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昼食を終えると、家族でドライヴに出かけることになった。
港へ向かう翼艇をおりると、停泊場の片隅に、ベージュ・ゴールドのアンティーク車が輝いていた。
陽を反射して金色に煌めく車体に、シドニーの青い瞳が興奮に輝いた。
「母様、僕が運転しても良いですか?」
「ダメよ」
「操縦は履修済です!」
「どうやって? 運転免許は十六歳からでしょう?」
「独学ですが、どうということはありません」
小さな胸を張り、凛々しく断言するその姿があまりに可笑しくて、家族の笑い声が弾けた。
しかし母はあっさりと切り返す。
「あるわよ、あなたまだ八歳でしょう? シルヴァニールの敷地内なら練習してもいいけれど、今日は我慢なさい」
がっかりする弟の頭を、エミリオが指先でくしゃりと撫でた。
「そのうち機会があるさ。僕だって、まだ免許は取っていないんだぞ」
運転は、義父自ら務めることになった。
家族五人がちょうど乗りこめる車の後部座席に、エミリオ、エイミー、シドニーの順で並んだ。
狭いので、ふとした拍子に隣のエミリオと肘や膝がぶつかる。ほんのわずかな接触でも、エイミーの胸はその都度ざわついた。
(私ってば本当、意識しすぎなんだから……)
ささやかな感触に、いちいち全身で反応してしまう。触れあうたびにこうなるわけではないと信じたい。
自分を叱咤して、視線をそっと前方へ向けた。
「お義父さまの運転、初めて見ます」
バックミラー越しに、紫水晶のような瞳とふっと遭う。
「お義父さま、かっこいいです」
「ありがとう」
義父がくすりと笑った。その一瞬、胸の奥に温かな光がさした。
昔は、義父のことがただ恐ろしかった。冷たく、遠い存在だったけれど……今は、娘として大切にされていると心から感じられる。嬉しい変化だ。
「……僕も十六歳になったら、運転できるようになるよ」
ぽつりと呟いたエミリオの声に、思考を遮られた。
きょとんとしたエイミーだが、意味を測りかねながらも、反射的にほほえんだ。
「そうですね。お義兄さまが免許を取得したら、ドライブに連れていってほしいわ」
エミリオは少し照れたように、けれど優しく笑った。
「いいよ」
その短い言葉が、夏の風に融けていく。
──本当に、風に。シドニーが勢いよく窓を開け放ったのだ。
「シドニー! 危ないからダメよ。閉めてちょうだい」
母の叱声に、弟はしょんぼりと窓から顔を引っこめた。
けれど、外を見たいその気持ちはよく分かる。
「少し我慢しましょうね」
艶やかな弟の黒髪を撫でながら、エイミーは窓の外に目を向けた。
果てなく広がる群青の海と空。
柔らかな弧を描く水平線は、まるで銀砂をまぶしたように、きらきらと光を躍らせている。
崖沿いの道路はどこまでも続き、家々と樹々のあいだを檸檬の香が仄かに漂う。
──窓を全開にして、頬に風を感じたい。
そう思うが、ここは世界的な観光地。交通量はそれなりに多く、海岸沿いの細道では浮遊単駆動車が隙間を縫うように走り抜ける。
不用意に顔を突きだせば、事故が起こらないとも限らない。
おとなしく座席に身を収め、流れる風景を目で楽しみながら、車は目的地へと滑りこんでいった。
このあたりの地形は北西へとゆるやかな曲線を描き、その突端には蒼の岬がある。
車をおりると、丘は驚くほど青く、現実離れして見えた。
景観は美しいが、崖は脆く滑りやすい。端には立入禁止のロープが張られていた。
「わぁ~、いい眺め」
崖に設置された岩のバルコニーから身を乗りだし、エイミーは感嘆の声をあげた。
「高いところが好きだね」
隣に並んだエミリオが、からかうようにいった。
実に見晴らしのよい場所で、ライム海岸の壮麗な美しさをパノラマで堪能できる。
「私、何時間でもここにいられるわ」
そういうと、エミリオはふっと口元を和らげた。
「風が気持ちいいね」
頬を撫でる風は、海の香と夏の記憶を運んでくる。
