その八歩
行き当たりばったりで戻らなくて良かった!
イオリは目の前を先導して走ってくれる小さなまっくろもふもふの子犬に感謝した。
何せ、本当にこの魔王城は意思を持って動いているんじゃなかろうかと疑いたくなる程、城内の様子がくるくると変わるのだ。
唯一まともな道筋は、城の入り口から玉座の間にかけての距離くらいに思える。
だからイオリは、迷わずに玉座の間まで行けた訳である。魔王城の内部全てがこうなら、対決云々の前に迷子になっていたかもしれない。
迷子の迷子の《勇者》さん、あなたのおうちはどこですか?
懐かしいフレーズの替え歌がふと脳裏に浮かび、イオリは子犬姿のアンクノウンを追う足は止めない侭、少々遠い目をした。駄目だ、リアル過ぎてわらえねえ!
それにしても、とイオリは周囲に視線を巡らせた。
魔王城には警備の兵や、メイドさんのような格好をした人が複数常駐して居るようなのだが、目的の場所に近付いて行くに従い、壁に寄りかかっていたりだとか床にしゃがみ込んでいたりだとか、とにかく皆々顔色が真っ青で体調が優れないらしい。
イオリが広間から飛び出した時は、こんな風ではなかったので、《魔王》リヴェンツェルが力の制御を行う封冠符と呼ばれるものを外した事に何かしらの原因がありそうではあるのだが、如何せんイオリは何ともないので判断しようがない。
そういえば、庭園を駆け出した時は追い掛けるのがやっとくらいだった子犬の走る速度も、心なしか鈍くなっているような……。
イオリには精霊の加護が付いている為、寒さ暑さ或いは呪術の類に渡るまである程度の耐性があるのだが、それのお陰なのか、それとも単に自分が鈍いだけなのか。
……自分の尊厳のためにも、前者という事にしておこう。鈍くないぞ、決して。
「くろちゃん!……大丈夫?」
見覚えのある扉の前までやっと辿り着いたと思ったら、立ち止まった子犬の毛が警戒している猫のようにブワリと逆立ち、小さな身体がブルブルと震えだした。
イオリは慌てて子犬を抱き上げると、小刻みに震える身体を撫でて結界魔法を掛けてやる。こうすれば多少の強い気配も耐えられる筈だ。
どうやらイオリの魔法は子犬――アンクノウンに効いたらしい。
ぐったりとはしているが、震えの落ち着き始めた身体を扉から少し離れた壁際にそっと横たえた。クルリと身を丸める姿を見届けてから、イオリは扉の前に立った。
「恥ずかしいとか言ってる場合じゃないよね、うん。 ハタ迷惑な《魔王》を止めないと」
つい先程まで泣いていたのだ。
鏡が無い為分からないというか、余り確認したくないがきっと顔は酷いことになっている。
だが、帝国を滅ぼすだの、味方だろうに城の人まであんなふうにするとは言語道断である!どうやら普段通り動けるのはイオリだけのようだし、頭の一つ引っ叩いて早く封冠符を付けてやろうそうしよう。
大きな扉はイオリだけでは開けないが、両手に"風"を纏わせると、暴風を叩き付ける勢いで広間へ通じる扉を押し開いた。
「リー……ひえっ!?」
警備の兵は泡を吹いて倒れ伏しており、ピクリとも動かないし、広間に残っていた"六柱"の四人ですらテーブルに突っ伏している。一番体格の良い"死神"のアンデルベリでさえ、そうなのだ。
死屍累々―!?とイオリが心の中で悲鳴を上げたのも致し方あるまい。
だが、よくよく見ると皆苦しそうではあるが息をしている。
思わずほっと安堵したイオリだが、すぐに思い直した。そして、心なし強めた視線をギッと一人悠々と椅子に座る《魔王》へと向けた。
黒いマントが何とも言えず似合っていますね……じゃなくて!
「リーヴ!何してるのっ!」
「イオ」
柘榴石色の瞳がイオリを見ると、少し驚いたように見開かれて、次には愛おしいものを見るような、蕩けるような視線でイオリへと注がれた。
これだけで、既にイオリの精神的なゲージがだだ下がりしている心地がする。
うはああああ、そんな目で見ないで下さい滅茶苦茶居心地悪いというか照れる!
