お嬢様練習帳:女の子の会話、初挑戦!
朝の光が柔らかく部屋に差し込む中、私は椅子に腰かけ、昨日教わった礼儀作法を頭の中で反芻していた。顎を引いて背筋を伸ばし、両足を揃えて……もう基本姿勢だけはずいぶん慣れてきたはずなのに、まだ時々「めんどくせぇ」とか前世の男らしい雑な言葉が頭をよぎる。だが、声に出さなければ大丈夫。今の私はエリシア・エイヴンフォード、貴族令嬢。ここは異世界で、元男の癖を引きずっては恥をかく。
「お嬢様、失礼いたします。」
控えめなノック音の後、マリエとセシルが音もなく入ってくる。朝の挨拶もすっかり日常になりつつある。
「おはよう、マリエ、セシル。」
自然な調子で挨拶すると、二人は微笑み返し、「お嬢様、本日もご機嫌麗しゅうございますわね」と穏やかに応じる。最近はこのやり取りにも慣れてきたが、まだ心の中で「おはよーー!」と言いかける自分がいる。ぐっと堪えよう。
「お嬢様、本日お伝えしたいことがございます。」
セシルが少し改まった声で切り出す。私は「何だろう」と胸がざわつく。前世だったら「なに?」と返したいが、もちろんそんな口調はNGだ。
「な、なにかしら?」
なるべく上品な響きを意識して聞くと、セシルは微笑んで続ける。
「近々、近隣の貴族令嬢がお嬢様をお見舞いがてら訪ねてこられる予定があるとのことです。病後、お嬢様がご快復されたという報せが届き、同年代の娘君が数名おいでになるとか。」
「お、お見舞い?」
そうか、この世界では私はまだ若い領主家の一人娘で、両親を亡くして侍女長が摂政をしている立場だったはず。名目的には、両親の相続人だから、領主ということになる。それで、私が病気から回復したという噂が広まり、同年代の貴族令嬢たちが挨拶に来る……なるほど、社交デビューの小さな一歩かもしれない。
「何名いらっしゃるの?」
「はい、現時点では二名ほどが有力でございます。お名前は、メリッサ・グラントン様とルシエラ・ティンバー様。それぞれ近郊の小領地の令嬢で、年はお嬢様より一つか二つ下、と記録にはございます。」
セシルは冷静に答える。私は内心パニックだ。女の子同士の交流なんて前世でも得意じゃなかったし、ましてこの世界の女の子は貴族令嬢。会話の仕方一つで相手に悪印象を与えたらどうなる? 男だった頃の軽口や雑な語尾が出たら最悪だ。
「あ、あの……わたし、女子同士で何を話せばよいのかしら?」
情けないが、そのまま口にしてしまった。「女子同士」なんて言い方も少し変だが、仕方ない。
マリエはくすっと笑みを浮かべ、「お嬢様、そういう時はお茶会で話すような話題が基本でございますよ。お花や季節の行事、最近のファッション、そして果物やお菓子のお話など。」
お花?果物?お菓子?ファッション? 男だった頃は女友達がいないわけではなかったが、こんな上品な話題をころころと転がす経験は少なかった。多分、男言葉で、何か言おうものなら、即アウトだ。
「そ、そうですか……なるほど、花や果物のお話を……」
声が震えそうになる。こんな乙女トークをどう切り抜ければ?
