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フリルとコルセットの大冒険!お嬢様ファッション初体験

 朝食を終え、いつものように部屋でのんびりと散歩(といっても、せいぜい端から端まで数歩程度だが)を楽しんでいた頃、マリエとセシルが新たな提案を持ちかけてきた。「お嬢様、そろそろドレスのご試着はいかがでしょう?」と。

 「ド、ドレス……?」

 思わず聞き返してしまう。前世じゃスーツやシャツ程度しか着ていなかった身としては、豪華なドレスなんて未知の領域だ。入浴を乗り越えて少しは肝が据わったと思ったが、またしても緊張がこみ上げる。

 「はい、お嬢様。これから少しずつ社交の場や来客への対応も増えてまいります。ただの外出でも、部屋着を着ていく訳にもいきません。その準備として、今日はごく簡単な、室内でもお召しになれるドレスを試してみてはと侍女長様が仰っておりました。」

 セシルは柔らかな笑みでそう告げる。うわ、また試練か……と内心で呟く。前回はお風呂で全裸を晒す恐怖、今回はなんだろう、ドレスに隠されている謎の多さだろうか。まあ、これも、私の異世界幸せ生活のためだ。がんばるぞ。


 わたしは深呼吸を一つ。もうここでメゲてはいけない。トイレ、入浴と大きなハードルを乗り越えてきたんだし、ドレスくらいで尻込みしたら情けない……そう自分に言い聞かせる。

 「わかったわ。よろしくお願いするわ。」

 笑顔を作って答えると、メイドたちは「かしこまりました」と柔和な表情でカーテンの向こう側へ。すると、そこから何やらガサゴソと音がする。戻ってきたマリエの腕には、ふわふわのフリルとリボンの塊のようなドレスが抱えられていた。


 「……なんか、すごいね、これ。」

 正直、最初の感想はそれだった。フリルが何層にも重なり、レース模様が細かく散りばめられ、ウエスト部分にはきつそうなコルセット風パーツまで。これ本当に着れるの? 頭がクラクラしてくる。

 「お嬢様、まずは下着から整えますね。」

 セシルが淡々とした調子で言う。そうか、ドレスを着るには専用の下着がいるわけか。確かお風呂上がりに着た室内着よりも、もうちょっときっちりしたものが必要なのだろう。


 「下着にも種類があるの?」

 聞かずにはいられない。前世で下着といえば機能的なものをさっと身につけるだけだったが、この世界ではデザインや締め付け、布の厚さが異なるらしい。

 「はい、お嬢様。ドレス用の下着は、ウエストラインをきれいに整えたり、スカートを美しく広げるためのパニエなどもございます。それに、このコルセットで正しい姿勢を保ちやすくなります。」

 マリエがにこやかに説明する。「コルセット」と聞いただけで息苦しい気分になるが、メイドたちは手際良く作業を始める。


 「お嬢様、少し失礼いたしますね。」

 セシルが腰回りに紐を回し、軽く引く。ぐっ……息が詰まる! 「ちょっ、ちょっときついかも……」と呻くが、メイドたちは「すぐに慣れますよ」と落ち着いた声で応じ、紐を微調整してくれる。確かに先ほどよりはややマシになったが、それでも前世のゆるい服装から比べれば明らかにきつい。


 続いて、スカートを膨らませるための大きな籠みたいなものを装着する。これがパニエとかいうものか。何だこれ、スカートの骨格みたいな感じがする。これを着けると、膨らんだラインが自動的に作られるらしい。メイドたちが「とても美しいシルエットになりますよ、お嬢様」と嬉しそうに言うが、当の本人はまだ実感がない。というか、恥ずかしいし、邪魔だ。


 「それではドレス本体をお召しになりますね。」

 マリエが丁寧にドレスを持ち上げ、頭からそっと被せてくれる。わたしは両腕を通すのに必死だ。このドレス、どこが前でどこが後ろか、パッと見ではわからないレベルに飾りがついている。レースやリボンが腕をくすぐる度に「くすぐったい!」と心の中で悲鳴を上げる。


 「お嬢様、こちらのリボンを結ばせていただきます。」

 セシルが背中側のリボンをキュッと結ぶ音がして、ドレスが身体に馴染むように整えられる。苦しいほどではないが、密着感がある。前世でこんな服を着たことは一度もないので、全てが異様に感じる。


 「ふぅ……これで着れたの?」

 小さく息をつく。わたしは、立っていただけだが、ここまででもうすでに結構な体力を使った気がする。でもメイドたちは「まだ小さな調整がございます」と落ち着いている。え、まだあるの?


