謎の空間、謎の声。
「今日の最下位は蟹座のあなた! 何かに巻き込まれてしまいそう、周りに気を付けるようにしましょう! ラッキーアイテムは──」
俺が洗面所で顔を洗っていると、リビングに置いてあるテレビでやっている占いの結果が俺の耳に入ってくる。
「……最下位か」
蟹座産まれの俺は、顔をタオルで拭きながら、ついぽつりと呟いてしまった。別に占いは気にしてないが、最下位と言われると気分のよい物ではない。
──巻き込まれるって、いっつも巻き込まれてるから今更なんだよな。
俺は隣に住む幼馴染のことを思い浮かべながらリビングへと向かう。リビングにある机の上には既に食事が用意されていた。今日は食パンと目玉焼きだった。
テレビを見ながら食パンにバターを塗り、かぶりつく。パンの焼けた香ばしい匂いが鼻を付くのと共に、バターのしょっぱさを舌で感じる。咀嚼をすると、パン自体のほんのりとした甘みがじわじわと塩味を押しのけてきた。その辺りでパンを飲み込み、水を口に含む。
「玲央、どうしたの? 今日は早いじゃない」
僕が食事を取っていると、キッチンの方から母さんの声が聞こえてくる、水の流れる音が聞こえるので洗い物でもしているのだろう。時計を見ると、まだ7時前だった。いつもなら今が起きている時間、母さんが驚くのも無理はない。
「今日は早めに出ようと思って」
僕は目玉焼きに塩コショウをかけながら母さんと喋る。内容は事実を話すと面倒になりそうなのででっち上げだが。
「そうなのね、勇魚ちゃんに会ったら渡して欲しい物があったんだけど」
「……嫌だよ、お隣さんなんだから自分で渡しにいきなよ」
僕は母さんに悪態を吐きながら、目玉焼きを口に運ぶ。半熟の黄身と塩が混ざり合い口の中で広がる。うん……うまい。
「もう、この子ったら。仕方ないわね……」
母さんのぼやきを聞きながら、僕は全部を食べ終える。さあ、早く出かけよう。そうじゃないと、早く起きた意味がない。
急いで制服に着替え、靴を履く。これ以上家にいるといらぬ詮索をされそうだったのでさっさと家を
「──行ってきます!」
俺は母さんに声を掛ける。水の音が聞こえてくるところをみると、洗い物をしているのかもしれない。
「はーい、気をつけていくのよー!」
台所から小さく母さんの声が聞こえてきた。俺は玄関に置いてあった鞄を手に取り、外へと出た。
朝の陽ざしが俺を照らす。その眩しさに思わず目を細めてしまった。今日の雲一つもない晴天が少し恨めしい。
「さすがにこの時間なら起きてこないだろ」俺は隣の家を見ながら独り言を呟く。
今は七時、学校の登校時間まではまだ一時間もある。いつもは七時半出発なので、三十分早く家を出ていた。
「これでいいんだよな……」
俺はその家の前をなるべく見ないようにして通りすぎた。じわじわと後ろめたさを感じるが気にしないフリをしながら通学路を歩いていく。
「ちょっと、怜央! 怜央待ってよ!」
学校まで後半分、といったところで聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。その声に思わず身が竦んでしまう。
聞こえないフリをするか迷ったが、観念して俺は足を止めて振り返った。どっちにしろ、あいつの足の速さからは逃げられそうにない。
振り返ったその先では、子供の頃から毎日顔を合わせている女の子が綺麗なフォームでこちらへと走って来る姿が見えた。
少し赤みがかった髪の毛はぼさぼさで手入れをしていないのがわかる。多分、俺が家の前を通ったことに気付き急いで出て来たのだろう。彼女は、俺の横で止まるとぶはぁっと大きく肺の中にある息を吐き出し深呼吸をした。
「勇那、おはよう」
俺は彼女の名前を呼び朝の挨拶をした。さりげなくいつも通りを装って。俺の気持ちがばれないように心がけながら。
彼女は息を整えた後、俺をじっと睨んでくる。その顔に俺は少したじろいでしまう。
「黙って行かないでよ!」
彼女は怒っていた。毎朝一緒に学校へと行っているはずなのに、今日は急に先に行かれたのだ。彼女からすると俺は裏切ったと思われても仕方ない。
「あー、いいじゃん別に。お互いそれぞれ付き合いがあるだろ? だから別々に行動してもいいんじゃないかなって」
早口でまくし立てるように弁明する。この言葉は本当だけど、隠し事もある。