セシルが微笑み、「もしお嬢様がご不安でしたら、わたくしたちで少し練習してみるのはいかがでしょう?」と提案してくれる。
「練習?」
「はい、お嬢様がお客役、わたくしたちが令嬢役をする形、あるいはお嬢様がホスト役となる想定で会話の練習をするのです。実際の来客前に何度か話題を試してみれば、少しは気が楽になるかと存じます。」
マリエが補足する。なるほど、模擬お茶会か。恥ずかしいが、やるしかない。いきなり本番でボロが出るよりずっとマシ。
それにしても、ここまで親切に、まるで、私が生まれ変わったみたいに世話をしてくれるのは、本当に感謝しかない。ここは、甘えてみよう。
「お願いします、少し練習してみたいわ。」
そう答えると、メイドたちは嬉しそうに笑み、さっそく準備を始める。小さなテーブルにカップを並べ、花を一輪飾り、簡易なお茶会セットがあっという間に整えられる。
「では、お嬢様。まずは、お客様がいらしたときのご挨拶からまいりましょう。」
セシルが客役になって、部屋の外へと出ていく。設定は「メリッサ令嬢が来訪」という想定らしい。
扉がノックされる。私は立ち上がり、背筋を伸ばす。顎を引く……よし。
「ど、どうぞお入りくださいませ。」
なるべく柔らかい声で言う。セシルが「メリッサ令嬢」になりきって入室する。
「ごきげんよう、エリシア様。この度はご快復と伺い、こうしてご挨拶に参りました。」
セシルは客役として丁寧な挨拶。私は少し笑みを浮かべて、「ごきげんよう、メリッサ様。わざわざお越しいただき恐縮ですわ。」と返す。
(大丈夫、まだ大丈夫。男言葉は出ていない。)
ここからが問題だ。話題をどう展開するか。花や果物の話?オシャレなドレスの話題?
「本日は、よろしければお庭を散策して、咲き始めたばかりの青いバラをご覧になっていただければと思いますの。」
よし、花の話題を切り出してみた。果物ばかり話しても前回と同じだし、花ならこの屋敷の庭園が売りだ。
セシル演じるメリッサ令嬢は微笑む。「まあ、青いバラがあるのですか?とても珍しいと聞いております。ぜひ拝見したいですわ。」
いい調子だ。私も「ええ、昨年より栽培を始めたらしく、魔晶石の加護で美しく咲いておりますのよ」と続ける。
魔晶石の加護、なんてフレーズも自然に出るようになってきた。内心「へぇ、青いバラとかすげぇ!」「おいくら万円!?」と言いたいが、そこは「とても特別な花でして……」と上品に。
しかし、問題は次。花で一通り会話が盛り上がった後、別の話題へ移る時だ。前世なら「それで、最近は?相変わらず稼いでいる?」とか「そろそろ、仕事も選ばないとね」と雑談するところだが、ここは繊細に。
「ところで、メリッサ様は最近どのような本をお読みですか?わたくし、歴史書に触れ始めたところでございますが、まだまだ知らぬことばかりで……。」
これでいいのか?歴史書なんて硬い話題でいいのかな。でもファッションの話題に飛び込む勇気はまだない。
セシル(メリッサ)が答える。「まあ、歴史書をお読みになるなんてエリシア様、真面目でいらっしゃいますのね。わたくしは先日、庭園の花々を題材にした絵本のような画集を眺めておりましたわ。」
花から花関連本への派生。悪くない。
ここで男言葉が出そうになる。「へぇ、絵本って……あ、えと、とても雅な趣味ですわね。」危ない、うっかり「へぇ、絵本読むの!?」とか言いそうになった。必死で柔らかい表現に変換する。
メイドたちは後ろで軽く頷いている。「よろしいですよ、お嬢様。」という目で見てくれているようだ。ほっと一安心。
するとマリエが今度は「ルシエラ令嬢」役を務めると言い、交代で入室してくる。今度はもう一人の貴族令嬢を想定して二人同時の会話練習だ。倍の難易度だ。
「ごきげんよう、エリシア様、メリッサ様。お加減はいかがです?」
マリエ(ルシエラ役)が加わり、3人で会話をする設定。これは難しい。同年代の女の子が集まれば、前世なら男言葉で軽く茶化したり砕けた話題に流れるのが楽だったが、ここではそうはいかない。
3人で軽くお茶を飲む仕草をする(もちろんカップは空)。私は丁寧にカップを持ち上げ、「あの、ルシエラ様、もしよろしければ、先日お庭で採れた新鮮な果物をお召し上がりいただきたいのですけれど……」と話題をふる。
内心で「お召し上がりいただきたい」なんて長い表現、男らしく「食べる?」で済ませたい。でもここは耐えるしかない。
ルシエラ役のマリエは嬉しそうに「まあ、そちらの領地では美味しい果物があると伺っております。ぜひいただいてみたく思いますわ。」と返してくれる。
私も「ええ、ラズィーナという果実が特にお気に召すかと……」と続ける。果物は前回学んだ切り札だ。おかげで今は自信を持って紹介できる。
だが、徐々に話題がマンネリ化してくる。「花」「果物」「本」……もっと女の子同士の会話といえば、服やリボンや髪型の話題も必須なのでは?
