転生したら貴族令嬢!まずは寝心地をチェックします
ふかふかのベッドでゆっくり目を開けると、そこはやたらとおしゃれな寝室だった。天蓋つきの寝台(ベッドって言っていいのか分からないレベルで豪華である。)には細やかなレース、上等なシーツ、そしてふんわりと花の香りが漂っている。灯りが、絶妙な明るさでほんのり輝いていて、窓の外から小鳥のさえずりまで聞こえてくる。まるで絵本の中の世界だ。
……っていうか、ここどこ?
頭痛がして、頭が混乱する。自分は、30代の社会人男性、法律系の仕事をしているが、最近はやたら忙しく、収入よりもハイペースで増える仕事と責任にだいぶ消耗していた。
弱っていたところを、最近の流行り病でぶっ倒れた記憶がある。最初に全然熱が下がらず、入院して、最初は、「どんどん仕事がたまる。どうしよう」と思っていたが、そのうち「まずい、こんなに倒れていたら、信頼を失って、これまでの努力がパーだ」と思い始めたことは覚えている。
どんどん悪化して、「こんなことなら、ここまで仕事を頑張らなくてもよかった。もっとのんびり暮らせば良かった。」
病状と妄想は悪化する。「このまま死んじゃうのか、私は。大変な人生を生きるくらいなら、次は貝に生まれ変わりたい。深海でのんびりしたい。」
更には、「いや、貝だったら美味いものも食べられないし、贅沢もできない。なしなし!だったら、次は金持ちの名家に生まれて実家の財産でいい暮らししたい。それで、SF並に便利な未来に生まれたいな。」
続いた熱のせいで、意識が混濁し、妄想が頭を支配する。
「SFじゃなかったら、この間、仕事で知り合った作家の先生が書いているみたいな世界がいい。中世ファンタジーとかいう、科学はあまりないけれども、都合の良い魔法のある世界とか。」
「全部投げ出して、とにかく、責任から解放されてラクに暮らしたい!」思った瞬間、思えば、意識を失う最後の瞬間だったかもしれない。気がついたら――ここ。
おそるおそる自分の手を見ると、指がほっそり華奢。黒髪だけど、なんかかすかに緑がかってて、軽く目を見張る。「えっ、これ俺の手?」とドキドキしたところで、部屋の扉が音もなく開いた。入ってきたのはメイド服姿の女性たち。お屋敷メイド? 年配の侍女長らしき人が、優雅な微笑みを浮かべて言う。
「お嬢様、ご気分はいかがですか?」
お嬢様。……お嬢様?
「え?どちらさま?なんでここに?」
それ以上の言葉が出ないでいると、周りが心配そうに寄ってくる。「熱病で長く昏睡なさっていたので、記憶が混乱されているのでしょう」「ええ、あの高熱ですもの、当然ですわ」と、勝手に納得している様子。記憶喪失扱いか。
そんな漫画みたいなこと…。まさか、熱にうなされている間にした妄想が現実に?ここは、別の世界?
「なんか、ぼんやりして・・・。」とりあえず、相手の言葉に乗るしかない。記憶喪失扱いなら、こっちから変にあれこれ聞いても不自然にはならないだろう。
侍女長らしき人(年配で、いかにもリーダー格っぽい)は「お嬢様、無理はなさらず、しばらく安静にお過ごしくださいませ」と優しく語りかける。まるで落ち着き払った女教師のような口調だ。メイドたちは慣れた動作でカーテンを少し開き、朝の柔らかな光を部屋に招き入れる。その光が、テーブルの上に並べられた花や小物、そして壁にかかった細やかな刺繍のタペストリーをくっきり浮かび上がらせる。
ふつうに考えて、ここは中世ヨーロッパ風の貴族のお屋敷……みたいな雰囲気だ。けれど、小さな棚に並んでいる丸い結晶からは、かすかに青白い光が揺らめいていて、なにやら不思議な道具っぽい。テーブルには杯のようなものが置いてあり、その上にはぼんやり光る石がある。
しかし、電線はもちろん、なにか仕掛けも見当たらない。石そのものが光っているみたいだ。
そういえば、気を失う前に、魔法がどうとか、仕事で付き合いのあった作家さんのライトノベルみたいな世界でのんびりしたいとか思ったんだった。
これ、願いが叶ってしまったようで、間違いなさそうだ。
さっき「お嬢様」って言われたし、この部屋の豪華さからして、わたし(俺?)は貴族令嬢として生まれ変わったらしい。どうやら、まだ若い少女のようだ。
まだ鏡を見る勇気はまだないけど、髪の色や手の繊細さからして、前世の男の体ではないことは明白だ。
確かに、最後のお願い(?)には、性別は指定しなかったけれども。どうせだったら、貴族の跡取り息子とかいう設定がよかった。まあ、いい家に生まれていれば、男も女もないか。
責任から解放されたい、ラクに暮らしたいと願った結果がこれなのか。前世で死にかけながらそんな妄想をしていた時は、まさか本当にかなうとは思わなかったが……。人生何があるか分からないもんだ、というか、人生が一旦終わっているわけだから、これは妙な言い方だな、と苦笑したい気分になる。
これは素直に喜ぶべきなのか? だってほら、さっきからメイドたちが「お嬢様、お水をお持ちしました」「枕をもう少し高くいたしましょうか」と至れり尽くせりじゃないか。これこそラクな生活の極致じゃないのか。完全に願い通りだ。
女子でオマケにまだ子どもらしいのが、どうしても気に食わない。あと何年耐えれば酒が飲めるんだ?でも、守って貰いやすいということからは、こっちのほうがいいともいえる。
