表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

婚約者の衣装館で「家族同然だから」と無給で働いていましたが、妹を新しい婚約者兼看板娘にするそうなので辞めます。給金も休日もないなら、私は他人です

掲載日:2026/05/21

「家族同然なのだから、給金なんて水くさいだろう?」



 レナード・オルブライト様は、当然のようにそう言った。


 王都衣装館《白百合館》の二階応接室。


 ここは私の実家であるグレイセル伯爵家でも、オルブライト侯爵家の屋敷でもない。


 王都の貴族令嬢たちが婚礼衣装を頼む、オルブライト家所有の衣装館だった。


 壁際には白百合館の支配人。


 その隣には、王妃宮御用達認定の審査に関わる連絡係が控えている。


 向かいの長椅子には、私の婚約者だったレナード様。


 そしてその隣には、妹のフィオナが座っていた。


 薄桃色のドレスに、真珠の髪飾り。


 彼女は針子たちの作業場を一度も長く見たことがないのに、まるでこの館の中心に立つのが当然だという顔で微笑んでいる。



「お姉様は、衣装館の仕事を少し地味に考えすぎですわ」



 フィオナは白い指先で自分の頬に触れた。



「花嫁の支度なのですから、もっと夢があって、もっと華やかなものにすべきでしょう?」


「夢を見るためには、まず式当日に間に合うことが必要よ」


「またそういう現実的なことをおっしゃる」



 妹は可愛らしくため息をつく。



「お姉様はいつも、採寸日だとか、仮縫いの順番だとか、配達時刻だとか。花嫁の幸せより、細かい予定ばかり気にしていらっしゃるのね」


 私は膝の上で指を重ねた。


 その言葉を聞いて、ようやく分かった。


 この子は本当に、花嫁支度を「綺麗な衣装を渡して微笑む仕事」だと思っているのだ。



「フィオナ」



 私は静かに名を呼んだ。



「花嫁衣装は、ただ綺麗ならよいものではないわ」


「でも、皆さまが見るのはそこですわ」



 妹は即座に返した。



「白百合館の大広間で、花嫁たちに囲まれて微笑む看板娘。お姉様のように暗い顔で札を並べるより、わたくしの方がきっと似合います」


 レナード様が、そこで軽く咳払いをした。


 少し気まずそうではある。


 けれど、フィオナを止める気はない目だった。



「エリーゼ」



 彼は私の名を呼ぶ。



「君が二年間、白百合館を支えてくれたことには感謝している」


「ありがとうございます」


「だが、白百合館は王妃宮御用達認定の最終審査を迎える。これからは、もっと人目を引く顔が必要だ」



 人目を引く顔。


 その言葉で、胸の奥が少し冷える。


 白百合館が認定審査を受けられるところまで来たのは、衣装が美しいからだけではない。


 花嫁ごとの体型、家の事情、婚礼の時刻、式場までの道、馬車に積める箱の大きさ。


 そういうものを一つずつ整えてきたからだ。



「つまり」



 私は静かに訊いた。



「私との婚約を解消し、フィオナを新しい婚約者候補として迎える、ということでしょうか」


「婚約解消の書面は、両家で進められる」



 レナード様は少しだけ視線を逸らした。



「正式な婚姻前だ。制度上は可能だ」


「ええ。制度上は」


「そして白百合館の看板娘も、フィオナに任せたい」


 看板娘。


 白百合館で、花嫁たちを迎える華やかな役。


 大広間で白いレースの外套をまとい、完成した衣装を披露し、来客へ微笑む。


 見た目は、確かに美しい。