本来なら、こんな奇麗な人にこんな声で名前を呼ばれたら悶絶モノなのだが。
必死に自分を奮い立たせると、イオリはリヴェンツェルの座る椅子の傍へと駆け寄った。
「俺は何もしていないよ?」
「何もって……ヒュールから聞いたよ。 封冠符を外したんでしょ?」
イオリが見る範囲では、ピアスやネックレスなどの装飾品……本来は封冠符と呼ばれる道具を、リヴェンツェルは何も身に付けていない。
だからこそ"六柱"を始めとする魔族でも、《魔王》の力にあてられて、動けないほど弱ってしまっているのだから。
「ふうん、ヒュールね……」
地を這うような不穏な呟きは聞こえない事にするとしよう。
後から冥福を祈っておこう、とイオリは《魔王》の声を無視することにした。
「とっ、とにかく、封冠符――ををををっ!!?」
唐突に視界が反転し、声が裏返る。
座っている状態から一体どうやって、と褒めたくなる程鮮やかな手付きでイオリはリヴェンツェルの膝上へ座らされた事に気付いたのは、間近で輝く柘榴石色の瞳と端正な顔に一瞬思考を放棄した後だった。
「まままっま前と違って何かスキンシップが激しいですね!でも私は日本人であって、欧米のスキンシップには慣れていないんですよ!まずはお辞儀からの国出身なんです!」
「イオは面白いなあ。 はい、コレが封冠符……イオリが着けて?」
思考が崩壊した侭、あわあわと狼狽するイオリをリヴェンツェルは目を細めて見ると、徐にイオリの手へ幾つものアクセサリーを手渡した。
ピアスにネックレス、指輪や深い闇の色を湛えた、黒石の装身具。
不思議な色で時折揺れる封冠符に見入っていたのは少しだけで、イオリはぎょっとリヴェンツェルへ顔を持ち上げて――直ぐに俯けた。ちちちち近い近い。
「じ、自分ですればいいとおもいま」
「イオがしてくれなきゃ、嫌。 それに、俺はこのままでも構わないし?」
イオと二人っきりだしね、と爽やかな声が黒く感じるのは私だけでしょうか。
苦しんでいる人達を前にして、平気で居られる程イオリは図太くない。
だからといって、この《魔王》が自分でやるとは最早思えないし……結局、イオリがやらねばならぬのだ。
苦悶している間にも、この唯我独尊な《魔王》様はイオリの髪を一房梳くって……その、唇を触れさせて楽しんでいらっしゃいました。悶死させる新手の拷問か!?
恥ずかしさの余り泣きそうになる自分を叱咤しつつ、手渡された封冠符を膝の上に落とすと、イオリは心の準備を固めて勢い良く顔を持ち上げた。
「リーヴ!じっとして!」
イオリの黒髪と戯れる顔へ手を添えて、ぐいぐいと上に持ち上げたなら、奇麗な瞳とかち合う羽目になった。自分がやった事とはいえ、物凄い恥ずかしい。
「積極的だね」
「ちがーう!!」
この勘違いっこめ!
第三者が見たら、リヴェンツェルの顔を包み込んでいるイオリはその、いろいろとアレな状態に見えない事もないが、そんなやましい気持ちは絶対にない。ないったらない!
真面目に相手をしていたら、いつまで経っても事が進まないと感じたイオリは、嬉しそうに笑うリヴェンツェルの顔を極力見ないようにしながら、先ずは封冠符の中でもピアスの形状をしたものから装着してゆくことにした。
右に二つ、左に一つ。イオリはピアスを開けていない為、今一要領を得ないのだが、何とか四苦八苦しながらピアスホールにピアスを通し、金具で固定させる。
キン!という空気が震える音と共に、少しだけリヴェンツェルの纏う気配が薄らぐ。
封冠符はきちんと効果を発揮しているらしい。この調子で、とピアスの次にネックレスを首周りへ回しながら、(やっぱり恥ずかしくて顔は見れないのだが)イオリはふと浮かんだ疑問を《魔王》へ問い掛けた。
「……どうして、帝国を滅ぼすなんて言ったの?」
「それも、ヒュールかな?存外お喋りだね、"炎帝"も」
ヒュールの命が縮まった気がする。ら、来世では幸せに。
声だけでいえば、先程と全く変わっていない。激しさはなく、凪いだ風のように穏やかなリヴェンツェルの声。
しかし、長年共に過ごしたイオリには、彼が静かに怒りを湛えているように感じられた。
「イオリを傷付けたから」
「……はい?」
「イオリ。 イオ、君はね、払わなくて良い対価をこの世界に払っている……本来、払わなければならない者の肩代わりとして。 イオは望んでいなかったし、出来もしない約束だけを救いにして、――結果、傷付いている」
指先が目尻へそっと触れた。
誘われるようにして、彼の目を見ると、怒りと悲しみと、無力感を湛えたような揺らいだ瞳がイオリと重なった。ああ、この人は自分を責めているんだ。
《魔王》だと言えなかったこと。
元の世界にイオリが戻れないこと。
イオリに言えなかった沢山の事を、この人は。
「俺は、《魔王》だから。 壊してしまうしか、出来ない」
紳士的で、器用で、何でもそつなくこなす人だと。
本当は、こんなにも不器用で、沢山悩む人だった。