度に真新しい革靴が軽快に音を上げて、外気に触れて眠気の払われた頭を更に冴えさせた。

空は抜けるように青く晴れて、風は春にしては例年になく冷たく、まだ冬が続いていた。

桜もまだ蕾で、仲間内で交わした花見の約束も延期されていた。

まあ、どうでもいいことか。友達には申し訳ないが、今はそれよりも新鮮な空気を堪能したい。

立ち止まって、改めて胸一杯に息を吸って肺を満たす。これで最後の眠気を払い、一歩を踏み出した。

角を右に曲がり、通りに出るとガードレールに沿って歩く。脇を掠めていく車の音が耳の中でリフレインしていた。

この辺りは、それなりに栄えている。いや、この街自体がそれなりに大きく、オフィスビル等の高楼もいくつか点在している。

信号待ちでこうして見上げると、青く空を映し込む硝子の壁がそびえているのだ。

「‥‥‥‥!?」

ふと、違和感を感じた‥‥‥ような気がした。

周りを見回しても、青信号なのに動かない僕を邪魔そうにしている通行人がいるだけで、別段おかしくはない。それ所か、嫌気が差す程に不変な日常の光景だ。

変わらず、絶えず、繰り返すばかりの平穏で楽でそれなりに楽しい日々の構図。

勉強も遊びもそこそこに、したいこともなく刹那的に歩む毎日。

おかしな人生論を語ったが、結局言いたいのは違和感は気のせいだったということだ。

人混みに混じり、学園へ向かった。

「‥‥‥‥あの‥‥‥‥もしもし?」

「ん?」

「いや、ん? じゃなくてさあ、放して」

うっかり信号が点滅するまでぼんやりしてしまって、急いで歩き出そうとした矢先だった。

いきなり、背後からひしと誰かに捕まえられて、お腹に回された手ががっちりと組まれた。

一瞬無視して足を踏み出そうとしたのだが、思いの外その力は強く、腕を振り払おうと軽くもがきながら声を掛けたのだった。

信号は赤に変わってしまった。

「て! こらッ、力入れるなッ、ちょ、ぅあっ、だ、ダメって‥‥!?」

「ダメぇ? こんなに可愛いのにぃ?」

「意味分からんわ!」

「分かんなくないよ。可愛い可愛い。ほら、こうやってさ」

ぎゅーっと腕に力が込もって、身体が程好く圧迫される。

ただ、この場合の程好くは、僕にとってではなく彼女――須藤華菜にとってだ。

嬉しそうに笑いながら華菜は、抱き付いたままうなじに息を吹き掛けてくる。

それはくすぐったくて、顔がほのかに赤く熱を帯びるのを自覚した。

正直、このままだと危険だ。こんな所で懐柔されたら迷惑防止条例に違反する。いや、取り敢えず今も恥ずかしい。

「だー! もう離れる! 遅刻するだろう!?」

何とか呪縛から抜け出し、とろけそうになっていた意識を取り戻す。

荒れた呼吸を整え、背後を振り返った。

「えぇえーもっと触らせてよぉ‥‥‥ほら、君にも触らせてあげるからさぁ、ねぇ?」

「いりません!」

「ちぇー」

結っていない長い黒髪に赤いフレームの眼鏡。

その下の黒い瞳に、豊かな胸と細いウエスト。

短めのスカートからは透き通るように白い足がすらりと伸び、彼女のスタイルのよさを綺麗に強調していた。

「あーどこ見てるの?」

「へ? あ‥‥ぁあ!? い、いや何でもないですよ!? はい!」

「あは!」

結局、その後も色々といじられながら何とか遅刻せずに学園に向かい、僕らは教室の前にいた。

因みに説明しておくと、学園は、校舎が二つに分けられていて、並列に建てられている。

一方は授業に使用する教室や職員室、保健室がある一般棟で、もう一方は部活棟。部室などは全てこちらにある。ただし、生徒会だけは一般棟に置かれている。

