新しい朝から
ぐっと身体を反らして伸びをして、それでも欠伸が出るのは仕方がない。まだ朝も早い日曜日の午前4時、薄闇の中に居る。イヤホンから流れるのは300年前、地球で流行した父さんから教えてもらった古いナンバー。疾走感のあるギターリフが、まだ眠気の残る脳を突き動かしてくれる。
人類が宇宙に進出してもう二世紀が経つ。
新たな居住地を宇宙に求め、人類が建造したのが月と地球との星間に群を成す、このコスモドームだ。名前の通りドーム状をしており、天蓋部分は協定世界時を基準に朝から夜にかけ太陽からの光を調整する調光ガラスに覆われ、今の時間帯はいつもと変わらず宇宙の彼方までを映している。
そんなガラスドームがきちんと役割を果たせるよう日々磨き上げるのが、調光硝子外観美化担当北東支部に所属する女子高生、寧々森ねねねの大切な仕事、アルバイトである。
「よし」
三つ編みにして後ろで一つに結び上げた亜麻色の髪を弾き、ぽんと軽く両の太腿を叩き改めて気合を入れる。支部の車庫にはもうねねねとその愛機しか居ない。みんな一様に飛び立ってしまった後だ。自身もまた出発しなければ。
ここ第15コスモドームの大きさは直径50kmに及び800万人近くの人々がそれぞれ生活を営んでいる。そんな広大なガラスドームを磨き上げるには、人間の身一つでは土台無理な話である。だからこそ、相棒とも呼べる清掃用機体に搭乗しての作業が必要となる。空中飛行と四足の車輪での歩行を可能とし、両の手にはモップが装着されている。調光硝子整備機体と称されるが、機体の形状から「かに」と俗称で呼ばれる事が多い。ねねねもやたら小難しい名前よりも、「かに」という名前の方が愛らしくて好きだった。
搭乗ハッチへ社員証を翳し、認証が成され開いた扉へ滑るよう「かに」へと乗り込む。ベルトを装着してエンジンキーを回せば静かに機体が起動し、目前に点灯されたモニターは機体に問題が無い事を表示している。念の為に左右の操縦桿を握って動きを確認し、機体を覆う前後左右のガラス窓に異常が無いか目視点検も忘れない。もし、万が一でもあれば高所での作業だ、危険が伴う。全てマニュアルに則った確認動作だ。
「おはようございます、プティ」
しっくり間違いなく掌に馴染んだ操縦桿、身体を包みこむようなシート。そして、最後にそっと相棒の名前を呼ぶ。これがいつものルーティンである。
そうやって一つずつ事を済ませていけばいよいよである。アクセルペダルをゆっくりと踏み込み、エンジンを唸らせ車庫から洋々と飛び立つ。まだ眠りの底にある街の頭上を風を切り進んでいくのは、まるで自分が流れる星の一つになったような、そんな気にさせてくれる。耳に流れる音楽もいつの間にかサビへと突入し、エンジン音と重なっていく。
清掃場所へはモニターに映るナビゲーションに従って向かう。
北東エリア、北西エリア、南東エリア、南西エリアの4つにエリア分けされたドームを、4つの支部がそれぞれ清掃を担っている。どうやら今日は所属する北東支部エリアの中でも、天辺に近い端の方がねねねの担当になっているらしい。機体の基本機能である重力バランサーのお陰で、どれだけ天辺に近い場所でも重力は一定の方向へと働き身体への負荷はない、どころか。
「役得だぁ〜」
見渡す限り宇宙しか見えない天辺付近は、まるで宇宙の中に居るような没入感を与えてくれるので、ねねねのお気に入りの清掃スポットでもあった。一等星シリウスと、その白く輝く星から成る宇宙に描く大三角形がとても美しいのだ。
暫くプティを飛ばしていれば担当エリアへと到着、調光ガラスへと着陸する。隣の支部の担当エリアと近い為、向こうの支部の色違いの赤い「かに」が作業をしているのが見えた。各支部毎に「かに」の色は決められていて、ねねねが搭乗するプティは目の覚める藍色である。
