その十ニ歩
清々しい朝日の光が大きな窓辺から差し込み、ベッドにも明るい日差しを注ぐと、イオリは眩しさに意識を浮上させた。
寝ぼけている思考に、直射日光は些か強烈である。
眠気も相俟って、二度寝をするべくベッドに潜り込もうとして――なにやら動けない。
「……ふ?」
寝返りを打とうにも、硬い何かに身体を包まれている。
イオリは低血圧気味で、朝が頗る弱い。
未だに中々開かない瞼を、苦労して薄く押し開いたイオリの視界に飛び込んできたのは、白い"壁"であった。
「……んー……?」
ベッドに壁?
まさか、寝相が悪すぎて床と仲良くなっているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。床にしては柔らかく、じんわりと温かい。
中々明瞭にならない視界をやっとこさ上へと持ち上げたイオリは、思わず硬直した。
「――ッ……!?!?」
絶叫しかけた言葉を、すんでのところで飲み込んだのは、我ながら天晴れだと思う。
眠気など、一瞬のうちに遠い彼方へ吹き飛んでいた。
吐息が掛かる程近くに、端正な《魔王》様の顔。
何故かイオリは、眠るリヴェンツェルにしっかりと抱き締められて、同じベッドで惰眠を貪っていたのだ。眠った時には、確かに一人だったのに!
試しに、リヴェンツェルを起さないようにして、腕の中から抜け出してみようと試みてはみたが、少し身体が離れた途端に再び抱き寄せられてしまい、お手上げである。
うぐうぐ、とイオリは喉の奥で情けない呻き声を漏らした。
なにがどうしてこうなった。人知の及ばないところで神とやらが悪戯を仕掛けているとしか思えない……等と、イオリは現実逃避しかけたが、目前にて長い睫毛を伏せ眠るリヴェンツェルへ視線が吸い寄せられる。
白く柔らかい枕と、シーツに広がるサラサラとした漆黒の髪。
今は伏せられているが、瞼の下には柘榴石のような、煌く瞳。
顔の作りも整っていて、朝日に薄らと照らされる姿など、精巧な人形にすら見える。
非の打ちどころが無い。というか、無さ過ぎて逆に怖い。
こうやって見ると、いかに普段リヴェンツェルは表情豊かなのかと思い知らされる。
笑っていても、怒っていても、何時もリヴェンツェルの双眸は柔く撓められているからこそ、イオリは怖さを感じなかったのだ。
それにしても、とイオリは思った。
表情の全く無いリヴェンツェルは怖いのだが……その、両手はしっかりとイオリの身体に回されている訳で。そこだけ、妙に子供っぽい。
普段は、イオリが赤面した挙句憤死しそうな言葉の数々をサラリと言った挙句、過剰に次ぐ過剰なスキンシップで毎度イオリの寿命を縮めるくせに、今眠る姿は何処か別人のよう。
時折小さく震える長い睫毛を、イオリは微笑ましい思いで見詰めた。
相手は寝ているのだ、折角の安眠を妨害するのはいただけな、
「……そんなに顔を近付けられたら、キスしちゃうよ?」
奇麗な、柘榴石色の瞳が。
イオリの空色の瞳と、間近で混ざり合って。
「にぎゃーーーーーーーーーっ!!」
●●●●●
「……ごめんなさい」
「いいよ、怒ってないから」
イオリは、海よりも深く、深く猛省していた。
眠っていたとばかり思い込んでいたリヴェンツェルは、どうやらとっくに御起床されていたらしく、しげしげと顔を覗き込んでいたイオリと間近で対面する事になった。
相変わらず余裕綽々の《魔王》様に比べ、頭の中が光速で真っ白になったイオリは、本能が叫ぶ侭に絶叫を上げ、何事かと室内へ飛び込んできた近衛の兵士達にこれまた悲鳴を上げ、朝から大騒ぎした訳なのだが。
部屋のすみっこに縮こまり、野良猫よろしくフーッと警戒するイオリへ苦笑しながらリヴェンツェルの言った言葉にイオリは目を点にした。
即ち、「此処、俺の部屋だよ」と。
愕然として室内を見渡すと、なるほどイオリに宛がわれた部屋とは内装が異なり、全体的にモノトーンな色調で整えられている。
何事かと室内へ雪崩れ込んできた近衛の兵士達も、原因がイオリであると分かった途端に込み上げる笑いを噛み殺すような微妙な表情で見てくるし、《魔王》様は何やら非常にご機嫌でいらっしゃるし、余りの恥ずかしさにイオリは部屋を飛び出して自室に逃げ込んだ訳なのだが。
心配した"六柱"のミルカとアンデルベリによって広間へと連れて来られ、未だに狼狽えるイオリをよそに、小憎らしくなる程飄然としたリヴェンツェルによると、どうやらイオリは昨晩寝惚けて部屋を間違い、あろうことかリヴェンツェルのベッドに自ら潜り込んできたらしい。
全然覚えていない。が、起きた場所がイオリの部屋にとされた場所ではない以上、言い訳する事も出来ないし、なにより低血圧なイオリが寝惚けている状態だと、絶対にない!なんて自信を持って言えない辺り、今すぐにでも穴があったら入りたい。
穴が無いなら掘ってでも潜り込んで、数日出て来たくない。
「イオリちゃんは可愛いわねえ、きっと、怖い夢でも見たんじゃないかしら?」
胸元が大きく開いた黒いドレスに身を包み、今日もナイスなバディを惜しげもなく晒したミルカが、朝食のサラダを優雅に食べながら、妹を見るような目でイオリへと視線を注いだ。
怖い夢を見たらリヴェンツェルのところに行くのか。
それはそれで問題だと思う。
「王……機嫌」
黙々と朝食を食べるアンデルベリが、ふと、手を止めて《魔王》へと金の瞳を向けた。
相変わらずこの"死神"はぶつ切りの単語言葉で要領を得ない。だが、今のイオリにはアンデルベリの言いたい事が容易に想像できて、頭を抱えたくなった。
これは絶対に「王よ、今日は頗る機嫌が良いですね」だ!
案の定、《魔王》様は極上の笑顔を湛えていらっしゃいました。
「まさか、イオリから夜這いをしに来てくれるとは思わなかったよ」
誰が!いつ!夜這いなんてした!?
「してません!寝惚けて、部屋を間違えただけ!」
朝日の眩しい時間帯だというのに、蠱惑的な笑みを湛えて艶っぽく笑う《魔王》様に、イオリはうそ寒い身の危険を全身に感じ、片手に持っていたフォークをサラダの巨大トマトに突き刺しながら、勢い良く首を振った。
ここで誤解させては、イオリの平穏は訪れない。
大体、この魔王城に居候させてもらうようになってから一月程が経っているが、毎日イオリは驚いたり、焦ったりしてばかりなのである。主な元凶は、言う間でもなかろう。
「冗談だよ。 でも……」
剣呑な視線に気付いたのか、柘榴石の瞳を片目だけ瞑って茶目っ気たっぷりにウインクなぞ寄越してきた《魔王》様に、イオリは軽く溜息を吐き出した。
だが、次の刹那にはその瞳に肉食獣のような、ちろちろと燃えるような炎を垣間見る錯覚を覚え、思わずイオリは壊れた人形よろしくガクガクと首を縦に振る羽目となった。
「次は、容赦しないからね?」
「きっ、気をつけます!!」
小さく、温かな、愛おしい存在。
傍らで無防備に眠っている姿を、何度も晒されては。
我慢なんて、できないから。
ねえ、気をつけて、
男は、誰だって狼だよ?
とか言って、魔王様は一睡もできていなかったり(笑)