 妹が欲しがるのも分からなくはない。



「承知いたしました」



 私がそう答えると、フィオナの顔がぱっと明るくなった。


 レナード様も、少しだけ肩の力を抜く。


 泣かれるか、怒られるか、少なくとももっと面倒な反応を予想していたのだろう。


 けれど、ここで取り乱しても、花嫁衣装の裾丈は一つも合わない。



「では、婚約も、白百合館での役目も、フィオナへお譲りいたします」



 支配人の顔が、わずかに強張った。


 王妃宮の連絡係は、手元の記録用紙へ静かにペンを走らせている。


 その二人の反応で、私は少しだけ安心した。


 少なくとも、この部屋には言葉の意味を分かっている人がいる。



「ただし、確認させてください」



 私は続けた。



「白百合館で私が担当していた婚礼支度の確認役も、フィオナへ移るということでしょうか」


「ああ」



 レナード様は頷いた。



「表の顔はフィオナになる」


「表の顔だけですか」


「……君はこれまでの流れを知っている」



 その声が、少しだけ曖昧になる。



「だから、裏の確認は今まで通りに」


「今まで通り、とは」


「採寸日や仮縫いの順番、針子たちへの伝達、配達時刻の確認だ」



 なるほど。


 私は少しだけ笑いそうになった。


 表の微笑みは妹。


 失敗しないための確認は私。


 婚約者の座は妹へ渡すが、仕事だけは私が続ける。


 本当に、都合がいい。



「では、私へ正式な雇用契約を出していただけますか」


「何?」


「婚約者ではない者として白百合館で働くなら、給金、休日、職務範囲を文書にしていただきたいのです」



 レナード様の眉が寄る。


 フィオナも不思議そうな顔をした。



「お姉様、何をおっしゃっているの?」


「当然のことを」


「家族同然でしょう?」


「婚約を解消するのでしょう?」


「でも、もうすぐ親戚になるかもしれませんし」


「かもしれない、で働くつもりはありません」


 部屋が静まり返った。


 私はレナード様を見る。



「二年間、私は白百合館で働きました。採寸の確認、仮縫いの順番、花嫁ごとの希望、避けるべき色、式場への配達時刻、針子たちの作業順。すべて、未来の侯爵夫人として当然だと言われたからです」


「感謝していると言っただろう」


「感謝では、休日は戻りません」


 レナード様の顔が強張る。


 でも、私は止めなかった。



「感謝では、夜明けまで確認した日も、昼食を取れなかった日も、母の茶会を断った日も、戻りません」


「エリーゼ」


「給金も休日もないなら、私は家族ではなく他人です」


 自分で言って、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 でも同時に、ひどく軽くもなった。


 ずっと言いたかったのだと思う。



「引き継ぎはいたします」



 私は椅子の横に置いていた箱を、テーブルの上へ載せた。


 中には、色札で分けた採寸カード、仮縫い予定、花嫁ごとの希望、避けるべき装飾、配達時刻、針子たちの作業順が入っている。


 青は採寸。


 白は仮縫い。


 赤は避けるべき色や装飾。


 緑は配達。


 金は王妃宮御用達認定の審査関係。


 この二年間、何度も整えてきたものだった。



「春の婚礼支度は二十七件。明日の最終審査会で披露する衣装は九着。そのうち三着は式当日まで五日を切っています。採寸カードと仮縫い札を必ず合わせてください。花嫁の希望だけでなく、ご家族の忌避色も確認してください」


