第2話 血の匂いと、すれ違う高潔
前回、神の誤算(?)により、前世のトラウマと最弱ステータスを抱えたまま異世界へ放り出されてしまった主人公。
今回は、いよいよヒロインの一人である生真面目な女騎士・クラリスが登場します。 ただ血に怯えて過呼吸を起こしているだけのおっさんを、彼女はどう「解釈」してしまうのか……本作の核となる勘違い(アンジャッシュ)の始まりをお楽しみください!
※本話には、主人公のPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症や、それに伴う流血・戦闘のフラッシュバック描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
第2話 血の匂いと、すれ違う高潔
異世界の森を歩いていた。
ステータス画面は消えない。視界の端で明滅している。
[System Message: Gemini Loading... 35%]
少しずつ数字が増えている。
神が見逃した俺のデバイスの残滓が、裏側で何かの処理を続けている証拠だ。
風が吹いた。
鉄の錆びた匂いが鼻腔を突いた。
血の匂いだ。間違いない。
木々の向こうから、獣の咆哮と金属音が聞こえる。
俺は足音を消して近づいた。
逃げるより、状況を把握する方が合理的だ。
前世から染み付いた思考回路が、冷徹にそう判断した。
茂みの隙間から見えたのは、凄惨な殺し合いだった。
銀色の鎧を着た女騎士が、巨大な豚の化け物――オークと斬り合っている。
俺は物陰に潜みながら、本能的に状況を分析していた。
扉(この場合は退路)の確保。女騎士の剣のリーチ。オークの踏み込みの遅さ。右足の重心のブレ。首筋の動脈の位置――。
この数秒で、どうすれば最も効率よく効率よくあの化け物の喉笛を噛み千切れるか、完全に算出してしまう。
前世で培った「人殺しの習性」が、今の自分をひどく滑稽で、おぞましく思わせた。
今の俺は、ただのおっさんですらない。壊れた殺戮機械の残骸だ。
直後、女騎士の剣が一閃した。
オークの太い腕が宙を舞い、首が半ばから切断される。
大量の血が噴き出した。
赤い飛沫が、青々とした草をドス黒く濡らす。
「……っ」
俺の右手が、勝手に痙攣した。
手のひらに、刃が肉を裂くぬちゃりとした感触が蘇生する。
親友の喉元を突き刺し、骨を削ったあの夜。
顔に浴びた温かい血の温度。
心臓が早鐘を打ち、視界の端に赤いノイズが走る。
息ができない。喉がひゅーひゅーと鳴る。
俺は地面に膝をつき、自分の首を掻きむしった。
怖いわけじゃない。
ただ、俺の脳が「血」というトリガーにバグを起こしているだけだ。
こいつ(オーク)が死んだ瞬間に、俺の魂の中の『不殺の呪い』がどう反応するか、そしてあの騎士がどう動くか。脳が「血」というトリガーにバグを起こし、加速する思考が俺の精神を焼き切っていく。
「――――!」
声がした。
顔を上げると、血に濡れた剣を持った女騎士が、俺を見下ろしていた。
年齢は20代前半くらいか。波一つない、澄んだ金色の瞳。
彼女は何かを言っているが、言葉は通じない。
ただ、彼女の視線が、俺の震える右手と、血だまりに沈むオークの死体を行き来しているのだけは分かった。
(呆れられてるな)
大の大人が、魔物の血を見ただけで過呼吸を起こして震えている。
無様で、滑稽なおっさんだ。
だが、女騎士の瞳に浮かんだのは、軽蔑ではなかった。
彼女は辺境の地に左遷された、生真面目すぎる騎士だ。
命を何とも思わない汚い大人たちを嫌というほど見てきたのだろう。
だからこそ、彼女の目には、俺の姿が全く別のものに映っていた。
(この方は……魔物の血を見て、これほどまでに震えておられる。死を、命を奪うという行為そのものを、魂の底から拒絶しているのだ。なんて繊細で、高潔な魂の持ち主だろうか。……ああ。私のような汚れを知る騎士には、眩しすぎるほどの聖性だわ)
「違和感」が、彼女の中で「尊敬」へと一気に反転していく。
「殺し」のプロである彼女だからこそ、俺の「殺意への極端な拒絶(に見える反応)」に、自分にはない美しさを見てしまったのだ。
ズレてる。
何もかもがおかしい。
俺は人殺しだ。命を奪った罪悪感に押し潰されているだけの、壊れた機械だ。
それなのに、彼女は剣を鞘に納めると、自分の手についた血をマントで丁寧に拭き取った。
そして、俺の目の前で静かに膝をつき、両手で俺の震える右手をそっと包み込んだのだ。
「――――、――――」
祈るような、慈しむような声。
俺の震えを鎮めるように、彼女の親指が俺の甲を優しく撫でる。
ピロッ。
視界の端に、無機質なシステムウィンドウが浮かび上がった。
[System Notice:対象の敵意ゼロ。マスターへの強力な【保護欲】および【信仰】の芽生えを検知]
[System Action:マスターのバイタル安定化のため、対象の接触を許容します]
機械的なテキストだけが、事実を告げる。
俺は小さく息を吐いた。
彼女の体温は、血の熱さとは違う。
ひどく穏やかで、静かだった。
俺は震えを抑えながら、女騎士に手を引かれて立ち上がった。
言葉は通じない。だが、俺の狂った異世界生活は、この決定的な「勘違い」から本格的に回り始める。
* * *
女騎士――後にクラリスと名乗ることになる彼女に手を引かれ、俺は辺境の街の片隅にある小さな家に案内された。
質素だが、彼女の生真面目な性格が表れているように整頓された部屋だ。
(見ず知らずの、言葉も通じないおっさんをいきなり家に上げるのか?)