ただ、今はまだ混乱が先立っている。とりあえず、侍女長がすすめてくれた水を一口飲むと、ふわっとした甘い香りのハーブ水らしく、すっと身体が落ち着く気がした。メイドがハンカチを手渡してくれる。何も言わなくても世話が焼かれるのは気恥ずかしいが、悪い気はしない。というか、安楽極まりない。さっきまで、高熱で死にかけていた(というか、あのまま死んだことになるのか。後輩よ、面倒な仕事の嫌な部分ばかり残して申し訳ない。お前もこの世界のこういう身分になれるように祈っている。なれなくて、どこかで会えたら、門番くらいにはしてやろう。)
「お嬢様、しばらくお休みを続けられてはいかがでしょう。お身体が本調子でない中、無理は禁物でございます」侍女長が丁寧に言う。こちらとしては早く自分の状況を知りたいから散歩なり部屋の観察なりしたいところだが、いきなり動き出してヘンなところを突かれるより、今は大人しく状況を受け入れた方がいいだろう。
それに、やっぱり、まだ、全身がだるい。このまま歩くのも大変そうだ。記憶喪失設定という言い訳があるから、もう少し後でメイドたちから話を聞き出せばいい。
「あ、はい……少し休みます」今の声は高く澄んだ少女の声で、自分の耳にやたら新鮮に響く。これは、慣れるのに時間がかかりそうだ。侍女長たちは納得して微笑み、そっと部屋を出て行く。その扉が音もなく閉まった瞬間、部屋には私一人が取り残される形となった。
「はぁ……」ひとまず深呼吸。すべてが信じられないが、ともかく生きていることは確か。前世で病に倒れ、次の瞬間ここにいる、つまりあれは死だったんだろう。転生ものの小説や漫画ではよくある展開だが、自分が体験するとは。ファンタジーな世界に貴族令嬢として転生するなんて、ある種のご褒美かもしれない。何度もいうが、年齢性別は願っていないからやむを得ないかもしれないが、女性で子どもというのは、少し不満だ。しばらく(数年?)は強制禁酒か。
考えてみれば悪くない、というより幸運だ。
前世は、いろいろと仕事に忙殺されていた。睡眠時間まで削って働いた結果、信用や地位、財産も多少得られたかもしれないが、最後は流行病でバタリ。何もかも放り投げたいと思っていたから、これは、一応願いがかなったと言えるのでは?
しかし、冷静になろう。一見夢のような環境だが、何があるかわからない。
仕事で知り合った作家の先生の本は、仕事が終わった後にお礼で貰い、最初の方は読んでいた。たしか、お約束として、チートとかいう特殊能力が貰えるらしいが、今のところ、それが何なのかはわからない。そして、これまたお約束として、なにか大変な試練というか、魔王か何かを倒す、国家間の戦争を終わらせるとか、そういうものがあるかもしれない。希望通りなら、そんな試練はないはずだが。
とにかく、まだ全身がだるい、めまいもする。今はベッドに沈み込み、フカフカのクッションに身を任せてやろう。何にもせずともメイドが世話をしてくれるのだから、せめて病み上がりの身体を慣らすことから始めるべきだ。
さて、軽く手足を動かしてみると、妙に軽やかだ。前世のような筋肉っぽさはなく、華奢な少女の身体だが、痛みはないし、病弱というわけではなさそう。むしろ、まだ意識がぼんやりするほかは、体は健康的な感じすらする。髪を一房手に取り、匂いを嗅いでみれば、自然な清潔感がする。きっとメイドが丁寧に手入れしてくれたのだろう。というか、この髪、シャンプーのテレビCMに出てきそうな美しさだ。
「これが“お嬢様ライフ”か……」まさか自分がそんな台詞を吐く日が来るとは夢にも思わなかった。まだ現実感が薄く、まるで壮大な劇の中に放り込まれたような気分だけれど、身体の感覚は確かだ。
もう一度部屋を見回す。石造りっぽい壁、けれど冷たさは感じない。前世のストーブを小さくしたような、不思議な箱が熱源になってるのか暖かい。窓の外にチラリと見えた景色は、広々とした庭園と、その先に伸びる森らしき緑。中世ヨーロッパ風だけど、魔法があるなら、そんな森の中には魔物とかいるのかな、なんて軽い想像をめぐらせる。
「本当に、転生したんだな……」、改めてぽつりとつぶやいた言葉が部屋に響く。認めるしかない。全ての状況がそれを示している。前世は男、今は少女。あの、熱した鉄板の上を走り続けるような責任地獄からは解放されたけれど、これからどうなるんだろう。
記憶喪失という方便で、しばらくは周囲にいろいろと質問できるはずだ。そうやって、ここはどんな世界で、どんな立場なのか知っておきたい。メイドたちは好意的だし、危険はなさそう。貴族令嬢と言われた以上、たぶん身分は高い。つまり、衣食住や生活に困ることはないはず。というか、一家の財産で、贅沢だってできるだろう。数年待てば、高級酒も飲み放題だ。
では、当面はこの「守られた立場」を利用して、ゆっくりと世界を知っていくか。焦る必要はない。前世とは違い、タスクリストと、カレンダアプリを埋め尽くすスケジュールに追われることもないだろう。早く起きて出勤、よくてテレワークで、ラップトップにかじりつき、期限に追われて書類とにらめっこ……そんな地獄はもう終わった。今はラクして贅沢に暮らせるはず。願ったとおりにね。