思い切って挑戦してみよう。「あの、もし失礼でなければ、お二人は普段、どのような髪型をお好みですか?わたくし、最近まであまり気にしていなかったのですが、せっかく素敵な髪飾りをいただいて……あ、えっと、とても素敵な髪飾りを頂戴しましたので、上手く活かせればと思いまして……」
危なかった、男言葉とか出そうになるたびに軌道修正。自分でも冷や汗が出る。
メリッサ役のセシルが「まあ、髪飾りはその日のお召し物やお茶会の雰囲気に合わせるものですわね。」と返し、ルシエラ役のマリエも「先日は藍色のドレスに合わせて紺色のリボンを……」などとファッション談義に乗ってくれる。
私は必死で「へえ、なるほど……」を「まあ、それはとても洗練された組み合わせですわね。」と上品な相槌に変換。頭が熱くなる。
こうして一通り会話練習を終える頃には、汗がにじんでいる気がする。メイドたちは「お嬢様、とてもお上手でございました。最初は難しいかもしれませんが、これで本番に備えられますわね。」と励ましてくれる。
私は椅子に背を預け、深呼吸する。男だった頃はこんなに言葉遣いに神経を使ったことはなかったが、この世界では些細な表現が品位を左右する。
少し疲れたけれど、練習して正解だと思う。本番でいきなり女の子トークを要求されていたら、たぶん「まじかよ」とか口走って破滅していただろう。今はぎこちないが、何度か繰り返せば慣れてくる……はず。
「お嬢様、今日の練習を思い出していただければ、実際にお嬢様方がいらした際にも落ち着いて対応できるかと存じます。」
セシルの言葉に、私は小さく頷く。「ええ、ありがとうございます。まだまだ拙いですけれど、がんばりますわ。」
本当は「まだまだへたくそだけど、頑張るぜ!」と男言葉で言いたいところだが、それは絶対ダメ。せめて心の中だけにしておこう。
その後、メイドたちはティーカップを片付け、わたしは軽く背伸びする。終わってみれば、なんとか形になった気がする。恥ずかしいが、こうした練習を積むことで、本番で他の令嬢と会うとき、少しはマシに振る舞えるだろう。
外の空気を感じに行くか、それとももう少し部屋で言葉遣いの復習をするか迷うが、とりあえず落ち着きたい。
「お嬢様、もしよろしければ、先ほどの練習でお召し上がりいただけなかった果物をお持ちしましょうか?」
マリエが尋ねる。果物か、甘い果物は精神安定剤のようなもの。あれを食べれば少しリラックスできるかも。
「ええ、お願いするわ。ラズィーナを少しいただけると嬉しいですわ。」
自然と女言葉が出てきた自分に驚く。慣れって怖い。
果物を味わいながら、頭の中で「女の子らしい会話」を再確認する。「素敵ですわ」「とても雅ですわね」「なんて可憐な……」そんな表現ばかりだが、これがこの世界で生き抜く術なのだから仕方ない。でも、本当に恥ずかしい。多分、今の私は、耳まで真っ赤だろう。
こうして、他の貴族令嬢との接触準備に向けた特訓がなんとか終わった。
早く、ゆっくりした生活をしたいが、まだまだ苦労は絶えない。しかし、少しずつ慣れていく自分がいる。果物を一粒口に運び、その甘さを噛み締めながら、私は心の中で決意する。「いつか、自然に女子トークができる日が来るのだろうか……ま、がんばるしかないな。あ、えっと、しかありませんわね!」と、また自分にツッコミを入れ、頬を赤らめた。
果物を口に含み、甘酸っぱい果汁が舌の上ではじけるのを感じながら、私は深呼吸する。先ほどまでの練習で、なんとか女の子同士の会話の雰囲気は掴めた(気がする)。少なくとも、男言葉が飛び出す回数は減ってきた。少しだけれど成長しているはずだ。