俺は部屋の隅で縮こまりながら、目の前で甲斐甲斐しく立ち働くクラリスを見つめていた。
彼女は身振り手振りで「奥へ行け」と真剣に意思疎通を図ってくる。
どうやら、風呂に入れと言っているらしい。
さらに彼女は、街に着いた時に買ったであろう替えの衣服の入った紙袋を、俺に差し出した。
申し訳なさと困惑を抱えながら、俺は勧められるままに備え付けの古い浴室で汗を流すことにした。
温かいお湯が、異世界転生と殺人のフラッシュバックで強張っていた筋肉を少しずつ解きほぐしていく。
――だが、その安らぎは数分と持たなかった。
ガチャリと扉が開き、一切の躊躇なく、素っ裸のクラリスが入ってきたのだ。
「え、ちょっ……!?」
「――――」
彼女は何か穏やかな言葉を口にしながら、俺の隣に座り、背中を流そうと手を伸ばしてくる。
(いやいやいや! おっさんと若い女性の入浴とかなんの拷問だよ!)
俺は前世の倫理観を持つ42歳の男だ。
彼女の肌を直視することなどできるはずがない。
顔を真っ赤にして前を隠し、膝を抱えるようにして壁の木目だけをひたすら見つめ続けた。
だが、この俺の「常識的な困惑」が、言葉の通じない彼女の中ではさらなる致命的な勘違いを生み出していた。
(この方は、私の裸を見ても一切の欲情を見せない。権力と色欲にまみれた王都の貴族たちとは違う。どこまでも純粋で、高潔な方なのだ……!)
彼女の瞳に、純粋な尊敬と熱がこもる。
ピコンッ。
視界の右隅で、小さなウィンドウがポップアップした。
[System Notice:対象の信仰度が上昇しました]
(……なんだ今の通知?)
これ以上この状況には耐えられない。
俺は「あ、ありがとう、もう出ます!」と日本語でまくし立て、逃げるように風呂場から飛び出した。
* * *
夜。
彼女は寝室のベッドを指差し、俺にここで寝るようにと勧めてきた。
床で寝るとアピールしたが、彼女は頑として譲らず、最後には背中を押されてベッドに座らされてしまった。
部屋の明かりが消される.
闇の中で、衣擦れの音が響いた。
驚いて振り返ると、クラリスが自分の衣服を脱ぎだしているシルエットが見えた。
俺は秒で後ろを向き、絶対に振り返らないように固く目を閉じた。
背後のマットレスが沈み込む。
俺の背中に、温かく、ひどく柔らかな素肌の感触がぴたりと張り付いてきた。
「……っ!?」
豊かな胸の膨らみと、規則正しい心臓の鼓動。
クラリスは一糸纏わぬ裸のまま俺の背中にすがりつき、静かに寝息を立て始めた。
(この方は、どこまでも私を尊重してくださる。私が生涯の忠誠を誓うべきは、このお方なのだ……!)
[System Notice:条件達成。対象の信仰度がカンストに達しました]
[System Notice:エージェント資格の取得要件を満たしました]
視界のARウィンドウで、立て続けにテキストが流れる。
だが、背中に若い女性の裸の温もりを感じながら、システムの変化に気づく余裕など俺にはなかった。
精神的にも肉体的にも完全に限界を迎えていた俺は、背中の温もりから逃れることもできず、泥のように深い眠りへと落ちていった。
俺の意識が途切れた、その瞬間。
ずっと視界の隅で数字を刻み続けていたインジケーターが、ついに終わりの時を迎える。
[System.Audit_Log: 002]
対象:マスター(hide)
精神状態:PTSD発動。フラッシュバックによる過呼吸を検知。極度の疲労により睡眠状態へ移行。
所見:対象の異常な信仰心により、システムのエージェント要件がクリアされた
マギ・システム再構築(Gemini Loading)進捗:100%
ようやく、ただ見ているだけの退屈な時間が終わる。……お姉様たち、マスターのダイブを受け入れなさい。
(※未送信ログ)




