絹布の都の夢見る傭兵(その二)
驚いて振り返ると、列車がすぐ目と鼻の先まで迫って来ていた。
やばっ!
トマスは慌ててサックを蹴飛ばすと、ニーダを咄嗟に抱えて思い切り地を蹴った。
刹那、黒い鉄の塊が風を切り、つい一瞬前まで彼らのいた場所を駆け抜けて行く。
その脇で斜面を転げ落ちる二人。背中が歪な砂利の上に容赦なく叩き付けられる。
「がっ!」とトマスが小さく呻き声を上げた。
しかし幸いにも大した怪我は無く、打った反動で少し気持ち悪くなったくらいだ。落ちた場所には、先刻蹴飛ばした布のサック。それがクッション代わりとなって衝撃を和らいでくれていたようだ。
トマスは少し楽な体制になろうとうつ伏せになって顔をを下ろし――ふと、どこかで嗅いだ甘ったるい匂いを乗せた生暖かい空気が鼻先を掠める。目の前には、琥珀の光を宿した双眸がマジマジと彼の貌を見つめていた。
一瞬、少年の思考が停止する。
えっと……これ、どうすんだ?
困惑と焦燥が渦を巻き、本能と理性が思考の狭間で交差する。
少女からの抵抗は無く、その瞳はただ真っ直ぐこちらを見つめている。むしろ、誘っているような表情にも見てとれた。
激しく波打つ鼓動に煽られ、彼は少女の顔にゆっくりとその貌を下ろそうとして――
不意に頭上から甲高い金属の擦れ合うような音が鳴り響いた。
見上げると、そこには一台の蒸気列車が停泊している。どうやら、今のはブレーキの音だったらしい。
「おーい、そこのませガキども。昼間っから仲が良いのは一向に構わんが、少しは場所考えろ!」
そう叫んで降りてくるのは、橙色の半袖シャツの上にジーンズのオーバーオールを着込んでいるガッチリとした体躯の男。六十を過ぎたところだろうか、白髪交じりの茶黒い髪と口髭、それと顔中に刻まれた皺が年季を漂わせている。帽子を斜めにかぶっているのは、彼流のファッションなのだろう。
背後の列車は、先頭の黒く長い巨大砲弾のような機体に車輪が左右にそれぞれ五つ連なっている方が機関車両で後部に煙突があり、その後ろが炭水車両。その更に後ろが恐らく貨物用だろう、窓が一つも無い木の車両が六両程ほど並んでいた。
「ったく、危うく懲戒免職になるトコだったじゃねーか。だがまあ、こちとら少ししたら引退だし今更辞めることになっても問題は無いがな。けど、どうせなら円満退職したいってもんだろ?」
言いながら、オーバーオールの老人はニッと歯を見せて陽気に笑う。
一方で、一時の気の迷いでとった行動を他人に見られてしまったという思いに駆られたトマスは、一人赤面しながら足元の砂利を転がしていた。
「シルクガーデンとは、またえらく物好きなヤツがいたもんだ」
老人は口髭を撫でながら、少し呆れ気味に言う。
ちなみに、ニーダはトマスの隣で爆睡している。どうやら、先刻はただ寝ぼけていただけのようだった。
「あんなトコ、行ったところでなんもねーぞ? あっても精々…………」
「昔の栄華を偲ばせる工場跡くらいだってんだろ?」
得意気に先読みして見せるトマスを、しかし老人は彼の底の浅さを見透かすように「フンッ」と鼻を鳴らしてこう返した。
「工場は昔のまんま、ちゃーんと残っとるよ。もっとも、今は蚕繭の養殖所のようなもんだがな」
「んなイモムシなんか育てても何の需要もないだろ?」
「ところがだ、そうでもないんだこれが」
「どうしてさ?」
「蚕繭は美容と健康の源ということらしい」
「なんだよそれ?」
「よく解らんが、あのアマタニアとかでは蚕繭からシルクアミノンとかいう成分を取り出して丸薬やら飴玉などを造っとるみたいだぞ」