向こうの支部の人達もみんな頑張っているのだ。星ばかりをうっかり見詰めていないで自分も見習わなければ。頑張って頑張って、何よりも美しく大きく目に映る地球へもう一度、家族と行ってみせるのだ。幼き日に感じたここにはないあの風の匂いを、雨の切なさを、四季の彩りをいつかいつかもう一度。それがねねねの目標の一つであった。ならば、千里の道もまずは一歩から。モップを調光ガラスへと走らせる。
コスモドームを覆う調光ガラスは八角形のガラスの集合体で出来ていると、この仕事を始めるまで知りもしなかった。地上から眺めるガラスはどう見上げたって1枚にしか見えないのに、と驚いたものだ。もしかしたら、何の気なく歩いている地面もまた自分の知らない違った見方があるのかもしれない。大昔の人が空に星座を描いたみたいに、なんて事を考える。何の気なく過ごしているけれど、きっとそこには理由や意味が溢れているのだろう。そうであったなら世界はなんて面白いのだろう。モップを駆る手も踊るように流れるというものだ。右へ左へ、上へ下へいちにのさんのし。どんな汚れも落としてみせよう。何億年も昔の星の光をよりクリアに、綺麗になっていく調光ガラスにねねねは得意気に笑った。
そうして何時間が経っただろう。担当エリアの清掃を終えた頃、調光ガラスから柔く光が差し始めた。星々の明るい時間から、日の出の時刻を迎える。薄っすらとした光が家々の屋根を照らし、いくつもの薄紫色の影を作っていく。鳥は囁き合い、朝食の支度だろうか建物の波間から蒸気が幾条も昇り始めている。街の目覚めはもう近い。いつも見る光景なのに、光が差し街の輪郭を象る瞬間は何か特別で厳かなものに立ち会っているような気持ちになる。なのに、この光景を見ると途端に腹の虫が鳴るのはどうしてだろうか。自分の情緒の如何に首を傾げざるをえないが、新しい朝に、確かに腹の底からざわざわと漲るものがあった。
(お腹の減る新しい朝、わたしの新しい朝……)
それは、なんて素敵なものなのだろう。いつだって新鮮に朝を迎える喜びを「It's a fine day today」イヤホンから流れる音楽も教えてくれる。人生は上々である。
ピピピピ。
今日も迎える新しい朝に作業終了時刻を告げる電子音がプティの中に響く。今日もお仕事お疲れ様の合図だ。宇宙から離れる一抹の名残り惜しさを感じながらも、朝焼けの中、車庫へと帰るべく踵を返す。視界の端できらきら朝焼けの光が踊った。
行く街並みはつい数時間前と随分様変わりし、街はその目を覚ましつつあった。プティを飛ばす眼下、道路を行き交う人々がちらりほらり、欠伸を噛み殺しながら歩いている。ついつい欠伸が移ってしまいそうになるのは仕方がないだろうか。
「寧々森さん、お疲れ様」
「はい! お疲れ様です!」
車庫へと戻りイヤホンを外して着陸したプティから降りると、そこには同じく清掃に従事していた同僚たちの姿が既にあって、元気に挨拶を交わす。朝は元気が一番なのだ。父さんも母さんも言っていた。
「今日もいい磨きっぷりだったね」そう褒められて思わず顔が「いや、そんな」だなんてニヤけてしまう。ここの支部で一番最年少ということもあって、みんなからは一等と気を遣ってもらっているのが、こしょばゆくもありがたい。
「はい、みなさん今日もお疲れ様でした。どうぞ明日もよろしくお願いします〜。あ、出退勤システムの登録も忘れずにお願いしますね〜」
珠ヶ原たまき調光硝子外観美化担当北東支部長。通称たま支部長だ。白髪混じりのもじゃもじゃ頭に、オレンジ色のサングラスを掛けていてのらりくらりと如何にも胡散臭く見えるが、とても偉い人なのだ。
車庫の出入り口から続く事務所からひょっこり顔を出して、労いの言葉と共にいつもの注意事項を口にする。事務所に設置された出退勤システムに登録せず車庫からそのまま帰ってしまい、システム上いつまでも硝子清掃に従事している状態になってしまうことが稀に起こる。かく言うねねねもバイトを始めたての頃、ころっと忘れて帰ってしまい後で平謝りした事があった。たま支部長は「まぁ、どうとでも出来るから〜」などと注意を促す割りには寛容というか、悪く言えば適当だった。
