(8) 泣かない赤鬼と白目の青鬼?
・・・
ど、ど、どどどど、どどどどどどどど…どっど、どういうこと?
博物館に展示してある内燃機関付きの2スピンドル・ビークルが出す音みたいな…豪快な擬音で表現したくなるほどの、アタシの心の中の驚きと疑問。
何で?
営業部でも成績最下位のアタシが…あのエリート集団の企画開発部の中でも、そのまたトップ・ブレインとして君臨する企画開発室なんかに抜擢されたりしちゃったりなんかされちゃったりするのよっていうのよってのよ?(錯乱)
え?
ひょっとして、さっきアタシが閃いたスマート・ネイルのアイデアが、早速高い評価を受けちゃったとか?…って、頭に思い浮かべただけで、そんなこと企画開発部にまで伝わるわけないじゃないの。アタシの馬鹿。
「ね、ネイ君?…だ、大丈夫なのかね?…なんだか、顔が青白いようだが…」
次長が、アタシの顔を覗き込むように身を乗り出す。驚きで体が硬直し、アタシの血流はかなり滞ってしまっているようだ。
アタシは、どう答えて良いか分からずに、とりあえず隣に座る小原課長の方を見る。
救いを求めるように向けた視線の先で、でも、小原課長は俯いたまま黙っている。
・・・
返事をしないアタシから目を離して、次長は部長の様子を気にしながら小原課長の方へと向き直る。
「小原君も。黙っていないで、考えを述べてくれないか?…いつもの君なら、どんなコトでも白黒スッパリと明快に意見を述べるじゃないか」
「次長。確かに、人事部が答えを急いではいるが…まぁ、そう急かすな。同じ5分でも、君が忙しなく答えを急かす5分と、黙って考える5分では、全然価値が違うんだ」
次長は、部長に気をつかって答えを急かしたようだが、部長は黙って待って答えを待ってくれるつもりのようだ。
ただし、猶予は5分程度?…暗にそう期限を切られたような気がした。
5分で答えを出さなければならなくなったアタシは、隣で俯いている小原課長から目を離して、取りあえず一人で考えて見る。
会社の中でも秘書室や人事部以上に人気の高い部署。企画開発部のそれも企画開発室だなんて、どんなに異動希望を出したって、よほど能力の高い社員でなければその希望が通ることはない。
それが望みもしないのに…突然、降って湧いたようにアタシに声がかかるなんて。
これが何かの罠でないなら、これほどの幸運はないだろう。
え?…罠?…これって罠なの?
あまりのあり得ない幸運に、アタシは急に不安になる。
でも、部長の顔は極めて真面目で、比較的お銚子者の次長もふざけている様子はない。
・・・
…ってことは、本当なのよね?…罠じゃないのよね?
今日が4月1日でも何でもないことを心の中で確認し、アタシは思考を切り替える。
企画開発部企画開発室…か。それもチーフとして…
ん?…チーフ?
チーフって何?役職?
部長は部長よね。で、次長は次長だし…小原課長は課長。アタシは、視線を移しながら当たり前の確認を心の中でする。
あんまり会話することはないけど、アタシには係長という上司もいるし、主任という先輩社員もいる。
まさかインディアンの酋長のこと…じゃないだろうから、チーフっていうと普通は主任のことを意味するって思うんだけど…主任って言わないのは何故だろう?
あれ?…そう言えば…企画開発室の緒上さんって…確かアタシに「主任主査」って役職を名乗ったわよね?
あの時は気にならなかったけど…民間の企業で「主査」って役職を使うのって…珍しいんじゃないかしら。
やっぱり、うちの会社が昔は政府系の機関の一部だった…っていう話は本当なのかもしれないわね。なんかかなり昔に民営化された環境関係の機関が、リストラを繰り返して今の形になったんだとか…聞いたようなきがする。
はぁ。アタシって、自分の会社のコトすら良く知らないんだから…いい加減よね。
・・・
チーフっていうのは引っかかるけど、それは後で確認すれば良いとして…そうか、アタシ、ひょっとしたら緒上さんの同僚になっちゃうのかぁ…。うふふ。
山下なんかと違って緒上さんは紳士だし、ルックスも超アタシ好みだし…毎日、一緒に仕事ができるなんて…素敵かもね…。
でも…そうなったら、アタシ、また全然仕事とか頑張らない駄目女になりそう。
緒上さんって真面目そうだから、そういう駄目女って…嫌いだわよね?
まぁ…駄目にならないように、仕事を頑張れば良いだけなんだけどさ。
それよりも…アタシなんかが…務まるのかな?
そんなエリートだらけをワザワザ集めたような部署。営業部でも一番の落ちこぼれのアタシが…いったい何を期待されてるんだろ?
