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甘い果実と苦い礼儀――お嬢様の日常は一筋縄じゃいかない!

 翌朝、部屋に差し込む柔らかな光で目を覚ますと、昨日のドレス試着で感じた息苦しさや疲れが嘘のように体から抜けていた。軽く伸びをして、ふかふかのシーツから抜け出す。部屋はいつも通り快適な温度と甘い香りに包まれていて、まるでずっとここで暮らしていたかのような錯覚を覚える。


 「おはようございます、お嬢様」

 控えめなノックの後、マリエとセシルが音もなく入ってくる。朝の挨拶もすっかりお馴染みになった。まだ数日しか経っていない気がするけれど、この異世界生活に徐々に馴染み始めているのが自分でもわかる。


 「おはよう、マリエ、セシル」

 自然に出た挨拶に、メイドたちはにこやかに微笑む。それだけで朝が明るくなる気がする。


 「お嬢様、今日は果物のテイスティングはいかがでしょう?温室で育てられた甘い果実がちょうど食べごろになっているそうです。」

 セシルが提案する。「テイスティング」って、果物にも使う言葉なのか。ワインにつかう言葉かと……。でも、果物か……そういえば、転生してから甘い香りのハーブティーは飲んだが、本格的な果物はまだ味わっていなかった。この屋敷には温室があり、一年中いろいろな果物が採れると聞いている。前世でも高級フルーツはたまに食べていたが、この世界のフルーツがどんなものか、興味津々だ。


 「いいですね、ぜひお願いします。」

 素直に答えると、マリエは微笑みながら「かしこまりました」と一礼する。


 朝食を簡単に済ませ、今日は特別にあまり凝った服にしないとメイドたちが気を利かせてくれた。昨日のドレス騒ぎの教訓が活きているのか、今日は比較的シンプルなワンピースタイプの室内着だ。コルセットも薄手で、これなら歩き回ってもさほど苦しくない。ありがたい。


 「お嬢様、本日は温室までお散歩がてら行かれますか?それとも、温室で用意してお持ちすることも可能でございますが。」

 マリエが伺う。温室までの道のりは、部屋から廊下を抜け、中庭を通って別棟へ向かうらしい。外出とはいえ屋敷内の敷地なので危険はない。ただ、外に出るにはもう少し気合が要るかもしれない。まだ慣れない所作もあるし、日差しもどうだろう……とはいえ、少し体力も戻ってきたし、今日は天気も良さそうだ。


 「せっかくだから温室まで行ってみようかな。少しでも運動になりそうだし。」

 そう言うと、セシルが「よろしければ、庭園を経由して行きましょう。気持ちの良い朝の風を感じられるはずです」と提案する。


 「うん、庭園も、ちゃんと見てみたい。行きましょう。」

 こうして、私はメイド二人を従え、初の本格的な屋敷内散歩に出発した。


 廊下をゆっくり進むと、大きなガラス戸の向こうに広々とした庭が広がっている。手入れの行き届いた花壇や小さな噴水が見えて、その先には緑豊かな木々。鳥のさえずりが耳に心地いい。

 「わあ……綺麗。」

 思わず感嘆の声が漏れる。前世では高級ホテルの庭園でもここまで整っている所には滅多に行けなかった。これが自分のもの(?)なのかと思うと、不思議な気分だ。


 「こちらが中庭でございます、お嬢様。朝の光が柔らかく、今の季節は特に花が見ごろです。」

 セシルが説明する。マリエは私が裾を踏まないように軽くガイドしてくれる。少しずつではあるが、歩く動作もスムーズになってきた気がする。昨日のドレスよりは楽な服装というのも大きい。


 庭園を抜けて敷地内をぐるりと回ると、ガラス張りの建物が見えてきた。あれが温室らしい。思ったより大きい。中には何種類の果物があるのだろう?