 首元に小さなリボンを付け、胸元に飾りをセットし、袖口のフリルを整え、スカートの裾をふんわり広げ……細かい作業の連続だ。しまいには髪型も軽く整え、「ドレスに合わせて少しリボンをつけておきましょうか」とマリエが提案する。

 「う、うん、もう好きにして……」

 半ば投げやりになる。ここまで来ると、抵抗してもしょうがないと悟った。メイドたちは涼しい顔で手際良くリボンを髪につけ、鏡の前へわたしを誘導する。


 「お嬢様、いかがでしょう?」

 セシルが静かな声で尋ねる。意を決して鏡に目を向けると、そこにはふわっとしたクリーム色のドレスを身にまとい、わずかに腰をきゅっと絞られた少女が立っていた。胸元には小さなフリル、裾にも繊細なレース。まるで絵本に出てくるお嬢様そのものだ。少し幼さ、あどけなさを感じはするが、洗練された美しさは、大人の女性のそれと比べても劣らないだろう。


 「……これ、私?」

 小声で呟く。前世は男で、スーツやカジュアルな服しか着たことがなかった。今はこんなにも華やかな服装が、当然のごとく身についている。まだ体が生地に包まれている感覚が濃くて落ち着かないけれど、確かに美しい。メイドたちが「とてもお似合いでございますよ」と微笑むのも無理はない。


 「すごいね……」

 正直な感想が出る。恥ずかしいし、苦しいし、こんな服毎日着るのは無理だろうけど、それでも確かな華やぎがある。自分がいかにも「貴族令嬢」に見える。以前は「男」として生きていたのに、今は鏡の中に「お嬢様」が立っているのだ。


 しかし、わたしは、肝心なことをきいていなかった。

 「あの……これを着て何をするの?」

 疑問が浮かぶ。ドレスを着たところで、この部屋の中でできることは限られている。メイドたちは「まずは慣れていただくことが大事です」と答える。「近いうちに小さな来客やお茶会があるかもしれません。その時、何を着ればいいか、どう動けばいいかを、今のうちに感じていただければと。」


 なるほど……確かに、入浴やトイレでの試練も、いずれ社交界に出るための準備だったのかもしれない。こんな大変な服を着て、優雅にお茶を飲むのが当たり前の世界なのだ。一人だけか、気が知れた仲間で、好き放題食べ物を頬張れる日はいつになるのか。

 「わかった。とりあえず、少しこのまま過ごしてみるね。」

 もう観念して受け入れることにする。


 ドレスを着たまま、部屋の中を歩いてみる。裾が長いから気をつけないと踏む危険がある。メイドたちが「こちらにどうぞ」と言いながら、少しずつ歩き方を指南してくれる。「歩くときは裾を持ち上げすぎないように、でも引きずらないように」など、細かいマナーが次々と飛び出す。

 「こんなにルールがあるの!?」と内心叫びたくなるが、声には出さない。慣れるしかないのだ。


 指示に従い、なんとか数歩歩いて椅子に腰かけてみる。……座り方にもコツがあるらしい。ドレスを広がりすぎないように後ろへ流し、背筋を伸ばして腰掛ける。前世のようにだらんと座るなんて論外。この世界の女性は優雅さを強く求められる。


 「ああもう、たかがドレスでこんなに苦労するなんて……」

 思わず苦笑いが漏れる。けれど、メイドたちはそんな愚痴にも「最初は皆そうですわ」とニコニコ応じる。もう彼女たちは慣れたものらしい。新人貴族令嬢(?)としては、彼女たちの落ち着き具合に尊敬すら芽生えてしまう。