まあ、少しくらい自由が制限されるかもしれないけど、何もしなくても生きていける状況って結構な特権だろう。私のこれまでの苦労が報われたか。さすがだ私。
よし、とりあえず今日はこのまま休んで、明日からゆっくり行動開始。メイドたちに「わたしは誰で、ここはどこ?」と聞いて、少しずつ知識を集めればいい。記憶喪失設定はこういうとき便利だ。
「うん、悪くないかもしれない……。むしろ、いいかも!」もう一度シーツに身を沈め、目を閉じる。おそらくは魔法みたい力により薄い光に照らされた部屋は、温かく甘い雰囲気で満ちている。今はただ、この不思議な世界の空気と、ラクな環境を味わおう。
次に目を覚ました時には、きっともう少し気持ちの整理がついているはず。何しろ、異世界転生で美少女貴族令嬢……なんて、そう簡単に飲み込める話じゃない。それでも、前世での苦しさを思えば、これはきっと新たなチャンス、いやご褒美かもしれない。
そう思い込むようにして、わたしは再びふかふかの枕に顔を埋め、小さく息を吐いた。やがてまぶたの向こう側で、甘くやわらかな闇が再びわたしを包み込む。
次に目を覚ましたとき、外の光が少し強くなっていた。もしかして昼近いのかもしれない。時計らしきものは見当たらないが、さっきよりもずっと明るく暖かい感じがする。ふかふかの枕に頬を預けたまま、少しぼんやりしていると、扉が控えめなノック音を立てる。
「お嬢様、失礼いたします。ご様子はいかがでしょうか?」
柔らかな声は、さっきのお世話係のメイドだろうか。「どうぞ」と言おうとして、声の高いトーンにまだ慣れず、一瞬ためらったが、何とか「はい、お願いします」と無難に応じる。扉が開き、二人のメイドが足音を立てないように入ってくる。片方はさきほど見た侍女長より若い女性、もう片方はさらに若く10代後半くらいに見える娘だ。どちらも優しげな微笑みを浮かべている。
こんな年から住み込みで働いているのか。同じ世界でも貴族に生まれてよかったよかった。
「お嬢様、体調はいかがでしょう? 水をご用意いたしました。口が渇いておられませんか?」
声をかけてきたのは、年長のメイドだ。わたしは「ありがとう」と小さくうなずく。彼女はテーブルの上に置かれていたカラフェからグラスに透明な水を注ぐ。水と言っても、さっきと同じようにハーブか何かが入っているのか、ほんのりいい香りがする(いいねいいね!前世の水道水とは大違いだ!)。
グラスを受け取って一口含むと、喉がさわやかに潤い、少し頭がはっきりする。そろそろ情報収集を始めたいところだ。記憶喪失扱いなら、「ここはどこ?」「わたしは誰?」と聞いても不自然じゃないはず。
「あの……すみません、ちょっとお聞きしたいのですけれど、わたし、名前とか、家のこととか、よく思い出せなくて……」
恥ずかしいが仕方ない。メイドたちは表情を曇らせず、むしろ柔らかいまなざしで頷いた。若いほうのメイドが一歩進み出る。
「お嬢様、ご無理はなさらないでくださいませ。わたくしたち、何でもお答えいたします。お嬢様は、このエイヴンフォード家のお嬢様で、お名前は……」
若いメイドはわたしを安心させるように、ゆっくりと説明を始める。なんでも、ここは「グレイスフィールド領」なる小さな領地で、土着の豪族だった先祖が、当時の、今は大戦で滅んでしまった大王国の宗主権を認めることと引き換えに、正式に領有を認めて貰ったそうだ。それ以来、代々、当家が治めているのだそう。わたしはそこの領主家の一人娘らしい。
残念ながら両親は、数年前に流行病で亡くなっていて、今は侍女長が摂政のような立場で領地を管理し、わたしが正式に成人(この世界では何歳が成人なんだろう?)するまで家を支えてくれているのだという。
「お嬢様のお名前は、エリシア・エイヴンフォードでいらっしゃいます。ご両親はご逝去なさいましたが、エイヴンフォード家の代々の善政により、領民も平和に暮らしております。お嬢様は14歳で、もう少しで、一人前のお年頃です」
なるほど。エリシアか。なんか、前世の自分からすると、だいぶギャップがあるけれど、響きは悪くない。14歳なら酒は当分おあずけかもしれないが、まだまだ人生(?)はこれからだ。
「えっと、その……グレイスフィールド領は、今は平和なんですよね? 戦争とか、大きな争いごとは……?」
一応、転生モノのテンプレとして、すごい魔王がいて世界が滅びそうとか、敵国が攻めてくるとか、そういう面倒な話がないか確認しておこう。メイドは困った顔どころか、ニコニコと笑って答える。
「ええ、とても平和でございますよ。周辺領主とも良好な関係を保っていますし、ここ数年は天候にも恵まれ、領民たちも不満はありません。お嬢様がお元気になられることを、皆が心待ちにしております」
そうか、ほんわかとした小領地で、特に大問題なしの平和な状況らしい。いいじゃないか、最高かもしれない。これは、願いが通じているに違いない。この世界で「勇者」になれとか「魔王を倒せ」とか、そんなクエストはなさそうだ。そんな痛かったり怖かったりするのはまっぴらごめんだ。願った通りのんびり暮らせそうだな、と胸をなでおろす。
「それにしても、わたしが記憶をなくしたなんて、ご迷惑をおかけしてます。あの……わたし、どれくらい寝込んでいたんですか?」