やがてシドニーも駆け寄ってきて、石段の出っぱりに立ち、同じ海を望んだ。
青い空と青い海が融けあい、陽の降りそそぐ岬には、夏のすべてが息づいていた。
「寒くない?」
隣でエミリオが静かに問う。
「平気よ」
エイミーは目を開け、笑って答えた。
確かに断崖から吹きあげてくる風は冷たいが、真っすぐ炎天の陽射しが降り注ぐので、ちょうどいいくらいだ。
隣で、シドニーが一点をじっと見つめて動かないので、エイミーは声をかけた。
「いい景色ね」
するとシドニーは、おずおずと岩壁を指さした。
「いえ、景色ではなく……あそこにいる蒼玻璃虫を見ていました」
「……大きいわね。お義母さまには教えちゃダメよ」
翅が青硝子のように透きとおっていて綺麗だが、義母は生きた虫全般が苦手なのだ。
「ごめんなさい、黙っています。海崖や断崖の岩肌に棲む、珍しい虫なので……つい」
シドニーは申し訳なさそうに笑った。
このような会話が囁かれているとは露知らず、義母は優雅に裾を翻し、義父と腕を組んで、青い丘を歩いている。
「お前、虫より海を見ろよ」
呆れたようにいいながらも、エミリオの視線も同じ場所に釘づけになっている。
なんとなく、エイミーは岩壁から手を離した。
「岩肌に完全に同化しているのね。よく気がついたわね」
感想をくちにすると、シドニーは嬉しそうに笑った。
いまだ性が分化しきっていない、少女のように愛らしい顔立ちで。
天使の笑顔につりこまれそうになるが、なんだか微妙な気持ちになるエイミーだった。
帰りは別のルートをとり、港へ戻ることにした。
日が傾きはじめ、金色の陽光が波間にこぼれて散っている。
行きとは違い、帰りの車内は静かだった。シドニーはもう眠ってしまいそうだ。船を漕ぐ弟の頭を自分の肩に預けながら、エイミーはぼんやりと窓の向こうの海を眺めていた。
岩窟邸に着く頃には、空は茜から紫紺のグラデーションに染まり、星が瞬きはじめていた。
昼間は気づかなかったが、夜になると潮が満ち、桟橋の傍の岩肌がすっかり隠れていた。
満潮と干潮の差が、この海は大きいのだろう。
晩餐まで、まだ少し時間がある。
エイミーとシドニーは、エミリオに誘われて波音の庵で寛ぐことにした。
ここは天然の岩窟をくりぬいた小さな入江で、海風が優しく通り抜け、寝椅子が並べられている。
シドニーは横になった途端に、目を閉じてしまった。小さな寝息をたてて夢のなかだ。今日一日、はしゃぎ疲れたのだろう。
エイミーも隣で微睡みかけていたが、エミリオが膝掛をそっとかけてくれたのに気づき、薄く目を開けた。
「目を閉じていていいよ」
「ありがとう……波の音を聴いていると、眠くなるわね。癒されるわ」
「僕も、この庵が好きなんだ」
その声に、懐かしむような響きが含まれていて、エイミーも彼の幼い頃に思いを馳せた。
――九年前。
エイミーの誤射で銃創を負ったエミリオは、療養のために、ライム海岸でひと夏を過ごした。
当時は、岩窟邸とは知らなかったが……きっと小さなエミリオも、この庵で癒されたのだろう。
長い脚が視界の端に映り、エイミーは無意識に、そっと大腿に掌を押し当てた。
「っ、エイミー?」
慄く声に、はっとして手を離す。
「ごめんなさい、ただ……思いだしちゃって」
彼も同じ記憶を呼び覚ましたのだろう。ふと優しい表情になって、エイミーの髪を撫でた。
「とっくに治っているよ」
「……うん」
指先の温もりが心に沁みた。
もっと近づきたくて、エイミーは躰を起こし、彼の肩にもたれかかる。
エミリオは何もいわず、膝掛をもう一度整えてくれた。
波が揺り籠のように打ち寄せ、遠い子守唄のように響く。
とろとろと眠気がやってきて、このまま夢に落ちていけたら……と思ったところで、晩餐の時間になった。
半分眠りながらテラスに向かったエイミーとシドニーだが、着席する頃には目を輝かせていた。
夜のテラスは、昼とはまた違った魅力に満ち溢れていた。
鉤爪脚がついた丸卓に、庭で摘んだ花のアレンジメントが飾られている。
