29
また、夏がきた。
八月──エイミーの十四歳の誕生日は、美しいライム海岸の別荘で祝うこととなった。
今は亡き祖父母がこよなく愛した静謐の避暑地であり、ふたりは夏がくるたび、光と海風に包まれたひと月を、そこで穏やかに過ごしたという。
「久しぶりにいきたいわ。ライム海岸の夏は、それはもう楽園よ。シドニーも大きくなったし、家族旅行にはぴったりでしょう」
という母の言葉で、十日間の家族旅行は決まった。
翔環を使えば一瞬で着くが、今回はあえて公爵家の翼船で向かうことになった。
七月最後の日、朝。快晴。
船はすでにシルヴァニール邸の庭に降り、地面から僅かに浮いたまま、静かに待機していた。
全ての帆は畳まれ、船体は白銀の光を纏いながら、朝風を受けて金糸の紋章旗を揺らしている。
その光景だけでも胸が高鳴るが、これからが本当の旅の始まりだ。
エイミー達は階段をのぼり、甲板へと足を踏み入れた。途端に、足裏に淡い震動が伝わってきて、思わず笑みがこぼれる。
やがて、推進環が低く唸りをあげ、魔力の気流が船底を包みこんだ。
巻揚げ機が動きだし、錨が静かに巻きあげられ、鎖が光を散らす。
船体はゆるやかに、蒼天へと上昇を始めた。
芝生や花弁が舞いあがり、陽光がその軌跡を照らす。風圧に裾を押さえながら手を振る使用人たち。
帆が解かれ、光を孕んで翻る。櫂のような翼が羽ばたくと、エイミーの胸はときめきで満たされた。
「翼があるのね! 空を泳いでいるみたい」
「……夢を壊すようだけど、翼は装飾だよ。実際は深淵光を燃料にして、魔導浮力で進むんだ」
そう解説するエミリオの声も、どこか楽しげだ。
「懐古主義ね。翼船なんて初めてだわ。空飛ぶ船って浪漫ね……夢みたい」
「帆をはらんで、羽ばたいて、まるで宝船ですね!」
無邪気な弟の声に、エイミーとエミリオは思わず笑みをこぼした。
翼船は青空を優雅に進み、風が頬を打つ。白い雲が手を伸ばせば届きそうなほど近い。
流れゆく眼下の光景に夢中になっていると、背後から柔らかな声がかかった。
「私たちはロビーにいくけど、あなたたちはここにいる?」
義母の言葉に、三人はそろって頷いた。
「リオ、ふたりをお願いね」
「はい、母上」
エミリオが素直に答えると、義母は満足げにほほえみ、差しだされた義父の腕に手をからませて昇降階段へと向かった。
最上甲板はがらんとしている。
数人の乗組員と護衛がいるだけ。公爵家の私有船なので、他の乗客はいない。
空の旅は、それはもう格別だった。
翼の羽ばたきが空気を震わせ、果てしない紺碧の空が視界いっぱいに広がる。
あまりの美しさに、誰もその場を離れようとはしなかった。
ラドガ湖の上空をあっという間に飛び越え、深い森が遠ざかる。なだらかな丘陵が波のように連なり、それも越えると、世界は一面の青に変わった。
──海だ。
陽を映す海面が、無数の鏡のように煌めいている。
どこまでも続く水平線が、世界のかたちを教えてくれる。ゆるやかに丸い曲線が愛おしくて、懐かしい、もうひとつの地球。
風にあおられる薄地のモスリンの裾を、エイミーは手で押さえた。今日はバカンスらしい装いで、裾の長いワンピースに青い飾り帯を巻いて、髪を左右に編みこみリボンで結っている。七歳の誕生日にエミリオから贈られたリボンを、エイミーは今でも大事にしていた。
「これを腰に巻いておくといいよ」
エミリオは、やわらかい麻のジャケットをさしだした。風で広がるスカートが気になったらしい。
「ありがとう」
エイミーは笑顔で受け取り、腰に巻きつけた。
「水平線って、なんで見ているだけでわくわくするんだろう? 私、何時間でも見ていられるわ」
隣でエミリオが、ふっと微笑した。
「景色が変わらないと、さすがに飽きない?」
「いいえ、風が気持ちいいわ……」
心地良い静寂と美しさに浸っていると、シドニーが、あっと声をあげた。
「姉様、セレイヴの群れですよ!」
瑠璃色の鳥の群れを指さし、シドニーは碧い瞳を煌めかせた。
エイミーが並列化水晶で検索するよりも早く、シドニーは携帯水晶を掲げ、鳥たちの姿を映しだした。
「渡り鳥なのね」
「はい、彼らは一生を賭して、命がけで、一万海里もの空を飛び越えるんです」
「きっと過酷な旅でしょうけど、こんなに素晴らしい景色を見ながら翔べるのは、少し羨ましい気もするわね」
セレイヴの群れは、瑠璃色の羽を真っすぐに広げ、風に乗って滑空している。