これも重要情報だ。いつから熱を出していたのか、最近までの状況を知る手がかりになる。
「はい、お嬢様は、ここ数週間、熱病で意識が朦朧としておいででした。お医者様と侍女長が懸命に看病なさいましたが、ようやく今朝になって、はっきりと目をお開きになられたんです。ですから、記憶に混乱があるのも無理はございませんわ」
数週間昏睡状態って、大丈夫なのかこの体。また死んじゃうのはごめんだぞ。魔法的治療があってもおかしくないが、そこは質問を重ねると怪しまれそうなので、後々こっそり聞こう。「なるほど、ありがとう」と笑顔で返すと、メイドたちもほっとしたようだ。
「お嬢様、今日は本当に無理なさらず、もう少しお休みになっていてくださいませ。具合がよくなりましたら、お部屋の中でできる簡単な運動やお食事も再開いたしましょう。侍女長にも、この後様子をお伝えいたします」
そう言って、彼女たちは水の容器とハンカチをそっとテーブルに置き、わたしに安静を促すような笑顔を浮かべる。
「何かご入用の際は、すぐにお呼びくださいませ。わたくしたちはお嬢様のお側におりますので」
そうして二人とも静かに退出していく。ひとり残されたわたしは、エリシア・エイヴンフォードという新しい名前を頭の中で反芻する。14歳、貴族令嬢、領地は平和、侍女長が摂政を務める状況――あれ、つまり親がいないということは、前世でいう未成年後見人みたいなものがいるわけか。そういや、今はまだ「子ども」だから社会的な責任も軽いだろう。
願い通り、責任から解放されている状況だ。まだ詳しい制度やしきたりは分からないが、貴族令嬢なら基本的に守られている立場。働かなくてもいいし、領民が穏やかに暮らしているなら、やることはせいぜいお茶会や宴会(まだお酒がお預けなのが、悔しい。)とか……そんなイメージだ。前世なら考えられないスローライフが実現している。
「はぁ……こんなの、本当にいいのか?」と独り言を漏らし、苦笑する。いいんだよ、と自分で自分に言い聞かせる。せっかく転生したんだから、エリシアとして新たな人生を満喫すればいいじゃないか。
この世界では、性別と年齢はあまり選べなかったけど、強制的に働かされることはなさそうだ。むしろ、守られて面倒を見てもらえる上では、今の「設定」が好都合かもしれない。将来どうなるかは別として、とりあえずしばらくは健康体で、お金や身分もある。これは恵まれたスタートと言える。
「エリシア・エイヴンフォード……新しいわたし、か」
口に出してみると、家名は格好いいし、名前はけっこう可愛い。合わないなんて言っても仕方ない。名前ごと新しい人生として受け入れるべきだろう。もしかしたら、この名前にも由緒正しい歴史や意味があるのかもしれない。いずれ侍女長やメイドたちに聞いてみるつもりだ。
頭がまだぼんやりしているが、軽く上半身を起こしてみる。クッションが柔らかく、少し体を起こすだけで半座りの姿勢になる。ドレスなのか寝間着なのか分からないが、身にまとった白いナイトガウンのような服は肌触りが良く、チクチクした感じがない。やっぱり質がいいんだろう。これが貴族パワーか。
窓際まで行って外を見たい気もするが、まだフラフラして倒れても困る。呼べばメイドが手伝ってくれそうだが、まだ体を自由に動かす自信がない。焦って怪しまれるのも嫌だし、今日はもう素直に安静にしておこう。
そういえば、年齢14歳か。前世では30代まで生きてきたので、精神的には大人だが、この若い体は不思議なほど軽い。転生による若返り……悪くない。まぁ、酒は飲めないが、美味しいスイーツや果物を楽しむ方向でいこうじゃないか。魔法を応用した便利な道具もあるみたいだし、中世風なのに衛生環境も良さそうだし、都合がよくて最高じゃないか。
「じゃあ、そういうことで……」
小声でそう宣言し、再度横になる。シーツがふわりと脚にまとわりつくが、これもまた心地よい。
明日は、メイドたちにもう少し詳しく聞いてみよう。親族とか、この世界の簡単な常識、魔法の仕組みなんかも知っておきたい。あくまで記憶喪失設定を活かして、「あまり何も思い出せなくて……」としおらしく聞けば、きっと優しく教えてくれるはずだ。
そうやって情報を集めたら、次は少しずつ動けるようにリハビリ。散歩がてら館内を案内してもらって、部屋の配置やどんな使用人がいるかを把握する。庭園を散歩するのもいいだろう。対外的にも、しばらくは「療養中のお嬢様」で通しておけば、余計な人間関係を避けられるかもしれない。
貴族令嬢として転生したものの、大変な陰謀やミッションがなければ、これは本当に理想的なセカンドライフだ。前世で苦労したぶん、しばらくはおとなしく「箱入り娘」として贅沢な時間を過ごそう。そう思うと、ちょっと楽しい気分になってきた。
「世界を少しずつ知って、のんびりやっていけばいいよね……」
つぶやく声は、意外とすぐに自然な響きを帯びてきた。最初に違和感を感じた可愛い声にも、早くも少し慣れ始めているのかもしれない。人間、順応する生き物だ。
目を閉じると、さっきよりもはっきりとした気持ちで眠りにつくことができる。新しい名前、新しい身体、新しい世界――すべてを受け入れるのには時間が要るけど、焦らずにいこう。朝食やお茶はきっとおいしいだろうし、何より仕事のメールがない世界なんて最高じゃないか!
