青いバラにうっとり、読んだ新聞にどっきり
朝の光が絹のカーテン越しにやわらかな色彩をもって室内に差し込んでくる。わたしは、ふかふかのクッションが敷かれた椅子の上で背筋を伸ばしながら、昨日までの緊張を思い返していた。あの来客対応で、女言葉や上品な表現を必死で操り、なんとか乗り切った。正直、くたくただったけれど、今は部屋にしんと落ち着いた空気が漂い、いつもより軽い気分だ。
今日は特別な予定はないと聞いている。メイドたちが「少し気分を変えましょう」と提案してくれたので、何が起こるかちょっと楽しみだ。昨日までの苦労を少し忘れられる日になればいい……そんな淡い期待を胸に、わたしは軽く息を吐く。「やれやれだわ……」と小さく呟く。前世の男らしい荒っぽい言い回しは飲み込んでいるが、この程度の独り言なら問題ないはず。
「お嬢様、おはようございます。」
控えめなノックの後、マリエとセシルが音もなく入ってくる。いつもの挨拶だが、今日は二人がほんのり笑顔を浮かべ、なぜか軽い羽ばたきを感じさせるような足取りで現れた気がする。
「おはよう、マリエ、セシル。」
自然と笑顔が出た。これまで苦労してきたけれど、こうして優しく支えてくれるメイドたちがいることは心強い。
「本日はお嬢様、お気疲れを癒やしていただければと思い、少し特別な朝食をご用意しております。」
セシルが微笑む。その声に誘われてテーブルを見ると、果物たっぷりの軽い菓子が並べられている。小さなガラスの器に、色とりどりの果物が丁寧に盛り付けられ、その上から蜂蜜とハーブシロップが薄くかけられたようだ。清涼な甘い香りが鼻をくすぐる。
「まあ、こんなに美味しそうな……」
わたしは思わずため息まじりに言う。ここは「すげぇ!」とは言わない。「素敵ですわ!」と笑みを浮かべる。
メイドたちはさっと椅子を引いてくれ、わたしはテーブルにつく。スプーンを手に取り、果物をすくい口に運ぶ。甘酸っぱさと蜂蜜のコクが舌の上でとろけるようだ。自然に「美味しいですわ!」という言葉が出てきて、自分でも驚く。こんなに上手く女言葉を操れるようになるなんて、少しずつ成長しているんだろう。
甘い果物を楽しむうち、室内にはかすかに小鳥のさえずりが聞こえる。窓は少し開いていて、初夏の爽やかな風が入ってくる。まるでミニコンサートのような朝食だ。セシルが「お嬢様、いかがでしょう? 本日は特別に、温室の果物を使った新しいレシピでございます」と得意げに言う。
「本当に素晴らしいわ、セシル。マリエ、あなた方のおかげで、こうして素晴らしい朝を過ごせているのですわ。」
素直な感謝が言葉になる。男言葉が出そうにならないくらい気持ちが穏やか。
食後、メイドたちは「お嬢様、もしよろしければ温室へ移りましょう。先日より果物の品種改良が進み、新たなスイーツ試食ができると料理長が申しております」と提案する。わたしは即座に頷いた。今日は徹底して気楽に過ごそう。
温室に移動する道中、庭園の草花が輝いて見える。咲き誇る色とりどりの花弁、微風に揺られる葉、そして朝露の残る芝生。そのすべてが、昨日までの張り詰めた空気を洗い流してくれるようだ。わたしは「まぁ、なんて美しいのでしょう」と自然に口にするが、心中では「本当に綺麗だな……」と男言葉で素直にそう感じている。
温室に着くと、中は甘い花の香りと、ほんのり暖かい湿気が満ちている。棚には珍しい果物がずらりと並べられ、隅ではコックが小さなフルーツタルトを用意している。メイドが「本日は、ラズィーナ果実のコンポートに軽いクリームを添えたものをご用意いたしました」と説明。わたしは嬉しそうにスプーンを受け取る。
一口頬張れば、軽やかな酸味と甘いクリームが絡み合う。ここはもう天国かと思うくらい、美味しさに包まれる。「美味しゅうございますわ!」と、大きな声で笑うと、メイドたちも微笑み返す。
このとき、視界の片隅で使用人同士が小声で話している。
「最近、市場で果物の価格がまた上がったって話だ。」
「よその領地が高値で買い占めているとか……庶民には手が届かないかもね。」
