その二歩
二度寝しても、見上げた天井は天蓋付きの豪華なベッドでした。ちくしょう。
「夢じゃ、ない……」
寝過ぎで逆にぼんやりとする頭を、枕へぼすりと倒しながら、イオリは乾いた笑いを漏らした。いや、枕もベッドもかなり気持ち良くて爆睡してましたが。それはそれ。
何回寝て起きても、此処は魔王城。
友人だと信じていた人が《魔王》で。
それでもって、信じられない事に「愛してる」と言われました。
唯一人。
唯、一人を求めたって。
あれ、なんかあの台詞って口説き文句っぽくないか?
しかも混乱してて訳分からなかったけど、そ、その、色々なところに、リーヴの唇が、ふふふふふふ、触れた気がする!あの熱さを、柘榴石の瞳に煌く焔の名前を、イオリは知らない。
「うあ、あふ」
言語機能が完全に麻痺した。
きっと今は三歳児の子供より衰退している。何か言おうとしても、あうあうと唇が意味の無い言葉を無情に漏らすだけで、明確な単語が結びつかない。
ベッドの上で悶絶しながら、イオリの指は自然と《魔王》の唇が触れた頬や瞼にそっと触れて、熱いものを触ったようにパッと離れるを何度も繰り返した。意識を失う前の、あの瞳を思い出すようで、小さく震える。
ふと、枕元に置かれている封筒に視線が向いた。
淡いクリーム色の封筒は、よくよく見ると全体的に美しい蔦模様が入れられていて、微かに煌くのは、金粉も一緒に入れられているからだろうか。どちらにせよ、かなりの高級品である。
恐る恐る中身の便箋を取り出すが、便箋もこれまた高級品だった。
一体誰が、と、冒頭の文章に落とされた視線が硬直する。ここここここの文字は。
●●●●●
イオリ
お早う、もう目は覚めたかな。
昨晩は驚かせてしまって、御免ね。
君に真実を告げたい。そして、俺の気持ちも。
落ち着いたらそこの服を着て、大広間へおいで。
待ってる。
――リヴェンツェル
●●●●●
読み終えた途端に、緊張の糸が切れてイオリは再びベッドへ突っ伏した。
現代日本から召喚されたイオリは、勿論この世界の言葉や、文字を全く知ら無い。だが、諸々のチート能力の中に、言語能力もプリセットされていた為、日本語でも英語でもない文字をスラスラと理解する事が出来た。
今に限っては読めなかった方が嬉しい気がする。
顔を横に向けると、ベッドから窓が見えた。
イオリと同じ空色――雲一つ無い朝の青空。ちちち、と白い鳥が何匹か空を羽ばたいていて、実に平和そうだ。言われなければ、知らなければ、此処が魔王城だとは誰も思うまい。
事実、囚われの身である筈のイオリには鎖の一つも繋がれていないし、今はワンピース一枚だが衣服や防具、武器等全ての持ち物がベッド脇のテーブルへ丁寧に置かれていた。
昨夜の悲愴感は、もう無い。
誰に対してか分からない、微かな怒りは未だに心の奥底で燻っているが、今はイオリの怒りよりも真実を探求する心のほうが強かった。
ワンピースを脱ぐと、イオリは丁寧に畳まれていた自分の服に着替えた。
黒いハイネックのノースリーブと、薄い青のスカートにスパッツとブーツ姿はちょっと見れば随分頼り無い衣服だが、これら全てが精霊達から"祝福"の施された服である。
竜の牙をすら弾く強度を持つ。チート装備。
これに防具を纏えば、ほぼ完璧なのだが、イオリは迷った挙句に結局は防具を着けない侭、自分の武器である細剣が括られたベルトだけを片手に、部屋を出た。
あれ、そういえば大広間ってどこ?
「……起きたか」
「――っ!」
地を轟かすような、寧ろ地を這うようなビリビリとした低い声が直ぐ脇から響いて、イオリは横へと蛙よろしく飛び退った。直後に大きく目を見開く。
二メートルはあろうかという巨躯を黒い甲冑に纏い、同じく巨大な黒馬で戦場を駆ける死神――"六柱"の一柱、アンデルベリ!
なんだ油断させておいて、やっぱりがっつり殺る気だったのかばっきゃろー!という恨みに任せて細剣の柄にイオリは手を掛けたが、対する巨躯の男は一度鋭い金色の瞳を瞬かせただけで、あっさりとイオリに背を向け、歩き始めた。あれ?
「……案内する」
……はて?
非常に語句が少ない為、理解するのに時間が掛かったが、どうやらこの巨大熊……いやいや、死神の魔族はイオリを大広間へ案内する気らしい。リーヴに頼まれたのか。
少々不躾な視線を背中に飛ばしてみたが、蚊が刺した程の威力も無いようだ。何か虚しいんですけど、それはそれで。脱力しつつも、城の内部を知る筈の無いイオリは重い足取りで見失う事の無い背中を追って歩き始めた。
案内してくれるのは嬉しいが、人選をして欲しいものである。朝っぱらから不吉オーラ満載のこんなのに声を掛けられた日には、死亡フラグが幾つあっても足りない気がします。
だってこの人(?)の周りだけ黒い!暗い!並んで十人は通れそうな廊下の至る所に採光の大窓があって、朝日が燦々と注いでいるというのに、この死神が通る時だけ闇が差しているのだ。
部屋を出た瞬間に襲われる、という誤解をするのも無理からぬ事だろう。
そんな考えをつらつらとしていた為か、ふと死神が歩きを止めない侭チラリと寄越した視線にばっちりがっちり掴まってしまい、思わずイオリは戦慄した。
ゆっくりと、一度だけ猛禽のような金色の瞳が瞬く。
「何故」
「……え?」
「貴女は」
質問しているのは分かるが、言葉が極端でぶつ切り過ぎて理解出来ない。
何故貴女は此処に居るのか?だろうか。だったら私が聞きたい私に聞かないでください。
目を白黒させていると、意思疎通を諦めたのか、フッと軽く息を吐き出してアンデルベリは再び前を向いた。待て、今の溜息は何か馬鹿にされた感じがするんですけど!
単語じゃ分かりません、ちゃんと文章で話しなさい!
イオリは抗議しようと口を開き掛けたが、立ち止まった巨躯の向こうに扉が見えると、思わず息を詰める。大広間、だろうか。
「中に」
「は」
「全員、揃って」
まてまてまて!
今、ぶった切りの単語に恐ろしいものを混ぜませんでしたか?
全員というのはあれですか、余り会いたくない《魔王》と、貴方を含む"六柱"ですか?
つい昨日まで、倒す事を宿願としていた存在含め、その懐刀達、全員?
顔色で考えた事が分かったのか、コクリと死神が頷いた。さあっと血の気が引く。
駄目だ、ここを潜った瞬間に、血の雨が降る。矢とか飛んでくる。
現在着ている服だけでも、矢が貫通する事はまず有り得ないのだが、昨夜からイオリの決意とか、意思とか、そういったものは全てベキベキのボキボキに折られている為、非常に消極的且つ臆病になっていた。
正直に言うと、怖い。むりむりむり。とりあえず一人だけにして欲しい。
「早く」
「あ!」
中々扉に近付かないイオリに業を煮やしたのか、これまたぶつ切りの単語のみで急かすと、まるで子猫を扱うようにイオリの首根っこを掴んで、ぽいと。
ぽいっと、放り込んだのだ!信じらんない!心の準備くらいさせてくれたって!
「イオ」
ああ、柘榴石色の奇麗な瞳が、笑っている。
《魔王》――リヴェンツェル、リーヴ。