コンセント/プラグイン
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――あなたも肉の塊になるのね。プラグはまだ見えないけれど。
例えばそんなことを笑顔で言い放たれたら、人はどんな反応を返すだろう。
少女Nが言ってきたのは、凝り固まった場の空気をほぐそうとしたわけではない。自分に視線を向けさせようとしたのでもなく、また突き放そうとしたわけでもない。Nは、僕の顔の『造詣』が目に入ったから、感想として述べただけだった。
頭の中で言語を組み立てる。特別履修希望者は準備室に行けと紙に書いてあって、時間よりも早く着いたら、部屋にはよく知らない履修希望者がひとりだけ居た。とりあえず待つこと七分――一旦出て飲み物でも買おうかとの思案中、向かい側に座っていた相手に切り出された話題が、よりにもよって。
――比喩でもなんでもないわ。私には人の狂気が形になって見えるの、便利でしょう。
異常な閉鎖空間だった。
十畳ほどの準備室に、男女がふたり。備え付けのクーラーは壊れ、扇風機が単調な動きで熱風を当ててくる。全開の窓も、風ひとつ入れてこない。直射日光を受け 沸騰寸前になったサッシを手から離すと、僕は微笑む相手を見やった。一見して、話を聞かずにべらべら語りだすアンテナ持ちの人間には見えない。
僕は悪意を与えさせない程度の顔で、当たり障りのない話題を振ろうとした。
――あなた、こういう状況下に慣れてるのね。なら、聞き流せばすぐ終わることも知っているでしょう?
しかし、そんな按配に撥ね退けられてしまう。
軽い既視感があった。つくづく僕はこういった――頭は良いが何処かが欠けている、あるいは有り剰っている――人間に当たってしまう体質らしい。今までの経験上、回避が失敗した場合に取る方法はひとつしかないと知っていた。
溜め息を軽く吐く。振り返って、椅子に座っているNと向き合った。その態度が、暗に腹を括ったものだと認識されたようだ。
――ねぇ、あなたは誰かを殺したいと思ったことがある?
僕は首を振った。
――人を 死なせたいほど憎んだことは?
首を振る。Nは苦笑する。まるで自分が、その行為を幾度か経験済みであるか示すように。
――でしょうね。嘘をついた痕跡が無いわ。プラグが見えないもの。
そしてNは話し始めた。あなたはただ頷いてくれれば良いわ、と前置いて。
Nは、『それ』を抽象絵画とちょうど真逆のようなものだと云った。
ピカソ。カンディンスキ。クプカ。ドローネ。彼らの絵は、物体を静止画と捉えていない。そのまま具体的に緻密に描くのではなく、要素や性質だけを取り出して、歪ませて描く。
人の狂気が具現化して見えるの。Nは繰り返した。本来見えては不可ないはずの、奥底にある黒が見えてしまうのよ。と。
ある日、雑多なスクランブル交差点を渡ろうとしてNは気付いたらしい。斜め向かい側から来ようとしているほとんどの人間が、一様に何かを持っていたのだ。黒くて小さい代物を、彼らは握るでもなく、掴むでもなく、親指と人差し指で添えるようにただ持っていた。Nは通り過ぎる時に凝視してしまう。黒くて、無機質で、途中くびれが合って、平らな本体に細長い銀色の針金が等間隔に二つ、飛び出している物――振り向き様、彼らのもつ『それ』から、太い糸が空に向かって伸びているのが見えた。
それから学校に行ったNは、お早うと笑顔で返してくれる者の中にも、『それ』を持っている者と持っていない者が居ることを知る。おかしなことに、『それ』を持っている者は、利き手でない手で常に必ず持っているように見えるのに、平然としていた。
お早う、『それ』を持っていない女子の一人が声を掛けた。Nは彼女の諸手を凝視してしまい、何故か安堵し彼女の話を聞く。ねぇそれより聞いた、あの子とうとう深夜番組で売り出したって、清純キャラらしくて、男子に×××にされまくってるって噂だってあるのに、そしてNがもう一度視線を移すと、彼女は左手で真っ黒い電気器具を持っていた。
――そう、コンセントに入れる器具のプラグよ。
Nは壊れたクーラーのプラグを引き抜き、根元の部分でくるくると回してみせた。
突然手に持ち出した女子に聞いても、彼女は何のことだか答えられないようだった。
――それで、私には人の狂気が見えてしまうようになったんだって分かったの。
プラグはあらかじめ保有している狂気。一度憎しみを持てば、人が持ったように見える。