「そんなにあるのですか」



 フィオナが箱を開き、最初の束を少し見て、すぐに閉じた。


 たぶん、読む気をなくしたのだろう。



「あります」


「でも、それは針子の方々が覚えていることでしょう?」


「針子たちは縫う人です。誰に、いつ、どの状態で渡すかを決めるのが、私の役目でした」


「看板娘は、もっと華やかな役ですわ」


「あなたが欲しがったのは、その役でしょう?」


 フィオナの唇が尖る。


 レナード様が低く口を開いた。



「エリーゼ。フィオナを責めるような言い方はやめてくれ」


「責めているわけではありません」


「だが、君の話し方では、まるでフィオナが何も分かっていないように聞こえる」


「分かっていないので、説明しています」


 部屋が静まった。


 レナード様の顔が、少しだけ強張る。


 でも、私は言葉を引っ込めなかった。



「明日から白百合館に関する確認は、すべてフィオナへお願いいたします」


「待て」



 レナード様が、思わずというように声を上げた。



「すべて、とは」


「看板娘はフィオナなのでしょう?」


「だが、君はこれまでの流れを知っている。認定審査が終わるまでは」


「私は婚約者ではなくなるのですよね」


 私は静かに問い返した。



「婚約者ではない女が、婚約者としての仕事だけを続けるのは、白百合館にも、花嫁の方々にも失礼です」


「それは……」


「もし私の協力が必要でしたら、白百合館または王妃宮より、正式な依頼をいただければお受けいたします」


 王妃宮の連絡係が、そこで初めて小さく頷いた。


 そう。


 必要なのは、そういう線引きだ。


 家族同然だから働く。


 婚約者だから当然やる。


 姉だから助ける。


 そんな曖昧な形で、誰かの婚礼支度を動かしてよいはずがない。



「エリーゼ」



 レナード様の声が低くなる。



「君は、私に恥をかかせたいのか」


「いいえ」



 私は微笑んだ。



「今までずっと、あなたに恥をかかせないために働いてまいりました」



 そこで一拍置く。



「その役目を、本日で終えるだけです」


 レナード様の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。


 フィオナはそれに気づかず、箱の留め金を楽しそうに撫でている。



「大丈夫ですわ、レナード様」



 彼女は明るく言った。



「お姉様がなさっていたことくらい、わたくしにだってできます。花嫁の方々は難しい札ではなく、夢のある衣装を見るのですもの」


 私は立ち上がった。


 これ以上、この場で言うべきことはなかった。



「では、失礼いたします」



 最後に一礼して、私は応接室を出た。


 扉が閉まる直前、フィオナの弾んだ声が聞こえた。



「明日の審査会では、衣装を色順に並べましょう。白、薄桃色、赤。きっと、とても華やかですわ」



 私は廊下で足を止めなかった。


 花嫁衣装は、色順に並べてはいけない。


 人ごとに並べるのだ。


 その人の身体、式、家、事情に合わせて。


 それを説明する役目も、もう私のものではなかった。




 翌朝、王妃宮衣装監督室から封書が届いた。


 グレイセル伯爵家の応接室で、私はそれを受け取った。


 差出人は、アルヴィン・クロフォード公爵。


 王妃宮御用達の衣装認定を預かる監督官であり、王都衣装組合の監査権も持つ方だった。



 内容は、白百合館における私の役目変更についての確認だった。



 私は短く返書を書いた。



 レナード・オルブライト様との婚約解消、および白百合館における婚礼支度確認役の変更について、昨日確認いたしました。


 今後の白百合館に関する確認は、新たに看板娘および婚約者候補となられるフィオナ・グレイセルへお願いいたします。


 私エリーゼ・グレイセルは、正式な依頼なき限り、白百合館の婚礼支度に関与いたしません。



 書き終えたあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 白百合館を困らせたかったわけではない。


 針子たちを困らせたかったわけでもない。


 花嫁たちを傷つけたかったわけでもない。


 けれど、ここで私が一つでも答えてしまえば、また同じことになる。


 表の笑顔は妹。


 成果はレナード様。


 時間を削るのは私。


 そんな形は、もう終わりにしなければならない。



 昼過ぎ、支配人から使いが来た。


 私は玄関広間で、その報告を偶然聞いた。



「フィオナ様が、採寸カードの確認を欠席されました」