 「ここが温室でございます、お嬢様。この領地は気候が比較的穏やかですが、温室では魔晶石の力で一年中様々な果物が育てられております。」

 マリエが誇らしげに言う。確かに異世界ならではの技術だ。前世でハウス栽培はあっても、魔法パワーで温室を作るという発想はなかった。


 扉を開けると、室内はほんのり湿り気を帯び、ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。様々な果樹が列を成し、その間を細い通路が貫いている。果物が色とりどりに実っており、見たこともない形のものも多い。

 「お嬢様、本日は特に“ラズィーナ”という果実がおすすめでございます。程よい甘みと酸味があり、とても人気がございます。」

 セシルが案内しながら、ラズィーナの木まで私を連れて行く。小さな赤い果実が房になっている。サクランボっぽいけれど、もう少し透き通った感じがある。


 近くで待っていた温室担当の使用人らしき青年が、「お嬢様、お出迎えが遅れて申し訳ございません」と一礼する。

 「いえ、気にしないで。はじめまして。エリシアです。温室を見せてくれてありがとう。」

 簡単な挨拶をすると、彼は笑顔で応じる。「恐れ多いことでございます、お嬢様。このラズィーナは、今が一番食べ頃でございます。よろしければ、一粒お召し上がりください。」

 そう言って、木から一粒摘み取り、手渡してくれた。セシルが小さな皿をさっと差し出し、私はその上から果実をつまんで口に運ぶ。

 (わざわざ皿の上に乗せてくれるのね。)


 甘酸っぱい汁が舌の上で広がり、柔らかな果肉がほどける。思わず「ん……!」と声が漏れるほど美味しい。

 「これ、美味しい……」

 感動的な味だ。前世でも美味しい果物を食べる機会はあったが、これは格別だ。酸味と甘みのバランスが絶妙で、果汁が口の中をさわやかにする。


 「気に入っていただけたようで何よりです、お嬢様。」

 温室担当の青年は嬉しそうに微笑む。マリエとセシルも「ラズィーナはお嬢様がご体調を整えられましたらぜひ味わっていただきたいと思っておりました」と誇らしげだ。


 「これはすごい……ほかにもいろいろな果物があるの?」

 興味を引かれた私は、辺りを見回す。紫色の果実や、緑色のいびつな形をした果物、黄色い小さな実など多種多様だ。

 「はい、お嬢様。この温室では年間を通じて様々な果実が実ります。中には加熱すると甘みが増すもの、絞ると芳醇なジュースになるものもございます。」

 セシルが答える。ふむ、果物が豊富って幸せな環境だ。甘い物好きとしてはたまらない。


 その後、いくつかの果実を試してみることにした。もちろん、一度にたくさんは無理だが、少しずつ味見させてもらう。

 紫の果実は、皮がやや固いが中身はとろけるような甘さで、ミルクと合わせるとデザートになるらしい。緑色のいびつな果物は、少し渋みがあるが焼くと甘みが出るとのこと。黄色い小さな実は蜂蜜に漬け込むとコンポート(果物を砂糖水等で煮込んだもの。よくケーキとかに埋まっているアレ)になり、ケーキに合うという。


 「こんなにバリエーション豊富だなんて……」

 思わずため息。前世では、果物が特に好きという訳ではなかったが、ここまでよりどりみどりだと、もっと食べてみたいと思う。ここには、未知の果物が無限にあるような気がした。


 メイドたちは嬉しそうだ。「お嬢様がお元気になられたからこそ、こうして温室までいらして、味わっていただくことができます。お身体を大事にしてこられたからですね。」

 とマリエが微笑む。確かに、最初は寝込んでいたが、今は歩いて温室まで来られる程度には回復している。それもこの穏やかな環境と、メイドたちの手厚い世話のおかげだろう。


 しかし、苦労がないわけではない。服の件もそうだが、今後は、日々のちょっとした所作などの礼儀作法の問題も出てくるかもしれない。面倒は山積みになるだろう。それでも、こうして美味しい果物を味わい、優雅な庭を散歩できるのは確実なメリットだ。苦労と引き換えにこの甘さを得られるなら、まあ悪くないかもしれない。数年すれば、お酒も飲めるだろうし。