何もしなくても生きていける世界で、一からスタート。どうやら、不満だった「女性で子ども」という点も、よく考えれば今はデメリットではない。男性の領主だったら、政治やら責務やらで意外と忙しいかもしれないけれど、14歳の令嬢なら守られる存在でいられる。年齢は若すぎるが、その分、ゆっくり準備してから大人になる余裕がある。いろいろな文化や常識を学んでから行動しても遅くない。
「うん、やっぱり悪くない、むしろいい感じ」
暗闇の向こう側で、ほんの少し未来の自分が微笑んでいるような気がする。しばらく眠って起きたら、あの侍女長やメイドたちと話して、もっと世界を知ろう。ちょっと遠い旅行に来たと思えばいい。
そう、自分には前世で培った知識や思考力がある。何もかも依存するだけじゃなく、賢く立ち回れば、もっともっとラクで豊かな人生を築けるかもしれない。この世界には魔法があるっぽいし、使えないまでも、うまく活用すれば便利なツールになるだろう。仕事に追われていた前世と違って、今度はゆとりがある。
知らず知らずのうちに、わたしは薄く笑みを浮かべていた。幸せな気分で、ふかふかのベッドに沈み込む。静かな室内には、小鳥のさえずりが微かに聞こえ、甘いハーブ水の香りが名残を残している。こんなにも平和で優雅な朝を迎えたのは、社会人になって以来のことかもしれない。
「エリシア・エイヴンフォードとして、がんばるか……いや、がんばらないほうがいいんだよね、ラクしたいんだから。ほどほどに、ね」
そんなゆるい決意を胸に、わたしは再び、半分うとうとしながら優しい夢の世界へと沈んでいく。働かなくていい、責任も重くない、上等な住まいと、おいしいハーブ水、お世話をしてくれるメイドたち。今はそれだけで十分だ。
この先何が起こるにせよ、まずはこの幸せな安らぎを存分に味わっておこう。誰に急かされるわけでもなし、わたしは新しい人生の幕開けを、満ち足りた気分で出迎えることにした。
翌朝、といってもこちらの世界で暦や時間の概念がどうなっているのかは分からないが、とにかく再び目を覚ましたときには、室内には柔らかな朝の光が差し込んでいた。昼近くなっていたらしい昨日と比べれば、今日はだいぶ早く起きたような気がする。前世でならアラームで無理やり起こされていたが、ここにはそんな音はない。外から聞こえるのは小鳥のさえずりや、廊下を行き来するメイドたちが立てる微かな足音だけ。静かで心地よい。うーん、最高!
仰向けのまま、シーツを握りしめながら軽く伸びをする。うん、やっぱり体が軽い。昨日までは全身がだるくて何もする気が起きなかったが、今朝はだいぶマシだ。ちょっとフラフラはしそうな気もするが、立ち上がるくらいはできるかもしれない。
「……さて、そろそろ動こうかな」
小声でつぶやいてみる。14歳の女の子の声は相変わらず高く澄んでいて、毎度不思議な感覚だ。前世で男性の低い声を出していたときと比べれば、まるで別人になった気分。というか、本当に別人なんだけど。
とりあえず起き上がってみよう。枕から頭を離し、ゆっくりと上半身を起こす。目まいは……少しだけする。でも昨日より随分マシだ。足をベッドの端まで移動させ、ゆるゆるとシーツを払う。体は薄手のナイトガウンらしきものに包まれたまま。くるぶしや足先まできれいに隠れているが、少し裾を引けば足元を確かめられそうだ。
「お嬢様、もうお目覚めでございますか?」
ちょうどそのとき、控えめなノックが聞こえた。よし、ここでメイドさんに手伝ってもらえば安心だろう。わたしは「あ、はい、起きてます。どうぞ」と、相変わらず少し緊張しながら返す。扉が開き、昨日の若いメイドと、もう一人見知らぬ女性が入ってくる。相変わらず足音はほとんどしない。どうやら使用人たちは皆、足音を立てないよう徹底しているらしい。
「おはようございます、お嬢様。今朝のご様子はいかがでしょうか?」
若いメイドが優しく問いかけてくる。彼女の言葉づかいは丁寧で、声は柔らかい。読者モデルか女優さんみたいな雰囲気だ。髪は黒っぽいブラウン、薄いエプロンドレスの上に小さな白いヘッドドレス。隣に立つもう一人は、もう少し年上で、二十代半ばくらいだろうか。こちらも優しげな微笑みを浮かべている。
「ありがとう。昨日より随分いい感じです。もう立てそうな気がします」
その言葉に、彼女たちは目を細めて喜ぶ。
「それは何よりでございます。お嬢様、そろそろ軽い朝食はいかがでしょうか?まだあまり固いものは難しいかもしれませんが、やわらかなパンや果物、軽いスープなどご用意できます」
「うん、お願い。あと、少し部屋を散歩してみても平気かな?」
わたしが尋ねると、メイドたちは顔を見合わせて頷く。「はい、お部屋の中でしたら大丈夫でしょう。転びませんように、わたくしたちがそばにつきましょうか?」
ここまで至れり尽くせりか。恥ずかしいが、転んでケガするよりはマシだ。
「それじゃ、お願いしようかな」と素直に頼むと、メイドの一人がすっと近づいて腕を差し出す。おそらく、わたしに捕まらせて歩きやすくするつもりだろう。これはもうプリンセス扱いだ。
ゆっくり足を床につける。うわ、床は冷たくない。絨毯でも敷いてあるんだろうか?