 父が困ったように眉を寄せる。



「理由は」


「明日の審査会用の髪飾り合わせを優先されるとのことです」


「……そうか」



 父の視線が、こちらへちらりと向く。


 私は何も言わなかった。


 父も何も言えなかった。


 今さら私へ頼めば、昨日の決定の意味がなくなることくらいは分かっているのだろう。



 夕方には、針子長から手紙が届いた。


 直接ではない。


 白百合館経由の正式な照会だった。


 私は封を開ける前に、深く息を吸った。


 手紙には、最終審査会で披露する九着の順番について、確認を求める文面があった。



 私は、何も書かなかった。


 代わりに、王妃宮衣装監督室へ照会すべきだとだけ、白百合館へ返した。


 それが今の私にできる、ぎりぎりの線だった。




 王妃宮御用達認定の最終審査会は、白百合館の大広間で行われた。


 貴族令嬢たちの婚礼衣装を扱う館らしく、大広間は美しかった。


 白い柱。


 花を模した天井飾り。


 壁際には、季節ごとのレース見本。


 中央には、披露用の衣装台が九つ並んでいる。


 見栄えだけなら、かなり整っていた。


 けれど、私は入った瞬間に違和感を覚えた。


 衣装が、色順に並んでいたのだ。


 白。


 薄桃色。


 赤。


 空色。


 淡金。


 確かに華やかだった。


 けれど、婚礼支度としては危うすぎた。



「エリーゼ嬢」



 低い声が、斜め後ろから届いた。


 振り向くと、濃紺の礼装をまとった男性が立っている。


 アルヴィン・クロフォード公爵。


 王妃宮衣装監督官。


 年は私よりいくらか上で、銀縁の片眼鏡をかけている。


 社交場では穏やかに見えるが、御用達認定の審査では一切甘くないと聞いていた。



「クロフォード公爵閣下」



 私は一礼した。



「今日は、招待客として?」


「はい。白百合館の婚礼支度確認役ではございませんので」


「君の返書は読んだ」


「王妃宮宛てのものですか」


「監督室にも写しが回った」


「そうですか」


「明確でよかった」



 アルヴィン公爵は言った。



「曖昧にしていれば、今日の責任も君に寄っただろう」


「責任が寄るのは、困ります」


「だろうな」



 短い返事だった。


 慰めでも、同情でもない。


 けれど、奇妙に楽だった。


 この方は、私を婚約を失った令嬢として見ているのではない。


 どこまで線を引いた人間なのかを見ている。



「閣下は」



 私は小さく訊いた。



「今日の審査会が、無事に終わると思われますか」


「無事の意味による」


「そうですね」


「衣装を見せるだけなら終わるだろう」



 公爵は、大広間へ視線を向けた。



「だが、花嫁支度として終わるかは別だ」


 私は何も言えなかった。


 この方は分かっている。


 衣装を見せることと、花嫁支度を整えることは違うのだと。



 フィオナが大広間の中央へ出てきた。


 白いレースの外套。


 真珠飾り。


 薄桃色のリボン。


 彼女は本当に美しかった。


 看板娘として微笑むだけなら、確かに私より似合っているのかもしれない。



 レナード様も隣に立っている。


 彼は少し緊張した顔をしていたが、それでもまだ、どうにかなると思っているようだった。



 最初の花嫁が入ってきた。


 ベアトリス・ロウェル公爵令嬢。


 東境の公爵家へ嫁ぐ方で、今日の九着の中では最も注目される花嫁だった。


 彼女は幼い頃の怪我で右肩に小さな傷がある。


 本人はそれを恥じてはいない。


 ただ、婚礼の日には母君の希望で肩を覆う襟の高いデザインを選んでいた。


 私の採寸カードにも、赤い札で大きく記してあった。


 右肩を覆うこと。


 襟元を開きすぎないこと。


 母君の前で傷の話をしないこと。



 フィオナが笑顔で差し出したのは、襟元の大きく開いた白いドレスだった。


 大広間が、少しだけ静まった。


 ベアトリス様の母君の顔が、みるみる硬くなる。


 ベアトリス様本人は、何も言わなかった。


 ただ、差し出されたドレスを見つめていた。



「とてもお似合いになると思いますわ」



 フィオナが明るく言う。



「肩が綺麗に見える形ですの」


 私は思わず目を閉じた。


 そこを言ってはいけない。



「これは」



 ベアトリス様の母君が、低い声で言った。



「娘のものではありません」


「え?」


「娘の衣装は、右肩を覆う襟のものです」


「でも、こちらの方が花嫁らしくて」


「娘のものではありません」