 「お嬢様、もしお気に召した果実がございましたら、お部屋にお持ちいたします。後ほどお茶とともにご堪能されてもよろしいかと。」

 セシルが提案する。なるほど、お茶の時間に果物を合わせるのもいい。こんな贅沢、前世では夢のまた夢だ。経済的に贅沢できないわけではなかったが、そんな余暇の時間を過ごすくらいなら、ひたすら寝るか、あるいはたまった仕事を消化することにしていた。本当の意味でのゆとりはなかったのかもしれない。


 「そうね、ラズィーナを少しいただこうかしら。あと、あの紫の果実も少しだけ……」

 思わず、女性らしい言葉が出る。恥ずかしいが、私の中身が男性であることは、わたししか知らない。大丈夫大丈夫。

 私が指示すると、メイドたちは「かしこまりました」と微笑んで受け入れる。何だかんだ言って、言葉一つで美味しい果物が手に入る生活は相当な特権だ。

 (苦労はあるけれど、こうして自分好みのものを楽しめるのはやっぱりいいな……)


 温室を一通り見学し、果物の説明を聞いているうちに、1時間ほどが経ったらしい。あっという間だ。前世なら1時間も果物眺めていられなかっただろうが、ここでは時間を思う存分使える。


 「お嬢様、そろそろお部屋に戻られますか?」

 マリエが尋ねる。確かに、長居しすぎても今はまだ体力を使いすぎるかもしれない。何ごとも慣れるまで無理をしないほうがいい。

 「ええ、戻りましょう。お茶の時間に楽しむ果物を用意していただけると嬉しいわ。」

 そう言うと、メイドたちは嬉しそうに頷く。「かしこまりました。お部屋に戻り次第、お茶とご用意いたしますね。」


 来た道を戻り、再び庭園を経由して部屋へと戻る。薄い雲が空をかすめ、外気は少しぬるめの風が吹いている。肌に優しい温度で、歩いていて気分がいい。

 屋敷内へ戻ると、廊下は静かで落ち着いた空気が流れている。この対比も面白い。庭や温室が生き生きとしているのに対し、屋敷内は洗練と静寂。そのギャップを楽しむ余裕すら出てきたのは、自分が成長した証かもしれない。


 部屋に戻ると、セシルがさっそく「お嬢様、お茶の準備をいたしますね」と向かい、マリエは「お召し物を崩さぬよう、まずは軽くお直しを」と言って髪のリボンを整えてくれる。まだ恥ずかしさを感じるが、まさに至れり尽くせりの生活だ。


 ふかふかの椅子に腰を下ろすと、甘い果物と香り高いお茶が用意されるのを待つばかり。先ほど味わったラズィーナの甘酸っぱい余韻が、まだ口中に残っているような気がする。


 「こうしてみると、結局、苦労と贅沢は表裏一体なのかもしれない……」

 小さく独り言を漏らす。

 コルセットだって面倒だけれど、そのおかげで美しいシルエットを見せられ、見る人の評価に繋がるのかもしれない。面倒な礼儀やマナーは、いずれ私を守る人間関係をスムーズにする武器になりうる。苦労が無意味ではないと考えると、少し心が軽くなる。


 そう思えるのは、甘くておいしい果物を楽しめたからかもしれない。苦労の先に待つご褒美があるのなら、乗り越え甲斐もある。

 「お嬢様、お待たせいたしました。ラズィーナと、こちらは先ほどご覧になった紫の果実から作った軽いコンポートでございます。」

 セシルが運んできたトレイには、小さな皿に盛られた果実たちと、香ばしいお茶が揃っている。


 「ありがとう。」

 さっそく一粒、ラズィーナを摘んで口に運ぶ。甘酸っぱい汁がまた口内で花開くようだ。思わず顔がほころぶ。

 苦労は絶えないけれど、こんな風に美味しいひと時が約束されているのなら、この異世界生活も悪くない。少しずつ、自分がこの世界で生きる理由を実感できてきた。


 トイレ、入浴、ドレス、そして温室の果物。全て初めての経験だったが、乗り越えるたびに前より少しだけ強くなれている気がする。

 これからもきっと、いくつもの初体験や苦労が待っている。だけど、美味しい果物を味わえるなら大丈夫。メイドたちの支えと、この世界の恵みが、私の心と体を支えてくれるだろう。