わたしは甘さに恍惚としながら、その会話をチラッと耳にする。果物が高値?庶民が手にできない?一瞬胸にチクリと棘が刺さるような感覚があるが、今は目の前のスイーツが美味しすぎて深くは考えない。頭の片隅に残る程度だ。
おいしい物は高いのである。これが前世における真理だった。この世界でも、それは当然のことだろう。
満ち足りた気分で温室を出ると、メイドが「お嬢様、小鳥たちに餌をやりになりませんか?」と誘ってくる。わたしは喜んで同意する。特に動物が好きというわけではないが、この世界には、どんな動物がいるのか、興味がある。
中庭を進むと、小鳥用の餌が用意されていて、手のひらに乗せると、可愛い小鳥がちょこんとついばみに来る。小鳥は、前世では見たことがない、目の覚めるような真っ青な鳥だ。幸せの青い鳥、なんて言葉が浮かんだ。
手のひらを小さなくちばしがつつく感覚がくすぐったくて、わたしは笑みを浮かべずにはいられない。
「かわいい……ですわね。」
まるで童話の世界だ。男だった前世ではこんな平和な瞬間、ほとんどなかった。常にメール、チャットツールのチャット、処理すべきタスクに追われ、リラックスする暇もなかった。リラックスすべき時間ですら、常に意識は仕事から逃れられなかった。
今は、確かに悩みもあるけれど、こうした小さな幸福を味わえるのは悪くない。
しかし、また耳に留まるささやき声がある。使用人たちが遠くで言っている。「今年は農民が出稼ぎに行くって。税が重いとか聞いたな」「そうだね、この領地は恵まれてるけど、皆が同じ境遇じゃない。」
わたしは小鳥に気を取られつつも、その言葉が心にひっかかる。こんな話しは初めて聞く……。いや、前から、ひょっとしたら聞いていたのかもしれないが、少し、この世界にも慣れるにしたがって、コソコソ話も耳に入るようになってきたのかもしれない。
なんだろう、庶民が苦労している?税が重い?私がこんなに楽しんでいる裏で、苦労する人々がいるらしい。その思いが胸をかすめるが、まだ深く考えるには心が甘い果汁と花の香りに包まれすぎている。もちろん、前世だって、経済的事情はそれぞれだったし、「あとで考えよう……」と曖昧に思う。
午前中を気ままに過ごした後、書室へ移る。メイドが軽い画集を用意してくれており、美しい花の挿絵を眺める時間だ。ページをめくると、たくさんの花が生き生きと描かれている。その下には時折、「この花はどこどこ領で採れる特産品で、近年価格上昇中」などの注記があり、ちょっとした経済の香りが漂う。
「また値上がりとか…ふむ。」
そういえば、前世でも、物価高のニュースがしょっちゅう流れていた。その分、不動産や金融資産は値上がりしていたから、差し引きゼロかもしれないが、財産の多寡で不公平が生じていたのは間違いない。
わたしは声に出さず心で呟く。なぜこんな自然豊かな国で、物価が上がり、人々が苦労するのだろう?都合が良すぎるほど便利な魔法技術もある。
だが、経済が活発になればなるほど、格差も生まれるのかもしれない。無邪気な挿絵を見ながら、ぬくぬくとした自分の境遇と外の世界の現実が対比され、薄い不安が芽生える。
でも、きっと、私には関係ない。
次に異国の贈り物が届けられる。過去に付き合いのあった他領の領主から派遣された使者が、美しい織物や香辛料を届けに来たという。わたしはその織物に触れ、「まあ、なんて滑らかな手触り!」と感嘆する。これは凄い。アートや服好きな知人に連れられていった洋服店でも、こんな生地に触れたことはあった。それと同格か、それ以上だ。
メイドは「ええ、とても珍しい織物で、魔晶石が魔法の力で織り込まれており、多少傷んでも自分で直してしまうそうです。庶民には永遠に手が出ない逸品です。」とあっさり言う。
その言葉に「そうなの?」と目を見開く。庶民とはそんなに隔絶された世界なのか…と胸が疼く。
ここは今、楽しいことを味わう回なのに、なぜか小さな棘が心に刺さったままだ。
少し気分を変えようと、お絵描きや刺繍を試してみることにした。メイドが画材や刺繍セットを持ってきてくれ、色とりどりの糸や布が並ぶ。糸は絹糸で、その光沢が素晴らしい。