本人には言えないけど勇那は学校でも一位二位を争うレベルで可愛いと評判されている。更に子供の時から勉強も出来て、色々な部活から勧誘される程に運動神経がいい。そんな子が俺と一緒にいたいという理由だけで全て断り続けていた。
ということはどうなるか、俺にヘイトが全て集まっていくというわけだ。かくいう俺は取り立てて何ももっていない。勉強も並みだし、運動も少し出来る程度。完璧超人の勇那と釣り合うはずがない。
高校に入ってから更に可愛さを増した彼女を独占しているという事実が、俺を孤立させていた。
いずれ離れないといけないなら、なるべく早い方がいい。そう思い立ったのが今日という日だった。
「⋯⋯でも、怜央付き合いなんてないじゃん」
「ごふっ!」
思わずむせてしまう。これが漫画的な表現なら血でも吐いているところだろう。俺の中で一番痛いところを突いてこられた。
お前のせいだよ! と言いたいところだけど、そんな事は口が裂けても言えない。
「しかも、それって私の事を避ける理由になってないし。怜央が早口の時って何かを隠してるんだよね」
「ぐっ!」
くっそぅ、さすがに幼なじみは騙せないか。長い付き合いだもんなぁ、生まれた時からずっと一緒だし。なんなら俺より俺に詳しそうだ。
「大丈夫だから」
そういう勇那に顔を向けると満面の笑みだった。無敵という表現がぴったりとくる。今の勇那は物語に出てくる勇者のような勇ましさがあった。
「私がなんとかするからね、だから一緒にいこっ!」
「あ、あぁ⋯⋯」
そして、彼女は俺に向かって手を差し伸べてくる。それは俺への救いの手。彼女はいつも俺の事を守ろうとしてくれる。その事が嬉しく感じてしまう、彼女の温かな気持ちが俺を包んでくれているような気がして。
けれど、なぜだか嬉しいはずの気持ちの奥で何かが燻っているような気がしてならない。その気持ちがまだなんなのかは俺にはわからない。もしかすると、この関係のままではわからないのかもしれない。
でも、彼女が嬉しそうならそれでいいような気がしてしまった。だから、俺は彼女が差し出してくれた手を取ろうとした。
──その瞬間、世界が暗転した。あの眩しかった太陽も、学校へと続くアスファルトの道も全て黒に消えてしまった。
「⋯⋯なんだ、これ」
驚きながら辺りを見回す。世界は闇に覆われたよう何も見えない。俺は今、どこに立っているのだろう。なんでいきなりこんなことに……
「怜央ッ!」
勇那の切羽詰まった声に、弾かれたようにそちらを見た。俺の目に飛び込んできたのは、黒い闇が勇那を呑みこもうとしている姿だった。みるみる内に勇那の姿は消え、俺に差し出された手だけしか見えなくなってしまう。
「勇那ッ!!!」
俺は何も考えずに勇那の手を握った。何が起こったのかわからない。ただ、この手だけは離してはいけないと思い、強く握る。そうしないといけないと俺の魂が叫んでいるような気がした。徐々に俺をも闇が侵食していくのを見て、俺は情けない声を上げそうになるのを我慢する。勇那を不安にさせないために。
そして、俺達は闇は呑み込まれていった。
吞み込まれた先も、闇が広がっていた。視界の全てを黒が侵食していく。隣にいるはずの勇那の姿さえ見えない。けれどそこにいるということは体温で感じられた。
前後左右がわからずに、身体が浮遊感を覚える。今俺は立っているのか、浮かんでいるのかがわからない。ただ、ゆっくりと下に引っ張られているような気がした。
(なんだ⋯⋯急に眠気が⋯⋯)
闇に誘われるように意識が融けていく。融けて無くなって闇と一つになって消えてしまいそう。もう、眠ってもいいかもしれない。そうすればきっと気持ちよく眠れるはずだと、頭の中で思考する力が抜けていき、意識が徐々に薄まっていくのを感じてしまう。
(おやすみ……)俺は完全に意識を手放そうとしたその時だった。
「ん⋯⋯っ⋯⋯」すぐ側から聞こえたその声で俺の意識は急速に覚醒をした。見えないけれど、勇那は確かにそこにいる。なら俺は眠るわけにはいかない。更に強く意識を刈り取ろうとしてくる闇へ舌を噛んで抵抗した。
舌から血が出ているのか口の中がぬるぬるとし始める。それ以上強く噛むと舌が噛み切れてしまうかもしれない。それでも意識は手放すわけにはいかない。俺は、勇那を、守る為に。
『ま──せか──』
いきなり脳内で声が反響する。誰かが何かを言っているのに、意識を保つのに精一杯で言葉の意味が頭の上を滑っていく。
(なんだ、何を言っているんだ!?)