 その二度目の言葉で、広間の空気が冷えた。


 フィオナの笑顔が固まる。


 レナード様が慌てて支配人へ視線を向ける。


 支配人は青ざめていた。



 次に入ってきたのは、北方伯爵家の令嬢だった。


 喪中の家から嫁ぐため、赤い装飾を避けると決まっている。


 だが、彼女の衣装台には、赤い花飾りが添えられていた。


 理由は分かる。


 色順に並べたせいで、赤い飾りを「華やか」と見てしまったのだろう。



「赤は使わないと、昨日もお伝えしました」



 令嬢の兄が静かに言った。



「も、申し訳ございません」



 フィオナの声が震える。



「でも、少しだけなら」


「喪中の家に、少しだけの赤はありません」



 その言葉で、さらに空気が重くなった。



 三人目の花嫁には、裾丈の合わないドレスが出された。


 四人目には、別の家のヴェール。


 五人目には、式場が石段の多い神殿なのに、裾を長く引く形の衣装。


 針子たちは悪くない。


 縫ったものは確かだった。


 けれど、誰に何を渡すかが崩れていた。


 花嫁支度は、そこで壊れる。



「え……?」



 フィオナが、ついに小さく呟いた。



「どうして、皆さま喜んでくださらないの?」


 その声は、静まり返った大広間では思いのほか遠くまで届いた。


 花嫁たち。


 母親たち。


 針子たち。


 支配人。


 王妃宮の審査員たち。


 全員が、同じものを見ている。


 美しい看板娘。


 けれど、花嫁の名も、身体も、家の事情も見ていない看板娘。



「フィオナ様」



 アルヴィン公爵が前へ出た。


 その一歩だけで、大広間の空気が変わる。



「これは花嫁支度ではありません」


 フィオナの顔が白くなる。



「わたくしは、皆さまに夢を見ていただこうと」


「夢を見るために、花嫁本人を見ないのですか」


「そんなつもりでは」


「つもりは問いません」



 公爵の声は静かだった。



「結果を確認しています」


 フィオナは何も言えなくなった。


 レナード様が、ようやく口を開く。



「公爵閣下。これは、慣れない者の手違いで」


「白百合館としての手違いです」


「しかし」


「王妃宮御用達認定の最終審査日に、花嫁本人と衣装を取り違え、喪中の家へ赤を出し、指定された襟型を無視した」



 アルヴィン公爵は、ひとつずつ言った。



「これを、手違いの一言で済ませるのですか」


 レナード様は言葉を失った。



「エリーゼ・グレイセル嬢」



 公爵が私の名を呼んだ。


 私はすぐに背筋を伸ばす。



「はい」


「君は昨日まで、白百合館の婚礼支度確認役だった」


「はい」


「今は役目を外れている」


「はい」


「では、王妃宮衣装監督官として問う」



 大広間の全員が、こちらを見る。



「この場を、予定どおりの認定審査会として成立させる方法はあるか」


 私は衣装台を見る。


 取り違えられたドレス。


 赤い花飾り。


 裾丈の合わない衣装。


 泣きそうな花嫁。


 青ざめた針子たち。



「ございません」



 私は答えた。


 フィオナが息を呑む。


 レナード様の顔色も変わる。



「理由は」


「花嫁ごとの確認が崩れています。衣装そのものが美しくても、誰に渡すべきかが違えば婚礼支度としては成立しません」


「では、終わらせる方法は」


「あります」



 私は答えた。



「披露会を中止し、個別確認へ切り替えます」


「具体的には」


「大広間での一斉披露をやめ、花嫁ごとに個室へ移します。採寸カードと仮縫い札を照合し、針子長が衣装を持って確認します。今日中に直せるもの、式当日までに直すもの、白百合館では間に合わないものを分けます」


「白百合館では間に合わないもの?」


「あります」



 私はベアトリス様を見る。



「右肩の襟型を変えるには、今夜だけでは無理です。別の衣装館へ協力を求めるべきです」


 支配人が顔を歪める。


 でも、事実だった。


 白百合館の体面より、花嫁の式当日が優先されるべきだ。



「君は、それを組み直せるか」


「正式なご命令があれば」



 私は答えた。



「今の私は招待客です。命令なく動けば、また責任が曖昧になります」


「よい返答だ」



 アルヴィン公爵の口元が、ほんのわずかに動いた。



「王妃宮衣装監督官アルヴィン・クロフォードの名で命じる。エリーゼ・グレイセルを、この場限りの婚礼支度監理補佐として任じる。白百合館の針子、支配人、連絡係は彼女の指示を補助せよ」