 「お嬢様、本日のところはこれくらいでよろしいでしょう。あまり長く無理をなさると疲れてしまいますし、徐々に慣れていきましょう。」

 セシルが提案する。わたしはホッと息をつく。疲れたと言えば疲れたが、なんとかドレスを着ることはできた。

 「うん、休みたい……もう十分がんばった気がする。」

 正直な気持ちを漏らすと、メイドたちは「では、ゆっくりお召し物をお脱ぎいただいて、お部屋着に戻りましょう」と穏やかに告げる。


 ドレスを脱ぐ際も一苦労だが、着るときよりはマシだろう。再びフリルとリボン、コルセットから解放されたら、どれほど楽だろう……と想像してしまう。

 しかし、この経験でわかったことがある。多少恥ずかしくても、面倒くさくても、わたしにはメイドたちがいる。彼女たちがいれば、どんなフリル地獄も脱出可能だ。何度か経験すれば、いずれ「こんなの朝飯前」と言える日が来る……かも。


 小さく微笑み、わたしはメイドたちにもう一度「ありがとう」と礼を述べる。彼女たちのサポートなしには、とても耐えられない冒険だった。

 フリルとコルセットに翻弄されたわたしの「お嬢様ファッション初体験」は、こうして一段落する。今はただ、早く部屋着に戻ってホッと息をつきたいところだ。


 ドレスを脱ぎながら、「これで社交界への第一歩を踏み出したってことなのかな……」とぼんやり考える。前世とは180度違う価値観に少しずつ順応していく、この奇妙な感覚も悪くない。小さな成長を感じつつ、少し熱気の残る部屋で、わたしは初めてのドレス体験を胸に刻むのだった。


 ドレス体験を終えて部屋着に着替えると、肩の力がふっと抜けた。あれほど絢爛豪華な衣装を身にまとった後では、柔らかくてゆるやかな生地に包まれるだけで、天国のような楽さがある。あのフリル地獄、コルセット地獄、パニエ地獄……全てを思い出すと、もう当分遠慮したい気持ちだ。けれど、メイドたちも言っていたように、いずれはそうした衣装に慣れなければならないのだろう。

 「はぁ……頑張った、わたし。」

 小さく自分をねぎらう。トイレ、入浴、ドレス。この三大難関を味わっただけでも、前世では到底想像できない苦労だ。でも、そのたびにメイドたちのサポートがあったからこそ乗り越えられた。以前なら「人に頼るなんて」と思っていた部分もあったが、ここでは頼ることがむしろ自然で、むしろ推奨されている雰囲気がある。

 わたしは、安楽な生活をしたい。そのためには、人に頼ることに慣れるべきだ。


 「お嬢様、よろしければ、ハーブティーなどいかがですか?」

 セシルが控えめな声で提案する。そういえば、さっきまで緊張で喉が渇いていたな、と気づく。

 「ありがとう、お願いするわ。」

 素直に依頼すると、メイドたちは軽やかな足音で準備に取りかかる。もうこのやり取りにも慣れたものだ。あれほど恥ずかしかったあの瞬間たち――トイレや入浴を思えば、ここでハーブティーを頼む程度は朝飯前(実際、もう朝食は終えているが)。 


 数分後、甘い花の香りをほのかに宿したハーブティーがテーブルに用意される。カップを両手で包み込み、一口含むと、舌先に広がるほのかな甘みが心を解きほぐす。

 「落ち着く……」

 小さく呟いた言葉に、マリエが微笑む。「お嬢様、少し休まれてはいかがでしょう?お着替えでお疲れになったことでしょう。」

 確かに、ドレス選びは予想以上に体力を使った。美しい姿になるにはそれなりの手間と慣れが必要だという事実が、身にしみるように分かった回だった。

 「そうね、じゃあ少し……うん、ベッドまで行くのもちょっと歩こうかな。」

 わたしは部屋の端から端までのミニ散歩をもう一度始める。せっかく服が軽くて動きやすいのだから、少しでも身体を慣らしておきたい。それに、歩くことでこの14歳の少女の身体にも徐々に馴染んでいく気がする。お尻が少し大きめで、歩くと微妙な重心の違いを感じるが、もう騒ぐほどではない。「これも個性」と受け止める心の余裕が生まれつつある。


