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その十六歩

昨日、厨房での手伝いに懲りたイオリは、肉体労働ではなく頭脳労働での仕事に切り替える事にした。

料理の手伝いをする度にアレでは、イオリの心が持たない為ではない、決して。


 頭脳労働といって一番に思い浮かべるのは、やはり“六柱”の一人、“智将”の異名を持つあの人しかおるまい。

 そんな訳でオルトゥースの元を訪れた。

 イオリはすっかりと失念していたのだ、《魔王》を補佐する立場である宰相の彼が、居る場所を。


「……ですよね」


 “智将”オルトゥースの元を訪れたイオリは、全くもって不本意ながら、《魔王》の執務室に足を踏み入れる事になってしまった。

 そりゃそうである。《魔王》の補佐が仕事であるオルトゥースは、主にあたる《魔王》の傍に付き従っている事くらい、大して頭の宜しくないイオリでも分かる筈だ。すっかり失念していたが。

 思わずイオリは室内に居る人物に乾いた笑みを浮かべて、諦めた声をそっと吐き出した。


「嬉しいなあ、イオから俺に会いに来てくれるなんて」


 ちょっとした用事で不在ならいいな、なんて思ったのは間違いでした。

 一国を纏める中枢である執務室は、《魔王》の寝室と同じで無駄なものが置かれていない質素なものだった。

目立つ家具といえば、室内の中央に置かれた執務机と応対用のソファくらいだろうか。

 側面には職人が魂を込めて彫った緻密な紋様が浮き上がり、どっしりとした佇まいが美術的価値(アンティーク)さをより高めている。だが、深い飴色に色を変えた机はどこか温かみもあって、落ち着いた内装の執務室に良く合っているのだが、テラスに面した大きな窓を開け放ち、カーテンをそよめかせる心地良い風に黒い艶やかな髪を揺らしながら心底嬉しそうに笑う《魔王》のおかげで、イオリの気分はダダ下がりである。


「リーヴにじゃなくて、オルトゥースさんに用があるの!」

「えー…」

「…私にですか?」


 一気に不機嫌顔でぷい、と明後日の方向を向く《魔王》リヴェンツェルは放っておく事にして、自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったらしく意外そうに首を傾げるオルトゥースの傍まで近付くと、イオリは極力リヴェンツェルに聞こえないよう、音量を落とす。


「はい、何かお手伝いできる事がないかなって思って。 オルトゥースさんも、リーヴの面倒ばっかり見て大変でしょうし、簡単な書類の整理くらいならできますから」

「ああ、成程。 仕事を探していらっしゃるのですね」


 昨日の“芋事件”の概要はオルトゥースも知っているようだ。

 全部を話さずとも、納得顔で頷くオルトゥースは流石に先を読む力がある。


「そうですね……ですが…。 えー…」


 どうにも煮え切らない声色で、困ったようにイオリを見下ろす狐目がふと驚いたように見開かれた。

 おお、髪と同じ深い紫の瞳だったんですね、男前ですよ!

 なんて思う暇も無く、珍しく驚いた様子の視線を辿る先は――イオリの背後だった。


「……なんでオルスに聞くの?」

「ひえっ…」


 イオリの耳元でそっと囁く声は、玲瓏(れいろう)と澄んでいた。

 思わず、首を絞められたときのような悲鳴がイオリの口から漏れる。

 

「どうして、俺に聞いてくれないの?」


 いったい、いつの間に!

 ぎょっと振り返ったイオリの瞳に映ったのは、ほんのつい先程まで執務机の前に座っていたはずだった《魔王》リヴェンツェルだった。

 何も知らない人達なら、一瞬で見惚れてしまう程に整った顔。さらさらと揺れる黒髪は濡れ羽のように美しく、黒を引き立たせる石榴石(ガーネット)色の瞳は職人が技巧を凝らしたような端正さで輝いている。