 「美味しいわ、セシル、マリエ。ありがとう。」

 感謝の言葉を口にすると、二人は微笑み返すだけでなく、「お嬢様がお喜びになられるのが何よりでございます」と、嬉しそうに答える。


 こうして、果物の甘みと優しい笑顔に包まれて、この日の朝はゆっくりと過ぎていく。苦労もあるけれど、そこには確かな悦びや満足がある。私の異世界貴族令嬢ライフは、今日もまた一歩、前へ進んでいくのだった。


 お茶と果物を楽しんだ後、しばし椅子でゆっくりとしていると、マリエとセシルは手際よく器やトレーを片付けてくれる。ふと、扉の方から控えめなノック音がした。普段のメイドとはまた違ったリズムの叩き方で、私の中に小さな好奇心がわく。


 「お嬢様、失礼いたします。侍女長が本日、お嬢様の礼儀作法についてお話ししたいとお越しになりますが、いかがなさいますか?」

 セシルが尋ねる。その言葉に内心ギクリとする。昨日のドレス試着や温室訪問で、私はこの世界での行動がいかに細かなルールと作法に支えられているかを感じ始めていた。そう、この世界は私が想像したよりはるかに規則正しく、貴族令嬢として求められる要件が多いのだ。ここで断る理由もないし、いつかは向き合わなければならない。何より、侍女長はこの屋敷の実質的な管理者で、私が正常に生活を送るための重要な後見人的存在だ。


 「わかったわ、お通しして。」

 軽く息をついて了承する。メイドたちは「かしこまりました」と一礼して、外へ出ていく。ほどなくして、侍女長が姿を見せた。年配の女性で、背筋が伸び、落ち着いた気品が漂う。前回お会いしたときにも感じたが、その眼差しには穏やかさと同時に厳密な基準を持っている印象がある。 


 「お嬢様、ご機嫌麗しゅうございます。お体の具合は一段と良くなられたと伺っております。」

 侍女長は丁寧な口調で挨拶する。私は椅子に座ったまま、思わず背筋を伸ばす。こういう場面での正しい挨拶はどうすればいいのか、正直まだ掴みきれていないが、せめて姿勢だけは整えよう。


 「ええ、おかげさまでとても調子がいいです。昨日も温室で美味しい果物をいただきました。」

 微笑みを作り、感謝を示す。侍女長は軽く頷き、「それは何よりでございます」と静かに答える。その声には、一切の無駄がない。私が僅かに口元を緩めただけで、何か指摘されはしないかと構えてしまうほど。


 「本日は、お嬢様がこれから貴族令嬢として過ごされるにあたり、基本的な礼儀作法の一端についてお話しさせていただこうと参りました。」

 侍女長は余計なまわりくどさなしに本題へ入る。「基本的な礼儀作法」――つまり、ここからが苦労の始まりだろう。私は胸中で小さく息を吐く。


 「はい、お願いいたします。」

 短く答えると、侍女長はセシルとマリエに小さな道具箱のようなものを取り寄せるよう指示した。彼女たちは即座に準備を始める。道具箱から出てきたのは、いくつかの小道具――たとえば平たい小さな本、何か円盤状のもの、そして小さなティーカップやスプーン、ナプキンなど。どうやら、日常的な立ち居振る舞いやティータイム時の所作を確認するための道具らしい。


 「まずは、お嬢様が立っている時の姿勢から参りましょう。貴族令嬢として、廊下を歩く時、庭で散歩する時、そして客人に会う時、それぞれ微妙に姿勢や視線の位置が異なります。」

 侍女長が穏やかに説明を始める。私は立ち上がり、まっすぐ姿勢を正す。そういえば、昨日もドレスを着た時に背筋を伸ばそうと意識したが、あれは苦労した。今日はシンプルな室内着だし、いくらか楽なはずだ。