(すごい!!)
柔らかな感触はないが、ひんやりするわけでもない。不思議な素材が使われているのかもしれない。
「ご無理なさらず、ゆっくり一歩ずつどうぞ」
メイドに支えられ、わたしはベッドから離れる。ぐらりと揺れるが、なんとか踏ん張れる。体が軽い分、筋力がないのかな?まだ、この体の重心にも慣れない。
まるでガラス細工みたいな自分の身体を大事に扱う。
「はぁ、意外と大丈夫かも」
数歩進んでみて、思ったより安定していると感じる。これなら庭は無理でも、部屋の中を見て回るくらい簡単だ。
「お嬢様、お身体が安定しているようで何よりです。朝食をご用意する間、こちらの椅子におかけになってお待ちくださいませ」
メイドは部屋の隅にある椅子を示す。背もたれが繊細な彫刻で飾られた椅子が、小さなテーブルとセットになって置かれている。そこまでゆっくり歩いて腰を下ろす。ふかふかのクッション入り椅子ではなく、少し硬めだが安定感がある。日常使い用の椅子かもしれない。
「ありがとうございます。そういえば、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?わたし、記憶が混乱していて……」
さすがに毎回「そこのメイドさん」と言うのも失礼だろう。記憶喪失設定をフル活用して、使用人の名前を把握しよう。
「はい、お嬢様。わたくしはマリエと申します。こちらはセシルでございます。お二人とも、お嬢様の身の回りのお世話をさせていただいております」
マリエと名乗った若いメイドが、にこりと微笑む。セシルというもう一人のメイドもうなずいて会釈した。マリエは話し方が柔らかく、聞きやすい声で、セシルは少し控えめで口数が少なそうな印象だ。
「マリエさん、セシルさん、ありがとうございます。お二人にお世話になることが多いかもしれませんが、よろしくお願いします」
こういうのは、印象が大事だ。なるべく、丁寧な言葉を遣おう。
「はい、お嬢様。もちろんでございます。お気になさらず、なんでもお申し付けくださいませ」
マリエの返答は完璧だ。使用人という立場上かもしれないが、なかなかプロフェッショナルな感じだ。セシルも笑顔で頷いている。
すると、マリエが「朝食をお持ちいたしますので、少々お待ちを」と告げて部屋を出て行く。セシルはここに残って、わたしの近くに控えている。なにか話しかけたほうがいいかな。どうせなら、この世界の常識について少しずつ聞いてみよう。
「あの、セシルさん、すこし伺いたいことがあるんですけれど……」
セシルは首をかしげて、優しい目でわたしを見る。「はい、なんでもお聞きください、お嬢様」
「私、この世界の……というか、この国について、あまり思い出せないんです。領地がグレイスフィールド領って聞いたけれど、この国全体は何て名前なんでしょう? それに、貴族は他にもたくさんいらっしゃるの?」
記憶喪失設定を使えば、こんな基本的な質問も不自然じゃない。
「ええと、お嬢様がお暮らしのこの地は、かつては、アルセイディア王国という、大きな王国の支配下でしたが、いまは小さな諸領主が緩やかにまとまっている状態です。そのときの名残で、『アルセイディア地方』と呼ばれています。アルセイディア地方には、グレイスフィールドのような小領地がいくつもあって、領主たちがそれぞれの領地を治め、基本的に平和にやり取りをしているのです」
なるほど、統一王国はもうなく、群雄割拠だけど平和な時代、という感じか。戦乱がないならありがたい。戦争とかはごめんだ。
「他の領主たちとも交流があるの?」
セシルは少し考えてから答える。「はい、年に数回、領主同士や、その家族が集まる小さな会合があります。ですので、お嬢様もいずれは、そういう集まりに顔を出されることになるかもしれません。ですが、今はまだご療養中ですから、焦らずにいらしてください。領主家同士は、ほとんどが平和的な関係にございます」
なんか、いわゆる「社交界」?みたいなものなのかな。いずれデビューするんだな。今は14歳だから、あと何年かすれば振袖代わりのドレスを着てパーティーに出ることになるのだろう。そういう趣味はないし、恥ずかしいし、できれば遠慮したいが、苦労にまみれた前世より華やかでマシだろう。
「わかりました。ありがとう、セシルさん。ゆっくりでいいから、この世界のこと、もう少しずつ思い出させて欲しいの」
『この世界』といって、私は、ちょっと口を滑らせたかも、と思った。だが、セシルは気にすることもなく、こう言った。
「はい、お嬢様。わたくしどもはいつでもお手伝いいたします」
笑顔を交わしたところで、タイミングよくマリエが戻ってきた。手には小さな丸いパンが2つ、甘いジャムか蜜が入った瓶、刻んだ果物が入った小さなボウル、そして薄いスープが並ぶトレーを持っている。その横には白いナプキンや銀のスプーンも。