「とても美しいでしょう。これはとても貴重なもので、おそらく、領内にはここにある分だけしかないでしょう。貴族にもなかなか手が出ません。」とメイドが微笑む。
(そんな高級品、練習に使うの勿体ないな。でも、いい物を使った方が上達が早いというし。)
わたしは思わず考え込む。糸一本でも高価なものがあるだなんて。自分が身につける華やかな物は、庶民には夢のまた夢なのか。
それでも今日はせっかくの楽しい日。刺繍針を軽く布に通して花模様を作ろうとする。ぎこちないが、誰も怒らず気楽に練習できる。些細な成功に「まあまあ上手くできましたわ!」と微笑める。しかし、その裏にある格差を知ってしまうと、手の動きが少し重くなる。
昼下がりの光が、館の長い廊下を淡く照らしている。わたしは気分転換のために、メイドたちの案内で図書室へと足を運んでいた。朝から甘い果物や花々を楽しみ、穏やかな時間を過ごしたものの、先ほど耳にした市場価格の上昇、農民たちの出稼ぎ、異国の織物が庶民に届かないことなどが、頭の片隅で引っかかっている。その違和感を確かめるには、もう少し社会情勢について知る必要がありそうだ。
図書室は屋敷の中でも静かな一角にあり、天井まで届く書棚がずらりと並んでいる。歴史書、地誌、貴族間の書簡集、そして最新の「新聞」に相当する報せの冊子類まで、情報がみっしりと詰まった知識の宝庫だ。前世でも図書館は静かな空間で好きだったが、ここでは本の装丁すら豪華で、魔晶石を使った照明が柔らかな光を放っている。まるで知の劇場といった趣きがある。
「お嬢様、本日は歴史書と、最近届いた『領内報』や近隣領地から届く簡易なお知らせなどもご用意しております。」
セシルが低い声で告げる。メイドたちはここでも音を立てないように配慮しているらしい。
「ありがとう、セシル、マリエ。少し読んでみたいわ。」
わたしは椅子に腰掛け、机に並べられた本や紙束を眺める。まずは軽めの歴史絵本や地誌からめくってみる。挿絵が多く、貴族間で昔かわされた合意や、各領地の特産品誕生の由来が描かれている。ここまでは平和な記述ばかりで、物語のようだ。
かつてこの地方は大戦をくぐり抜け、領主たちが協調して平和な時代を築いたと書かれている。読んでいると、「なんて素晴らしい世界」と思ってしまうが、朝から聞こえてきた庶民の苦労話や資源の独占といった話は書かれていない。歴史書はどうしても美化されてしまうのだろうか。こういうものを書くのは、勝ち残り、生き残った人々だ。いわゆるポジショントークというものだろう。前世でも、仕事柄、そういうバイアスはあって当然、悪いことではなくてその前提で理解するべき、と先輩から学んできた。
もう少し現実的な情報に触れようと、次にセシルが用意した新聞風の文書類に手を伸ばす。これは正式な「新聞」ではないが、領内や近隣領地で起こっている出来事をまとめた報せを定期的に届けてくれる業者がいるらしい。わたしは初めてこうした物を丁寧に読む。前世のように印刷技術は発達していないが、魔晶石を用いて複写する不思議な技術があるとかで、それなりに情報が広まるらしい。
紙面をめくると、最初の数ページは華やかだ。「○○領で新たな特産品が市場デビュー!」「△△家の特選ワイン、貴族たちの間で大流行」など、明るい話題が大きな文字で飾られている。色鮮やかな挿絵に近い図も付いていて、まるで高級な季刊誌のようだ。最近は特産品のブランド化が進み、領主たちは自分の領土の美味しい果物、希少な鉱石、美しい織物などを高値で取引していると書かれている。
「なるほど、これが庶民には届かないほど高価になる理由なのかしら?」とわたしは小声でつぶやく。需要が増え、ブランド価値が高まれば、価格は跳ね上がる。それは良いことでもあるだろうが、同時に格差も生むかもしれない。
