その十八歩
「…まだ眠っているのか?」
近付いてきた足音のうち、一人の声が牢に響き渡る。聞いた覚えのない声だ。
いえ本当はバッチリ起きてますよウフフ!と起き上がって、この声の主を死ぬ程驚かせたい衝動をイオリは何とか堪えながら、寝息に見せかけた呼気を漏らすと、今度は聞き覚えのある声がどこか自慢気に囁いた。
おおっと、この声は誘拐拉致監禁した張本人の声ではないか。
「当然だ。 例え《勇者》であっても、魔眼の力を最大威力で受けたんだからな…数日はこのままだろう」
あ、何か起きてる事がすごく申し訳なくなってきた。
ごめんなさい、どうやらあなたの魔眼の力とやらは上手く掛からなかったみたいです。などと眠ったフリをしているイオリは内心様々な煩悩に支配されていた。引きつりかける頬の筋肉を心の中で叱咤激励し、演技続行を頑張ったイオリだったが、背後で密やかに交わされ始める物騒な単語は聞き漏らすまいと耳をそば立たせた。
「しかし、この《勇者》は《魔王》様のお気に入りなのだろう?事を起こす前に、《魔王》様に気付かれでもしたら…」
「フン。その為の、この場所だろう?魔封じの檻と、水晶に埋もれた地下――何かを隠匿するにはぴったりだ」
「水晶は我々の魔力を吸収する…か」
「そういう事だ。《勇者》の類稀なる力だろうと、ここまですれば《魔王》に場所を知られる事はあるまい」
ほうほう、なるほどご解説有難う御座います。
その後もひそひそと潜めた声ながらも熱っぽく語る二人の言葉を要約すると、この二人は《魔王》であるリヴェンツェルに不満を持ち、《魔王》の代替わりをもくろむ一派の一員らしい。
ただでさえ歴代の《魔王》でも最強といわれるリヴェンツェルを持て余していたというのに、本来なら敵対関係にある《勇者》をちやほやしていて我慢の限界に至ったようだ。《勇者》を《魔王》から引き離し、一派の者達と《魔王》を弑逆する――そこまで語ったところで、流石に不味いと気付いたのか、二人はイオリを置いて地下牢から出て行った。
十分に足音が遠ざかったところで床から緩慢に身を起こしたイオリは、思わず頭を抱えた。正直なところ、この牢を破壊する事は不可能だが、ここから出る事自体は不可能ではない。かなり頑丈な『魔封じ』の施された牢とはいえ、仮にも《勇者》であるイオリを閉じ込め続けるには少々役不足だ。多少魔力を消費し、集中力が必要で疲れるかもしれないが、ちょいちょいと本気を出せば自力でこの牢獄から逃げ出す事は可能だろう。
「でも……」
光源に乏しい室内は酷く薄暗い。
出入り口で頼りなく揺れる、魔力灯の光でうすぼんやりと見える自分自身の手を見下ろし、イオリは小さくため息を零した。脳裏に反響するのは、先程の二人が交わしていた会話だ。
周囲の人達が好意的だったから失念していたが、やっぱりイオリは《勇者》で、理由を知らなかったとはいっても《魔王》を倒さんとしていた存在だ。
そんな存在が魔王城でちやほやとされていては、不満が高まるのも当然というものである。
「うーん…やっぱり、出てくべきだよねえ…」
実のところ、いつまでも居候という存在である事に良心が全く痛まない程イオリも鈍感ではない。
まだ誰にも言ってはいなかったが、そろそろ魔王城から出るべきではないかと日々悶々としていたのだ。だが、魔王城の皆は優しくて――ずるずると甘えてしまっていた。
この《ガイアス》という世界は、やっぱりイオリにとって知らない世界だから。
イオリの事情を知っている人達が居て、受け入れてくれる場所はとても居心地が良いから。
なにより……この世界での“最初”から傍に居てくれた存在が、居るから。
「……でも、これ以上甘えちゃ、ダメだ」
だって、《魔王》様はこの国を支えていく人だ。
《勇者》が居ては、邪魔になる。
