異世界お手洗い指南──メイドさん、助けて!
次に目を覚ましたとき、わたしはほのかな困惑と共にベッドの上で身をよじった。そろそろトイレに行きたくなってきた。
いや、当然だ。食事を摂れば身体は老廃物を出すもの。前世では普通にトイレに行っていたが、ここではどんな仕組みなのだろう? 魔法トイレ? それとも中世らしく簡素な便器? いずれにせよ、メイドたちに聞かなきゃ分からない。今さら我慢しても辛いだけだし、メイドたちはなんでも手伝うと言ってくれている。大丈夫、恥ずかしいけど仕方ない。
「えっと……マリエさん、セシルさん、いらっしゃいますか?」
静かな室内で控えめに呼びかけると、ほどなく扉がノックされて開く。朝食時の二人のメイドが揃って顔を出した。
「お呼びでしょうか、お嬢様?」
「はい、その……ちょっと、トイレに行きたくて……」
若干顔が熱くなるが、ここは正直に言おう。メイドたちは、驚いた様子もなく、柔和な笑みを浮かべる。
「かしこまりました。お嬢様、ご案内いたしますわ。このお部屋には専用の『お手洗い室』が備わっております」
マリエがごく自然に答えてくれた。どうやらこの世界でもプライベートな手洗い空間があるらしい。安心した。
「お嬢様、少し歩く必要がございますので、わたくしたちが支えますね」
セシルが近づいて腕を差し出す。わたしは彼女たちに支えられ、ゆっくりと部屋の奥へ向かう。豪華な部屋の片隅に、木製の扉がある。そこを開くと、小さな部屋があり、中には腰かけられる椅子状の器具が鎮座していた。なんとも優雅な造りで、香りのするポプリや小さな灯りもある。清潔感が漂い、まるで高級ホテルのトイレのようだ。
「お嬢様、ご不安でしたらお声がけくださいませ。扉の外で待機しておりますので」
メイドたちは退出し、わたしは一人で扉を閉める。中は狭いが圧迫感はない。腰かけると、適度な高さで用を足しやすい。水を流す仕組みは……どうやらなにかの仕組みで簡易的な水洗が可能らしい。レバーに当たる部分を軽く押すと、水が流れる。素晴らしい、魔法の力か技術なのか知らないが、清潔なトイレがある異世界は最高だ。
ふぅ、と息をついて、この異世界トイレの清潔感と機能性にほっとする。ところが、いざ用を足そうとすると、ちょっとした問題が浮上した。ナイトガウンと下着の構造が前世と違うのだ。前世なら適当なパジャマのウエストを引き下げるだけだったが、今はふわっとした長いナイトガウンをまくり、下着をずらして……と考えるだけでやたら大変そうだ。
「どうしよう……」
わたしは密かに焦り始める。ナイトガウンの丈は長いし、裾を引き上げないと足元が全く見えない。おまけに華奢な腕と細い指先は頼りなく感じる。下着はどうなっているのかもよく分からない。この世界の下着は紐やボタンで固定されているのだろうか、それとも細いリボンで結ばれているのか? 闇雲に引っ張って壊したらどうしよう。
とりあえず、ナイトガウンの裾を片手で摘んで持ち上げる。が、体がまだフラフラしているせいか、バランスを崩しそうになる。ええい、仕方ない、立ち上がって下着を整える方が確実かもしれない。けれど、立ち上がったら扉の外のメイドたちが心配して入ってくるんじゃないかと不安になる。
「これ、一人でできるのかな……?」
声に出してしまった瞬間、顔が熱くなる。トイレで独り言とか、恥ずかしいにも程がある。前世は普通に自分一人でできたことなのに、今は服装一つで苦戦。なにより自分が少女であるという事実が、着替えや下着の扱いに戸惑いを増幅させる。
もう一度座り直して、試行錯誤する。ナイトガウンは裾をめくればいいとして、その下にある下着はスリップドレスのような形をしている。裾の方から手を入れて引き下げれば何とかなるかもしれないが、前方がどうなっているのか把握できない。引っ張ってみるが、なかなか布がずれない。どこかで紐が引っかかっているのかもしれない。
「うぅ……」
小さく唸る。尿意はさらに強まる。無理は禁物だ。いっそメイドを呼ぶべきか? でも、トイレで下着の扱いに困っていることを報告するなんて、死ぬほど恥ずかしい。絶対赤面してしまう。けれど、ここで意地を張って失敗して、変なことになった方がもっと悲惨だ。