何ページかめくると、一転して、経済面の記事が目に入る。「近年、各領地間で特産品競争が激化」といった見出しが躍る。小さな文字でびっしりと書かれた文章を読めば、領主たちが自分の領地の資源をより高く売るため、取引条件を厳しくしたり、隣領地との販売競合が生じているらしい。それにより、ある領地では庶民向けの食材が輸出用に回され、地元民が手に入りにくくなっている、といった問題が報告されていた。
同じ面積なら、より高価な作物を作付けしたほうがいいだろう。例えは悪いが、麻薬の栽培が流行して、飢餓が発生したなんて話を前世で聞いたことがある。
「ふむ……」
椅子に座り直し、背筋を伸ばす。今朝食べた甘い果物、あれもどこかで商人が買い占め、価格を上げているかもしれない。わたしは、思いついたら食べることができる立場にいるが、もし庶民だったら、あんな甘く不思議な味わいの果物なんて一生口にしないかもしれない。
さらに読んでいくと、「最近、都市部で働く出稼ぎ労働者が増加。農村部は人手不足」という小さな記事を見つける。税負担や資源の偏在、価格高騰で生活が苦しくなった人々が、より賃金を求めて都市へ移り始めているらしい。すると農村は人手不足で生産量が落ち、食料価格が上昇する悪循環が生まれるという指摘もあった。
こうした負の連鎖の記述は、歴史書には載っていない生々しい現実だ。わたしは唇を噛みしめる。あの可愛い小鳥や美味しい果物、豪華なドレスの裏で、人々が苦しんでいる可能性があるとは。昨日までは考えもしなかった。
しかし、こういうことは、前世でもあったはずだ。前世でも、そういう現象に心を痛めないわけではなかったが、ここでは、もっと心に迫るものがある。余裕ができたせいか、それとも、多くの領民に責任を持つ領主という立場からだろうか。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
マリエが低い声で問いかける。わたしは顔を上げ、軽く微笑みながら「ええ、少し考え事をしていました。」と答える。言葉遣いは既に自然だが、内心は不穏なものを感じている。
さらに新聞をめくる。あるページでは、農民の暮らしぶりを特集した一段がある。そこには、「かつては十分な食料が行き渡っていた地域でも、近年は高級作物の栽培に切り替えられ、庶民向けの基本食材が不足しがち」と書かれている。領主は高く売れる作物を育てさせ、安定した税収を得ようとするが、その結果、地元の人々は高価な特産品を口にできず、安い食料も不足しているという矛盾。
わたしはため息をつく。こんな記事を読めば読むほど、この社会が単純な「平和な世界」ではなく、「豊かさ」と「格差」が表裏一体で存在することが分かる。しかも、前世と似たような問題があるなんて。魔晶石の力や豊かな土地があっても、人間がいる以上、問題は尽きない。
「お嬢様、こちらの歴史資料もいかがでしょう。」
セシルが細身の本を差し出す。中世から近世にかけての領地統合や条約締結について書かれた資料らしい。ぱらぱらとめくると、かつて戦乱があった時代、領主たちは戦力を充実させるために、経済的な力を付けるべく、産業振興に力を入れていったらしい。つまり、戦いを有利に進めるため、経済競争でも勝負する傾向が昔から根付いているのだ。
あるいは、戦争にならないように、貿易を制限したりして、経済的に締め上げるという方法も多用されてきたそうだ。これも前世と同じだ。
戦がないのは平和で良いことだが、その代わり経済を武器として用いるようになったなら、弱い立場の人ほど圧迫されるかもしれない。今までは男言葉で「めんどくせぇな」と内心叫びたくなる問題を、必死に女言葉で包み込んでいたけれど、ここでは気取る必要はない。心中では「これは厄介だ」と素直に思っている。
わたしは静かに息をつく。もしこのまま放置すれば、いつか不満が爆発するかもしれない。それは領地間の摩擦や、農民たちの蜂起、盗賊の横行につながる可能性だってある。そうなれば、私のような貴族も安全ではいられない。結局、格差や不公正は、何も得をしない状況を生む可能性がある。
ここで再び、朝に感じたことが蘇る。「着るものだけではなく、将来もお仕着せになってしまう私は、本当に幸せなのか」と。