「たま支部長もお疲れ様です!」
「はい、寧々森さんもお疲れ様です。気を付けて帰るんですよ〜」
「はい!」
たま支部長が言う通り、事務所の支部長机の脇に置かれたタブレットへ「かに」に乗る時と同じよう、社員証を翳して出退勤システムへの登録を終える。これで一安心だ。
さてと。と、くるりと周囲を見渡すと、帰宅する前に一先ず休憩と飲み物を片手に寛ぐ人や、寄り集まって談笑する人達の姿がまだ多く見える。中にはねねねに手を振ってくれる人も居た。いつもの和やかな光景である。きっと、ねねねもその輪に飛び込めば快く迎えてくれるだろう。でも、今は。
「お先に失礼します〜!」
みんなに向かってぺこりと頭を下げる。だってどうにもこうにもちょっと前から本当はずっと、腹の虫が鳴り止まないのだ。これにはちっとも敵わない。
くるりと素早く踵を返すねねねの背中に「お疲れ様〜」そう言葉が届く。みんな、本当にいい人達ばかりだ。
事務室の自動ドアをくぐり外に出て、目一杯の新しい朝の光を浴びて、大きく息を吸い込むと力が抜けたのだろう、また一つぐぅとお腹の音がした。花も恥じらう乙女が、本当に仕方がないものだ。お腹を押さえほんのり赤面してしまう。
よし、ご飯を食べよう。一歩を踏み出す。
うきうき弾む足がそのままステップでも踏みそうになるのを堪えて、いそいそと目的地へと急ぐ。日曜日の早朝は道行く人波が疎らで、勢いは増すばかりである。
お仕事が終わって決まっていつも行くのは、事務所から通りを二つ過ぎて、四つ辻を東へ進んだ方向、少し奥まった路地にある、朝早くからやっている喫茶店だ。
古びた煉瓦作りの外観には蔦が這い、その間からひょっこり顔出す看板には「喫茶 黒猫」と華奢な書体で描かれている。たまたま偶然見つけたこのいかにもと言ったレトロな風情の喫茶店の外観は、ねねねの好奇心を大きく揺さぶった。レトロなものにはついつい目がいってしまうのはやはり父さんの血か。そのいつもと変わらない姿に頬がにんまり持ち上がる。
「おはようございまーす」
カランコロン。扉に付けられたベルを鳴らしながら入店する。店内に音楽や話し声はなくしんと静かで、こぽこぽ音を立てるサイフォンと、カウンターの奥から腰の曲がった老年のマスターが、これまた最近見かけるのも稀な紙で出来た文庫本越しに「いらっしゃい」そう平坦とした出迎えの声だけが響く。その傍らには冗談みたいな話、大きな黒猫が居て、自分こそがここの家主であるみたいな顔でどっしりと構えてねねねを見ている。名前もクロと実にわかりやすい、貫禄たっぷりの猫である。ぱたぱた手を振ってみても愛想の一つも返さないのが逆に愛らしかった。
そんな黒猫の前を通り過ぎて、カウンターの隅っこのスツールにちょこんと腰を下ろせば、すかさずお冷と温かいおしぼりがねねねの前に並んだ。熟練じみたマスターの手際からは、長い長い間この場所で積み重ね培われたものを感じられた。
「いつものやつかい?」
「はい。いつものやつでお願いします!」
もうすっかりこの店の常連といったものである。それが妙に誇らしくって、にっこり笑って告げる。腕まで頭上に掲げんばかりであった。しかし、そんなねねねの様子にもマスターはやはり淡々としていて「好きだねぇ」とぽつり零すのみだった。
ねねねがいつも決まって頼むのはバナナやりんごをはじめとしたたっぷりの果物から作られるミックスジュースと、とろ〜りとろけてこんがり香ばしいチーズトーストである。因みに、ミックスジュースはこの喫茶店がコーヒーと共に誇る名物の一つだ。まだまだコーヒーの苦味に美味しさを感じられないねねねにとって、このミックスジュースは至高とも言える逸品であった。