「お嬢様、ほんの少しお休みになられますか?このあと、書室でお読みいただける軽めの歴史絵本などもご用意できますが。」
セシルが聞いてくる。私は首を縦に振った。
「そうね、短いお話や画集なら、気分転換になりそうね。さっきまで頭を使いすぎたから。」
無理なく返事すると、メイドたちは「かしこまりました」と微笑んで出て行った。
部屋に一人残されると、ほっと息を吐く。「やれやれだわ……」と軽く呟く。前世なら「やれやれだぜ」なんて格好つけた言葉で済ませたかもしれないが、今はやれやれも上品に言わなきゃいけない気がして、妙な圧力を感じる。疲れる話だ。
今度、近隣の貴族令嬢が挨拶に来る……本番はもうすぐかもしれない。練習でそこそこ形になったとしても、実際に相手と対面すれば緊張で言葉が引っ込むだろう。せめてもう少し落ち着いておこう。
しばらくして、メイドたちが戻り、薄い画集や童話のような本を置いてくれる。カラフルな花の挿絵や、軽い歴史エピソードが詰まったそれらを眺めると、気分が和らいだ。風が窓辺から微かに流れ込んでいて、心地よい。
すると、廊下で軽やかな足音が聞こえ、侍女長が部屋に姿を見せた。
「お嬢様、まことに突然ながら、本日午後、メリッサ・グラントン様とルシエラ・ティンバー様がお見えになるとの連絡が先ほど入りました。」
「えっ、今日!? あ、いえ、今日ですの……?」
一瞬「まじで今日くるのかよ!」と男言葉が出そうになったが、ギリギリで上品な言い直しに成功する。侍女長は微笑みを浮かべ、
「はい、お嬢様がご快復された報せを受け、ぜひ早めにご挨拶したいとのことです。お昼過ぎ頃のご来訪を予定しております。」
ちょ、ま……じゃなくて、「少々、急なことでございますわね……」と返すが、もう内心大パニックだ。ついさっきまで練習したばかりなのに、もう本番が来るなんて。
そうか、この世界では、私も友達も子どもといっていい年齢か。仕事があるわけではないから、予定がこんな風に簡単に組まれるのか……。いや、そうはいっても、もうちょっと、前置きを……。
侍女長は「ご安心ください。既にお茶やお菓子のご用意は手配しております。お嬢様は軽く身支度を整えていただければ十分かと。」と淡々と言う。いや、準備って、一番大事な心の準備が。
身支度!そうだ、服や髪型、何を着ればいい?今日は簡素なワンピースだが、もう少しお出迎え用に華やかなリボンくらいつけた方がいいのだろうか。
「わ、わかりましたわ……では、セシル、マリエ、少しお手伝いをお願いできます?」
「かしこまりました、お嬢様。」二人は微笑んで頷く。
服選びはメイド任せだが、私は鏡の前で姿勢を確認する。昨日までの礼儀作法練習、今朝の会話練習を思い出せ。顎を引いて、背筋まっすぐ、足音を立てずに歩く。言葉遣いは柔らかく、花や果物、ファッション等の話題が無難。よし、頭に叩き込む。
けれど緊張で手が微かに震える。「落ち着け落ち着け……」と心で唱える。そのたびに「落ち着いて、そうですわ…」と口に出しそうになるが、変な独り言はNGだ。
メイドがクリーム色のドレスを準備してくれる。コルセットは薄手で、昨日よりだいぶ楽だ。ゆるく髪をまとめ、淡い色のリボンを一つつけてくれる。「こんな感じでいかがでしょう、お嬢様。」
鏡を見ると、そこにはどこから見ても貴族令嬢らしい少女がいる。自分が男だった頃を思えば信じられない光景だが、これが今の私。もう観念するしかない。
昼下がり、時間が来る。メイドが知らせに来る。「お嬢様、メリッサ様とルシエラ様がお屋敷に到着されたとのこと。応接室へとご案内する予定でございます。」
