スウェーデン王グスタフ2世アドルフ
スウェーデン王グスタフ2世アドルフは英雄に近い名声の持ち主だ
幼少のころより語学に長け、9か国語を自国語のように話せた。9歳のころから公務に就き、1611年に父が亡くなると17歳の若さで王に即位した。若いころから責任ある立場にいた彼は、老熟した人間だからこそ得られるはずの豊かな経験と若さゆえの情熱と体力を一つの体の中に同居させていた。
才能あふれるグスタフ・アドルフは、政治・軍事・産業などいずれの分野にも注力し、スウェーデンはヨーロッパ有数の強国へ成長をとげていた。とりわけ軍事においてはポーランドとの戦争に手こずりながらもバルト海における覇権を確立し強国スウェーデンは最盛期を迎えようとしていた。
一方神聖ローマ帝国のヴァレンシュタインはデンマーク戦での功績を認められメクレンブルク公に叙せられた。彼は皇帝選出権をもつ選定諸侯となることを求めていた。選定諸侯まで登りつめれば王位まではあと一歩だ。しかしそれは叶わなかった。
それどころか軍司令官を罷免され、さらにのちにメクレンブルク公まで剥奪された。
彼は宮廷の敵に立ち向かう術を持っていなかった。皇帝も含めほとんどの諸侯がヴァレンシュタの敵だった。宮廷をあとにしたヴァレンシュタインだったが、彼はまだチャンスがあることを確信していた。
神聖ローマ帝国は敵が多い。デンマークには勝ったがスウェーデンはグスタフ・アドルフの治世で急速に力をつけており、隣には宿敵フランスがいる。同盟者として同じカトリック国で代々ハプスブルグ家出身者が王を務めるスペインがいたが植民地のネーデルランドの反乱をいつまでたっても倒せないでいた。
スウェーデンはポーランドとの戦いながらも常に神聖ローマ帝国の動向を常に横目で見ていた。1629年グスタフ・アドルフはフランスの仲介でポーランドと講和すると、フランスと軍事同盟を結んだ。スウェーデンは帝国との戦争の準備を着々と進めている。
1630年、フランスから資金面で援助をうけたスウェーデン軍は北ドイツに上陸した。諸侯の足並みがそろわない神聖ローマ帝国は簡単に上陸を許し、アドルフ2世グスタフ自らが率いるスウェーデン軍は帝国領奥深くまで侵入した。グスタフ・アドルフの用兵は巧みであり帝国軍は各地で負け続けた。
ティリー伯はボヘミア戦争・デンマーク戦争を戦ってきた有能な指揮官だったがグスタフ・アドルフには敵わなかった。1631年9月17日ブライテンフェルドの戦いでティリー伯は大敗を喫すると翌年4月15日レヒ川の戦いでこともあろうに戦死してしまった。
ティリー伯の死を聞いた皇帝と帝国諸侯は慌てた。相次ぐ敗北と軍総司令官の戦死に、もうだれもが再びあの男に頼るしかないと考えていた。皇帝はヴァレンシュタインを招集した。
ヴァレンシュタインは軍に復帰する条件として軍の支配権、和平交渉権、条約締結権そして選帝侯位を要求した。皇帝も諸侯もヴァレンシュタインの傲慢な要求に憤慨したが、傲慢なのははたしてどちらだろうか。
ヴァレンシュタインは兵をまとめると進軍しスウェーデン軍と決戦を挑んだ。今回の戦いでは自分の傭兵部隊だけでなく帝国軍全体を指揮しなければならない。
1632年11月16日、現在のドイツ東部の都市ライプチヒ近郊のリュッツェンで両軍は激突する。2人の名指揮官による戦いは間違いなく30年戦争における天王山となるだろう。
ヴァレンシュタインはいまだかつてない強敵を前に確実に勝てるという確信を持てなかった。彼は急ぎパッペンハイムに援軍を要請した。騎兵3000と歩兵5000が戦場に向かっている。戦いが始まる前に間に合えばいいのだが。