 部屋の中を2往復ほどしてから、ベッドの端に腰かける。ふかふかのマットレスが、わたしを受け止めてくれる。この屋敷は魔法の力でいつでも快適な温度に保たれているらしく、冬でもないのに肌寒さも感じない。前世ならエアコンに頼りっぱなしだったが、ここでは魔晶石なるものが上手く調整しているらしい。本当に便利だ。


 「あの、セシル、マリエ、ちょっと質問してもいい?」

 わたしはベッドに半分身を預けながら尋ねる。

 「はい、お嬢様、何なりと。」

 二人は揃って微笑んでくれる。その様子に安心感が湧き上がる。


 「この世界で、私みたいな立場の人って、普段はどんな服を着るの? やっぱり今日みたいなドレスが多いのかな。」

 単純な疑問が出てきた。今日のドレスは「室内でも着られる簡易なドレス」と言われたが、それでも前世基準では超豪華だ。もっとフォーマルな場にはどれほどすごいドレスを身につけるのか、想像しただけで背中がゾッとする。


 「はい、お嬢様。今日のドレスはまだシンプルな部類で、日常的にお屋敷内で過ごす程度ならこれくらいで十分でございます。ですが、外出やお茶会、まして社交界デビューとなれば、さらに手の込んだドレスが必要になるでしょう。」

 セシルの説明に、わたしは内心で「マジか」と呟く。これ以上に複雑なドレスを着なきゃならないなんて。

 (というか、なに?普通に家で過ごすのに、あのドレスかよ。服役している人間だって、いつでも手錠をかけるとなれば人権侵害なのに。)

 「そうなんだ……先が思いやられる、わね。」

 慣れない女言葉で、ため息交じりに言うと、マリエは苦笑する。「お嬢様、最初は大変かもしれませんが、回数を重ねれば自然と馴染むものですわ。今までだってそうでしたでしょう?トイレやお風呂も、初めは戸惑われましたが、今ではそこまで抵抗もないはず。」

 恥ずかしいことを思い出させないでほしい。でも、たしかにそう言われてみると、確かに。あの時は死ぬほど恥ずかしかったけど、もうトイレや入浴が大変なイベントとはいえ、拒絶するほどではなくなってきた気がする。慣れって怖い。


 「ああ、確かに……慣れるしかないか。時間をかけて頑張るよ。」

 小さく頷く。前世では、男であることを疑問に思うことなく生きてきたが、今は少女としてこの世界で生きていく以上、この姿と文化に対応する術を身につけるしかない。メイドたちも味方についてくれている。何とかなるだろう。

 生活に、生活にさえなれれば、このあとは、面白おかしくのんびり暮らしていける。なんたって、わたしはここの領主なんだから!


 ハーブティーのおかげか、落ち着いた気分になってきた。せっかくだから今日はこのまま少し休もうかと思った、その時、廊下で控えめなノックの音がする。メイドたちが「お嬢様、失礼いたします」と言い、一度部屋を出て確認に行く。

 戻ってきたマリエが、「侍女長様から、お嬢様のご体調をお伺いしたいとのこと。お会いになりますか?」と伝えてくれる。


 侍女長様か……まだ直接そんなに言葉を交わしたことはなかったはずだ。彼女はこの屋敷を取り仕切る実質的な存在で、摂政としても、両親亡き後の領地や私を支えてくれているという話だ。会うべきか、正直少し怖いというか緊張するけれど、今は断る理由もない。


 「ええ、構わないわ。来ていただいて。」

 わたしの返事に、マリエは微笑み、セシルとともに部屋を整え始める。椅子の位置や花瓶の向きなど細かい所まで調整する様子は、やはり来客を迎えるための儀式のようだ。

 ほどなくして、侍女長が入室する。年配の女性で、背筋が伸び、落ち着いた気品が漂っている。その目は厳しすぎず、しかし長年の経験と信頼を感じさせる佇まい。


 「お嬢様、ご体調はいかがでしょうか?」

 静かな声で尋ねられ、わたしは緊張しながら答える。「ええ、だいぶ回復しました。皆さんのおかげで……」と控えめに言うと、侍女長は微笑んで頷く。

 「それはなによりでございます。お嬢様が徐々にこの屋敷での暮らしに慣れつつあると聞いて、わたくしも嬉しく思います。メイドたちから報告を受けておりますが、初めてに感じてしまうことばかりでご苦労も多いことでしょう。」