いつだって、イオリの進む道に居てくれた、柘榴石色の瞳がなくなってしまうことが、寂しいなんて、一人が怖いなんて――言っては、いけない。
ぐっ、と強く掌を握り込むとじめじめした壁を親の仇のように睨み付ける。
そのままイオリは、意識を集中する為に空色の瞳を閉ざすと、目には見えない魔力の網を壁の向こうへと解き放った。流石に“魔封じ”の施された牢獄なだけあって、壁へイオリの魔力が触れた途端に力をかき消されるような強い阻害力を感じる。
それでも、見立て通りに精霊と神々の祝福を受けているイオリであれば、多少距離は落ちるが牢獄から地上へ転移する事が可能そうだ。
地上に転移できればこちらのものだ。
再転移して魔王城にひとっとび、《魔王》様へ報告して、この件が解決したらひっそり旅にでも出ようそうしよう。きっと、そのうちこの世界にも慣れて、根を張る場所を見つけられるだろうから。
なんて、思っていたのがいけなかったのかもしれない。
「あ、あれ?なんかひっぱられ……引っ張られるうううっ!?」
物理的にというよりも、予定していた場所への転移を強制的に捻じ曲げられ、思い切り引っ張られるような感覚にイオリは狼狽した声を牢獄内へ響かせた。
とにかく形容しにくいが、この牢獄がある地下から真上の地上へ転移しようとしているのに、遥か離れた意図していない場所へ無理やり動かされるような、凄まじい違和感。しかも、それに抗おうとしても、抗えないほどの強制力を持っていらっしゃるようだから始末に終えない。
強制転移させられた場所が安全とは限らないので、結構必死に抵抗しているのだが…気分は運動会の綱引きだ。綱を必死に引っ張っている図が浮かび上がり、イオリは思わず乾いた笑みを浮かべた。
「何事だ?…ゆ、《勇者》が目覚めているだと!?」
「やばっ………あ」
しまったああああ!
どうやら牢獄内に反響する声が聞こえたらしい。
ひょっこりと出入り口から顔を覗かせた誘拐犯その一が驚愕の声を上げるのと、それに気を取られたイオリが綱を握る手を離してしまったのは同時だった。
たちまち強い力でイオリは文字通り引っ張られ、牢獄に残ったのは《勇者》が残したひええええという情けない悲鳴のみだった。
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船酔いのような気持ち悪さで頭がぐらぐらする。
予定していない場所へと無理やりに転移させられることが、こんなに気持ちの悪い事だとは思わなかった。まったく、か弱い乙女に何をするのだ!
白く染まっていた視界がゆっくりと戻り、イオリは恐る恐る目を開いた。
その途端、視界に映った光景に硬直する。
名匠が魂を込めて彫り上げた彫刻のように、整った造形。
白い肌には傷一つなく、触れれば滑らかな手触りに違いない黒髪は美しい光沢に輝いている。
そしてなにより、石榴石を思わせる、深い赤の瞳。
《魔王》がイオリを抱き締め、見下ろしていた。
「リッ、リーヴ!?なん…っ」
「よかった…」
なんで、という言葉は遮られる。
痛い程に体を抱き締める《魔王》様に、最初こそ驚いたイオリだったが、微かに伝わってくる振動にゆっくりと瞳を瞬かせた。これは、震えているのだろうか?
よく見れば、いつもピアスやらネックレスやら指輪やらと《魔王》様の至る場所を飾っている黒い装飾品――“封冠符”と呼ばれる、強すぎる魔力を抑える為の道具が一つもない。
ああ、なるほど。《魔王》様が全力でイオリを呼び寄せたのだ。
それならば、抗えないのも無理はないかもしれない。
少しだけ、イオリは泣きたくなった。
どうしてこの人は、いつもこうなのか。
離れるべきだと思っているのに、いつもこんなに優しいから。
だから、離れがたい。