思い切って扉の方を振り返る。声が出ない。どうやって呼べばいい?「マリエさん、セシルさん、下着の脱ぎ方が分からないんですけど」とか言うのか? 考えるだけで顔が火照る。
それでも、今は背に腹は替えられない。ここは異世界、病み上がりの貴族令嬢という立場だ。きっとメイドたちはこういうお世話にも慣れている……はず。
「す、すみません……」
絞り出すような小さな声で呼びかけると、すぐに外から「お嬢様、何かご用でしょうか?」と控えめな声が返ってくる。もう逃げられない。
「えっと、その……ごめんなさい、あの、わたし、下着を……どうすれば……」
情けないほど言葉が震える。人生でこんな恥ずかしい告白は初めてだ。顔に火がついたような熱さを感じる。でも、ドア越しにメイドたちは、事情を察したのだろう、少し間を置いてから「お嬢様、失礼いたします」と言って、扉がそっと開く。
わたしは慌てて視線を落とす。マリエとセシルが入ってきた。二人とも表情は変わらない。いつものように優雅で、動揺の色がないのが救いだ。
「お嬢様、まだ記憶が混乱なさっているのに、お一人でのお手洗いはご不安だったでしょう。大丈夫ですよ、こういったお手伝いもわたくしたちの務めでございます」
マリエがまるで子供をあやすような口調で、しかし丁重に言う。
「すみません……ほんとに、恥ずかしいんですけど、服がどうなってるか分からなくて……」
顔から火が出そうだ。頭の中で「これは異世界だから、こういうのが普通なんだ」と必死に言い聞かせるが、なかなか羞恥は収まらない。
セシルが小さく微笑んで、わたしの手からそっとナイトガウンの裾を受け取り、丁寧にたくし上げる。マリエは下着の構造を説明するように小さな声で囁きながら、リボンをゆるめ、下に下げてくれる。すべてが淡々とした手つきで、余計な感想も言わない。彼女たちにとっては日常業務の延長戦なのかもしれない。
「これで大丈夫です、お嬢様。ご安心なさって」
セシルが静かに言う。その声には心からの気遣いが込められている。わたしは唇を震わせ、「あ、ありがとう……」と絞り出す。こんな屈辱的……いや、確かに私は未成年の女の子で、貴族令嬢は使用人に世話されるものだろうが、前世のプライドがあるからどうしても気まずい。
しかし、抗えない現実だ。これからもドレスの着替えなど、こういう場面は増えるだろう。慣れるしかない。メイドたちはわたしが用を足せるよう配慮して、目を伏せて、くるりと背を向けてくれる。少しでも羞恥を和らげようとしているのだろう。
なんとか用を足してきれいに拭く。全然体の勝手がわからなかったが、なんとかなった。
おそらく、水を流すためであろうレバーを押すと、水が流れ出す。シャーという水音が部屋に響く中、マリエが「お嬢様、終わりましたらお声がけくださいませ」と微かに言う。わたしは小さく「終わりました」と答え、再び介添えを受けて下着を元に戻してもらう。メイドたちは終始にこやかで、淡々としている。これが当たり前の世界なのだろう。
「お嬢様、あとは手を清めて、こちらで拭いてくださいませ」
セシルが用意してくれた水差しとタオルで手を洗い、拭く。もう、ここまで来ると恥ずかしさで意識が飛びそうだ。しかし、彼女たちは、表情を動かさずに見守ってくれる。その様子を偉大に感じる。彼女たちのプロフェッショナルな対応に安心も覚える。
「ありがとうございました……ごめんなさい、こんなことまで」
勢いで謝ってしまうが、マリエは首を振る。
「お嬢様、謝る必要などございません。わたくしたちはお嬢様のお世話をするためにおります。どうかお気になさらず、なんでもお困りのことは仰ってくださいませ」
まるで当たり前のことのように言われると、逆に救われる。異世界では、こういうパーソナルなケアも普通なのだ、と自分に言い聞かせよう。
「……ありがとう。助かりました」
ようやく気持ちを落ち着けて言葉を出す。メイドたちは微笑み、わたしを再び部屋の中心に戻してくれる。昨日まで違和感だった「お嬢様」と呼ばれることも、この恥ずかしい体験を経て、少し馴染んできた気がする。彼女たちはわたしを守り、支えてくれる立場で、それでも、確固たる距離感を持ってくれているのだ。
ベッドではなく、あえてさっきの椅子に腰かける。もう体は震えないが、頬はまだ少し熱い。何事もなかったかのように、マリエが「お嬢様、気分転換にお茶などいかがでしょう?」と尋ねる。
