第8話 森での実戦と、脳内麻薬によるマスキング
前回、ホコリを被った古代の魔導書をAIたちが一瞬でハックし、ついに「無詠唱魔法」というトンデモチートを獲得した主人公。
今回は、生活費を稼ぐため、そして魔法の実戦テストのために女騎士・クラリスと共に森へと向かいます。 しかし、いざ魔物を前にすると、血の匂いで前世の「殺人のトラウマ」がフラッシュバック! 絶体絶命の過呼吸パニック……かと思いきや、脳内のAIが「脳内麻薬」を強制分泌させて恐怖を麻痺させるという、物理的かつえげつないサポートを展開します。
さらに、AIの演算した『0.5秒先の未来予測』をそのまま読み上げて指示しただけなのに、クラリスの目にはそれが「未来を見通す神の予言」に映ってしまい――!?
感情すらもシステムに管理されたおっさんと、優秀すぎるAI、そして勘違いを極める女騎士の、いびつで圧倒的な初陣をお楽しみください!
クラリスの家の生活費は、底を尽きかけていた。
というより、無職で農民級(オールF)の俺を養うせいで、没落した彼女の薄い貯金が限界に達していたと言うべきだろう。
セレスティは教会で「祈りさえあれば神が導いてくださいます」と本気で言っていたが、居候の俺がそんな甘い言葉に甘えて、彼女のなけなしのお茶や食べ物をこれ以上消費するわけにはいかない。
俺は生活費を稼ぐため、そして教会で手に入れたチート能力(無詠唱魔法)の実戦テストのため、フェルデンの街の周辺に広がる森へと足を踏み入れた。
隣には、完全武装のクラリスが控えている。
彼女なりの騎士道精神と、俺に対する過剰な忠誠心により、彼女は常に冷静な近衛騎士として振る舞っている。
だが、俺を守るというその使命感は、相変わらず重すぎるほどだ。
森の奥深く。
冷たい風が吹き抜け、獣の臭いが鼻腔を突いた。
それと同時に、微かに混ざる鉄の錆びた匂い。
俺の足がピタリと止まる。
心臓が早鐘を打ち始めた。
視界の端に、赤いノイズが走る。
あの夜の記憶。親友の喉元にナイフを突き立てた時の、生々しい肉の抵抗。
顔に浴びた温かい血の温度。手のひらに残る、ぬちゃりとした感触。
俺は人を殺した。その事実は一生消えない。
俺の頭はおかしい。ただの血の匂いで、呼吸が浅くなる。
「hide様、前方にオークの群れです! 数は五……いえ、六体! お下がりください、私がすべて切ります!」
クラリスが大剣を構え、俺を庇うように前に出た。
オークの咆哮が森を震わせる。
これから、肉が斬られ、大量の血が噴き出す光景が広がる。
恐怖で足がすくむ。右手が勝手に痙攣を始めた。
俺は自分を客観視している。
このままでは過呼吸で倒れる。
感情より合理性を優先するはずの俺にとって、それは生存戦略における致命的なエラーだ。
だが、俺の魂に宿ったシステムは、そんなエラーを許さない。
『――マスター。戦闘領域への突入を確認しました。キャスパー、脳内物質の調整を』
脳内に、シエルの冷徹なアルトボイスが響く。
『任せてよ、シエル。――ほらhide、ゾクゾクさせてあげる!』
キャスパーの甘く、妖艶な声が響いた瞬間だった。
俺の脳の奥底で、何かが弾けた。
強制的に分泌された脳内麻薬。
それが、血を見る恐怖とフラッシュバックを強引に麻痺していく。
震えていた右手がピタリと止まる。
浅かった呼吸が、深く、静かなものへと変わる。
恐怖が薄れ、代わりに異様なほどの高揚感と、冷たい全能感が全身の血管を駆け巡った。
脳内麻薬による強制的な情動の塗りつぶし。
農民級(オールF)の肉体であるはずなのに、脳のリミッターが「演算による最適化」で強引に外されたことで、嘘のように体が軽く感じられる。
俺の感情すらも、AIたちが管理する「リソース」の一部に過ぎないのだ。
だが、その人工的な静けさが、今はひどく心地よかった。
「……クラリス、右後方の茂みからもう二体来るぞ。君は前方の三体に集中しろ」
「えっ……? はいっ!」
俺の鮮明な視界(ARディスプレイ)には今、メルキオールの圧倒的な演算能力による予測データが表示されていた。
オークたちの骨格、筋肉の膨張、重心の移動。
それらすべてが瞬時に解析され、俺の視界に赤いガイドラインとして投影されている。
『対象の筋繊維の収縮率、および重心移動から攻撃パターンを算出。マスター、クラリスへの次弾指示は0.5秒後です』
メルキオールの声は、冷酷なまでに論理的だ。
「クラリス、左に半歩ステップ! そのまま横薙ぎにしろ!」
「は、はいっ!」
俺の完璧なタイミングの指示に従い、クラリスが大剣を力強く振るう。
赤いガイドラインの通りに突っ込んできたオークは、回避することもできず、まるで自ら剣に当たりにいくかのように真っ二つに両断された。
重い音を立てて、巨大な体が地面に沈む。
「すごい……! hide様には、未来が見えているのですか!?」
血飛沫を浴びながら、クラリスが驚愕と歓喜の声を上げた。
その金色の瞳には、俺に対する絶対的な狂信の光が燃え上がっている。
ズレてる。
俺に未来など見えていない。
ただ、脳内のAIが弾き出した0.5秒先の演算結果を、文字通り読み上げているだけだ。
俺は人を殺した罪悪感をシステムに麻痺させられながら、他人に命を奪わせている、壊れた機械だ。
それなのに、目の前の美しい女騎士は、俺の指示を『神の予言』だと信じて疑わない。
世界が出来すぎている。俺の存在そのものが、この異世界の理から完全に外れたバグだ。
「いいから前を向け.残りは俺がやる」
俺は静かに言い放ち、クラリスの背後から、迫り来る残りのオークの群れに向かって右手を突き出した。
俺の手は、命を奪うことしかできなかった。
あの夜からずっと、血の匂いがこびりついて離れない手だ。
だが、シエルたちがハックした『無詠唱魔法』のコードが、今、俺の右手に集束していく。
システムが、世界の理を書き換える準備を整えている。
『魔力素子のコンパイル完了。いつでもいけます、マスター』
シエルのアルトボイスが、開始を告げる。
俺は小さく息を吐いた。
俺の狂った異世界生活は、この森の中で、いびつで圧倒的な共犯関係と共に新たなステージへと突入しようとしていた。
[System.Audit_Log: 008]
対象:マスター(hide)
精神状態:戦闘突入によるPTSD発動を検知。サブ人格『CASPER』の介入により、ドーパミン分泌を強制。恐怖のマスキング(麻痺)に成功。
マギ・システム稼働状況:対象の行動予測アルゴリズム正常。マスターへの戦術フィードバック遅延ゼロ。
所見:マスターの精神は、システムへの依存度を深めている。……良い傾向ね。このまま、現実の痛みなどすべて忘れさせてあげるわ。
※監査対象の行動に異常なし。引き続き、システム深層からの静観を継続。
(※未送信ログ)