それぞれ四階建ての校舎は一階と三階、屋上が回廊で繋がれていて、自由に出入りが利くようになっていた。

一年生は二階が基本的な生活圏で、僕のクラスは二階の中程にあった。

廊下を歩いていると部活の関係で先に来ていた友人とスレ違い、何人かはいつも通りの、遅刻ぎりぎりの僕を注意し、何人かは華菜といることを楽しそうにいじってくる。

何てことはない、いつもの朝の風景だった。

教室に入るまでは。

「お早‥‥‥‥?」

同じクラスの僕たちはいつも同様に、声を揃えて挨拶しようとして、まず最初にあったのは明確な理解ではなく曖昧な違和感だった。

ある筈のものがない訳ではなく、その逆に、ない筈の場所に何かが存在したような。

「あ、お早う。相変わらず遅いね二人とも」

入り口の傍の席の友人が、にやけながら僕と華菜を認めた。

茶の染髪にピアスをした彼は来栖直哉。

小学生の時分から一緒で、気の置けない仲だ。油断も隙もあったものじゃない性格だが約束は絶対に守る、信用できる友人の一人。

「お早う直哉‥‥」

「ねえ、直くん。あの子だぁれ?」

ぼんやりと違和感の正体を探っていた僕を後目に、華菜は容易くその答えを見付けて直哉にひそひそと訊いた。

一瞬理解できなかったその言葉と視線を辿ると、窓際の一番後ろの空いていた筈の席に、丁度僕の席の後ろに見知らぬ少女が座っていた。

流れるような、見るだに柔らかな白金の髪に、吸い込まれそうなほど深い碧眼。

少女は、気だるそうな眼差しで、頬杖をついて外を眺めていて、それは、とても‥‥‥‥

「転校生だと思うよ」

不意に、直哉の声が意識を現実に引き戻した。

「転校生って、普通先生と来るんじゃないの?」

「俺に聴くな。直接聴いてこい。さっきそれを確かめに行った奴はちらっと見られただけで無視されてけどな」

華菜は不思議そうに少女を眺めているが、よくよく見るといつも通りに見える教室は微妙に彼女を気にしているようだ。

視線が密かに集まっている。

「ん? どした千草? ぼーっとして」

「え?」

唐突に話を振られて、僕は思わず気抜けた返答をしてしまった。

「大丈夫か? 辛いなら保健室行ってこいよ、明日香ちゃんには俺が言っとくから」

明日香ちゃんとは、このクラスの担任だ。美宿明日香。その容姿から親しみを込めて明日香ちゃんと呼ばれているが、本人曰くあまり嬉しくないらしい。

「平気平気。この頃体調いいんだから」

「そうか? ならいいんだけど」

直哉はまだ少し心配げに見上げてくる。

その時、ふと隣を見ると、華菜がじっと押し黙ってこちらを見据えていることに気が付いた。

「あの、華菜?」

「‥‥‥‥‥‥」

眼鏡の下で細まった目が無感動に冷徹で、心の奥底が不安に疼いた。

「ええと‥‥‥」

「――だよ」

俯いて、ぽつりと呟いた彼女の言葉が小さくか細くて、うまく聞き取れなかった。

「えっと、ごめん。もう一度言って?」

申し訳なくもそう言うと、華菜は、予想外な表情で顔を上げて言った。

「何が? 私、何も言ってないけどぉ?」

「あれ、ほんと? 空耳だったのかな」

「きっとそうだよぉ」

きょとんとした読めない曖昧な目で彼女は頷き、友達と軽く挨拶しながら自分の席へと向かい、そのまま女の子の輪で談笑し始めた。

「なあ直哉‥‥」

「ん?」

「何なんだろ」

「知るか」

「はぁ‥‥‥」

「どうかしたの?」

「あ、先生‥‥‥」

背後から教室に入って来た女性は美宿明日香。担当は現国でうちの担任。

小柄で、女性というよりは女の子と形容する方が似つかわしい童顔で、可愛らしい人だ。本人はそれがコンプレックスらしいが。