その声が俺を助けてくれるかもしれないと、藁にも縋る思いで声へと神経を集中させていく、やがて、声は俺にもわかる意味を持つ言葉へと変わった。
『な──い──これでわかるか?』
不鮮明だった声がハッキリと聞こえるようになった。この声が何かわからないが嫌な存在ではない気がする。もっと考える時間が欲しいが、今はもうこいつに頼るしか道はない。
『汝、力がほしいか?』
(欲しいッ! 勇那を守れる力が!)
俺はその問いに脳内で即答した。口はもう使い物にならなくなっている。だから俺は心にある思いをそのまま声へとぶつけた。
『了承、これより継承を開始する』
「──っ!?」
答えた瞬間、身体中が軋み悲鳴をあげはじめた。あまりの苦痛に俺は意識を持っていかれそうになる。更に何かが締め上げてきた。よく見ればそれは、この世界を包んでいる闇だった。闇が蠢き、俺の身体へと何かが入ってきた。
「ガアアアアアアアア!」
俺はあまりの痛みに泣き叫ぶ。幸い、一番聞かれたくない相手は今は寝ているみたいだ。ならどれだけ泣こうが喚こうが、涙や涎をまき散らそうが構わないと思った。
ずっと続く激痛に精神がおかしくなりそうで、俺はそれに必死に抗う。心は手の中にある温もりが繋ぎ止めてくれた。勇那が傍にいると思うだけで心強い。そのうち痛みに慣れてきたのか身体が軽くなってきた。いつの間にか眠気もさっぱりと飛んでしまっている。
『驚愕、汝は人か?』
(あ、当たり前だッ!)
驚愕という割に抑揚が感じられない声が癇に障ってキレ気味で返答してしまった。今はさっきまでとは違い会話する余裕がある。これが力を得たということなのだろうか?
『汝、名は?』
謎の声にどう答えるかしばし逡巡する。直接教えるのはなぜだかはばかられる。適当に偽名でも言っておくか? おうま れお⋯⋯オレ マオウとかでいいか。
『桜間、怜央。桜間か⋯⋯なるほどな』
答えてもいないのに俺の名前を読んだ。そういやこいつは頭の中を勝手に覗けるんだった。
『怜央、謎だ』
(こっちはお前の存在が謎だよ)
『どうして逃げない?』
(その質問の意味はわからない。俺は今までずっと逃げてきた。勇那だ、俺の代わりに立ち向かっていたのは)
そうだ、知らないこいつだから言える。勇那に抱いていた気持ちを。本当は俺が勇那を守ってやりたかった。いつも守られる側でいるのは嫌だった。それが勇那に抱いていたモヤモヤなのを俺は今認識した。一方的に与えられるだけの関係になりたくない。
(だから、俺は逃げない人間になりたい)
『なるほどな、それがお前の⋯⋯』
何に納得したのかは知らないが理解してくれたようだ。
『ふふ、面白い。怜央よ、汝は世界を変革する者になるだろう』
そう言うとともに遠い所に光が見えた。それはまるで夜空に浮かぶ小さな星の光のように見える。
『世界を救ってくれ』
──そして、俺と勇那は光に包まれた。