 「お嬢様、顎をほんの少し引いて、視線はまっすぐ前へ。床ではなく先を見るように。肩をリラックスさせて、片足に重心が偏らないように。」

 侍女長の指示に従ってみる。顎を引き、背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前。簡単そうだが、いざやってみると微妙なバランスが難しい。肩に余計な力が入りすぎると不自然だし、力を抜きすぎると猫背になりかける。数分維持していると、僅かだが足先がプルプルしてきて、集中力を消耗する。


 「少し足幅が広すぎます。もう少し揃え気味に。」

 侍女長が静かに注意する。私は慌てて足元を整える。なるほど、一歩も動いていないのに指摘が入るとは、なかなか手厳しい。こんな基本的な立ち方ひとつで苦労するとは思わなかった。


 「よろしいでしょう、少しずつ慣れれば自然になります。では、次は歩行について。」

 歩行か…昨日はドレスを意識しながら歩くのに苦労したが、今日はもう少しマシかもしれない。侍女長が「お嬢様、どうぞこちらへ」と言い、廊下を想定したスペースを指す。そこは部屋の中で、メイドたちが少し場所を作ってくれている。


 「歩くときは、床を踏みしめるのではなく、足を滑らせるように前へ出します。音を立てず、すっと前進する感じです。そして背筋は先ほどと同じく、顎を引き、肩の力を抜き、手は軽く体側に添えるように。」

 指示が細かい。一度に全てを頭に入れるのは骨が折れる。とりあえずやってみるしかない。右足を一歩、ゆっくり出して、続いて左足を…意識しすぎてぎこちない動きになる。


 「お嬢様、少し足音が響いております。もう少しゆっくり、足を床から離しすぎないように。」

 侍女長の注意が飛ぶ。苦労するなぁ、と思いつつ、再度トライ。足音を立てずに歩くのは、こんなに難しいものだったのか。前世ではスニーカーを履いてガシガシ歩いていたからなぁ。


 何度か練習した末、ようやく「よろしいでしょう、まだ完璧とは言えませんが、初めてにしては悪くありません」と侍女長に言われる。もうすっかり「初めて」扱いだ。記憶喪失というより生まれ変わりの扱いか。この評価に内心ホッとするが、実はもう少しあるらしい。今度は挨拶やお辞儀の練習だ。


 「次に、ご挨拶の方法でございます。客人や知人、目上の方を前にした時の立ち居振る舞いは、それぞれ微妙に異なります。」

 侍女長が説明用の小道具――どうやら架空の客人を示すための人形のようなもの――をメイドに立たせさせる。私はその人形を客人に見立てて、挨拶を試すことになる。


 「お嬢様、まずは同等かやや下の身分の方にお会いする時の挨拶。視線は正面、背筋は伸ばし、軽く膝を曲げて……」

 貴族の挨拶としては、男性と女性、相手の身分によって変化するらしい。女性同士の場合、同格なら軽く膝を曲げる程度、相手が目上ならもう少し深めのお辞儀になるなど、細かい差がある。私はさっそくやってみるが、膝を曲げる加減がわからず、中腰っぽくなってしまう。


 「お嬢様、深く曲げすぎると不自然な印象を与えます。もう少し浅めで、そして動作を滑らかに。」

 言われてやり直すが、今度は浅すぎて、ただ首をかしげただけみたいになってしまう。苦労する。こんな単純なことなのに、と自分に苛立ちすら湧いてくる。こんな細かい違いを覚えなきゃいけないなんて、楽な生活は程遠い。


 「落ち着いて、ゆっくりなさってください。」

 マリエが後ろからそっと声をかけてくれる。その穏やかな声に助けられ、もう一度チャレンジ。呼吸を整え、相手を見るような視線で、膝を少しだけ緩めて沈み込む。無理な力を入れずに、軽くお辞儀するイメージ。


 「そうですね、お嬢様。そのくらいの角度で、もう少し動作を一連の流れでスムーズに。」

 侍女長が今度はやや肯定的な声になる。まだ完璧ではないらしいが、少し進歩したようだ。苦労は続く。


 次は、ティータイムでのカップの持ち方、スプーンの扱い方、ナプキンの膝への置き方など、信じられないほど細かな作法が出てくる。私は小さなティーカップを手にとって、手首の角度や指先の位置を指導される。