人と会えば、左手と右手をまず凝視する。誰もが同一の型に見えるので、憎悪の種類までは詳細に分からない。だが、憎悪を抱く性向かどうかの確認はできる。この人はまだ憎悪を抱いたことがない。この人は誰かを憎んで生きている。どれほどまでに憎い相手がいるのか。ただの嫉みか。それとも、誰か殺したいと思っているのか。手っ取り早い話が、Nは人を信用できないようになってしまったのだ。限られた肉親であっても、親しい友人であっても、恋人であっても、誰に向けての『プラグ』であるのか分からないままに。
Nが意見を訊いてくる。僕は適当に答えた。手短に済ませたいというのが本音だ。この話には、とかく整合性がなかった。正常な人間から見れば、意味の分からない話だ。プラグにコードに――全くもってなっていない。伝えることなどなかったので、そのプラグは引き剥がしたことがあるのかと、僕は逆に問い掛けた。
――あるわ。押しかけて、母と冷静に話をしたいと言った父親のプラグなら。
かつての経験から学んでいた僕は、黙って続きを聞いた。
別居中の父親が、突然押しかけてきた。
母と冷静に話し合いたいと言いながら、手にはプラグを持っていた。
Nは恐怖した。父が憎悪している相手は母に違いない。どれほどまでに憎いのか。相手を屈服させたいほどに。詰りたいほどに。締め上げてしまうほどに。
行動は早かった。玄関に押し入られる前に、Nは父親の手をはたき、持っていたプラグを引き剥がした。玄関の戸を思い切り閉めようとした。父親の手が金魚の口のようにぱくぱくと痙攣し、止まらなくなった。地に落ちた衝撃で、プラグの差込口の金属部分がひしゃげたのが見えた。
閉まる寸前に、扉を抑止される。
なあ、と自分の名を呼ばれたNは、しかし身震いした。きちんと、話を、したいんだよ――ごぼりと泡が噴き出したような、水中で無理に言葉を吐いたような、くぐもった声が響いたからだ。
妙な腐臭がした。放置された生ゴミのすえた臭いでもなければ、血液のこびりついた臭いでもない。どちらかというと、肉の焼け爛れた臭いに似ていた。Nは噎せ返り、たじろぐ。一歩引き下がった拍子に、閉めようとしていた力を緩ませてしまう。
細長い先端が戸の隙間に掛かった。こじ開けられる。
だが、人の手であるはずの指は、崩れていた。
Nは声にならない叫び声を上げ、へたり込んだ。父親は肉塊そのものだった。人の形すらしていない、溶けた黒い塊だった。
いつか何処かで、戦争の焼け爛れた人間の写真か絵を見た記憶があった。それと同じだった。でろでろに流れて、皰跡が浮かび上がって、ひしゃげてしまった肉。所々が盛り上がって、ぼたりと液体が落ちてくる塊。ヘドロのような濁った色の肉が、全身を覆っていた。目にあたる二つと見える穴には、なんの球体も入っていなかった。
――冷静に話をしたいって言ったわ。肉が崩れた私の父親はね。
以来、父親の姿は 腐臭を伴う肉塊と化してしまった。Nのみが具象化した結果だ。
多くをNは語ろうとしなかった。断片的に紡ぎ出され、結末を濁す物言いは、虚言癖とも取れる。
――考え出したらきりがないわ。どうしてプラグを無理に剥がしてしまうと、肉が崩れていくように見えるのか。コードは何処に繋がっているのか。……あのプラグは、何処に挿し込むためにあるのか。
目を落とすN。首を振る。
――でも調べられない。それを知ることは、他人の憎悪を見ることと同じだから。
それから、僕を視界の中央に置いた。
――ひとつ訊きたいわ。私は、まだ醜いものを見続けながら、生きていくべきかしら。
僕が真顔になっていたのは、Nにつられたからではない。
不意を突かれる質問だったが、彼らに好かれる体質でも、彼らに同化を誘致されるわけにはいかなかった。
「そもそも整合性がないんだ。あんたの話には」
頭脳は聡いように造られている相手になら、この一言で片付けられる。ゆえに、その話は虚言でうわ言で、聞く意味も持たない無価値であり、問いに答えるまでもなく、語り出した当人の価値もまた同じような見解を持たれる者だと。
そう、整合性が無い。破綻している。意味のわからない話だった――とかく、『正常な人間』から見れば。
もう終いだろう。外で飲み物を調達すべく、僕は窓を閉めることにする。
大暑で無風だった外界を隔てても、室内に変化はない。ガラス越しの直射日光が厳しくなるだけだ。
僕は部屋の戸に向かって歩き出す。努めて平静に、昂りに気付かれないように。
――それは残念ね。
扇風機の蒸し暑い風に乗った 涼しげなNの声を、振り払いつつ。
廊下に出る前に、彼女の姿を盗み見た。
途端、澄ました視線と此方の目とが交差した。これによって、僕が哂っていたことも、知られてしまったに違いない。だがもう話すことは無い。構うことなしに。
僕は。君が穴に見える。目の穴よりも、鼻の穴よりも、口よりも、下の穴よりも、もっと小さな穴が、縦長で奥の見えない差込口が、額に開いているように見える。
その二つの穴に嵌められる器具の名前を、僕は知っている。