「承知いたしました」



 私は深く一礼した。


 その瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。


 正式な命令。


 正式な役目。


 ならば、動ける。



「大広間での披露を止めてください」



 私は支配人へ言った。



「花嫁の方々を、家ごとに個室へ。ベアトリス様は第一応接室。北方伯爵家の令嬢は第二応接室。裾丈の合わない衣装の方は採寸室へ。針子長は採寸カードを持って、私のところへ」


「はい!」


「赤い飾りはすべて一度外してください。喪中の家だけではなく、ほかにも避ける方がいます。花嫁本人の希望と家の事情を照合するまで、飾りは戻さないで」


「承知しました」


「ヴェールは名前札を確認してください。家名ではなく、本人名で。姉妹で同じ家名の方がいます」


「はい」


 針子たちの動きは早かった。


 やはり、職人たちが無能だったわけではない。


 誰が何をいつ渡すか。


 そこを決める役目が崩れていただけなのだ。



「レナード様」



 私は元婚約者へ向き直った。



「あなたは、花嫁のご家族へ説明を」


「私が?」


「白百合館の責任者でしょう?」


 彼は唇を結んだ。


 昨日までなら、そこで私に説明を任せようとしただろう。


 でも今日は違う。


 この場で彼が背負わなければ、白百合館は終わる。



「フィオナ」



 私は妹を見る。


 彼女は完全に青ざめていた。



「あなたは、看板娘としての挨拶をやめてください」


「わたくしは」


「今のあなたが微笑むほど、花嫁の方々には軽く見えます」


 フィオナの目に涙が浮かぶ。


 けれど、泣くことで場を変えることはできない。



「針子長の後ろで、採寸カードを読むところから始めてください」


「読む……」


「そう。読むの」


 妹は何か言いかけ、やめた。


 そして、初めて小さく頷いた。




 その後の数時間は、夢のように慌ただしかった。


 夢といっても、美しいものではない。


 針と布と、謝罪と、確認の連続だった。



 ベアトリス様の衣装は、白百合館だけでは間に合わないと判断された。


 アルヴィン公爵の指示で、王妃宮御用達の別館から襟の高い上衣が届けられることになった。


 北方伯爵家の赤い飾りは、すべて外された。


 代わりに、喪中でも使える銀糸の花が用意された。


 裾丈の合わない衣装は、その場で仮留め。


 石段の神殿へ嫁ぐ花嫁には、裾を引かない形へ直すことになった。


 すべてが完璧に戻ったわけではない。


 審査会としては失敗だった。


 けれど、花嫁たちの婚礼支度は、どうにか守られた。



 夕方、大広間は静かになった。


 衣装台からは、華やかな飾りが外されている。


 白百合館の支配人は、深く頭を下げていた。


 針子たちは疲れ切った顔をしているが、誰も手を止めてはいない。


 アルヴィン公爵が、王妃宮の審査員へ短く告げた。



「白百合館の御用達認定は、保留とします」


 レナード様の顔から血の気が引いた。



「保留、ですか」


「取り消しではありません」


 公爵は静かに言った。



「ただし、婚礼支度の運営体制を再提出してください。花嫁ごとの確認役、針子長の権限、看板娘の職務範囲、すべて文書で」


「はい」


「フィオナ・グレイセル嬢を、当面、看板娘として審査に出すことは認めません」


 フィオナが小さく息を呑む。


 でも、反論はしなかった。


 できなかったのだろう。



「エリーゼ・グレイセル嬢」



 公爵が私を見る。



「はい」


「今日の臨時補佐としての報告を、明日監督室へ提出してください」


「承知いたしました」


「そして、その後に別件で話があります」


「別件、ですか」


「王妃宮衣装監督室で、婚礼支度監理人を募集している」



 私はすぐには返事ができなかった。


 婚礼支度監理人。


 衣装館そのものに属するのではなく、王妃宮側で婚礼衣装の御用達認定と進行を確認する役。


 それは、白百合館で私が無給でしていた仕事に、正式な名前を与えるものだった。



「なぜ、私なのでしょう」


「今日の個別確認への切り替えは、君が出した」


「閣下が採用なさっただけです」


「採用できる形で出したのが重要だ」



 公爵は言った。



「君は、衣装館の体面を守ろうとしなかった。花嫁を守ろうとした」


「それは」