 「指はカップの取っ手に通しすぎず、軽く引っかける程度で。肘は張りすぎないように。背筋は常に意識。」

 わずかに指を滑らせるたび、「もう少し手首を立てるように」だの、「目線はカップより少し下げるくらい」だの、細かい注意が飛ぶ。これほど微細なルールがあるとは思わなかった。


 ナプキンの扱いにも苦労する。「ナプキンは膝の上に置くとき、端を広げすぎないこと。食べ物が垂れた場合は、ナプキンで口元を軽く押さえる。拭くのではなく、押さえる程度でございます。」

 拭くのと押さえるの違いがこんなに重要だなんて、前世では考えたこともない。そこまで気にするのか、と内心で嘆くが、ここで文句を言っても始まらない。


 これら一連の礼儀作法のレッスンは、私にとってはひたすらの反復練習。最初は「なんでこんな面倒なことを?」と考えてしまうが、侍女長は理由も淡々と説明してくれる。

 「お嬢様、こうした細やかな所作は、貴族令嬢として相手に尊重と配慮を示すもの。美しい所作は、お嬢様の品性や家柄を形にして伝えるのです。」

 そう言われると反論しづらい。確かに、何をするにも乱雑だった前世の自分を思い返せば、初対面の人間からは「粗野な印象」を持たれたかもしれない。ここでは、その印象が全て評価に直結するのだろう。礼儀作法は、相手に対する経緯なのだ。


 苦労を積み重ねる中、何度か同じ所作を繰り返しているうちに、ほんの少しだけコツが掴めてくる。まるで筋トレのように、練習すれば微妙な角度や動きを体が覚える。

 たとえば、カップを持つ時、最初は指先が震えそうだったが、落ち着いて呼吸し、腕全体でバランスをとるように心がけると意外と安定することがわかった。ナプキンを持ち上げるときも、焦らず丁寧に動作することでミスが減る。


 「お嬢様、最初は難しゅうございましょうが、すぐに慣れます。今日のところはここまでにいたしましょう。毎日少しずつ練習なさるとよろしいかと。」

 侍女長はそう言って、レッスンを打ち切ってくれた。正直、ホッとする。これ以上細かい指摘を受け続けたら、頭がオーバーヒートしそうだ。


 「ありがとうございます、侍女長様。思ったよりずっと細かいんですね……。」

 素直な感想を漏らすと、侍女長は「貴族令嬢として当然の基礎でございます」と微笑む。やはりそうなのか、これで基礎だなんて。上には上があるのだろう。


 侍女長が退室すると、マリエとセシルは私に「お疲れでございました」と声をかけてくる。

 「お嬢様、とてもよくなさっていましたよ。記憶が無いところから始めたにしては十分でございます。この分なら、ご病気になる前と同じくらいになるでしょう。」

 セシルが励ますように言う。マリエもうなずいて、「少しずつで構いません。無理せず慣れていきましょう。」と穏やかに付け加える。


 ありがたい。こうしてサポートしてくれる人がいなければ、くじけていたかもしれない。私は長い息をつき、椅子に座り直す。先ほどはかなり集中していたためか、肩や背中が少しこわばっている。ゆっくり肩を回し、体をほぐす。


 「今日のレッスンだけでも、こんなに苦労があるとは……まだまだ先は長いんだな。」

 弱音が自然と出る。思わず男言葉が出てしまった。メイドたちは笑みを浮かべるだけで何も言わない。

こうした苦労は貴族令嬢にとって当たり前で、わたしが特別不器用なのかもしれないし、そうでないかもしれない。それでも、彼女たちはその不慣れを責めることなく、ただ穏やかに見守ってくれる。


 果物とお茶でほっとした直後に受けた礼儀作法の指導は、私にとっていいコントラストになった。美味しい物と安楽な部屋がある一方で、日常にはこうした苦労が常に張り付いている。でも、その苦労を乗り越えれば、もっと自由に動けるようになるかもしれないし、いずれ、他の貴族と会うときに恥をかかずに済むかもしれない。少しずつ階段を上る感覚だ。