「わかりました……わ……」と答え、立ち上がる。膝がわずかに震えたが、前世で大事な打ち合わせ前と比べればマシかもしれない。あの頃は時間に追われて余裕がなかったけれど、今は逃げ場がない代わりにサポートがある。大丈夫、たぶん大丈夫。
廊下を歩くとき、足音を立てないようにそっと進む。顎を引いて背筋を伸ばす。声に出して確認したいができない。心の中で「よし、よし……」と繰り返す。応接室のドアの前に立つと、ノックが聞こえ、メイドが中に入って私が来たことを告げる。
ゆっくりドアが開く。中には二人の少女が立っている。一人は柔らかい茶髪で淡いピンクのドレス、微笑みが可憐な印象のメリッサ令嬢と思しき少女。もう一人は黒髪をすっきりまとめ、藍色のドレスを纏ったルシエラ令嬢らしき少女。どちらも私よりやや年下か同年代くらいだが、既に完成された貴族オーラを纏っている気がする。
「ごきげんよう、エリシア様。この度はご回復おめでとうございます。」
メリッサが先に口を開く。予想通り綺麗な礼儀正しい声。
「ごきげんよう、メリッサ様、ルシエラ様。わざわざお越しいただき恐縮でございますわ。」
奇跡的にスムーズに言えた!内心ガッツポーズしたいが、表情は穏やかな微笑みに留める。
ルシエラが「エリシア様のご快癒を聞いて、早くお会いしたく思っておりました。お元気そうで何よりですわ。」と優雅に続ける。その言葉に「ええ、おかげさまで……、でもまだ、記憶が混乱していて……」と返した後、「もしよろしければ、お茶をご用意しておりますの。どうぞお掛けになって。」と誘う。
よし、事前練習通り。
三人でソファーに腰かけ(もちろん私はゆっくり、ドスンとならないように神経を使う)、メイドがティーカップを配る。
「こちらの果物は、ラズィーナと申しまして、最近当家でよく頂いているのです。」
さっそく果物の話題を出す。二人は「まあ、珍しいですわね」と興味を示し、私の中で僅かな安堵が広がる。なんとか滑り出しは良好だ。
花の話、画集の話、先日の練習通りの話題が途切れなく続く。ややカンニングしているような感覚だけど、まあ大事なのは失敗しないことだ。
「エリシア様は、青いバラをお育てとか?」
メリッサが思い出したように問う。
「はい、魔晶石の加護で特別に。まだ数は少ないのですが、とても珍しい品種で、将来的にはお庭全体をもう少し華やかにできればと……」
ルシエラが「青いバラだなんて素敵ですわ。いつか拝見したいです。」と微笑む。私は「ぜひ、お散歩がてらご案内いたしますわ。」と優雅に応じる。うん、大丈夫、自然に返せている。すごいじゃないか、私。
ふと、メリッサが少し声を潜めて、親しげな表情で言う。「エリシア様、病後とはいえ、もうすっかりお元気そう。それにとてもお美しい。将来はきっと、素晴らしいご縁にも恵まれることでしょうわね。」
おっと、来た。将来の話題。しかも「ご縁」=結婚などを示唆している。ここが試練だ。前世の男だった自分にとって、嫁ぐなんて考えられないが、でも今は冷静に。
「そ、そうですかしら……まだ、わたくし、そのようなことは何も……」
声が僅かに震えるが、笑みを崩さない。男言葉は絶対出さない。「わたくしには、まだ先のことでございますわ……」と曖昧に答える。
ルシエラが「まあ、焦ることはありません。わたくしたちも、まだまだ学ぶことが多く、いずれは家を支える存在となるのでしょうけれど、今はこうしてお茶を楽しむ程度でよろしいのでは?」と言ってくれる。
その優しさに救われるが、同時に「支える存在となる」ことが当たり前と言われていることが重くのしかかる。私の中で胸がざわついて、昔男だった自分が『勝手に人生設計しないでくれよ…』と叫んでいる。