「お嬢様、お待たせいたしました。こちらが本日の朝食でございます。まだ胃に負担がかからないよう、柔らかく消化に良いものを選んでおります」
マリエがテーブルにトレーを置き、セシルがサッとそれを整えて、わたしの前にスプーンとナプキンを用意してくれる。なんだこの優雅な流れ作業。完全に高級レストランじゃないか。接待でいったことを思い出す。
「ありがとうございます。とっても美味しそう」
わたしがそう言うと、二人とも嬉しそうに微笑んだ。パンはふわっとしていて、ジャムをつけてかじるとほんのり甘い。果物は、ブドウに似ているけれど、少し花のような香りがして面白い。スープはポタージュ風で、舌ざわりがなめらか。うまい、うますぎる。前世で朝食カップ麺とか食べてた自分がバカみたいだ。
「これは、とても美味しいです。ありがとう、マリエさん、セシルさん」
「お口に合いましたら幸いでございます、お嬢様」
メイドたちは穏やかに頭を下げる。こういうやりとりが毎朝続くのかな。なんという幸せだ。
朝食をゆっくり味わい、腹が満たされると、じわじわと実感が湧いてくる。この世界で貴族令嬢として生きることがどれほど恵まれているか。前世では、朝からメールのチェック、たまりにたまったタスクの処理、クライアントと後輩とが揉めに揉めて炎上している案件の処理に追われていたが、今はこんなにゆったりと朝を迎えられる。
「ところで、お嬢様、本日はお部屋の中で軽く歩いていただいたり、髪を整えたりする程度なら問題なさそうですね。鏡をお持ちいたしましょうか?」
マリエが提案してくる。そうだ、そういえばまだ自分の顔を見ていなかった。一昨日までは怖くて見られなかったが、ここまで回復して落ち着いたなら、そろそろ自分の容姿を知っておくべきかも。
「あ、はい、お願いします。まだ、記憶が曖昧で、自分がどんな顔かも……」
「承知いたしました」
マリエが部屋の隅へ移動し、扉を開けて誰かに声をかける。すると、小さな姿見鏡を持った下働きらしきメイドが入ってきて、部屋の明るい場所に鏡を設置してくれた。鏡は縁が金色で細やかな彫刻があり、これまたゴージャスだ。
「どうぞ、お嬢様、ご無理のない範囲でご覧くださいませ」
セシルが優しく誘導してくれる。恐る恐る鏡に近づくと、そこに映ったのは……10代半ばくらいの少女がいた。少し緑がかった黒髪は腰まで届く長さで、光が当たると深い森の中の水面みたいに艶やかに不思議に輝く。肌は白くてきめ細やか、頬はほんのり桜色。目元は……大きく、長いまつげで縁取られ、薄い緑みがかった瞳がこちらを見返している。
「わ……すごく、綺麗」
思わず本音が出た。自画自賛だが、こんな美少女が自分なのか?ちょっと信じがたいが、確かに鏡の中の少女がわたしの動きとシンクロしている。髪をなびかせれば、鏡の中の彼女(自分)が同じ動きをする。
「お嬢様、本来のお姿を、少しずつでも思い出せそうでしょうか?」
マリエが気遣う声をかける。記憶喪失設定上、「こんなに綺麗だったっけ?」という反応は当然かもしれない。
「うん、なんとなく、こんな髪色だったような気もする……」と適当に合わせておく。前世では染めてもいない限り、こんな色は見たことがない。初めて見る色だけど、何事も嘘も方便、というか設定を維持するのに嘘は必須だ。
「お嬢様の髪はこの地方でも珍しい色で、皆誇りに思っております。お母上譲りと言われておりました」
お母上譲りか。親から受け継いだ特徴かと思うと、少し胸が痛む。両親はもう亡くなっているから、その面影が自分に宿っているわけだ。知らない人だけど、ちょっと寂しい気分になる。
「そう……お母さまの、ね」
寂しげにつぶやくと、メイドたちは少し心配そうな目をする。ヤバい、しんみりしちゃった。ここは話題を変えよう。
「えっと、それにしても、このお部屋の中って快適ですよね。魔法で何か仕掛けがあるんですか?」
魔法の話なら、彼女たちも説明しやすいだろう。案の定、マリエはパッと表情が明るくなる。
「はい。グレイスフィールド領では、少しですが、『魔晶石』の産地としても知られておりまして、暖房や照明には、この『魔晶石』が使われています。それで、寒くも暑くもならないように調節できるんです。お嬢様のお部屋には特別上質なものをはめ込んだ暖炉型の装置があり、常に快適な温度と湿度を保っているんですよ」
マリエは、まるで自分の手柄のように、誇らしく語った。
なるほど、やはり、便利な魔法で動く生活用品が普及している世界か。SFじゃなかったが、魔法文明で快適な室内環境を実現しているのなら十分すぎる。これなら季節に左右されず過ごせる。
「そんなに便利だったんだ……すごい」