「あ、うん……お願い」
恥ずかしさをハーブティーで流し込もう。そのうち慣れるだろう。危ない危ない。危うく、自分を見失うところだった。とにかく、生活に慣れて、あとはのんびりと暮らしたい。私は、一つの大きな試練(?)を超えて、これからのことに思いを巡らせた。
マリエが小さな銀色のポットからハーブティーを注ぎ、カップを差し出してくれる。カップの中からはふわりと柔らかな花の香りが立ち上り、その香りをかぐだけで、まだ残る恥ずかしさや緊張がすっと軽くなるような気がした。ゆっくりと一口すすれば、ほんのり甘くて、口当たりの良い液体が喉を滑り落ちる。
「お嬢様、少しでも落ち着かれましたでしょうか?」
マリエが気遣う声で尋ねる。わたしは頷いて微笑んだ。「うん。ありがとう、ちょっとホッとしました」
セシルとマリエは、わたしの対面に控えるような形で立っている。状況を見れば、完全に「お嬢様」を立てている態度だが、先ほどの極めて個人的で恥ずかしい場面を、何の変哲もないかのように処理してくれたおかげで、わたしは彼女たちを少し身近に感じていた。もちろん、あくまで彼女たちはプロフェッショナルな使用人だ。勝手に馴れ馴れしくするつもりはないが、その存在は大いにありがたい。
「ねえ、マリエさん、セシルさん、今後、わたしはどんな生活を送ることになるのかな?」
ハーブティーをもう一口味わいながら、わたしは素直な疑問を口にする。今は療養中で、急がなくていいと言われている。でも、この先、体力が回復したら、わたしは貴族令嬢として何をすべきなのだろう。
「そうですね、お嬢様。」
マリエが言葉を選ぶように少し考えてから答える。
「お嬢様はまだご記憶が混乱しておいでですから、しばらくは体調の回復を最優先になさるべきでしょう。日々、少しずつ屋敷内を散策し、使用人たちや、侍女長様、領内のことを思い出していかれるのがよろしいかと。無理は禁物ですが、動けるようになれば、お庭での日光浴や、小さな温室での果物試食など、楽しんでいただけることが増えてまいります」
庭で日光浴に果物の試食。なんだその優雅な響きは! 前世で日光浴なんてしたことあったっけ?散歩程度はしていたが、こんな風に「お嬢様が回復したら、ご褒美に甘い果物を味わって」と言わんばかりの環境はなかった。出勤前にコンビニ寄るくらいが精一杯だったし。本当に最高だ。待ちきれない。
「なるほど、無理せずゆっくりでいいのね。……そういえば、わたしの両親が亡くなったあと、この領地や屋敷は侍女長様が支えてくださっているんですよね。わたしが元気になったら、わたしにも何かできることはあるのかしら?」
領主としての役割も、いずれは果たすことになるのだろうが、今はわたしが未成年のため、実質的な政務は侍女長が代行していると聞いている。将来的には、領地経営に参加しなければならないのかもしれない。
そんな大変そうなことはしたくないが、かといって、完全に何もすることがないのも面白くない。少し私に何ができるか、話を聞いてみてもいいだろう。
わたしはカップをもう一口すすって、甘い香りを鼻腔に通す。贅沢な時間。メイドたちも安心した表情を浮かべている。
「はい、お嬢様。何か興味をお持ちになられたことがございましたら、遠慮なくおっしゃってくださいませ。お部屋の中にある本や飾り物についてお聞きになってもかまいませんし、屋敷内のどのエリアに何があるか、簡単にご説明することもできます」
マリエが誘い水を向けてくる。確かに、部屋にはいろいろ気になるものがある。昨日はクローゼットしか見ていない。タペストリー、置物、魔晶石ランプ、机の上の花瓶……。そうだ、本棚があれば……、あ、でも、言葉は不思議と通じている。転生しておいて、今更、不思議なことがあっても驚くことではないが、言葉が通じるのは助かる。文字も読めるのだろうか。
「そうね……それじゃあ、本があれば読んでみたいな。わたし、文字は読めるかな?記憶は曖昧だけど、読めるなら、この国の本を読んで世界を知ることができるかも」
小さな一歩だが、文字は文化を知る上で有力な手掛かりだ。前世と同じ言語を使っているとは限らないが、なぜか話せているところを見ると、言語は違和感なく頭に入っているようだ。なら文字も同様に読める可能性が高い。