心中で眉をひそめても、表情は崩せない。何とか話題を花や果物に戻す。「ええ、今は、この世界のことを少しずつ学ん……思い出して、いるところでございます。実は、歴史書も少し拝見して……」と発言している最中、舌がわずかにもつれ、「スゲー…え、いえ、とても勉強になりますわ」と慌ててフォロー。
メリッサとルシエラは気づいたろうか? 彼女たちの表情は変わらず穏やかだが、心臓はドキドキする。
それから20分ほど、お茶と会話が続く。私は大きな失敗なくこなせたが、頭は大混乱で息苦しい。彼女たちは帰る前に、「また近々お会いできれば嬉しいですわ。」と礼儀正しく別れの挨拶を交わす。
「ぜひまたいらしてくださいませ」と返し、ドアが閉まると、私はその場で肩を落としそうになるのをこらえ、メイドが戻ってくるのを待つ。
「お嬢様、お見送りの準備を。」
あ、そうだ、まだ見送りがある。立ち上がって廊下へ出て、正面玄関ホールへ移動する。足元に注意して、男言葉が出ないように最後まで油断できない。
「本日はありがとうございました。またの機会を心待ちにしておりますわ。」
表にて、馬車に乗り込む二人に、微笑みながら頭を軽く下げる。彼女たちは笑顔で手を振り、「お元気で、エリシア様。」と去って行く。その様子を見届けてようやく全て終了だ。
屋敷の中に戻り、メイドたちが安堵の表情で出迎える。「お嬢様、とても立派に対応されておりました。」
そう言われて、私は笑おうとするが、急に足の力が抜けて膝が震える。
「お、お嬢様、大丈夫ですか?」
セシルが慌てて私を支える。
「だ、大丈夫……ですわ……」と言いながら、ふと目頭が熱くなる。朝の練習、そして本番、何とか無事乗り切った。
簡単なことだったかもしれないが、達成感やいろんな思いが入り交じり、練習中には泣かなかった涙が今さら込み上げてくる。
周囲に悟られないように顔を伏せ、「すみません、少し疲れました……」とだけ言うと、メイドたちは「お部屋に戻られますか?」と声をかける。私は静かに頷く。
わたしは静かに頷き、メイドたちに支えられながら部屋へ戻る。扉が閉まると同時に、身体中の緊張が一気に抜けていくような気がした。三人の対面、そして見送りまで、全てを終えた後の空気は、不思議なほど重苦しい。
「はぁ……」
軽く息を吐く。別に失敗したわけじゃない。むしろ、上手くやり遂げたはずなのに、なぜこんなに心臓がどくどく鳴っているのか。
もしかしたら、あの令嬢たちが何気なく口にした「将来」や「ご縁」という言葉が、またわたしの頭をかき乱しているのかもしれない。彼女たちは悪気なく、当然のように、わたしが“女の子”として、この世界で結婚し、家を支えることを視野に入れていた。自分でも聞き流そうとしたが、そのたびに胸がざわつき、喉が詰まる。
でも、今はそれを考えても仕方ない。少なくとも今日は、急な来客に対応できた。練習したことを思い出し、花や果物の話題を振り、下手な男言葉が出ないように必死で気を遣った。難しかったけれど、もう後悔することはない。終わったのだから。
部屋の中は静かだ。メイドたちは「お疲れでしょうから、お一人でお休みになられては?」と気遣ってくれ、少し部屋を離れている。正直ありがたい。もう少し一人になりたかった。
窓から差し込む光は柔らかく、絵本や画集が机の上に並んでいる。先ほどセシルが「気分転換に」と用意してくれたものだ。表紙をめくると、色とりどりの花の挿絵が目に飛び込んでくる。美しい。それだけで心が少し和らぐ。
しかし、ページをめくるたび、「こうして女らしく花の話をするのは当たり前」と思い込みそうな自分が怖い。前世ではこんな世界になじむなんて想像もしなかったのに。