もし、今後、社会全体がもう少し公平で、誰もが自分で意思を示せるようになれば、そんな古い慣習だって変えられるかもしれない。
思わず拳を軽く握ってしまう。「わたくしは、いつかこの社会を少しでも良くしたい。そうすれば、押し付けられる未来も、変えられるかもしれない。」と心の中でつぶやく。
社会を改善すれば、誰でも一個人としての判断が尊重されるような世界を築けたなら、わたし自身がもっと自由になれる。
そうすれば、今の幸せな生活は、自由を得て、更に幸せになるだろう。悪くない。
わたしはもう一度新聞を眺める。「華麗なる特産品誕生!」の見出しの下には、「この特産品は貴族には大人気」と書いてあるけれど、庶民への言及はない。対照的に、後ろの方の面には「貧困層で子供が栄養不足」といった地味な記事が小さく掲載されている。
栄養不足?この豊かな世界で、そんなことがあるなんて信じられない。けれど、現に新聞はそう伝えている。
わたしは微かに身震いする。甘い果物、温室での至福の一時を、まだ舌に思い浮かべられる中、「自分だけが恵まれ、他は苦しい」なんて構図は、単純に後ろめたい。
勿論、ただの罪悪感で終わりたくない。わたしは女子トークを練習し、女言葉も自然に使えるようになってきた。強制されるまま生きるだけじゃなく、社会を知り、自分の意思で行動を起こせるようになれば、この不公平さを少しでも変えられるはず。変えられれば、わたし自身がもっと自由になれる。自分の将来に自分で条件を示し、もっと好きなように生きることだってできるかもしれない。
ここまで考えると、心が奇妙に熱くなる。今はまだ弱い存在で、家を支えるには程遠いが、知識と経験を積めば、社会を動かす手立てが見えてくるだろう。法律や社会制度はどうなっている?取引はどうされているのか?前世で使った知識はここで応用できるのか?
考えは尽きない。でも今日は無理に結論を出さなくていい。この新聞記事や歴史資料を読んだだけでも、大きな一歩だ。
「お嬢様、いかがでしたか?もう少し軽い読み物など…」とマリエが声をかける。
わたしは微笑んで「ありがとう、マリエ、セシル。もう十分です。また後で読み直そうと思います」と告げる。
彼女たちは「かしこまりました」と文書を整え、本を棚に戻す。わたしは静かに立ち上がり、図書室を後にする。長い廊下を歩きながら、頭の中で考えが巡っている。
朝から続いたこの日の一連の出来事。甘い果物、小鳥、花、美しい織物、刺繍糸、豪華なディナー、そしてこの新聞記事と歴史資料。すべてが繋がりはじめた気がする。
この社会は一見平和で豊かだが、その陰には格差、摩擦、貧困が潜んでいる。
しかし、わたしがこの社会を改善できればどうなる?
貧富の差が緩和され、摩擦が減れば、人々が穏やかに暮らせる。そして、社会が個々人の意思を尊重するようになれば、わたし自身、将来、たとえば貴族として縁談を押し付けられるとか、好きでもない連中と「社交」するとか、そういう厄介なこともなくなるのではないか。
そう、社会を良くすることは、わたし自身にとっても得策だ。わたし一人が幸せでも、将来不満が爆発すれば安全は揺らぐ。何より、押し付けられる将来より、自分で選ぶ未来の方がずっといい。
せっかく豊かな生活なのだ。これに自由が加われば申し分が無い。
館の廊下を抜け、わたしは部屋へ戻る。日はまだ暮れていない。外では緑の葉がざわめき、窓辺には籠にいれた果物が残っている。
「やってみるか。」メイドがいない今、男言葉で小さく独り言を漏らす。
夕方、窓辺で休んでいると、使用人たちが「隣領地が今度は鉄鉱石を高値で売るらしい」と話しているのが聞こえる。資源の独占、価格つり上げ、他所への輸出…。わたしには詳しいことはわからないが、聞けば聞くほど、この世界がただ優雅なだけではなく、経済的な競合や不公平が潜むと感じる。
わたしは自分が食べた甘い果物や可愛い刺繍糸を思い出しながら、「なぜこんなに恵まれた生活ができるんだろう?」と考え込む。外の世界はもっと厳しいのではないか?