 麗貌(れいぼう)の湛える蠱惑的な笑みは、世の女性達をさぞや虜にする事だろう。


 だが、その微笑を一身に受けたイオリといえば、蛇に睨まれた蛙よろしく硬直していた。

 心なしか顔色も青ざめている。それはそうだろう、ぱっと見は笑っているようだが、リヴェンツェルがこの表情を浮かべる時は“とても怒っている時”なのだ。


 ああ、オルトゥースさんの愛称はオルスなんだー。仲良いんだなあ。

 咄嗟(とっさ)の防衛反応で一瞬思考を放棄し、何やらお花畑な事を考えたイオリだったが、それを許してくれる相手では当然なかった。ちくしょう。

 自分の手よりも大きくて、少しだけ骨ばった滑らかな掌が頬にそっと添えられると、忽ち体は魔法にかけられたようにして動かなくなる。


 こちらの世界にイオリが召喚されて元の黒色から変わってしまった空色の瞳に、鮮烈な石榴石(ガーネット)色が映り込む程に距離が近付く。

 爆発寸前に鼓動を早める心臓の音が、聞こえてしまうのではないかとイオリがふと心配になる程、今やお互いの距離は密着寸前だった。


「ねえ、…イオ」

「なっ、ななんでしょうかリーヴさんっ!」


 上擦ったイオリの声が執務室にきん、と響く。

 頬を撫でる手が上下に優しく動く度、自分のものとは違う温もりが肌を伝わって溶けてゆくようで、くらりとイオリは眩暈を覚えた。


「仕事。 したいんだよね」

「そ、そそそうですね、し、たいです…」


 必死に助けてテレパシーを“智将”オルトゥースに送ってみるものの、長いものには巻かれる主義なのか、そっと視線を逸らされてしまった。薄情者め!

 どうやら、その行動が宜しくなかったようだ。切れ長の瞳が細められた――と、思った刹那、瞬きの合間に周囲が一変して、ひえええええとイオリは喉の奥から悲鳴を漏らした。



「それじゃあ、今日は仕事に疲れた《魔王》の散歩に付き合って貰えるかな。 《勇者》様?」



 遥か足元に広がるのは、魔国の城下町。

 にっこりと(とろ)けるような極上の笑顔を湛える《魔王》様の手だけに支えられて、イオリは魔王城の執務室から一瞬で空高くに滞空していた。


「むりむりむりむり!!!!高い!高いーーーっ!」


 高い…高い、高い高い!!

 眼下に広がる瀟洒(しょうしゃ)な街並みの間から人々の往来がかろうじて見えはするが、小さな蟻くらいの大きさでしか確認できず、世界が回る感覚に襲われて思わず目を瞑る。

 絶対にダメという訳ではないのだが、イオリは高い場所が苦手だった。

 二年もの間、共に旅をしてきたのだから、この《魔王》様がそれを知らない筈はない。

 だというのにこの仕打ち、どう考えてもイジメとか八つ当たりとかに絶対違いない。

 

 いい大人が、嫌なこと一つあったくらいで善良な乙女を怖がらせるなんて大人気ないぞ!と心中で罵詈雑言の嵐を目の前で笑う《魔王》へと向けてはみるが、実際に喉から出てきたのは恐怖に染まった悲鳴だった。ああ、情けない。


「お、おろして……」

「どうして? 今日は天気も良いし、絶好の“空中散歩”日和じゃない?」


 我ながらへっぴりごしなお願いである。

 それに返されたのは満腔の麗しき笑みが齎す流水のような声と、笑顔。

 滴るような悪意を《魔王》に感じ、イオリが非難をする余裕は、無かった。


 まるで子供をあやすように、この《魔王》様は身体を軽く揺すったのだ!!

 ゆらゆらと揺れる視界、頬を撫でる風はこんなにも心地良いのに、足元にイオリの身体を支える地面はない。


「―――っ!」


 頭が真っ白に染まる。

 こわい、こわい。

 

 次の瞬間、イオリはリヴェンツェルの首筋へ溺れかけた遭難者宜しくしがみついていた。

 そのまま景色を見ずに済むよう、しっかりと顔を押し付ける。


「イオ…イオリ!ごめんっ、驚かせ過ぎた…」


 上方からリヴェンツェルの心底驚いたような声が鼓膜に響いてくるが、知ったことではないのだ。

 手を離してしまうと落ちる気がして、ぎゅうぎゅうとイオリは《魔王》にしがみつく。

 これが違う場面であったなら、男女が空中で抱き締めあうという何とも幻想的な光景だ。しかしながら、誰がどうみても少女が死にそうな顔で必死にしがみついているあたり、甘い雰囲気も何もない。