 「お嬢様、もしよろしければ、少しお部屋で休まれますか?先ほどのレッスンで疲れがおありでしたら、軽い散歩をもう一度なさって気分転換でも。」

 セシルが気遣ってくれる。確かに、ずっと神経を張り詰めていたので頭がズキズキする感じがある。少し歩いてリラックスするのもいいかもしれない。


 「そうね、じゃあ部屋の中を軽く歩いて頭を整理する。立ち方や歩き方を思い出しながらやってみようかな。」

 そう言って立ち上がる。先ほど教わった「背筋を伸ばす」「顎を引く」「足音を立てないように」のポイントを思い出しながら、部屋の中をゆっくり歩く。マリエとセシルは少し後ろに下がって、私が一人で練習できるように気を利かせてくれる。


 静かな室内、魔晶石の柔らかな光に包まれた空間で、一歩一歩丁寧に歩いてみる。床は良質らしい、不思議な材質でできている。足音が響かないように足の運びを調整するのは難しいが、さっきよりはマシになった気がする。意識を集中すれば、足の裏の感覚や重心移動がわかってくる。苦労しても、少しずつ上達する実感は悪くない。


 数分歩いた後、息をついて椅子に戻ると、セシルが微笑む。「お嬢様、先ほどより歩き方が少し自然になられたようにお見受けいたします。」

 褒められると嬉しい。苦労はあるが、こうして成果が見えるなら頑張れるかもしれない。


 「ありがとう。まだまだだけど、練習すれば良くなるなら、少しずつ続けてみる。」

 これで、ほんの少し礼儀作法の基礎に触れただけだ。今後はもっと難しい所作や、相手によって変えるべき挨拶、立ち振る舞いなど、覚えることは山ほどあるはず。だが、ここで投げ出したら前世と何も変わらない。あの時、仕事に追われて疲れ果てていた自分とは違う生き方をするためにも、今は耐える時期なのだと受け止めよう。

 思えば、あの頃も、勉強したり自分のスキルを磨こうと思いつつも、そんな時間や心のゆとりもなかった。しかし、今はそれがある。


 再びお茶を一口飲み、ふうっと息を吐く。果物の甘さはもう口から薄れているが、その代わり心には「少しずつ頑張ろう」という前向きな気持ちが芽生えている。

 「お嬢様、もし午後にお気が向かれましたら、もう少し軽いお稽古事もご用意できますが、いかがなさいますか?」

 マリエが静かに尋ねる。お稽古事か……多分、刺繍とか簡単な手工芸、あるいは読み書きの練習かもしれない。礼儀作法に加えて、こうしたスキルも磨く必要が出てくるのだろう。


 「うーん、そうね……今日は少し気分が乗ったらお願いするわ。まだ頭がいっぱいだから、少し休んだら考える。」

 柔らかく答えると、メイドたちは「かしこまりました」と微笑んで頷く。無理を強いられないのがありがたい。この世界の苦労は多いが、急かされてはいない。自分でペースを作れるのは救いだ。


 あらためて椅子に深く腰かけ、窓の外を見る。澄んだ空が広がり、少し前に歩いた庭園が、今も静かに輝いている。

 (この苦労の日々を乗り越えれば、本当に楽な生活が待っているのかな。)

 自問する。もしかしたら、ずっと苦労ばかりかもしれない。しかし、その苦労自体がもう前ほど嫌ではなくなってきた。何故なら、少しずつ成果が出るからだ。入浴もトイレもドレス着用も、最初よりは慣れた。礼儀作法も、今は戸惑うけれど、いつか当たり前になれば、もう苦労には感じないかもしれない。