この世界は平和で豊かだ。一件、問題が無いと思う。そして、平和で豊かだからこそ発展する、発展するからこそ、豊かさが生まれ、競争も生まれ、そうなると貧富の格差も生まれるのだろう。格差が悪いとは思わない。でも一方で、それが社会不安を生み出すと言うことは、前世でも思い知ってきたことだ。貧しい者が不幸になる事は、社会不安を呼び、豊かな者にとってもいい話ではない。
夜になり、ディナーが用意される。「本日は特別なメニューをご用意いたしました」と料理長が誇らしげに告げる。テーブルには、普段見ないような高級食材が並ぶ。珍しい魚、異国の香辛料を使ったソース、柔らかな肉、高級なワイン風味のジュース(わたしは未成年なのでワインではなく果実酒を薄めたものか、特別な飲み物)…。豪華絢爛そのものだ。
今日はどうにも、みんな気を遣ってくれる。病み上がりで元気がなかったが、やっと本調子になってきたからか。昨日、少し悩んでいる、疲れている様子を見せてしまったためだろう。本当に、言葉に出さずとも、こうやって気遣いしてくれることは、本当にありがたい。
「なんて素敵な夕食かしら!」と感嘆する。口に入れれば、舌の上で味が踊るようだ。しかし、先ほどからの不穏な話を思い出すと、フォークを持つ手が止まる。
昼間、果物の高値、異国の織物、絹糸、資源争い、税の話と、いろいろな言葉が頭に響く。ここまで贅沢に暮らせるのは、一部の特権階級だからなのだと再認識すると、胸が苦い。
甘くて美味しい料理を噛み締めるほど、「こんな美味しいものを私は当たり前のように口にしているけれど、外の世界にはこれを一生食べられない人もいる」という現実が迫ってくる。
前世では、贅沢することがあるといっても、それは自分で稼いだお金だった。もちろん、そのお金が稼げるようになったのは、自分だけの力ではない。しかし、一応、自分で稼いだ、という言い訳ができた。しかし、今の私は、名前も知らないご先祖様に功績があった、というだけで、庶民の一生分を超える贅沢を毎日のようにしている。
ディナーを終え、背もたれに身を預け、わたしはささやかな満足と同時に妙な罪悪感を抱く。「美味しかったけれど、ほんの一部しか享受できない贅沢をわたしは享受している。」
前世の忙しかった、それこそ稼いだお金を使う時間も無かったころ、それを思えば今は天国だ。けれど、なぜか心が晴れない。
もちろん、庶民がかわいそうだから、という理由だけで悩んでいるのではない。貧富の差が大きくなりすぎること、貧しくて生活に窮する人が増えることは、豊かな立場の人間にとっても、決して良いことではない。
貧しくなれば、犯罪に手を染める人も出るだろう。社会にとって大きな損失だ。治安維持にもお金がかかるだろう。そのためには税金が必要だし、豊かな人間はそれなりに負担をしないといけなくなる。更に不満が高まれば、私たち貴族にも、その不満の矛先が向かうかもしれない。領地間で摩擦があるかも知れない。そうなると、私だって、贅沢どころではなくなるかもしれない。
部屋に戻り、今日を振り返る。甘い果物、可愛い小鳥、素敵な織物、綺麗な刺繍糸、豪華なディナー……すべてが魅力的だった。わたしは久々にストレスフリーな一日を過ごした気がする。楽しかった。
でも、その裏で小さな会話の断片が示すように、貧富の差が確実に存在する。資源や取引で領土間の不和が生じるかもしれない。人々が苦労して働いても報われない構造があるのかもしれない。「なんでこんなことになるのかしら?」と疑問が浮かぶ。
まだ私は何もできない。わたしは領主とはいえ、なにか政治をしているわけではない。まだ14歳くらいの少女としてこの世界に馴染もうと必死なだけ。でも、今後、家を継ぐようになったとき、何もしないでいるのは嫌だと思う。自分があれほどの贅沢を当然のように受け取りつつ、外では苦しむ人がいるなんて、居心地が悪い。そして、社会が不安定になれば、居心地が悪いだけでは済まなくなる。