 その声には、親身な気遣いが感じられる。ああ、この人がこの屋敷をまとめているのか、と思うと安心感すら覚える。

 (よかった、優しそうな人で。)


 「はい、正直、戸惑うことばかりで……でも、皆さんが本当に優しく助けてくださるので、なんとか頑張れています。とてもありがたいです。」

 素直な感謝を述べると、侍女長は「お嬢様がそうお感じになられるなら、何よりでございます」と再び微笑む。

 「少しずつお嬢様が、元の暮らしを取り戻してくださることが肝要かと思います。今は大変かもしれませんが、いずれそれが当たり前になり、きっと楽な日々に感じられましょう。」

 なるほど、侍女長の言葉は筋が通っている。今の苦労は将来への投資みたいなものか。前世も仕事で苦労すれば経験とスキルになったように、この世界の「苦労」もやがては自分の武器になるのかもしれない。


 「わかりました。焦らず、少しずつ慣れていきます。」

 わたしは苦笑混じりに答える。侍女長は満足げに頷くと、「ゆっくりお休みになってくださいませ」と言い、退出していく。

 その後、メイドたちが簡単に室内を整え直してくれ、また静かな時間が戻ってくる。


 椅子に腰掛けたまま、わたしは改めてハーブティーを一口啜る。甘い香りと微かな甘みが、心を穏やかにする。

 「この世界で生きるための初歩、ねえ……」

 自分に向かって呟く。既にいろいろ初体験を詰め込まれた気がするが、これでもまだ初歩なのだというから恐ろしい。それでも、入浴やドレス試着を経て、私は確実に強くなっている――と信じたい。


 もし前世でこの状況に置かれたら、恥ずかしさで逃げ出したかもしれない。しかし、転生後の私はもう少し踏ん張りがきく。トイレの恥ずかしさも、お風呂の全裸イベントも、そしてドレスのフリルまみれの煩雑さも、全部乗り越えてきた。これからもたくさんの「初めて」があるのだろう。大人になれば、領土の経営とか、政治とかに関わるのかな。私はそういうことはあまり興味ないので、優秀な官僚を雇ってやって貰おう。


 「とりあえず、今は休もう。」

 ぼんやりと窓の外を見る。緑がそよぎ、鳥が鳴く。魔晶石が優しい光を放ち、メイドたちはいざというとき助けてくれる。こんな安らかな暮らしを手に入れたんだから、少しくらい恥ずかしい思いをしても、まぁ許容範囲だろう。

 わたしはカップを置き、ゆっくり深呼吸する。体力が回復したら、部屋の外を散歩したり、ちょっとしたお茶をしたり、何でもできる。ゆとりがあるって素晴らしい。


 「エリシア・エイヴンフォード……今日も少し前進した!」

 自分の新しい名前を呼び、微かに笑みを浮かべる。ドレス体験は地味に疲れたけれど、そのおかげで異世界お嬢様としての生き方が少しリアルに感じられるようになった気がする。

 目を閉じ、しばしの休息を取ろう。次はどんな試練が待っていようと、きっとわたしは大丈夫だ――と、ほんの少しだけ自分に自信を持ちながら、わたしは柔らかな静寂に身を委ねるのだった。


 ほんの少しだけまぶたを閉じていたつもりなのに、気づけば数分ほどうとうとしていたようだ。軽くまどろんでから目を開くと、室内は変わらず穏やかな光に包まれている。ハーブティーのカップは空になり、メイドたちは静かに控えたまま。わたしが寝入ってしまわないよう、過度に話しかけることもないらしい。ここにいると、本当に贅沢な空気が流れているなと改めて思う。


 「お嬢様、ご気分はいかがでしょう?」

 セシルがささやくような声で尋ねる。わたしは軽く首を振り、笑みを浮かべる。

 「ええ、落ち着いたわ。ありがとう。少し休めたみたい。」

 するとマリエも頷き、「お疲れでしたら、ベッドで少し横になられてもよろしいのですよ」と優しく提案する。その申し出はとても魅力的だが、わたしは首を振る。「大丈夫、そこまで疲れてはいないわ。少し休んだら頭がすっきりしたもの。」