 「お嬢様、もしお疲れでしたら、ベッドで少し横になられてはいかがでしょう?」

 セシルが尋ねるが、私は首を振る。「大丈夫よ、そこまでではないわ。もう少し頭の中を整理してから考える。」

 そう言って、机に向かい、小さなメモ帳のようなものを取り出す。メイドが用意してくれた簡易な筆記具があるので、今日習ったことを大雑把に思い出して書いておこうかと思った。前世の癖で、何かを覚えるにはメモがあると助かる。


 (姿勢:顎引く、肩力抜く、足揃える。歩行:足音立てない、床に沿うように。挨拶:膝を軽く曲げる角度注意、相手の身分で深さ変える。ティーカップ:指先の角度、ナプキンは押さえる、拭かない。……多いな。)

 簡単な走り書きをしながら、これはまだ序章なのだと思うと、気が遠くなる。だが、この程度で負けてはいられない。


 「お嬢様、よろしければお冷やしのお水などお持ちいたしましょうか?」

 マリエが気遣う。熱中してメモを取っていたせいか、喉が少し渇いていたことに気づく。「そうね、お願いします。」と返すと、メイドが清涼な水を用意してくれる。なんて恵まれた環境だろう。苦労はあるが、その苦労を乗り越えるためのサポートが充実している。


 水を飲み、筆記具を置く。メモはざっくりでいい。今後もこうして少しずつ学ぶことを記録していけば、自分なりの成長がわかるかもしれない。前世の忙しい日々よりは、何倍もゆとりがある。苦労があるが、それは自分を高めるためのプロセスなのだ、と言い聞かせる。


 「お嬢様、午後はどのようにお過ごしなさいますか?軽くお庭で読書などはいかがでしょう?」

 セシルが提案する。読書……そういえば、童話を読むのは楽しかった。

元男なのに少女趣味的で、少し自分の心にショックを受ける。

ただ、優雅な暮らしに求められるマナーに疲れたら、少し別のことに目を向けるのもいい。果物は先ほどたくさん見たし、ドレスは昨日散々だったから、今日は読書というインドアな趣味を楽しんでもいいかもしれない。歴史書とか文化に関する本もいいだろう。


 「そうね、読書も悪くない。せっかくだから、外で本を読むのもいいかもしれない。」

 屋敷内にも読書用の小さなテーブルを備えたコーナーがあるらしいが、せっかく天気もいいのだから、少し外で過ごすのも気分転換になるだろう。ただ、庭で読書となれば、また礼儀作法の一部が関わってくるかもしれない。座り方や本の持ち方、風でページがめくれるときの対処法など、細かい苦労がありそうだが……まあ、やってみなければわからない。


 「それじゃあ、午後は庭の一角で読書をすることにしようかな。」

 私がそう言うと、マリエとセシルは「かしこまりました、お嬢様」と微笑み、準備を整えるだろう。読書用の軽めの本を選んでくれるはずだ。


 こうしてまた一歩、私は異世界での貴族令嬢生活に身を投じる。朝の温室訪問で甘い果物を味わい、礼儀作法の基本を習って苦労を重ねた。でも、そこにはメイドたちの助けがあるからこそ、苦労が乗り越えられる。苦労するたびに、少しずつ成長していく自分を感じるのは、前世では味わえなかった新鮮な感覚かもしれない。


 「よし、午後も頑張ろう。」

 そう小さくつぶやいて、私は再びハーブティーのカップに手を伸ばす。そう、苦労があっても、ここには甘いお茶と果物、穏やかな時間がある。少しずつ、この難しい世界のルールを身につけ、私なりの楽な暮らしへと近づいていこう。苦労が尽きなくても、その先にきっと、もう少しラクな日々が待っているに違いない。


礼儀作法にも慣れてきたエリシア。これでこの先も安心だと思いきや、思わぬ試練が彼女を待ち受ける。

なんでも、近所の貴族令嬢達が、回復のお祝いに来るという。

礼儀はともかく、女の子同士で、どんな話をすればいいのかわからない。

そこでメイド達に相談したところ、「私たち相手に練習をなされば?」と提案される。

練習を積んで、いざ、お茶会に臨むエリシア。彼女の練習の成果は如何に!?


次回、第6話「お嬢様練習帳:女の子の会話、初挑戦!」

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