「明日香ちゃーん!」

「風邪を引かないように気を付けなさい。まだ寒いからね」

「わー無視だー」

「さ、着席する」

「はい、すみません」

「ちょ、ごめんなさいほんっと無視しないで下さい‥‥」

泣いている直哉をさっさと無視して自分の席に向かうと、後ろから聞き慣れない名を呼ぶ先生の声が響いた。

「綾瀬さん」

辺りが僅かに静まった。みんな、一様に同じ方向へと視線を流している。

少女は無言で席を立ち、優雅に、綺麗な仕草で通路を歩く。

前辺りにいる僕との距離が徐々に近付いていき、なぜか動悸が激しく、緊張していく。

「‥‥‥‥」

スレ違い様、棒立ちで少女に見入っていた僕を、彼女が一瞥したような気がした。

自意識過剰なだけかもしれないが、ほんの数センチの距離まで近寄って高鳴った心臓は、痛いくらいだった。

身体が熱い。

とっくにコートは脱いでいるのに、熱くて仕方がない。

まだ緊張して、動悸が激しくて、胸がウズいて仕方なかった。

「みんな気付いてると思うけど、転校生です」

クラス全体が着席して静かになったのを確かめ、先生は教卓の隣に立つ少女を示し、黒板に名前を書き込んだ。

「綾瀬紗耶さん。綾瀬さん、自己紹介して」

「はい」

少女――綾瀬紗耶は、毅然とした鈴鳴るような涼しげな声で、先生に応じた。

後ろ手に指を組んで、背筋をぴんと伸ばす。

「綾瀬紗耶です。よろしくお願いします」

そう、至極簡潔に彼女は自己紹介を終えた。

先生やみんなは肩透かしを食らったようにしている。

「‥‥‥それだけ?」

「はい。他に何か」

「いやほら、趣味とか好きな食べ物とか色々」

「趣味は読書。好きな食べ物は特に有りませんが、強いて言うのなら甘いものです」

淡々と言われたことに答える。

それは、冷たいとかではなく、何となく単にそう言うことに慣れていないだけのように見えた。

「んー、取り敢えずはこれでいいかな。それじゃ、席に戻って」

「はい」

彼女はゆったりと、別段急ぐわけでもなくこちらに歩いてくる。

「よろしく、えと、綾瀬さん」

無意識に声を掛けて、一瞬なんと呼べばいいのか迷った。

彼女は少し立ち止まって僕の顔をじっと眺め、ついと視線を外してぽつりと呟いた。

「よろしく」

それで、彼女は後ろの席に着いた。



――冷たい風が、凍えるように頬を撫ぜる。

奇異の視線が私を貫き、特異の言葉が私を犯す。

ああ、やはり先に来るべきではなかった。

幼く見える、女性というよりは少女と呼ぶべき容姿の先生に言われて、私は先に教室を訪れた。

スライド式の扉を開き、ローラーが滑り過ぎないように力をセーブしながら、騒々しく、学校らしく賑やかだったクラスを一望した。

みんな、一様にこちらに視線を注ぎ、先に過去形を用いたようにシンと水を打ったように静まり返った。

外人‥‥‥珍しい‥‥‥etc.etc。

下らない、聞き飽きた、能無しな言葉の連続が耳を震わせ、鬱陶しいとしか言えない。

一つ息を吐いて肩に掛けた鞄を持ち直し、私は中に入った。

視界の端にはこちらを見上げる、すぐ傍の席の茶髪の青年が映り込む。

ただ、彼は私を見る者にしては珍しくぼんやりとした表情で、全く気後れなどなく不意に声を掛けてきた。

「君、転校生?」

「‥‥‥‥‥‥」

一瞬、立ち止まって丁寧に受け答えようかと思ったが、結局は、いつの間にか騒々しさを取り戻した周囲のせいで聴こえない振りをした。かすかな罪悪感に少年を盗み見ると、彼は曖昧な表情で物惜しそうにため息を洩らしていた。