ふと、わたしは床に足を下ろし、立ち上がる。身体を伸ばし、軽く歩いてみる。もう男言葉で愚痴りたい衝動は治まっているけれど、胸の奥に重い石が沈んでいるみたい。「わたしは、この先どうなるんだろう……」と独り言が漏れそうになるが、声に出せば余計悲しくなる気がしたのでやめた。
考えたくない将来のことが、ここ数日で何度も頭をよぎる。
(考えない考えない、今考えても仕方ない。)
自分に言い聞かせても、何度も思い浮かぶ。「あの子たちみたいに自然に笑いながら、花や果物の話をする日が来るだろうか。それとも、わたしはずっと戸惑い続ける?」
舌打ちしたいが、それも男らしくてNG。“ちっ”と言いかけて「あ、いえ……」と声にならない溜息を吐く。
どこか、メイドが戻ってきてくれたら、いっそ愚痴でも聞いてほしい気もするが、愚痴れば男言葉が出てしまうかもしれない。それはそれで危険だ。
「お嬢様、よろしければハーブティーをお持ちいたしましょうか?」
ちょうどそんな時、控えめなノックと共にセシルが声をかけてくる。
「あ、ええ、お願いするわ。」
バレたのかもしれない、わたしが不安定になっているのを。けれど、それを責めるわけでもなく、淡々とサポートしてくれる。今はその優しさに甘えよう。
セシルがハーブティーを持って来て、机の上に置く。カップから漂う甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとうございます……」
静かにお礼を言うと、セシルは「お嬢様、無理をなさらず、少しお身体を休められてはいかがでしょうか」と提案する。
無理をしない……そうだ、急に来客が来て、全力で対処したんだから疲れて当然だ。あの会話中、どれほど男言葉や軽口が喉まで出かけ、必死で飲み込んだことか。
「そうね……ちょっと休もうかしら。」
言葉に出すと、セシルは微笑んで一礼し、部屋を後にする。マリエも合流して、もう私は一人で、部屋は静かだ。
椅子を立ってベッドへ向かう。ふかふかのシーツを手で触れ、「こんなに恵まれた環境なのに、なんでこんな苦しいんだろう」と苦笑する。前世なら、こんな豪華な寝台で昼間から休むなんて考えられなかった。
でも、恵まれた環境=精神的な余裕ではない。むしろ、期待と役割がしんしんと重くのしかかる。わたしはただ「人として自分の道」を選びたいだけなのに、既にレールが見えている気がして息苦しい。
横になってみる。マットレスが柔らかく背中を受け止めてくれる。目を閉じれば、花や果物、絵本の挿絵、淡いドレス、柔らかな言葉遣い……さっきまでの世界が頭に浮かぶ。
かわいい世界だ。貴族令嬢としては何もおかしくない日常だろう。でも、そこにk貴族令嬢としての使命が潜み、将来否応なく誰かの妻になり、家を存続させる歯車になることが当然だと皆が思っている。思い出すたびに心がひきつる。
深呼吸する。
ゆっくりと呼吸を整え、部屋の静寂と甘いハーブティーの余韻を味わう。
さっきは客前でなんとか踏ん張ったが、今は泣く必要はない。涙はほとんど出ない。
「私、頑張ったわ。」と自分を褒めてみる。
これから先、少しでもこの社会でやっていく術を身につけよう。幸い、地位を利用すれば、大人になって、少しは自分の周りだけでも、もっと自由な社会にできるかもしれない。この世界では何の役にも立たないと思っていた法律の知識が、その役に立つかもしれない。
一方で、少し意地悪な考えが浮かぶ。「いずれ女性としての役割を求められるなら、それを逆手にとって自分なりの条件や自由を要求してやればいいんじゃない?」男だったころのプライドと性分が首をもたげる。
でも、そんなこと本当にできる?貴族社会は固い。だが、諦めてしまったら自分が自分じゃなくなる気がする。
とりあえず、今日はこれでいい。
「お嬢様、失礼いたします。」