 この世界での生活には慣れが必要だと痛感した一日だった。ドレス体験はそのほんの一端に過ぎない。とはいえ、さっきまでの苦闘を思えば、今こうして落ち着いている自分が少し誇らしい。前世なら面倒くさいことは極力避けてきたけれど、ここでは避けて通れない。避けるより慣れるほうが早いということがわかってきた。

 わたしは、楽するためなら、努力は惜しまないのだ。


 「お嬢様、このあと、特にご予定はございませんが、何かなさりたいことはありますか? 読書や、簡単なお稽古なども承ります。」

 マリエが軽やかに尋ねる。わたしは部屋の片隅の書棚を見る。刺繍や礼儀作法といったお稽古事は、まだ気後れする。読書なら、昨日眺めた絵本の続きでも読んでみようか。前世で読んだことのない世界の童話を通じて、この世界の価値観を少しでも理解できるかもしれない。

 「じゃあ、簡単な絵本をもう一度見てみようかな。昨日読んだ森の歌姫の続編があるって言っていたわよね?」

 そう、確かマリエが「同じ作者が別の童話も書いている」と教えてくれたはずだ。


 「かしこまりました、お嬢様。すぐにご用意いたします。」

 マリエがスッと立ち上がり、書棚の方へ向かう。セシルはわたしの側でさりげなくクッションを整え、わたしが座りやすいように配慮する。その気遣いには感謝しかない。こんなにも丁寧に扱われる日が来るとは、前世の疲れ果てた社会人生活では考えられなかった。


 部屋は静かだが、決して退屈な静けさではない。外では小鳥がさえずり、窓からやわらかな風が入り、花の甘い香りがかすかに漂う。メイドたちが行き来する音も、控えめで耳障りではない。ここは、まるで理想的な休息の空間だ。

 もう少し体力が戻れば、この部屋を出て館内を散策したり、庭園に出てみたりもできる。ドレスを再び着るのは気が重いが、その時になればまたメイドたちが笑顔で助けてくれるだろう。


 マリエが戻り、小さな絵本を手渡してくれる。表紙には今回も可憐なイラストが描かれ、タイトルは「森の歌姫エルリアと月夜の調べ」だ。前回の童話に続く物語らしく、歌姫が森を越えて月の下で旅人と出会う話らしい。

 「ありがとう、読んでみるわ。」

 わたしは礼を言い、ゆっくりとページをめくる。異世界の文字も、なぜか自然と読めることは確認済み。前世の言語とのつながりはないはずだが、転生時に何か力が与えられたのだろう。おかげで困らないのは助かる。

 (だったら、他も配慮してほしいけれども)


 物語は柔らかな文体で、森の生物や夜空を見上げる少女が描かれる。歌姫エルリアは、人々を導き、災いを鎮める役割を果たす存在らしい。戦いではなく、歌や優しさで世界を癒すところがいい。前世で読んだ童話よりもずっと穏やかで、血なまぐさい戦いもない。

 「この世界は本当に平和なのね……」と心でつぶやく。もちろん裏に何か不穏なことが潜んでいるかもしれないが、今のところはのんびりとした日々を満喫できそうだ。


 ページをめくり続けると、エルリアが月の下で奏でる歌に森の動物たちが集まり、旅人も疲れを癒すシーンが出てくる。そんな優しい描写を読みながら、わたしは思わずほっと微笑む。これまでの恥ずかしい経験を思えば、なんて穏やかな世界観だろう。恥ずかしいこともあるけれど、本質的には平和で優しい世界なのだろう。


 気づけばハーブティーも飲み終え、絵本の最終ページにたどり着く。「おしまい」の文字とともに、月光に照らされる森の絵が美しい。わたしは本を閉じて、ふぅと息をつく。とても良い気分転換になった。

 「面白かったわ。ありがとう、マリエ。セシル。」

 二人は「お嬢様に楽しんでいただけて嬉しいです」と笑う。その笑顔を見ていると、もはや恥ずかしい思いをしたことすら報われる気がする。

 (にしても、こんな少女趣味なのはなぁ……。買い物に出られるようになったら、もっと他の本も読んでみよう。漫画とかあればいいけれども。)


