その十七歩
壁に触れてみる。
それは、じめじめとした湿気を吸い込んでいて、余り良い感触ではなかった。
指先にこびりつく苔と思わしき謎の物体を落としつつ、イオリはちょっと遠い目をした。
「…誘拐拉致監禁?」
イオリは今、とてつもない窮地に立たされていた。
話せば長くなるし、涙無くしては語れないものだが…とっても端的に、事実を申し上げよう。
イオリは今、(たぶん)魔王城の(じめじめ具合からして)地下牢獄に閉じ込められている。
いわゆる、囚われのお姫様である。
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とても贅沢な悩みだとは思うのだが、イオリは非常に退屈だった。
朝食こそ、《魔王》を始めとする“六柱”の面々と食べているが、その後は皆各々の執務に専念してしまう。
ヤンチャさだけが取り得だと思っていた"雷獣"エストですら、結構真剣な面持ちで仕事をしているのだから……声が掛けられない。
だからといって何かしようにも、やんわりと《魔王》が石榴石色の瞳を細めて言外に大人しくしていろ、などとのたまうものだから、本格的にやる事がない。
あてがわれないのなら、自分で掴み取りに行けば良いじゃない!とあちこち回ってはみたが、どうやら《魔王》様が根回ししてくださりやがったらしく、何を言っても最終的には仕事を割り振って貰えない。何かで怪我をするといけないというのが《魔王》様の言い分だが、元々イオリはこの世界の精霊や神から加護を受けた《勇者》なのだ。この華奢で可憐な肢体に心配するのも分からなくはないが、本当なら《魔王》とやりあえる力を持っているのだから、多少は目を瞑ってくれても良いではないか!
本当に余計な事をしてくれる。ぷんぷんものだ。
朝食をとって、日課になった庭園を散歩して、庭師と話して、兵士達の訓練をぼうっと眺めて……午前中はまだいい。だが、昼食後は本格的にする事がなくなってしまう。読書はあまり好きではないし、誰かの話し相手になりたいと思っても皆それなりに忙しそうで、躊躇ってしまう。
「…はあ…どーしよ…」
快晴の空の下、庭園に設けられた噴水の傍に座り込み、イオリは溜息と共に空を見上げた。
雲の欠片一つも見当たらない空は、“今の”イオリの瞳と同じ色をしている。
元々純日本人だったイオリの黒い瞳は、この世界に召喚された時から空色へ変化していた。
当時は変わってしまった瞳の色と同じ空が大嫌いだったが、今では良い思い出だ。家族や友人を思い出すと、今でも胸はずきりと痛みを持って疼くけれど――いかんいかん、妙な悲観が入ってしまった。
とにもかくにも、この世界にイオリが召喚されてからというもの、すぐにリヴェンツェルと《魔王》討伐の旅を続け、旅の合間には勇者家業をやっていたイオリとしては、こんなに暇過ぎてどうしましょうってなものである。
旅をしていた間は、隣に居てくれた相棒がまさか《魔王》だとは露も知らなかった訳だし、《魔王》を倒して日本に……自分の場所に帰るという確固たる目標があった。思い起こせばがむしゃらに動いていたから暇だと思う時間なんて無かった。
だが、イオリがこの世界に喚ばれた理由と、《魔王》の正体を知って、この魔王城で保護に近い扱いを受けている今は、とてつもなく平和だ。良く言えば保護、居候、悪く言えばただ飯食らいの《勇者》なんて如何なものなのだろう。
「といっても…いくあてなんてないしなぁ…」
元々、この世界の住人ではないイオリに、帰る場所はない。
それならイオリという存在を歓迎してくれているこの場所に留まることこそが安寧を与えるのかも――などなど無為な考えに耽っていたせいで、誰かの気配に気付いた時には既に、柔らかな笑顔を湛えた身なりの良い男性がイオリのすぐ傍で佇んでいた。
「イオリ様、御初にお目にかかります。 私、第六軍の指揮を任されております、ウォルターと申します」
「えっ、あっ、はい! 初めまして…」
ここ魔国には、魔国軍というものが存在している。
軍は第一から第六まで分けられており、それぞれ筆頭が軍を率いている…というのが、《魔王》様ご本人による旅の間での授業から学んだことだ。
ちなみに、“六柱”達はその軍を更に纏める上位の位置にいるらしい。
人は見かけによらないというが…驚愕だ。勿論褒め言葉である。
指揮を任されている、と言ったか。
どこぞの貴族よろしく優雅な微笑みと丁寧な礼をイオリへ送るこの男性は、どうやら第六軍の筆頭のようだ。
深く頭を下げる男性につられて頭を下げたイオリは、敵だと教えられ続けてきた魔族の人間とこうして挨拶し合っているシュールさに思わず笑いだしそうになった。そんな失礼なことはしないようにすました顔で背を伸ばしはしたが、少しヒクついた口角には気付かれていない事を願うばかりだ。