「それができる人間は多くない」


 静かな声だった。


 同情ではない。


 慰めでもない。


 能力を見たうえでの評価だった。



「正式な役目でしょうか」



 私は訊いた。



「誰かの婚約者だから手伝う、ではなく」


「正式な役目だ」


 公爵は即答した。



「任期、職務範囲、給金、休日を文書にする。君の家にも、王妃宮にも、衣装組合にも写しを出す」


「休日も?」


「当然だ」



 彼は少しだけ眉を寄せた。



「休まない人間に、他人の婚礼支度は守れない」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 給金。


 休日。


 職務範囲。


 そのどれもが、今まで私には与えられなかったものだった。



「お返事は、明日の報告後でもよろしいでしょうか」


「もちろんだ」


「今日ではなく?」


「君は今日、崩れた衣装館を見た。返事は一晩置いた方がいい」


「お気遣いですか」


「手順だ」


 その返しがあまりにも真面目で、私は少しだけ笑ってしまった。



「では、明日」


「待っている」


 公爵は短く答えた。


 その短さが、ひどくありがたかった。




 白百合館を出ようとした時、レナード様が私を呼び止めた。


 フィオナは少し離れたところにいた。


 彼女は針子長に付き添われ、採寸カードの束を見つめている。


 たぶん、生まれて初めて本当に読んでいるのだろう。



「エリーゼ」


「はい」


「私は、君がそこまで働いていたとは知らなかった」


「そうでしょうね」


 私は答えた。



「ご存じでしたら、家族同然だから給金はいらないとはおっしゃらなかったでしょうから」


 レナード様の顔色が変わった。


 でも、私は止めなかった。



「戻ってくれないか」


「白百合館へ?」


「婚約者として。いや、せめて婚礼支度の確認役として」


「レナード様」


 私はまっすぐに彼を見る。



「あなたが今お望みなのは、私ではありません」


「何?」


「私の時間です」


 彼は言葉を失った。



「私自身を必要となさったわけではない。衣装が崩れたから、崩れないようにしていた時間が必要になっただけです」


「そんなことは」


「ございます」


 私ははっきりと言った。



「ですから、戻りません」


 沈黙。


 白百合館の外では、夕方の馬車の音が聞こえる。



「給金も休日もないなら、私は他人です」



 私は続けた。



「そして、他人として正式に働く場所を見つけました」


 レナード様は何も言えなかった。


 私は一礼し、彼の前を離れた。




 翌日、私は王妃宮衣装監督室へ報告書を提出した。


 そのあと、アルヴィン公爵から正式な任用書を受け取った。


 婚礼支度監理人。


 任期は一年。


 更新あり。


 給金あり。


 休日あり。


 職務範囲明記。


 衣装館からの私的依頼を受ける場合は、王妃宮を通すこと。


 すべて、文書になっていた。



「条件を確認してください」



 アルヴィン公爵が言った。



「はい」



 私は一行ずつ読んだ。


 不思議だった。


 誰かのために働くことは、嫌いではなかった。


 むしろ好きだったのだと思う。


 ただ、名前も給金も休日もないまま、「家族同然」という言葉で消されるのが苦しかっただけで。



「問題ありません」


「では、受けるか」


「はい」


 私は任用書へ署名した。



「お受けいたします」


 アルヴィン公爵は頷いた。



「ようこそ、王妃宮衣装監督室へ」


「ありがとうございます」


「最初の仕事は、来週の婚礼支度確認会だ」


「はい」


「その前に、二日休め」


 私は思わず顔を上げた。



「休むのですか」


「任用書に休日と書いた」


「ですが、来週の確認会が」


「休まない人間は、予定を崩す」


 あまりにも真面目な声だった。


 私は少しだけ笑ってしまう。



「閣下は、休ませるのがお上手ですね」


「まだ実績はない」


「では、私は休む練習から始めます」


「よい判断だ」


 そう言われて、胸の奥が温かくなった。



 白百合館の看板娘ではない。


 誰かの婚約者でもない。


 王妃宮衣装監督室の婚礼支度監理人。


 私の名で、私の時間を使う仕事。



 その夜、私は久しぶりに予定のない夕方を過ごした。