ノックの音。入ってきたマリエが小さなケーキを皿に乗せて持ってくる。「お疲れでしょうから、甘いものを召し上がってはいかがでしょう。」
わたしは微笑み、「ええ、ありがとう。」と答える。ほんの小さな贅沢が心に沁みる。
ケーキを一口頬張ると、クリームの柔らかな甘さが口いっぱいに広がる。これはすごくうま……いや、「美味しいです。」
また言い直しだ。でも、そこまでストレスじゃない。さっきの来客対応で何度も同じことをやったから、やや慣れた気がする。少し楽しんでいる自分もいる。
甘いケーキとハーブティーを味わいながら、窓外の景色を眺める。さっきまで必死だったのが嘘みたいな平穏。
この世界は残酷なほど美しい。望まぬ将来もあるが、美味しい果物とケーキ、優しいメイドがいて、時間に追われず学び直せる環境がある。多少の違和感や苦労を乗り越えれば、いつか本当に「それも悪くない」と思える日が来るのかもしれない。
花々が揺れる庭を想像し、次はいつその青いバラをゲストに見せられるか考える。メリッサやルシエラがまた来るかもしれない。その時は、もう少し自然な笑顔で対応できるだろうか。
頭に浮かぶのは、ファッションの話題、次はもう少し踏み込んでみてもいいかもしれない。「どんなアクセサリーが流行ってるのかしら?」とか、ほんの少し前向きに考えてみる。もちろん、男言葉が出ないように注意する必要はある。
一歩ずつ準備しよう。言葉遣いも、礼儀作法も、女友達との会話も、少しずつ慣らしていけばいい。時間はある。幸い、自由や選択を除けば、自分はこの上なく恵まれている。
大変なイベントをこなした最後の余韻として、わたしはもう一口ケーキを食べる。甘い、柔らかな生クリームが舌を包み込む。
「ああ、いいわね……こういう時間は。」
小さく独り言を呟く。もう独り言も上品にしようと努力しなくても、ここは私の部屋だ。少しくらいなら気を抜いてもいいだろう。それでも「いいわね」と言っていることに気づき、男言葉を出さなかった自分を褒めてやりたい。
自分は、今、少しずつ、自分で物事をコントロールできるようになるための下地を作っている気がする。
まだ困難は山積みだし、心が折れそうになることも多い。だけど、味方はいるし、心を落ち着ける甘い果物やお茶もある。将来への不安は消えないが、今はまだ「慣れる」過程に過ぎない。
いつか本当に女性として生きることを受け入れられるのか、それとも独自の生き方を見つけるのか、答えはまだ先。
カップを置き、静かに瞼を閉じる。次の試練に備えて、今は休もう。
「今日はよくがんばりました……ですわ。」
再び語尾を意識して訂正するが、もう苦笑まじりだ。この微妙な違和感を笑い飛ばせる日がきっと来る。そう信じて、柔らかなベッドに身を沈め、頭の中で花と果物、そして青いバラを思い浮かべる。
ゆっくり、ゆっくり、この世界になじんでいこう。
そう決意し、わたしは穏やかな呼吸を整えた。
他の貴族令嬢とのお茶会という一大イベントを、メイドの協力もあってなんとか突破したエリシア。
徐々に、この異世界での生活にも慣れていき、窮屈だったり不慣れなところはあるが、贅沢な暮らしを楽しむ日々。
そんなある朝、特別な朝食に舌鼓をうつエリシア。温室で育てた果物でつくったということで、興味がわき、温室見学に行くことに。その後も、異国からの贈り物に興奮したり、楽しく過ごす。
しかしエリシアは、この美しい空と大地にも、小さな影が差し始めていることに、思わず気がつくのであった。
この世界に慣れることに精一杯だったエリシアは、今度は自分が世界に何ができるのかと考えてみることに。
次回、第7話「青いバラにうっとり、読んだ新聞にどっきり」