整然と隊伍を組み、これから何海里もの空を、遮二無二に渡っていくのだろう。
そんな鳥たちを眺めていると、再びシドニーが声をあげた。
「姉様! 鯨ですっ」
「どこどこっ!?」
エイミーは思わず大きく身を乗りだした。
「危ないよ、エイミー」
背後から伸びたエミリオの腕が、そっと肩を押さえる。
それに気づかぬまま、エイミーは夢中で蒼海を凝視した。
碧い大洋に巨影が浮かび、轟くような吐息とともに、白い飛沫が高く噴きあがる。
「すごーい! 鯨だ~!」
「あれは聖寵の鯨です。見る者に幸運をもたらすといわれています」
「ついてるわね! 初めて本物の鯨を見たわ」
エイミーは嬉しそうに笑った。
「この辺りは、大型の海獣が多いんです。海王鮫は知っていますか?」
シドニーに訊かれて、エイミーは頸を振る。
「海王鮫は全長二〇メートルを超える個体もいて、背には硬い甲殻鱗があって、刃物でも簡単には切れないんです。獲物を追うときは時速六〇キロ以上で突進して、氷面ごと割ってしまうこともあるんですよ」
小さな生物学者よろしく、シドニーは人差し指をぴっと立てて熱心に語った。
エイミーは博識な弟に感心しながら、並列化水晶で検索をかけた。
「へぇ……鯨と同じで、群れで行動するのね」
「はい、時には協力して獲物を追いつめるんです。昔の船乗りたちは“海の悪魔”と呼んで怖れていたそうですが、今では保護対象です。残念ながら、激減してしまったんですよ」
「そうなのね……」
エイミーは碧い海を見つめながら相槌を打った。
その時ふと、エミリオがすぐ近くにいることに気がついた。後ろから伸ばされた両腕が、自分を包みこむようにして、強化硝子の船縁を掴んでいる。
(……腕のなかに、閉じこめられているみたい)
そう意識した途端、全身の血が勢いよく駆け巡り始めた。
鯨を見ているふりをしながら、エミリオのことを考えてしまう。肘までまくりあげたシャツの袖口から、以前よりたくましくなった腕が覗いていて、真珠色の肌を、つーっと指で撫でてみたい……なんて、全く頭がどうかしている。
もうすぐ、彼は十六歳になる。
今年に入ってから二度も義父の任務に同行し、数年前に冥災を起こした海上要塞、蒼の塔の視察任務に至っては単独で赴いている。
仮想空間で作戦会議に参加している様子を見たこともあるが、本当に大人のようだった。
彼の成長を、誰よりも近くで見てきた。
恋心を自覚してからというもの、平常心を保つことが難しくなっている。
(なんでこんなにいい匂いがするの? 私ったら、意識し過ぎなのよ……でも止められない……)
去年のエミリオの誕生日に、頬にキスをした。あの時、エミリオの好感度はついに80%を越えた。
きっと、もう家族の愛情だけではない。
最近では、エイミーを呼ぶ声に甘さが含まれるようになり、微笑の奥には熱が潜むようになった。
そしてエイミーもまた、彼を義兄としてではなく、一人の男性として想わずにいられなくなった。
名前を呼ばれるだけで胸の奥が甘く疼く。微笑の裏に潜む熱を感じるたび、理性が崩れそうになる。
──もしかしたら、両想いかもしれない。
なんて、最初は夢のように舞いあがった。
……けれど、前世の笑美が経験した、苦すぎる失恋が脳裏を掠めると、浮かれた気持ちは元気をなくした。
たとえ想いが通じたとしても、その幸せが永遠に続く保証はない。
現実的に考えれば、いつか、この恋も終わる……
エイミーはまだ十四歳で、公爵家に庇護される身だ。
彼の気持ちが冷めてしまった時、元の関係には戻れない。同じ屋根のしたで暮らせなくなる。エイミーのせいで、彼が再び公爵家を去るようなことだけは、絶対に避けなければならない。
今度こそ、エイミーがでていく番だ。
幸い、自立できるだけの資産はある。両親さえ説得できれば、いつでもひとり暮らしを始められる。
その覚悟で、いっそこの想いを打ち明けてしまえたら──何度思ったか知れない。
──怖いのだ。
いつか終わる恋よりも、このまま家族として、義妹として傍にいられる方が幸せなんじゃないかと思ってしまう。
十四歳の少女らしく恋に夢中になるには、エイミーは早熟で、理性的すぎた。無邪気さや衝動に身を任せて、すべてを壊す勇気をもてなかった。
理性的なのは、エミリオも同じだ。
彼もこの恋の危うさを理解しているから、好感度があがっても、想いを言葉にしようとはしないのだ。
エイミーは養子で、混血種で、義妹だから──躊躇するのも無理はない。
この恋は、前途多難だった。