 「さて、今日はもう大仕事を終えた気分だし、ゆっくり休もうかしら。」

 そう宣言すると、メイドたちは微笑ましげに「かしこまりました、お嬢様」と応じる。彼女たちも、今日はわたしが頑張ったと感じているのだろう。朝からドレスに挑戦し、体力と気力を使い果たした姿は、きっと滑稽だったに違いないが、笑わずに支えてくれたことに感謝したい。


 わたしはベッドへ向かう。少し横になろう。寝具は相変わらずふかふかで、魔晶石の光が柔らかく室内を照らしている。カーテン越しに入る光も優しい。

 「お嬢様、毛布は要りますか?」

 セシルが気遣うが、この室内は常に適温なので特に寒くはない。

 「大丈夫、ありがとう。」

 そう言って軽く頭を振る。薄いシーツを膝までかけるだけでも十分心地いい。


 前世ではこんなにゆっくり昼間から眠る余裕などなかった。仕事に追われ、休みの日も雑務に追われ、いつも緊張していた。今はどうだろう。異世界に転生し、14歳の貴族令嬢として生まれ変わり、メイドたちが身の回りを世話してくれる。少しずつ女性としての身体に慣れ、恥ずかしさを克服しながら、この世界の暮らしを楽しめるようになってきた。


 トイレでの戸惑い、入浴での限界突破、ドレスフィッティングでの大冒険。これらはすべて小さなステップだ。今後の外交、他の領主や貴族との付き合い、や領地経営といった大きな課題に比べれば、ずっと可愛いものかもしれない。

 この世界の常識に合わせることは、苦労もあるけれど、その分、得られる安らぎと楽しさもある。悠々自適な暮らし、それがわたしが求めていたことじゃないか。前世の苦労が嘘みたいに、ここではメイドがサポートしてくれて、甘いフルーツが手に入り、香り高いお茶が飲める。これでお酒が飲めればいうことなしだが、こればかりは辛抱するしかない。


 「うん、悪くない。」

 小さくつぶやいて目を閉じる。徐々に体の力が抜け、ふわりとした眠気が降りてくる。まだ昼間だが、誰も文句は言わないだろう。療養中なのだから、好きなときに休めばいい。

 次に起きたら、また何か新しいことに挑戦しようかな。歴史や文化の勉強でもしてみるか。それとも、温室で甘い果物でもつまんでみるか。苦労と楽しみをバランスよく味わいつつ、異世界ライフを満喫していく。


 部屋は静かで、心地よい沈黙が広がっている。わたしはメイドたちが立ち去る気配を感じ、ほんのりとした幸福感に包まれながら目を閉じる。

 彼女たちは、わたしを必要以上に邪魔しない。休むときは休ませてくれる。それがこの世界の「豊かさ」なのだろう。贅沢な暮らしとは、こういう小さな気遣いの積み重ねで成り立っているのだ。


 薄く透けるカーテン越しに、揺らめく光が見える。外には風が吹き、鳥が飛んでいるはず。わたしはそんな風景を頭の中に描きながら、まぶたの裏で小さな物語を紡ぐ。この先も、恥ずかしい場面や困惑する瞬間はあるだろう。でも、わたしにはメイドたちがいる。頼れる存在と共に歩めるなら、どんな試練も乗り越えられるはず。


 「エリシア・エイヴンフォード……ちょっとずつ、いい感じかもね。」

 微かに笑みを浮かべ、わたしはまどろみの中へと沈んでいく。今日のドレス試着も、恥ずかしかったけれど良い経験になった。次はもっと上手くやれるだろう。そんな根拠のない自信が湧いてくるのが不思議だ。転生前の自分なら面倒と投げ出したかもしれないが、今は「続けてみよう」という気持ちが生まれる。


 恥ずかしいこと、苦労することが、すべて将来の楽な暮らしの下地になる。メイドたちからの「大丈夫ですよ」という確信に満ちた言葉が、わたしの背中を押し続けているからだ。

 わたしは静かな寝息を立て始める。次に目覚める頃には、また一歩、この異世界での暮らしに慣れているだろう。それがわかるから、今は安心して眠れる。

 こうして、わたしの苦労と学びの日はゆっくりと幕を下ろしていくのだった。


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