はっ!…ひょ…ひょっとして…。
「…あの。じ、次長。もしかして、アタシに企画開発部から声がかかったのって…げ、げ、元気の仕事をするためじゃないでしょうね…?」
「んん…?…元気…の?…仕事?…何だねそれは…あ…あぁ…私が言ったのか…す、すまん、スマン。だが、ネイ君…いや、安藤君の明るくて元気なところは、私は評価しとるんだぞ。本当に。…だが、まさか企画開発部が、それを君に期待しとるとは思えんよ」
アタシは、少しだけほっとした。
明るくニコニコ笑って元気にしていれば楽だけど…そんなのは嫌だ。
・・・
いや。ちょっと前のアタシなら、ラッキーぃ!…とか思ったかもだけど、今は、ちゃんと知識をつけて、ちゃんと仕事で成果を上げて評価されたいと思う。
いくら怠け者のアタシでも、歴とした社会人が「元気の仕事」を期待されて喜んでいるようでは、どうにも情けない。
何気なく口にした次長に悪気は無かったことは理解するけど、悪気が無いにも関わらずアレだけ痛烈にアタシの心に傷を刻みつけるだけの破壊力がある言葉なんだから…アタシは、二度とそんな風に言われるような仕事ぶりに戻らない…そう誓ったんだ。
「あの…安藤さんも不思議に思っているようですので、私からも質問させていただきますが…どうして、安藤さんなんですか?」
ずっと下を向いていた小原課長が、顔を上げて部長に質問をぶつける。
そして、質問を付け加える。
「それに、どうして今なのでしょうか?」
「うむ。小原課長の疑問はもっともだな。安藤君はお世辞にも成績優秀とは言えないし、時期も来年の異動の時期を待つのが普通だろう…しかも」
「しかも…?」
「普通、こういう話は、あったとしても何日も前から根回し…というか打診があるハズなんだ。雑談程度でも安藤君の成績や素行、人柄なんかの話題を人事部や企画開発部の誰かから直接振られたりするものだ。だが、今回は、本当に突然の話でな」
部長は、腕を組んで首を傾げる。
・・・
小原課長は、しばらく部長を黙って見つめた後、
「何か…おかしくありませんか?…安藤さん。あなたの意志は尊重してあげなければならないって思うけど…私は、あまり賛成できないわ」
アタシの方に顔を向けて、きっぱりと言う。
と、その時。
「何故ですか!?…そんな営業成績が最低最悪の人、厄介払いできる良い機会じゃないですか!?…どうして反対するんです?」
パーティションの向こうから、この会話に加わっていない人物からの声が響く。
こ…の…声は…
「や、山下ぁ?…あ…ぁ…くん?」
呼び捨てにしてしまってから、慌てて「くん」を付け足したけど…どうして山下の奴が突然、話に加わってくるのよ?
そ、それに「成績が最低最悪」とか「厄介払いできる良い機会」…とか、じ、自分でも若干、思わないこともないけど…し、失礼じゃないのよ!…す、少なくとも、山下の奴には言われたくないわよ!
「何だね、君!?…突然、割り込んでくるなんて…ぶ、無礼じゃないか!」
・・・
声に続いてパーティションの陰から姿を覗かせた山下に、次長が顔を真っ赤にして怒り出す。本当よね。部長、次長、課長…なんていうお偉いさんが集まってるところに、呼ばれてもいない平社員がしゃしゃり出てくるなんてさ。
「山下君?…営業部へ異動してきて間も無いあなたが…どうして、そんなにムキになって口を挟んでくるのかしら。安藤さんは、今年こそ成績が芳しくないけれど、昨年は契約1案件あたりの利益率では最高の成績を上げているのよ。しかも、あなたの先輩社員に対して、今の言いようは…聞き捨てならないわね」
小原課長の声に怒りの色が混ざっている気がする。
とても鋭い視線で、無礼な山下を睨みつける小原課長。
や、やっぱり小原課長って…こ、怖いんだ。怒らせないように気を付けなきゃ。
だけど意外なことに、何故か山下も必死の表情で食い下がってくる。
馬鹿ね。すぐに謝れば許してもらえるかもしれないのに…
「そんなのどうせ、たまたま高額案件を1件引き当てただけのマグレでしょ!?…確かに僕は、まだ短期間しか一緒に仕事してないけど、分かりますよそのぐらい」
…す、鋭いじゃないの。山下。
図星だった。
昨年の契約1案件あたり利益率の話も…嘘じゃないんだけど…アタシの昨年の契約成立件数は…その…たった1件だし。たまたま、大きいやつを当てたっていう博打打ち的な営業成績なのよね。
・・・
いつもは厳しい小原課長が、アタシを擁護してくれるのはとても嬉しいけど…実は、アタシも山下が言ったのと同じ意外さを感じて驚いている。
まさか、そんな奇跡みたいなまぐれ当たりの契約を、またアタシが取れるって期待してる?…ワケないだろうし…、アタシがいつまでも営業成績を上げられない給料泥棒みたいな状況だったら、きっと上司である小原課長の評価も下がっちゃうに違い無い。
だから、アタシがもし小原課長の立場だったら、きっと迷うことなく…ニッコリ笑ってアタシを企画開発部へと送り出しているだろう。
だって、パワハラとかで虐めて追い出すのと違って、この機会なら誰からも責められることはないし、アタシから恨まれることだって無いんだから。
自分で言うのも切ないけど…どうしてアタシみたいなお荷物を追い出せるチャンスを、小原課長は反対したりするんだろう?