 先程から何度もリヴェンツェルは謝罪を繰り返しているが、それに返されるのはふぐふぐといった言葉にならない言葉の涙声だ。

 《勇者》には見えないが、《魔王》として君臨し、民から畏敬を抱かれている彼は今、大層焦っていた。

 多少からかった後、二人で空の散歩を楽しむ算段だったというのに――やりすぎた。

 落ち着かせる為、華奢で小さな背中を何度か撫で擦りながら、《魔王》は考える。


「イオリ。 ほら、見てごらん」


 存外にしっかりとした腕がイオリの身体を支え、背中には衣服越しに撫でる感触。

 鼓膜を震わせていた風切り音と、髪を揺らす風はいつの間にか感じられなくなっている。

 優しく空気を震わせるリヴェンツェルの声に、イオリは恐る恐るではあるが顔を持ち上げた。


「……わ…!」


 いつの間にか、城下町の上空から、見知らぬ森の中にイオリとリヴェンツェルは佇んでいた。

 

 目の前には(さざなみ)が微かに揺れる透明な湖。

 水はとても澄んでいて、横切る魚達や、湖の底まで見えてしまうくらいに美しい。

 けれど、何よりイオリの意識を奪ったのは、湖の周囲に屹立(きつりつ)する樹木だった。

 その樹は、幹も、枝も、天に向けて広がる葉も、全てが透明な鉱石で出来ていた。


「ここって……もしかして、“水晶の森”?」

「うん、そうだよ。 前に、イオが来てみたいって言ってただろう?ここは“魔国”の領域だから、イオに真実を話したら連れて来ようって思ってたんだ」


 覚えていてくれたのか。

 ちょっとした驚きを込めてリヴェンツェルを見ると、《魔王》はにこりと微笑んだ。


 そう、まだ目の前の人物が《魔王》だと知らずに"真人類帝国"を旅していた、ある時。

 世界のどこかには全てが水晶で出来た、それは美しい森があると聞かされた事があったのだ。

 《魔王》を倒したら一緒に見に行こう――そんな、何気ない遣り取り。


 実際には彼自身が《魔王》で、誤解が解けた今は倒す必要もないのだけれど。

 と、ここでイオリは、はた、とリヴェンツェルへしがみ付いたままだった事に気付いた。

 慌ててリヴェンツェルから離れると、何故か少々残念そうな顔をされたのだが、見なかったことにしよう。


 試しに湖のほとりへ近付いて、よくよく覗き込んでみた。

 驚く事に、湖の底にも水晶の結晶が至るところにきらきらと輝いており、水中を優雅に泳ぐ魚達も食用というよりは、神聖で不思議な存在感を醸し出している。

 湖の水を両手に掬って飲んでみる。水はほんのり甘く、木の葉と土の味がした。

 

「きれい…」

「気に入った?」

「うん!」


 イオリの傍へ近付くリヴェンツェルの石榴石(ガーネット)色の瞳も穏やかに撓められていて、何だか久し振りに心が凪いでいくような心地を覚える。

 イオリの生まれ故郷である日本では勿論のこと、“真人類帝国”でもこんなに素敵な場所は見た事がない。リヴェンツェルの質問に勢い良く頷くのは当然である。


「…あ、そういえば…こうやって、外で二人になるのは久し振り」


 そう、随分と久し振りだ。

 《勇者》として帝国を行動していた二年間は当然のように過ごしていたが、事実を知った今となっては、かなり貴重な経験だった事くらいイオリでも分かる。

 なんやかんやでいつも振り回されているイオリだが、リヴェンツェルが《魔王》として、一国の主として夜遅くまで執務室に籠もっている事くらいお見通しなのだ。


 今日だって空中散歩という罰ゲームもどきを体験させられはしたが。

 それでも、忙しい中で“水晶の森”へ連れて来てくれた事に免じてヨシとしよう。

 乙女は常に寛大で広い心が必要なのだ。


「また、来よう」

「…うん」


 森に満ちる不思議な空気のおかげだろうか。

 陽光に水晶が反射し、美しく玲瓏な光景を眺める二人の間に言葉は少ない。

 二人の穏やかな表情が全てを物語るのだから。



「……でも、今度は空からは、ナシにしてね」

「…ハイ」



 ちょっぴりの恨み言くらいは、言っても罰はあたるまい。



 


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