蝋燭の火が、白い花弁と食器を照らし、柔らかく揺れる光が夜を装う。
眺めもいい。
入江は幽かに光を帯び、まるで水底から月光が輝いているように見える。
昼間は気づかなかったが、テラスの柱に雨樋の怪物が設置されていて、探索するように眼孔が青く光り、あちこちに光芒を投げかけていた。
「さあ、乾杯しましょう」
義母の言葉に、エイミーはテーブルに視線を戻した。
「明日はエイミーの十四歳の誕生日ね。おめでとう、エイミー。あなたが健やかに、優しく、美しく育ってくれて嬉しいわ。乾杯」
「「乾杯」」
グラスを掲げ、笑顔を交わす。
「おめでとう、エイミー」「姉様、おめでとうございます」「おめでとう」「おめでとうございます、お嬢様」
家族も、執事も、マイヤ夫人も、給仕たちまでもが拍手を送ってくれた。
祝福を浴びて、エイミーはちょっと照れくさかったが、嬉しかった。
「ありがとう、皆。岩窟邸にこられて、お祝いまでしてもらえて、とっても嬉しいわ」
グラスの林檎ジュースが、今夜は格別に美味しく感じられる。こういう時、ほんの少しアルコールが恋しくなるが、まだ子供の舌ではきっと判らないだろう。
晩餐は港町らしい海産メニューで、香草と馬鈴薯のシチューに、鱒の炭火焼が饗された。
どれもすこぶる美味で、幸福が胸いっぱいに広がる。
食後のデザートは、ケーキの形をしたアイスクリームで、おかわりしたいほど美味しかった。
温かい紅茶を手にしていると、義母が柔らかな声でいった。
「明日は港町を散策しましょうか」
「賛成! 翼船から眺めていた時から、歩いてみたいと思っていたの。楽しみだわ」
「あなたの誕生日だし、気に入ったものが見つかれば、なんでも好きに買うといいわ。もちろん、公爵家の支払いでね」
ふふふ、とオリヴィアは笑う。
「ありがとう、お義母さま、お義父さまも」
穏やかな空気が流れる。
旅の一日を締めくくる、素敵な晩餐だった。
部屋へ戻ると、心地よい疲労が全身を包みこんだ。
本当は岩窟邸のプールや湯苑にもいってみたかったが、今夜はもう、体力が尽きてしまった。
しかし、この洞のような寝室で眠るのも、密かな楽しみだった。
室内に浅く澄んだ流れがあり、寝台の傍に滝の帳がかかっているのだから。
岩肌をつたう水の音が絶え間なく響き、空気そのものがやわらかに潤っている。
部屋というより屋外に感じられるが、光沙膜の偏光障壁に守られているので、害虫や黴の心配はない。
部屋に備えられたジャグジーも最高だった。
メイドのサアラの手を借りて湯に身を沈めると、躰の芯からゆっくりと溶けていくようだった。
湯気の向こうに、水面の揺光が壁をなぞり、銀の波紋が天井で踊っている。
十分に寛いだあと、エイミーはのろのろと寝台に横たわった。
「それではお嬢様、お休みなさいませ」
退出しようとするサアラを、エイミーは呼び止めた。
「ねぇ、サアラ。貴方たちも、お休みはあるわよね?」
サアラはにっこりとほほえんだ。
「ええ、ございますよ」
「せっかくライム海岸に来ているんだもの。皆にも楽しんでほしいわ」
「お心遣いありがとうございます、お嬢様。私も次の休日は港町にいこうと思っているんですよ。明日の散策で素敵なところを見つけたら、ぜひ教えてくださいね」
「いいわ、任せて」
寝台のなかで、エイミーは小さく拳を握った。
「ふふ、ありがとうございます……お休みなさい、お嬢様」
「お休み、サアラ」
扉が静かに閉じられると、部屋は森となった。
滝の帳が音もなく降り、岩壁に反射した淡い水の光が、夢の残滓のように、ゆらゆらと天蓋を照らしている。
足もとでは、小さな流れが透明な糸を紡ぎ、そのうえを星明りが静かに渡っていく。
遠くでは、波が寄せては返し、どこかで海鳥がひと声、短く啼いた。
ふと、翼船から眺めた、セレイヴの群れを思いだした。
知らず、口元が笑みに和らぐ。
自然の旋律が夜を包み、その調べがまるで子守唄のように感じられる。
水底に沈みゆくような心地で、エイミーはやがて、穏やかな眠りに就いた。