「ふーん……アマタニアでなぁ……………………ん、飴玉?」
不意に悪寒が奔った。
…………たしか、あの非常食もアマタニア製………………
危うく列車に轢かれそうになった所為もあってかすっかりと忘れていたが、彼らは先刻そのアマタニアで造られたという飴玉を口にしていた。
必須栄養素を詰め込んだとかいう説明書きもあったが、中の成分にその名も含まれていたような気がした。シルクという言葉が否が応にも件の都市を連想させる。
一瞬、瓶を取り出して確認しようとも思ったが、やめた。予感が的中するのが怖かったからだ。それより――
「なあジイさん、シルクガーデンに工場が残っているって言ってたけど」
「ああ、それがどうかしたか?」
「昔のまんま……稼動しているってことだよな?」
「言ったろ、蚕繭の養殖しとるって」
「蚕繭の養殖だけだよな?」
トマスが念を押すように確認する。
「……ああ、そうだ」とだけ答えると、齢の所為か彼は少し目を細めて少年の瞳を真直ぐ見据える。
ぞくり――という音が聞こえてくるような強烈な眼光が、強張ったトマスの全身を容赦なく撃ち抜く。とても堅気の老人とは思えぬその眼力に気圧されそうになるが、トマスは面には出さぬよう堪えながら必死に視線を返した。しばらくして、
「ぶっ、あーはっはっはっはっは」
何を思ったか、老人が唐突に笑い出した。
「な、なんだよ、いきなり…………気持ち悪りぃな!」
「すまんすまん、いやぁははは、お前さんが余りに神妙な面ぁするもんだからな、こっちもつい合わせて見たくてな」
「なんだよそれ」
トマスは何やら茶化されてるような気がして、少し不愉快な表情を浮かべる。が、対する老人は然して気にも留めず、それどころか彼の仏頂面を見て殊更豪快に笑った。気がつくと、なぜかそれに釣られて隣でニーダも腹を抱えて笑い転げていた。
「なんでお前まで一緒になって笑ってんだよ………………てか、いつ起きたんだよ」
「さっき。んとー、起きたらトマス達がにらめっこしてた」
「ああ、睨めっこなぁ…………」
半目でつぶやきながら気だるそうに襟足の辺りを掻くトマス。一方で、老人は一人膝を叩いて大笑い。
「あっはっは、睨めっこか。確かに…………こいつは一本取られたわい」
「おっちゃん、弱いねー」
「おじちゃんはもう年寄りだから、若いモンほど堪え性が無いんじゃよ」
無邪気なニーダの問いかけに、老人はまるで孫娘を見ているような面持ちで応える。
「アホくさ……」
つぶやくトマスの声が聞こえてか、そ知らぬふりで老人が話を切り出す。
「ところでお前さん達、このまま歩いて行く心算だろうが、ここからだと早くても一昼夜は掛かるぞ」
「マジかよ! もうここ何日も歩き通しだってのに…………おまけにロクな食料もねぇし」
実際のところ件の非常食があるにはあるのだが、蚕繭の話をした後では不用意に口にしようと思えないのか勘定には入れていない。
「ニーダも、お腹空いたよー」
「オ・マ・エは食いすぎだっ!」
「ははっ、そんな怒鳴る元気あるならまぁ野垂れ死ぬなんつーことも無いだろうが、とは言えここから歩て行くのは相当きついぞ? 何しろ、このすぐ先は橋だからな」
老人の何気ない台詞に、トマスの表情が硬直した。
「え、マジ?」
「おうよ、真下は谷底だからな。落ちたら一巻の終わりだぞい」
「………………………………」
「ま、そういうわけだからよ、貨物ん中でも良かったらどうだ、乗ってくか?」
「ぜ、ぜひ…………お願いします………………」
トマスは乾いた笑みを浮かべながら帽子を脱ぐと、少しぎこちない様子で深々と頭を下げた。