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 また、夏がきた。

 八月──エイミーの十四歳の誕生日は、美しいライム海岸の別荘で祝うこととなった。

 今は亡き祖父母がこよなく愛した静謐(せいひつ)の避暑地であり、ふたりは夏がくるたび、光と海風に包まれたひと月を、そこで穏やかに過ごしたという。

「久しぶりにいきたいわ。ライム海岸の夏は、それはもう楽園よ。シドニーも大きくなったし、家族旅行にはぴったりでしょう」

 という母の言葉で、十日間の家族旅行は決まった。

 翔環(ポータル)を使えば一瞬で着くが、今回はあえて公爵家の翼船(よくせん)で向かうことになった。

 七月最後の日、朝。快晴。

 船はすでにシルヴァニール邸の庭に降り、地面から僅かに浮いたまま、静かに待機していた。

 全ての帆は畳まれ、船体は白銀の光を(まと)いながら、朝風を受けて金糸の紋章旗(もんしょうき)を揺らしている。

 その光景だけでも胸が高鳴るが、これからが本当の旅の始まりだ。

 エイミー達は階段をのぼり、甲板(かんぱん)へと足を踏み入れた。途端に、足裏に淡い震動が伝わってきて、思わず笑みがこぼれる。

 やがて、推進環(すいしんかん)が低く唸りをあげ、魔力の気流が船底を包みこんだ。

 巻揚げ機(キャプスタン)が動きだし、(いかり)が静かに巻きあげられ、鎖が光を散らす。

 船体はゆるやかに、蒼天へと上昇を始めた。

 芝生や花弁が舞いあがり、陽光がその軌跡を照らす。風圧に裾を押さえながら手を振る使用人たち。

 帆が解かれ、光を孕んで(ひるがえ)る。(かい)のような翼が羽ばたくと、エイミーの胸はときめきで満たされた。

「翼があるのね! 空を泳いでいるみたい」

「……夢を壊すようだけど、翼は装飾だよ。実際は深淵光(アビサル・フレア)を燃料にして、魔導浮力で進むんだ」

 そう解説するエミリオの声も、どこか楽しげだ。

懐古主義(ノスタルジー)ね。翼船(よくせん)なんて初めてだわ。空飛ぶ船って浪漫ね……夢みたい」

「帆をはらんで、羽ばたいて、まるで宝船ですね!」

 無邪気な弟の声に、エイミーとエミリオは思わず笑みをこぼした。

 翼船(よくせん)は青空を優雅に進み、風が頬を打つ。白い雲が手を伸ばせば届きそうなほど近い。

 流れゆく眼下の光景に夢中になっていると、背後から柔らかな声がかかった。

「私たちはロビーにいくけど、あなたたちはここにいる?」

 義母の言葉に、三人はそろって頷いた。

「リオ、ふたりをお願いね」

「はい、母上」

 エミリオが素直に答えると、義母は満足げにほほえみ、差しだされた義父の腕に手をからませて昇降階段へと向かった。

 最上甲板(ハリケーン・デッキ)はがらんとしている。

 数人の乗組員と護衛がいるだけ。公爵家の私有船なので、他の乗客はいない。

 空の旅は、それはもう格別だった。

 翼の羽ばたきが空気を震わせ、果てしない紺碧(こんぺき)の空が視界いっぱいに広がる。

 あまりの美しさに、誰もその場を離れようとはしなかった。

 ラドガ湖の上空をあっという間に飛び越え、深い森が遠ざかる。なだらかな丘陵(きゅうりょう)が波のように連なり、それも越えると、世界は一面の青に変わった。

 ──海だ。

 陽を映す海面が、無数の鏡のように煌めいている。

 どこまでも続く水平線が、世界のかたちを教えてくれる。ゆるやかに丸い曲線が愛おしくて、懐かしい、もうひとつの地球(パラレル・アース)

 風にあおられる薄地のモスリンの裾を、エイミーは手で押さえた。今日はバカンスらしい装いで、裾の長いワンピースに青い飾り帯(サッシュ)を巻いて、髪を左右に編みこみリボンで結っている。七歳の誕生日にエミリオから贈られたリボンを、エイミーは今でも大事にしていた。