「お嬢様、思い出すまで少し戸惑うかもしれませんが、ゆっくり一冊ずつ眺めていけば、きっと思い出されることでしょう」
セシルが微笑む。「このお部屋にも小さな書棚がございます。もっぱら童話や簡易な歴史絵本などが中心ですが、よろしければご覧になりますか?」
「ええ、ぜひ」
少しワクワクする。童話や絵本を通して、どんな世界観が描かれているのか覗けるだろう。それに、難しい法律書だの契約書だのは、もう見たくない。子供向けの絵本でさえ、この異世界の知識を得るには十分だ。
「では、わたくしが取り出してまいります」
マリエが部屋の隅に歩いていく。そこには、カーテンで半分隠された小さな書棚がある。わたしは「あのカーテンで守っているのは埃よけかしら」と、そんなことを考えながらメイドの動作を見つめる。
マリエが何冊かピックアップし、戻ってくる。手にした本は、薄い表紙にきれいな彩色が施されている。確かに絵本っぽい。特殊な印刷技術があるのだろうか、不思議な世界だ。
「こちらは『森の歌姫エルリア』という童話です。森に住む歌姫が、迷子になった子供を導くお話でございます」
表紙には、緑豊かな森と、小さな妖精のような少女が描かれている。文字は……うわ、記号みたいな文字だが、不思議と読めそうな気がする。「MorinoutaHime Eluria」みたいな感じに脳内で自動変換されるような錯覚がある。今更、不思議なことに驚いていてはきりがないが。
「あら、なんだか読めそうな気がする。ちょっとページをめくってもいい?」
「もちろんでございます、お嬢様」
カップをテーブルに置いて、本を受け取り、めくる。紙はやや厚みがあって、手触りは前世の高級紙に近い。印刷なのか、手書きなのか分からないが、文字が均一に並んでいて綺麗だ。不思議な世界だ。でも、前世をマリエやセシルが見たら、きっと、同じ感想を抱くかもしれない。
最初のページには「昔々、ある森に美しい声をもつ歌姫がいました……」といった調子で物語が始まる。(正確にはこの世界の文字だが、わたしにはそう感じられる。)緩やかに読み進めると、内容が自然と頭に入ってくる。この世界の文字も言語も、不思議と理解できている。転生ボーナスというやつかもしれない。でも、お約束のチートも欲しい。そのうち、見つかるのだろうか。
「読めるわ……よかった」
安心して小さく呟くと、メイドたちは微笑んだ。
「お嬢様、ご負担にならない程度に、ゆっくりとお読みくださいませ。わたくしたちはここで待機しておりますので、ご要望があればいつでも仰ってください」
セシルが穏やかな声で言う。さて、童話を読みつつ、この世界の感性や文化を感じるのも悪くない。
……しばらく本をめくると、森の歌姫は旅人を導き、災いを鎮める歌を歌う話が続いている。魔物は存在するらしいが、童話の範囲では脅威というより物語上のスパイス程度。戦乱や残酷な描写はなく、子供が読むにふさわしい穏やかなストーリーだ。
「なんだか、この世界は本当に平和なのね」
本を読み終えて感想を言う。もちろん、童話だけで判断はできないが、領地が平和であることはメイドたちも確認している。もう少し現実的な情報がほしいけれど、今は慌てずにこれで十分だ。
「お嬢様、ほかにも何冊かございますが、いかがなさいますか?」
マリエが尋ねる。わたしは「もう一冊お願い」と答える。次に渡された本は「花園の約束」というタイトルらしい。表紙には花畑で手をつなぐ二人の女の子が描かれている。淡いパステルカラーで、見ているだけで優しい気持ちになる。
ページをめくり、淡々と読む。花園で出会った二人の少女が互いを理解し合い、季節が移ろう中で友情を育む物語らしい。ここでも残虐な要素はなく、人々は素朴で協力的。ますますこの世界が穏やかな場所だという印象が強まる。
「すごく優しいお話ばかりね。戦いの話とか、そういうのはないの?」
読み終わってそう尋ねると、セシルが少し考え込んでから「絵本にはあまり戦いのお話はございませんね。大きな戦争はもう何十年も前に終わっており、今の子供たちには過去の遺物として語られる程度です」と答える。
「そうか……戦争が昔あって、それが終わって、今は平和になったのね。なるほど」
視線を窓辺に向ける。カーテンの隙間から柔らかな日差しが差し込んでいる。心地よい風が微かに頬を撫でるような感覚さえする。