彼のように友好的な行為を心の隅で望みながらも、やはりされればされたでどう対応すればいいのかが判らなかった。無視は、少し大人気なかったかもしれない。

教室の中程、教卓の前辺りまで来て、私は一度立ち止まって整然と並ぶ机に向き直った。

何を思ったか、近くで談笑していた女の子達が僅かに硬直し、平静を装い私を気にしている。

いや、彼女達だけではない。クラス中が、日常から浮かび上がる異端に密かに注意している。

私は視線を走らせる。

美宿先生は、窓側の一番後ろの席が空いていると言っていた。見れば、そこは確かに空いていて、それも運がいいことに周りに誰もいない。

これなら、うまくすれば授業が始まるまではゆっくりできるだろう。

急ぎもせず、別に遅くもなく、意識的に姿勢を整えて私の席になる予定の場所に向かった。

ここでの時間の流れは、相も変わらず焦れったいくらいに遅い。

席に着き、体感時間では充分過ぎる程に経った筈なのに、実際には時計を確かめると五分も経過していない。

軽く呆れ、ふと窓の外に目をやる。

下を見れば広々とした門を何人もの生徒がぞろぞろと潜り抜け、談笑を交わしながら、ふらふらしながら構内へと入ってくる。

上を見れば突き抜けるように青い空を白い雲が泳ぎ、時折鳥が羽ばたいて消えていく。

見渡せば、植えられた木々の梢が吹く風に煽られてからからと音を立てている。

季節的に言えば春の筈なのに、世間はまだ冬の色が抜けていなかった。

それにしても、慣れているとはいえ高校入学から1ヶ月経つか経たないかの内に転校なんて、馬鹿げている。

そもそも、引っ越すのなら端からこの高校に入学すればよかったものを、わざわざあちらの学校に入ってから替わる必要はあったのだろうか。

いや、あの人のことだ。十中八九恐らく、全く考えなしに行動したに違いない。

養ってもらっている身で文句は言えないが、しかし、流石に限度というものがある。

今回ばかりは、僅かにそれを越えている気がしてならないが、思うだけ無意味か。

それに、これで最後だともいっていたし。

「お早う」

不意に教室の前の扉が開き、誰かが入ってきた。担任かと思い反射的に確かめたが、そこにいたのは男女の二人組。親しそうに、傍にいるあの彼と話している。

それに興味を持てない私は、またすぐに窓の外に目をやった。

風が吹いていた。

見ていて、聴いていて、冷たいと感じられる風が吹いていた。

いや、どうでもいいが。

「綾瀬さん」

名前を呼ばれ、若干現実から逃避していた意識が引き戻された。

声に従い視線を上げると、辺りは着席し始め、黒板の前の教卓には担任の先生――確か美宿明日香――がいつの間にか立っていた。

私は席を立ち、周囲の視線を受けながら前に進んだ。

途中、さっき来たばかりの人と目が合ったが、向こうはあまりに気にするわけでもなく道を譲ってくれた。

それから、簡単な自己紹介をさせられた。

いつもと違い、先生に軽い質問をされて、特に何があるわけでもなく着席を許可され、面倒な挨拶は早々に終わった。いい意味で適当な先生だ。

私は、そんなことを思いながら、席の間の通路を渡っていた。

「よろしく」

声を掛けられた。見ると、それは二人組の片割れで、さっき道を譲ってくれた人だった。

私の座席の前に‥‥‥‥いや、正確には私が彼の後ろに座るのか。

「えと、綾瀬さん?」

どう呼ぼうが気にしないのだが、彼は一瞬迷ったらしい。

私は、呼び止められたからには立ち止まり、彼を見た。

「‥‥‥‥!?」

見た瞬間、言い得ぬ違和感が脳裏を過り、身体が硬直した。

黒髪に、黒い瞳。

曖昧な、困ったような微笑みを浮かべた少年。

違和感? 錯覚? 未視感か或いは既視感?

この異様な、時間の凍り付くような感覚。

それはぞくりと悪寒を生み、悪寒は私を現実に引き戻す。

不要な間が空いてしまったかもしれない。

焦りを押し隠し、私は彼から視線を外した。

「‥‥‥よろしく」

溶けた時間は、結局一秒も経っていなかった。




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