表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/25

挿絵(By みてみん)


 市村いちむら笑美えみは、八十二歳でこの世を去った。介護施設にいたはずの笑美は、ふと気がつけば、白い貫頭衣を纏い、素足で楽園のなかを歩いていた。

 ここは天国なのだろうか?

 暖かな春の陽気に包まれ、小鳥たちが楽しげにさえずっている。

 澄み渡る青空には、淡い極光(オーロラ)が揺れて、もう一方には七色の大きな虹が架かっている。まるで夢のなかにいるかのよう。

 痛みも不安も消え去り、かつての生涯は遠い記憶の彼方へと霞んでいた。

 穏やかな心で歩みを進めると、目の前に光が集まり始めた。脚を止めてその光を見つめていると、それは次第に形を成し、やがて麗しい女神の姿となった。


 なんて美しいのだろう……


 波打つ豊かな金髪がそよ風に揺れて、澄み透った水色の瞳は、夢みるような輝きを放っている。

 笑美の心は静かな感動で満たされ、言葉を失ってただその姿に見惚れていた。女神のほほえみは暖かく、笑美を優しく包みこんでくれる。

 天国の静謐な美しさと女神の輝きのなかで、笑美は悟った。

 ここは永遠の安らぎの場所であり、生涯の終わりと新たな始まりの地なのだと。

 魂は穏やかに満たされ、無限の平和を感じる。

「わたくしは愛を導く女神、宇宙を掌握する諸神の一柱ひとはしらです」

 くちびるから零れる言葉は日本語でありながら、どこか異国的な節があり、美しい歌のように聴こえた。

「女神様でいらっしゃいますか?」

 笑美は驚きと敬意をこめて問いかけた。

「そうです。貴方が来世で、素敵な恋を見つけられるように、祝福を授けましょう」

「恋、ですか?」

 その言葉に、笑美の心は静かに波立った。

「そうです。貴方は前世も、前前世も、さらにその前も……不運に見舞われて独りきりでした」

 独りきり……

 その言葉は胸に突き刺さるように響き、一抹の寂しさが笑美の心を覆った。

 しかし、女神の全身から溢れだす暖かな光が笑美を包みこむと、その寂しさはたえなる感覚へと変わっていった。

 それはまるで、夢見がちな少女時代に戻ったかのようだった。くすぐったい胸の高鳴り、或いは切なさ、繊細な薔薇の花弁のように儚くて壊れやすい愛おしい感情が、笑美の心を満たしていく。

 笑美はその感覚に身を任せ、過去の寂しさや痛みが薄れていくのを感じた。

「辛いこと、寂しい時があっても、貴方はくじけませんでしたね。よく頑張りました」

 女神のほほえみは暖かく、清らかで、このうえなく美しい。

「ありがとうございます、女神様……」

 笑美の瞳に浮かんだ涙は、喜びと感謝の証だった。気が緩んで、あの、と思いつくままに言葉を続けていた。

「……結婚を考えていた人はいたんですけれど、うまくいかなくて……とても残念なことでした」

 そういって笑美は視線を落とした。

 前世のことは判らないが、笑美は独身主義者というわけではなかった。むしろ結婚したかったのだ。しかし、結婚を考えていた恋人に裏切られてから、恋愛に希望をもてなくなってしまった。積極的に婚活する気にもなれず、生きていくために仕事を続けるうちに、長い年月が流れていた。

「巡りあいは、笑美のせいではありません。貴方が精一杯生きたことは、わたくしがよく知っています」

「……ありがとうございます。でも、恋愛はもういいかなとも思うんです。おかげさまで自立した生活を送れましたし、こうして振り返ってみると、なかなか良い人生でした」

 達観したようにほほえむ笑美を、女神はじっと見つめた。

「笑美、どうか恋を諦めてしまわないで。来世こそ、きっと素敵な恋人にめぐりあえますよ」

「そうだといいのですが……」

 消極的な笑美に、女神はにっこり笑みかけた。

「本当ですよ。不運が続いている魂は、転生を優遇されるのです。貴方の場合は恋愛運を必要としているので、わたくしの加護があれば、きっと良い出会いに恵まれるでしょう」

「女神様のご加護をいただけるなんて、幸せです」

 嬉しそうに笑美がいうと、女神は優しくほほえんだ。

「自信をもちなさい、笑美。貴方はとても素敵なひとですよ。その魂の輝きを損なわなかったからこそ、わたくしの目に留まったのです。だから、わたくしはほんの少し力を貸すだけ。貴方はすぐに、自身の力で輝けるようになるでしょう」

「なんだか少し、勇気がでてきました」

 笑美は拳を握りしめてみせた。

「今度こそ素敵な出会いに恵まれ、恋をして、そしてその恋が成就するように、わたくしから祝福を授けます。相手の好意が一目で判るようにしてあげましょう」

「一目で?」

「そうです。この祝福は、来世の貴方の七歳の誕生日に、授けましょう」

「どうして七歳なんですか?」

「幼い心身では、神の祝福はかえって負担になります。かといって大人になり過ぎても、想像を超えた事象に戸惑うでしょうし、青春の盛りを逃してしまうのは惜しい。七歳なら情緒が育ち、わたくしの祝福も受け入れやすいでしょう」

「なるほど……そうなんですね」

「さぁ、目を閉じて。市村笑美の人生はここでおしまいです。貴方の来世に、光がありますように」

 女神の声が柔らかに響くなか、笑美は静かに目を閉じた。

 眼裏まなうらが白く輝いていく。

 女神の祝福は、笑美の魂を優しく抱きしめ、新たな希望と共に来世への期待を芽生えさせた。

 お疲れさまでした。お帰りなさい。そして、いってらっしゃい。

 長い旅を終え、新たな旅立ちが始まる――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