「お嬢様、少し窓を開けて空気を入れ替えましょうか?温かい風が心地よい季節ですので」
マリエが提案する。わたしは首を縦に振る。セシルが窓辺へ向かい、重厚なカーテンを少し寄せて、ガラス窓を開けると、さわやかな空気がふわりと流れ込んできた。緑の匂いがかすかに混じっていて、屋敷が自然に囲まれているのを再認識する。
そういえば、昨日の夕方はまだ半覚醒状態だったけれど、今日のほうがはるかに頭がクリアだ。朝食もとれたし、トイレで苦戦はしたが、とりあえずは一通り生活する準備は整ってきている。
「もう少し体力が戻れば、屋敷の中を案内してもらってもいいかしら?」
窓の外を見つめながら尋ねる。歩行はまだ頼りないけれど、数日以内には簡単な散歩くらいはできそうだ。
「もちろんでございます、お嬢様。お身体の状態に合わせて、まずは隣室や廊下、応接室など、少しずつ範囲を広げてまいりましょう。無理をなさらず、気が向いたときに少しずつでよいのです」
セシルが相変わらず優しく答える。なんだこの過保護ぶりは? だがわたしは嫌いじゃない。むしろ大歓迎だ。忙殺された前世とは何もかも違い、ここでは私のコンディションと意思を重視してくれる。本当に幸せだ。
「ありがとう。そうしたいです。今はまだちょっと疲れたから、もう少し休みますね」
また少し恥ずかしい思いをしてしまった後だから、一旦リラックスする時間が欲しい。彼女たちは「かしこまりました、お嬢様」と静かに頭を下げる。
「では、わたくしたちは一度退出いたします。お呼びになれば、すぐに参りますので、ご遠慮なくベルをお鳴らしください」
マリエが視線で部屋の片隅にある小さなベルを示す。わたしはそれに気づく。なるほど、呼び鈴か。
「わかったわ。ありがとう、マリエさん、セシルさん」
二人はにこやかに退室していく。扉が閉まり、再び静けさが戻る。窓が開いているため、外の風が心地よく部屋を撫で、鳥のさえずりがよりはっきりと聞こえる。
椅子から立ち上がり、ゆっくりとベッドへ戻る。昨日までは不安と興奮が混ざっていたが、今日は恥ずかしい出来事もあったものの、メイドたちが本当に頼りになることが分かった。下着の扱いや、お手洗いという最もデリケートな場面であれほどプロフェッショナルなのだから、今後どんな恥ずかしいことがあっても彼女たちなら対処してくれるだろう。
ベッドに腰を下ろし、羽毛布団を撫でる。とても柔らかく、背中を預ければ心地よい眠りに誘われそうだが、今はそこまで眠くない。けれど、身体を横たえて少しだけ目を閉じることにする。散歩などは明日でもいい、今日はもう十分いろいろな刺激があった。
「異世界で貴族令嬢として暮らすのって、こういう感じなんだ……」
小さな声で独り言を漏らす。トイレ一つ取っても、手伝いが必要で、恥ずかしかったけれど、これで一歩異世界スタイルに慣れた証拠だ。
このままスローライフを満喫できるなら、最高だ。貰った本で読んだ「チート」能力とやらがなくても、魔王を倒さなくても、豊かな土地と忠実なメイドたちがいて、優しい侍女長がいる。もう何が不満だろうか。後は、領地や人々のことを少しずつ理解し、退屈しない程度に趣味や娯楽を見つければ完璧だ。
ふと考える。果物の温室や花の庭園の見学、室内での読書や刺繍(前世ではやったことないが、この世界で暇つぶしに挑戦するのもありかもしれない。)、さらには軽い運動で体力を取り戻すなど、できることはたくさんある。外の世界は未知数でも、屋敷の中だけでも遊び放題だ。
「なんて贅沢な悩みなんだろう」
くすりと笑って、目を閉じる。もう恥ずかしさは落ち着いたし、メイドたちへの信頼も芽生え始めている。貴族令嬢の生活は、まだまだ分からないことだらけだけど、たぶん大丈夫だろう。
そう思い込むようにして、わたしは布団に身を預けた。鳥のさえずりが子守唄のように聞こえ、心穏やかな気分に浸る。
「エリシア・エイヴンフォードとしての人生……、百点満点ではないけれども、まあ、悪くない。そう思うのも贅沢かな。」
ほんのり微笑みながら、暖かい陽光と優しい風が包み込む中、わたしはゆっくりまぶたを閉じる。この先、どんな日々が待っているにせよ、焦らず、恥じらいを乗り越えながら、少しずつ慣れていけばいい。メイドたちがいてくれる限り、この世界での生活はきっと心強いはずだ。