素直に感心すると、セシルが補足してくれる。「照明用の魔晶石や、湯沸かし用のものなどもございます。お嬢様がお手を煩わせる必要はありませんが、これらは、領内の者もつかっております。」
楽に暮らしたい。まさに願い通りだ。
「あと、その……わたし、お屋敷の中を歩き回るにはまだ自信がないけど、この領地にはどんな場所があるんでしょう? 外には、広い庭園や畑なんかもあるのかな?」
興味津々といった態度で聞くと、メイドたちは嬉しそうに頷く。
「ええ、グレイスフィールド領は穏やかな気候で、庭園にはさまざまな花が咲いています。温室もあり、一年中果物や花を育てることができます。畑や水車小屋、林檎園などもあり、領民たちは穏やかに暮らしております。いずれ、お嬢様の体調が回復されましたら、侍女長のお許しを得て、庭園を散策されるのもよろしいかと」
うわ、楽園めいてる。畑や林檎園まである。平和そのものじゃないか。
「そうなんだ……いいですね。ゆっくり見て回ってみたいな」
そう答えながら、心の中でガッツポーズ。これで決まりだ。ここは完全にスローライフを送るにはベストな環境じゃないか。敵対勢力なし、魔王なし、常夏リゾートじゃないけど、温室で一年中果物が食べられるならリゾートみたいなものだろう。
しばらくメイドたちと雑談を続け、どのくらいの人がこの屋敷で働いているのか、侍女長以外にどんな家臣がいるのか、当たり障りのない範囲で質問してみた。記憶喪失という設定もあって、彼女たちは特に疑うこともなく答えてくれる。どうやら、侍女長が摂政として当家を管理し、お屋敷には数十人規模の使用人がいて、それぞれが役割分担して領地を管理しているらしい。
侍女長は、まとめ役で、前の領主、つまり両親が亡くなって、領主の地位を相続した私が療養中なので、政治や領民の対応も代行しているとのこと。侍女長は領主家に仕える家柄らしく、長年忠誠を尽くしてくれているとか。まさに頼れる後見人的な存在だ。
こういう後見人、他人の財産を管理する立場だと、横領であるとか、無駄遣いが不安になるところだが、今のところ、侍女長にそういうことはないみたいだ。少なくとも、今のところは。
「お嬢様、そろそろお疲れではございませんか? 無理なさらず、お休みいただいてもよろしいですよ」
マリエが気遣う声をかける。そういえば、情報収集に集中していて、ちょっと疲れが出てきた。まだ体力が完全には戻っていないのだろう。
「そうね……少し横になろうかな。また後で起きたら、少しずつ、わたしの部屋にある物を見せてもらえる?」
記憶喪失設定だから、どんな宝石箱や衣服があるのか見ても不自然じゃない。メイドたちは「もちろんでございます」と微笑んだ。
「では、わたくしたちは一度失礼いたします。お嬢様がお呼びでしたら、いつでもご用命を」
そう言って二人は退室する。扉が閉まり、再び静寂。わたしはゆっくりベッドに戻って横になる。体温が落ち着いて、柔らかなシーツに包まれると、本当にここが異世界だなんて信じられないほど穏やかだ。
「ふぅ……最高かよ」
小声で独り言を言ってみる。誰も聞いてないはず。前世で疲れ果てていた頃、どれだけ休みたかったか。今、こうして全てを投げ出した後に、新しい人生を始めたのだから、存分に満喫すべきだ。
もちろん、これから何があるか分からない。もしかすると後から問題が出てくる可能性もある。でも、少なくとも今はスローライフへの道が開けている。心配しすぎても仕方ない。メイドたちは信頼できそうだし、侍女長も悪い人には思えない。領地も平和というし、魔王も戦争もなし。
「よし、もうちょっと休んで、午後くらいになったら、屋敷の中とか、いろいろ見せて貰おう」
ゆっくり瞼を閉じる。ここに来てから、ずっと落ち着いた気分が続いている。ストレスフリーな生活って、こんなに素晴らしいんだなと改めて実感。生きててよかった、いや、死んで生まれ変わってよかったのか。
「エリシア・エイヴンフォード、自由で豊かなスローライフ計画、始動……ってね」
軽く笑って、シーツを引き寄せる。甘い香りのハーブ水の余韻がまだ鼻腔に残っている。鳥の声、ほのかな魔晶石の光、くぐもった静けさ。最高の環境だ。こうしていると、本当に日々が楽しくなりそうな予感がする。
さぁ、この第2の人生、今日は朝食を食べ、鏡で顔を見て、少し情報を仕入れたところまで。次はどんな贅沢な発見があるのか、わくわくしながら微睡みに落ちていく。
外では風が草木を揺らし、メイドたちはお嬢様のために昼食やお茶の準備を進めていることだろう。わたしはその庇護下で、ゆっくり時間を使って、自分らしい生き方を模索していく。焦らず、無理せず、ほんの少しずつ。
新しい一日が、こうして静かに、豊かに紡がれていく。今はそれだけで、充分幸せだ。