「ネイさんは、営業部には向いてないんですよ。これは良い意味で言うんですけど、素直だし、正直だし、嘘がつけないし、いつでも本音だし、思いついたアイデアに工夫したりもしないで直球勝負だし…」
おい、おい。全然、良い意味に聞こえないし…ほぼ、全部『単純』って言われてるよう同じ意味に聞こえるし…山下メ、この野郎っ!!
「でも、企画開発部なら、その思いつき勝負こそが評価されるんです。…僕は、才能が無くって…追い出されちゃったけど…。ネイさんは、あの緒上主任主査のメガネに適ったんですよ。発想が面白いって!…だから絶対、企画開発部へ行くべきです!」
・・・
お?…緒上さんが…アタシを?
山下の口から明かされた、意外な真相にアタシの鼓動は少しだけ速まった。
ま、まさかね。ひ、一目惚れされちゃった…とか?
ないか。無いわよね。ないない。そういう期待とか安易にすると…泣くことになるもの。
「…緒上くんが?…安藤さん…彼と話をしたの?」
「え。あ。はい。あの一昨日…そのアタシがプレゼンをすっぽかしちゃって課長に叱られた…その後に…き、喫茶コーナーの自動販売機の前で偶然」
別に何も悪いコトをしたわけでもないのに、険しい顔で訊いてくる小原課長の剣幕に、ついつい言い訳を重ねるような答え方になってしまう。
っていうか、何でアタシ…こんな緊張して疲れる状況に置かれてるの?
今日は頑張って調べ物とかして、定時になったら速攻で返って…体を休める予定だったのに…。何か…この話って…長引いちゃう?
「あぁ…。緒上君か…そういえば、小原君の同期だったな。彼も優秀な男だが…小原君は彼をおさえて一番乗りで課長に抜擢された実力の持ち主だ。山下君。緒上君以上に小原君は人材育成のスキルも上なんだよ。安藤君の向き不向きなど…釈迦に説法だとは思わんかね?…それに、安藤君の発想の面白さなら…ワシも買っとる」
部長は、山下を怒鳴りつけるでもなく、静かに語りかける。
普段、あんまり話す機会の無いお偉い様だけど…部長って…何か格好良いかも!?
っていうか…部長も…アタシを買ってた!?…う、嘘みたい。夢じゃないよね?
・・・
体調不良で、睡眠不足で…次長には「元気の仕事」とか言われちゃって…良いことなんか全然ないって思ってたけど…。何?…何なのこの突然の急展開は?
「…くっ…。ま、負けないぞぉ。そ、そんなにネイさんの発想を買ってるっていうなら、それこそ企画開発部への異動を喜んで見送るべきじゃないですか!?…いくら小原課長が優秀だからって、営業部じゃぁ、ネイさんの発想を生かし切れませんよ。こ、こういうのを…か、飼い殺しって言うんだ!!」
部長の貫禄ある言葉に一瞬怯んだ山下だったけど、自分の考えを覆す気は全くない…という感じで声を張り上げる。
…こ、この子も…突然、どうしちゃったの?
