その九歩
イオリに触れる時は、躊躇いとか恥じらいとか全く無しで。
こっちが恥ずかしくなるくらいベタベタしてくるのに。
こんな時だけ、まるでイオリが消えてしまうんじゃないかって恐れているように、触れる手付きは恐る恐るなのだ。
今だってそう。リヴェンツェルの人差し指が目尻に触れているけれど、触れているのかいないのか分からないくらい、そっと、そっと、肌だけに掠めるように、触れている。
強く触ると、壊れてしまうと言いたげに。
「リーヴって……ばかだなあー」
思わず心の声がぽろっと出てしまった。
あ、びっくりしてる。切れ長の瞳が少しだけ見開かれて、柘榴石色にイオリの瞳の色が映り込む。赤と青が、不思議に瞬いて、混じり合う。
細い銀環に黒石が輝く封冠符を細いけれど、女性とは違うしっかりした片手の手首に填めてから、イオリは少しだけ目尻を細めて直ぐ近くの瞳を見上げた。
空気の震える音を残して、また少し《魔王》の力は抑えられる。
「壊すだけじゃないよ」
空の青さ、朝日の眩しさ。
夜の静寂。
笑顔になること、誰かを心配すること。
照れたり、怒ったり、泣いたり。
想い、願い、決意。
全部、全部。
この世界を憎んでいた、私に。
あなたが、わたしにくれたもの。
「リーヴは私に沢山、くれたの」
ありがとう。
あなたが居なければ、きっと私は狂っていた。
理不尽さに、ぶつけられない憎悪に、暗い焔に焦がされて。
それでも、あなたが《魔王》の枷に苦しむのなら、ねえ、私は《勇者》だよ?
《魔王》を止めるのは、《勇者》の役目でしょ?
「それに、何でも壊そうとするなんて《勇者》の私が許さないからね。 ……ふふー、ほら、つかまえた!」
最後の封冠符がリヴェンツェルの身に装着されると、硝子を金属で叩いた時のようなキーンという音が最後に響いて、たゆたっていた魔力が《魔王》の中に封じられた。
机に突っ伏していた"六柱"の四人も、強い魔力から解放されて軽く呻き声を上げながらゆっくり起き始めている。この調子なら、城の皆や広間の扉前で丸くなっている筈のアンクノウンもじきに回復するだろう。
よしよし、当初の目的は果たせたぞ。
きちんと機能を果たしているらしき封冠符の装身具へ満足気に小鼻を膨らませると、イオリは未だ唖然としているらしいリヴェンツェルの顔を真っ直ぐに見上げた。
「全くもう!リーヴは私がいないと、ダメなんだからー!」
ありがとう。とか、ごめんなさい、はちょっと違う気がした。
だからイオリは少しだけ恥ずかしそうに、それでも、わざとらしく胸を張ると、威張るようにそう言って、笑みを浮かべた。
今度は、私があなたの傍に居る番。
恥ずかしくてそんな事言えないから、笑顔に変えて。
「イオリ」
意味が伝わったのか、凝固したように身動き一つしなかった《魔王》は、《勇者》の名を吐息交じりに呼ぶと、少しだけ躊躇った後にイオリの頬へと掌を触れさせた。
温かい人の体温が肌から伝わってくる。珍しく緊張しているのか、《魔王》の手は少しだけ強張っていた。
「……イオ、君は」
深い色を湛えた柘榴石色の瞳が揺らいで。
まるで、泣いているよう。
「俺の、傍に?」
何だか"死神"のアンデルベリみたいに片言になっているけど、まあ多分一緒に居てくれるのか?的なニュアンスだろう。
リヴェンツェルは今迄イオリの傍に居てくれたのだから、今度は自分の番だ。
ただ、やっぱり言葉にするのは恥ずかしいので、神妙に頷くだけだったけれども。
「イオ……イオリ、……」
折角、感動というかお涙頂戴の場面だったのに。
頷いた瞬間、思わず前言撤回して謝って逃げ出して、穴を掘って隠れたくなる程イオリの名前を耳元で連呼すると、時には威を宿す瞳が、艶やかにイオリを見据えて――ち、ちちち近付いてえええ!?
「ちょっ、り、リリリーヴッ」
まてまてまてまて!
なんだその凄絶な色気は、今すぐ引っ込めなさい!
おかしいぞ、ここは二人でニッコリ笑い合ってハッピーエンド……あれ、おかしいな。さっきよりも距離が近いぞ。
艶っぽい瞳にこれ以上近付かれたらまずい。早く目を逸らさなければと思うのに、まるで魔法を掛けられたように、視線を逸らせない。
彼の手が触れている頬から熱が伝わって、びりびりと痺れるくらいに熱い。
心臓が、破裂しそうなくらい血液を大量に身体中へ巡らせていて、きっと今のイオリは完全に顔が茹で上がっているに違い無い。
近い!近い近い近い!
世界のトップモデルも真っ青なくらいに奇麗な顔立ちをした青年が、蕩けそうなくらい熱を持った視線でイオリを捕らえて。手は、イオリの頬に触れていて。
その、段々近付いて。甘い吐息が、唇に触れる。
気絶するのと、彼の瞳が見えなくなるのは、いったいどちらが先だろうか。
吐息ではなくて、暖かな温度が――。
「――こんの、馬鹿王!封冠符を外すなとあれほど……」
大音量で広間の大扉が開け放たれると、片手にぐにゃんとしている真っ黒な子犬を引っ掴んだ"炎帝"ヒュールが、肩で息をしながら怒鳴り声を広間に響かせた。
ぴくり、とリヴェンツェルの動きが止まる。その隙にイオリは死に物狂いで《魔王》様の腕の呪縛から逃れて、"六柱"唯一の女性である"氷雪の魔女"ミルカの傍へ世界記録並の素早さで逃げ込んだ。
た、助かった!何て素晴らしいタイミングで来てくれるんだこれからイオリ専属幸運の女神……神様と呼ぼう。
「よしよし、イオリちゃん怖かったわねー」
あんまり恥ずかしくて顔を青くしたり赤くしたりしていると、見かねたミルカが頭を優しく撫でてくれた。滅茶苦茶良い匂いがして、落ち着く。お姉さんみたいだ。
対するヒュールは落ち着いてもいられないようで、恐ろしい迄に表情を消した《魔王》がゆらりと立ち上がったと思ったら、何の材質で出来ているのかも分からない大扉が……その、一瞬で音も無く破裂して……砂になりました。
静寂。静寂。
体調が回復してやっと立ち上がっていた警備のおにいさんが、再び泡を吹いて昏倒しているのを哀れに思う暇は今のイオリには無かった。
ちょ、なにそれ封冠符効果は?
「ヒュール……」
決して荒げている訳ではないのだが、落ち着いた声には滾る程の冷酷な感情がちらちらと覗き見えて、その威を直接ぶつけられている"炎帝"が顔色を青くした。
ありがとうヒュール、あなたの犠牲は忘れない。南無。
それから、何とかイオリと皆で《魔王》様を宥めたのは暫く後の事。