カウンターからは腰が曲がっているとは思えない程、きびきび動くマスターの姿がよく見える。厚切りのトーストにこれまた厚くスライスされたチーズが乗せられ、トースターの中へと入っていく。ミックスジュースもまた手際よく果物がざっくばらんに切られ、ミキサーへかけられガガガと音を立てているのを見ると、期待は最高潮へと到達していた。行儀が悪いのは承知だが、スツールから浮いた足をぷらぷら揺らしてしまう。トースターからの香ばしい匂いがこんなにも胸を湧き立てる。
そんなねねねの様子にも慣れているのか、マスターは特に気にするでもなく、湯気を立てる熱々のチーズトーストが乗ったお皿と、冷たいミックスジュースのグラスを差し出す。
さぁ、今日の朝ご飯だ。
満面の笑みでぱんと両手を合わせる。
「いただきまーす!」
早速と熱々のチーズトーストへはふはふ息を吹きかけながら頬張れば、さっくりしたパンの耳の香ばしさと、もちもちの生地にとろとろのチーズの濃厚さに、頬が落ちてしまいそうになる。咀嚼を繰り返す度、口の中に旨味が広がる。そこへミックスジュースを流し込めば、なんとも言えない幸せの味がした。
「おいしい〜!」
そう口に出さずにはいられない。幸せいっぱいのねねねの姿に、どこか満足気に頷いたマスターはまた文庫本の世界へと戻っていってしまった。まるでそれが「ゆっくり食べなさい」とでも言うようで、黒猫のクロもまた大きく欠伸をして緩やかに流れる時間に身を委ねているようだ。
窓から漏れる柔らかな日差し。音楽は無いけれどこぽこぽ鳴るサイフォンに、美味しいご飯があって、時間は穏やかに流れる。一仕事終えた後にこれは、あんまりにも幸福であると思えた。満足とした気持ちが胸いっぱいに広がっていって、これからも頑張ろうなんて力が湧いてくる。さっくりまた一口チーズトーストを頬張る。本当に、美味しい。
大きな口を開けてさくりざくりとろり。空腹も手伝ってあっと言う間にチーズトーストはお腹の中へミックスジュースと共に仲良く収まっていった。
「ごちそうさまでした」
今度は静かに手を合わせる。眠気も空腹ももう居ない。あるのはただ満ち足りた気持ちだけだ。改めてこんなにも幸せな気持ちにさせてくれるこの店、この場所が好きだと感じる。そんな店を守るマスターへ尊敬の気持ちが募った。
「ありがとうございました」
だから、今日も心から感謝の気持ちを伝える。
「はいよ。おおきに」
見送りの際にはマスターはいつも文庫本から必ず顔を上げ、目を合わせてそう言ってくれる。それにもまた温かなものがこみ上げてくる。
カウンターの隅に置かれた決済端末へ携帯電話を近付け、支払いをポコンという音ともに済ませる。大昔では紙幣や硬貨での支払いが一般的で、携帯電話による電子決済も普及し始めていたらしいが、今では携帯電話や時計等の端末による決済が専らの主流だ。虹彩認証なんてものも最近は取り入れられ始めている。
支払いを終え、一つ頭を下げてからカラコロとドアベルを鳴らして店外へと出る。クロに手を振って「またね」と伝えるのも忘れない。やはり無視されるのが常の事ではあるが。
そうして店外へ出ると辺りはもう燦々と朝を迎えていて、調光ガラスは太陽からの光を取り込み宇宙の彼方から青空を映し出していた。星の輝きは眠りに落ちしかし、薄っすらと地球の姿だけがそこにあった。
もう一度あの場所へ、行きたいのだと手を伸ばす。届きそうで届かないもどかしい距離。けれどもきっといつか、必ず行ってみせる。一度行ったその瞬間から、柔らかな眼差しで髪を三つ編みに結ってくれた優しい祖母の眠る青い星が大好きになったから。
「頑張りますよーっ!」
ぎゅっと掌を握り締め、寧々森ねねねは今日も地球へ向けて頑張るのである。空の彼方からいつもと変わらない、何一つとして特別でもない日々を大切にして。