 父と母に新しい任用書を見せると、母は少し泣き、父は何度も頷いた。


 自分の部屋へ戻ると、机の上には何も積まれていない。


 急ぎの採寸カードも、仮縫い札も、配達予定もない。


 ただ、空いた時間がある。


 最初はどうしてよいか分からなかった。


 でも、窓を開けて、温かい茶を淹れて、ずっと読みかけだった旅行記を開くと、少しずつ息がしやすくなった。



 休日とは、何もしない日ではない。


 自分の時間を、自分で使う日なのだと知った。




 一月後。


 王妃宮衣装監督室の小さな確認室で、私は新しい花嫁支度の資料を並べていた。


 採寸カード。


 仮縫い札。


 式場までの道順。


 避けるべき色。


 家ごとの希望。


 それらは、もう私一人の頭の中にはない。


 監督室の職員が見ても分かるように、同じ形式で整えてある。


 誰か一人が倒れても、花嫁支度が止まらないように。



「エリーゼ嬢」



 アルヴィン公爵が声をかけてきた。


 私は顔を上げる。



「閣下」


「今日の勤務は終わりだ」


「あと一束だけ」


「終わりだ」


「……はい」


 私は手を止めた。


 公爵は満足したように頷く。



「休むことも、だいぶ覚えたな」


「まだ練習中です」


「では、練習の一環として茶に付き合ってほしい」


「勤務時間外に、ですか」


「そうだ」


「仕事の話でしょうか」


「最初はしない努力をする」


 あまりにも真面目な顔で言うので、私は笑ってしまった。



「では、私も仕事の話ばかりしない努力をします」


「よろしい」


「ただし、次の確認会の予定が」


「それは明日見る」


「……はい」


 公爵は少しだけ口元を動かした。


 笑ったのだと思う。


 私はその表情を見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。



 白百合館のその後は、少しずつ聞こえてきた。


 御用達認定は保留のまま。


 支配人と針子長の権限が見直され、看板娘は衣装を披露する前に、必ず採寸カードを読むことになったらしい。


 フィオナは華やかな場に立つ前に、まず針子長の隣で記録を読む役を与えられた。


 レナード様との婚約協議は、両家で凍結された。


 彼が何を思っているのかは知らない。


 もう、私の時間を使って考えることではなかった。



 私は確認室の灯りを落とした。


 手元には、明日の仕事。


 そして、勤務後のお茶の予定。


 どちらも私が選んだものだった。



 給金も休日もないなら、私は他人です。


 あの日、そう言った。


 今の私は、他人として正式に働いている。


 けれど、それは寂しいことではなかった。


 名前のある仕事。


 守られた休日。


 自分で選べる時間。


 その上で、誰かと茶を飲む約束。



 私はもう、家族同然という曖昧な言葉で消される女ではない。


 花嫁たちの支度を守りながら、自分の時間も守る。


 それが今の私の役目だった。

面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。


【2026/5/27 追記】

お読み頂きありがとうございます。

本日、同時期に投稿した短編作品、『婚約者がまた病弱な幼なじみのお見舞いへ行ったので、婚約式は私ひとりで終わらせました』の連載版を開始しました。


https://ncode.syosetu.com/n3078mg/


ありがたいことに、短編版は日間総合ランキングで5位にまで上げていただけるほど多くの方に読んで頂けました。

連載版もより多くの方に読んでもらえるよう頑張ってまいりますので、是非是非応援の程よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
一日目、婚約者変更&退職 二日目、最終審査会当日 三日目、転職 このスケジュールで、どうやって「審査会までにAさんが着るはずだった衣装を1番手のBさん用にサイズを仕立て直す」掛ける9着 なんて事が可…
AIでも私は良いんだけど、もうちょっと言い回しとか変えたらどうです?
面白い作品でした。 似たような作品があるとの事ですが、リメイクって事ですかね。 私は一度掲載した作品を読み返すとこの設定を変えてみたいと思う事があります。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