「今はお一人なのですね」
「?…はあ、まあ」
にこにこと笑う男性は、少し人懐っこそうな印象だ。
間の抜けた声を漏らしたイオリだったが、どうにも妙な質問に軽く頭を傾げて――「好都合ですね」と物騒な呟きを最後に、きっぱりすっぱりと記憶がない。
これではまるで、かくかくしかじかでこうなりました状態であるのだが。
とにもかくにも。
イオリの意識が戻った時には、じめじめとして陰鬱な牢屋らしき場所へ閉じ込められていた。
石で作られた床の上に転がされていたのだから、当然といえば当然なことに身体が酷く痛い。あだだだ、と顔をしかめながら起き上がる姿はちょっと…いや、かなりババくさい気もするが、周囲に人気が無いのだから別段問題はない。うむ。
それにしても、とイオリは周囲を見渡した。
冷たく無機質な石の床は、魔王城の廊下に使われているものに比べていかにも適当に敷き詰めました感満載で隙間や高さも適当だ。壁も同じ材質だし、目の前には可愛い乙女を閉じ込めておくにはどうにも不恰好で、武骨な物々しい格子が聳え立っている。
小窓の一つも見当たらない室内は薄暗く、どんよりじめじめとした澱んだ空気が満ち溢れていることからして、地下に作られた場所のようだ。試しに、格子へ手を触れてみたところ、ぴりりとした刺激が走り、顔をしかめて手を離した。
この感覚からして、『魔封じ』が施されているらしい。まあ、当然といえば当然か。
魔法の使い手が多いこの世界で、ただ閉じ込めただけでは簡単に逃げられてしまう。それに対処するため、こういった場所は壁だったり格子だったり、至る場所に魔法による干渉を受け付けない仕組みが施されているものだ。せっかくさっさとトンズラする予定だったというのに、考え直さなくてはなるまい。
まったく、もうちょっと乙女に対する配慮をちょっとは考えてくださいってなものだ。
いくら精霊達の愛し子と呼ばれる《勇者》イオリであっても、『魔封じ』の施されている空間内で、格子や壁を破壊して逃げ出す事は不可能だ。だが、さっきの首謀者(に、違いない)第六軍の筆頭と名乗った男性は、イオリが腐っても《勇者》である事をお忘れのようである。
すう、と軽く息を吸い込んだイオリはゆっくりと目を閉じて意識を集中させた。
風の一陣すらも吹き込まない筈の空間で、ゆらりとイオリの髪を揺らすのは風の精霊達だ。
イオリの呼びかけに応えた精霊の気配を手がかりに、意識の手を壁の向こうへゆっくりと伸ばしてゆく。普段は集中せずとも鼻歌混じりにできる事が、今は『魔封じ』の内側から試みている為か、目には見えない探査の手は酷くゆっくりとしか感知野を広げる事ができない。
それでも、何とかかんとか感知の手を外へと広げきったイオリの脳裏に届けられるのは、精霊達を通して見る外の景色だった。
「おおう…」
てっきり魔王城の地下にでも放り込まれているのだとばかり思っていたのだが、思い違いだったようだ。びっくりして間の抜けた声を出したせいで、集中力が途切れて一気に意識を引き戻されてしまったイオリは、牢内の薄暗闇に目をしょぼしょぼさせながら、つい今しがた見た光景に思案する。
一日以上意識を失っていた訳ではないとしたら、イオリが意識を手放していたのはさしたる間ではないらしい。精霊の瞳に映っていたのは、まばゆい陽光にきらきらと輝く水晶の樹――それは記憶に新しい過去、《魔王》様と一緒に見た“水晶の森”に酷似していた。
あんなに綺麗な森の地下に、こんな場所が隠されていたとは。
魔国って怖いなあ…なんてのほほんと考えていたイオリの思考を引き上げたのは、牢の向こう側、目を細めてみてようやっと視認できる階段と思わしきあたりから響いてくる音だ。
カツン、カツ、と不規則に混じって響く音からして、どうやら複数人らしい。
ぼうっとそれを聞いていたイオリだったが、はっ、と顔を引き締めると冷たい床へ格子を背にして横たわり、目をつむる――いわゆる、寝たフリ作戦である。この際、冷たくて固くて痛いし、ちょっと苔とかカビっぽい嫌な匂いには気付かない事にしよう。
もしかすると、何か話を聞けるかもしれないし、情報収集は大切だ。それに、もし拷問のような事をされても…多少なりなら、問題はないのだから。
不自然に見えないように、柔らかく瞼を伏せ、一定の吐息を吐き出す。
よしよし、我ながら、劇団員も真っ青なご就寝中の演技だと思う。表情筋は一切動かさず、胸内でしめしめとあくどい笑いを零したイオリだったが、複数の足音が牢の前で止まり、視線を感じるとさすがに意識を空白にして、ひたすら意識を会話へと傾かせた。