「これを腰に巻いておくといいよ」

 エミリオは、やわらかい麻のジャケットをさしだした。風で広がるスカートが気になったらしい。

「ありがとう」

 エイミーは笑顔で受け取り、腰に巻きつけた。

「水平線って、なんで見ているだけでわくわくするんだろう? 私、何時間でも見ていられるわ」

 隣でエミリオが、ふっと微笑した。

「景色が変わらないと、さすがに飽きない?」

「いいえ、風が気持ちいいわ……」

 心地良い静寂と美しさに浸っていると、シドニーが、あっと声をあげた。

「姉様、セレイヴの群れですよ!」

 瑠璃(ラピスラズリ)色の鳥の群れを指さし、シドニーは碧い瞳を煌めかせた。

 エイミーが並列化水晶(バベル)で検索するよりも早く、シドニーは携帯水晶(ミリスフィア)を掲げ、鳥たちの姿を映しだした。

「渡り鳥なのね」

「はい、彼らは一生を()して、命がけで、一万海里もの空を飛び越えるんです」

「きっと過酷な旅でしょうけど、こんなに素晴らしい景色を見ながら翔べるのは、少し羨ましい気もするわね」

 セレイヴの群れは、瑠璃(ラピスラズリ)色の羽を真っすぐに広げ、風に乗って滑空している。

 整然と隊伍(たいご)を組み、これから何海里もの空を、遮二無二(しゃにむに)に渡っていくのだろう。

 そんな鳥たちを眺めていると、再びシドニーが声をあげた。

「姉様! 鯨ですっ」

「どこどこっ!?」

 エイミーは思わず大きく身を乗りだした。

「危ないよ、エイミー」

 背後から伸びたエミリオの腕が、そっと肩を押さえる。

 それに気づかぬまま、エイミーは夢中で蒼海を凝視した。

 碧い大洋に巨影が浮かび、轟くような吐息とともに、白い飛沫が高く噴きあがる。

「すごーい! 鯨だ~!」

「あれは聖寵(せいちょう)の鯨です。見る者に幸運をもたらすといわれています」

「ついてるわね! 初めて本物の鯨を見たわ」

 エイミーは嬉しそうに笑った。

「この辺りは、大型の海獣が多いんです。海王鮫(ペラギオン)は知っていますか?」

 シドニーに訊かれて、エイミーは頸を振る。

海王鮫(ペラギオン)は全長二〇メートルを超える個体もいて、背には硬い甲殻鱗があって、刃物でも簡単には切れないんです。獲物を追うときは時速六〇キロ以上で突進して、氷面ごと割ってしまうこともあるんですよ」

 小さな生物学者よろしく、シドニーは人差し指をぴっと立てて熱心に語った。

 エイミーは博識な弟に感心しながら、並列化水晶(バベル)で検索をかけた。

「へぇ……鯨と同じで、群れで行動するのね」

「はい、時には協力して獲物を追いつめるんです。昔の船乗りたちは“海の悪魔”と呼んで怖れていたそうですが、今では保護対象です。残念ながら、激減してしまったんですよ」

「そうなのね……」

 エイミーは碧い海を見つめながら相槌を打った。

 その時ふと、エミリオがすぐ近くにいることに気がついた。後ろから伸ばされた両腕が、自分を包みこむようにして、強化硝子の船縁(ふなべり)を掴んでいる。

(……腕のなかに、閉じこめられているみたい)

 そう意識した途端、全身の血が勢いよく駆け巡り始めた。

 鯨を見ているふりをしながら、エミリオのことを考えてしまう。肘までまくりあげたシャツの袖口から、以前よりたくましくなった腕が覗いていて、真珠色の肌を、つーっと指で撫でてみたい……なんて、全く頭がどうかしている。

 もうすぐ、彼は十六歳になる。

 今年に入ってから二度も義父の任務に同行し、数年前に冥災(めいさい)を起こした海上要塞、蒼の塔(アズール・スパイア)の視察任務に至っては単独で赴いている。

 仮想空間(バベル・ヴェール)で作戦会議に参加している様子を見たこともあるが、本当に大人のようだった。

 彼の成長を、誰よりも近くで見てきた。

 恋心を自覚してからというもの、平常心を保つことが難しくなっている。

(なんでこんなにいい匂いがするの? 私ったら、意識し過ぎなのよ……でも止められない……)

 去年のエミリオの誕生日に、頬にキスをした。あの時、エミリオの好感度はついに80%を越えた。

 きっと、もう家族の愛情だけではない。

 最近では、エイミーを呼ぶ声に甘さが含まれるようになり、微笑の奥には熱が潜むようになった。

 そしてエイミーもまた、彼を義兄としてではなく、一人の男性として想わずにいられなくなった。

 名前を呼ばれるだけで胸の奥が甘く疼く。微笑の裏に潜む熱を感じるたび、理性が崩れそうになる。

 ──もしかしたら、両想いかもしれない。

 なんて、最初は夢のように舞いあがった。

 ……けれど、前世の笑美が経験した、苦すぎる失恋が脳裏を掠めると、浮かれた気持ちは元気をなくした。

 たとえ想いが通じたとしても、その幸せが永遠に続く保証はない。

 現実的に考えれば、いつか、この恋も終わる……

 エイミーはまだ十四歳で、公爵家に庇護される身だ。

 彼の気持ちが冷めてしまった時、元の関係には戻れない。同じ屋根のしたで暮らせなくなる。エイミーのせいで、彼が再び公爵家を去るようなことだけは、絶対に避けなければならない。

 今度こそ、エイミーがでていく番だ。

 幸い、自立できるだけの資産はある。両親さえ説得できれば、いつでもひとり暮らしを始められる。

 その覚悟で、いっそこの想いを打ち明けてしまえたら──何度思ったか知れない。

 ──怖いのだ。

 いつか終わる恋よりも、このまま家族として、義妹として傍にいられる方が幸せなんじゃないかと思ってしまう。

 十四歳の少女らしく恋に夢中になるには、エイミーは早熟で、理性的すぎた。無邪気さや衝動に身を任せて、すべてを壊す勇気をもてなかった。

 理性的なのは、エミリオも同じだ。

 彼もこの恋の危うさを理解しているから、好感度があがっても、想いを言葉にしようとはしないのだ。

 エイミーは養子で、混血種(アミー)で、義妹だから──躊躇するのも無理はない。

 この恋は、前途多難だった。

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