「わたくしが将来、自分の意思で何かを決められるなら、こんな格差を少しは緩和できるかしら?」
初めてそういう発想が頭をよぎる。これまでは自分の身の振り方ばかり気にしていたが、社会改善への思いが微かに芽吹く。
当然、今は具体的な方法もわからない。ただの少女としては無力だ。しかし、今日感じた違和感は、いずれ行動を起こすきっかけになるかもしれない。
ハーブティーを一杯飲み、窓の外を眺めると、庭園には月光が降り注ぎ、青いバラがぼんやりとした輪郭で浮かび上がる。美しく、儚い花弁。
「こんなに美しい世界なのに、不公平や摩擦があるなんて、もったいねぇ……ですわ……」
男言葉で「もったいねぇ」と言いかけたところだが、上品な言い回しに言い換える。少しずつだけど成長している自分を感じて苦笑する。慣れていくというのは恐ろしいけれど、成長は悪いことじゃない。
「いつか、わたくしがもっと自由に動けるようになれば、この社会を少しでも良くする力になりたい……。」
ひとりごとを言う声は小さいが、明確な決意じゃない、ただの思いつき。だけど、この芽を大事に育てたい。
今日は楽しんだ分、その裏にある影も見えた。一歩前に踏み出すには、まだ早いけれど、気づくことからすべては始まる。
わたしはベッドに腰掛け、クッションに手を預ける。明日はまた別の日が来る。
社会を知るきっかけをたくさん得れば、自分にもできることが生じるかもしれない。
それに、これは自分のためでもある。社会がおかしくなれば、今の生活だって続けられなくなる。社会を前に進めることができれば、自分自身も自由に振る舞えるようになるかもしれない。さすがに、フォーマルな場でもなんでもないところ、友達との語らいの場なのに、ドレスとコルセットは大変だ。
酒が解禁される歳になっても、貴族の女性は酔っ払うほど飲むなとか言われそうだ。今の生活に不満があるとすれば窮屈なことだ。社会を改善し、進歩させれば、今後の幸せな生活も続くし、自由になってさらに楽しく過ごせるし、いいことだらけじゃないか。
甘いものに囲まれ、花に包まれた一日の終わりに、わたしは小さく微笑む。「がんばろう」ではなく、今日は「ゆっくり考えましょう」かな。急ぐ必要はない。今はまだ学んでいる最中。
シーツに包まれ、瞼を閉じる。庭園や温室の優雅な記憶、果物の甘酸っぱい味、刺繍糸の光沢、小鳥のさえずり、それらを思い浮かべながら眠りに落ちる。
遠くで聞こえる微かな使用人の声、「あの商人たち、また値上げするらしい」なんてささやきは、もう遠い子守唄のように聞こえる。
今日は久々のリラックスデー。でも、その裏には微かな不安が漂っている。貧富の差、領土間の摩擦、まだ遠い話かもしれないが、確かに種は蒔かれた。
わたしはこの平和で豊かな世界をより良くするために、いずれ何かができるだろうか。まだ答えは出ない。今はただ、美しい夢を見ながら、成長し続ける自分を感じて眠りにつくだけだ。
こうして、私の幸せな一日は、ほのかな甘い余韻と、薄暗い未来への伏線を残しながら幕を閉じるのだった。
少し将来のことを真剣に考えてしまったエリシア。主人公らしい思いを抱きつつ、彼女には、将来ではなく目の前に課題が待っている。
もっと貴族令嬢らしい仕草を身につけるため、侍女長が用意した特別な家庭教師が登場。
「扇子?扇げばいいだけじゃないの!?」「歩き方どころか、床の踏み方まで!?」
エリシアの猛特訓が始まる……!
次回、第8話、「『カワイイ』は武器になる! 前世男が挑むお嬢様仕草アップデート」