いつもアタシを馬鹿にした態度ばっかりとってたくせに…。
「ふむ。そこなんだな。ワシが人事からの不自然な通知を破り捨てなかったワケは。小原君。確かに、何だかこの話は変なところも多いんだが、細かいところに目をつぶり、結論の部分だけ見れば…安藤君にとって決して悪い話ではない。分かるだろ?」
「…は、はい。確かに…で、でも…企画開発室は…絵に描いたように優秀な若手ばかりを集めたセクションです。あの空気の中で…安藤さんが自信を失ってしまう…危険性もあります。私は、彼女が望むなら笑って送り出してあげたい…そう思いますが、ただ、しっかり段階を踏んで…その時期が来てからでも遅くはないと…」
「ま。正論ではあるな。だが、君も十分承知なように、その時期が来ても、あの部署からお呼びがかかるかどうか…保証はないがな。狭き門だ。やはり、ここは…安藤君自身の気持ちを尊重するとしようか」
・・・
部長がチラッと時計を見る。
もう、5分はとっくに過ぎている。考える時間は十分に与えた…という感じでアタシに向かって穏やかな視線を向ける部長。
やだ。困ったな。
まだ、全然、答えなんて出てないのに。
こっちは、眠くって、疲れてて…3日目でお腹痛くって、腰も痛くって…頭も…とにかく、全身が怠いんですけど…。
部長が、アタシを見てる。
次長も…部長の表情をチラチラ気にしながらも、アタシの方に視線を向ける。
小原課長は、また俯いて自分の足下を見ている。
そして、山下が何故か怒ったような顔でアタシをジッと見下ろしていて…
うぅ…。
どうしろって言うのよ。
部長が言うように、この話って結論のところだけで考えれば、単純に凄く良い話なのよ。
営業とか、接待とか…お客さんの機嫌をとって、何とかして契約を取る…とか…そういうのが苦手なアタシは、確かに閃き…という名の思いつきで企画だけを考えさせてくれるなら…その方が向いているような気がする。
だけど…なんだか、ここで「はい。じゃぁ、アタシ、企画開発部行きます。皆さん、今日までお世話になりました!」なんて…薄情なコト…言いづらいじゃない?
・・・
アタシなんかを、課長どころか部長までもが、こんなに買ってくれてた…なんて言うのは…ちょっと俄には信じ難いけど。それでも、とっても嬉しいし…。
でも、理由は分からないけど…何だか山下も必死な感じで、アタシがこの話を断るなんて許してくれそうもない雰囲気だし。
って…何で、アタシの異動する、しない…を、山下に許してもらう必要があるのか…それも何だか疑問なんだけど…。
えっと。山下の言うことが本当なら、アタシを企画開発部に誘ってくれてるのは緒上さんなのよね?
アタシのどこが気に入ったのか知らないけど…その理由とかも聴いてみたいし…
アタシは、プレッシャーを感じつつも、取りあえず現状で最も無難と思われる答えに辿り着いた。
大きく深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
そして、部長に向かって答えた。
「えっと。取りあえず、2週間ぐらいの…お試し異動…とか…って駄目ですかね?」
ちゃんと全員に聞こえる声の大きさで答えたハズなのに、誰からも反応がない。
みんな、まるで答えが聞こえなかったように、アタシを見ている。
や、やっぱり…そんなアタシにだけ都合の良いシステム…無理だわよね。
・・・
「ふむ…やはり、君はなかなか面白いことを言うな。安藤君」
アタシが内心で冷や汗をダラダラと流していると、たっぷり30秒ぐらい間をおいてから、部長が左手で自分の顎を撫でさすりながら呟いた。
お、面白いかな?…普通に我が儘を言ってみただけだけど…。
「今回の件は、その手順において、どう考えても通常の異動ではない。普通の異動時には、そんなコトは当然に許されないだろうが…。良いだろう。ワシから、人事部長と企画部長に言って、取りあえず研修扱いで2週間程度…まぁ、向こうにも色々と都合があるかもしれないから…1週間になるか1か月になるかは分からんが…そういう形にしてもらおうじゃないか。どうだ、小原課長?」
「…は、はい。ぶ、部長がそう仰られるのであれば…」
「ということで…あぁ…えぇと山下君と言ったかね。君もそれで良いね?…あぁ、嫌と言わせるつもりはないから答えんでもよろしい。緒上君には、君から伝えてくれても構わんぞ。まぁ、すぐに人事部を通じて企画開発部にも連絡が行くハズだがな」
部長は、山下に向かってそれだけ言うと、もう興味はない…といわんばかりに、しっしっ…と、犬でも追い払うような手つきを山下に向けてする。
山下は、当然「わん」とか「きゃん」とか言うコトは無く、少し考えるような顔をしてから…「まぁ…なんとか妥協できる線か?」とかブツブツ言って去って行く。
「なんなんだ!奴は。ぶ、無礼な奴だな」…と次長が鼻息を荒くするけど、部長は特に気にした様子もなく、アタシと小原課長に向かって、ニヤっと笑って見せた。
・・・
「アイツも、なかなかに面白い奴だな。小原君、せっかくだから、アイツのコトもきっちりと教育してやってくれたまえ。さて、ワシは、これから首都街区まで飛んでエムクラック社のSEOの接待をしなきゃならんのだ。悪いがこれで失礼するよ」
部長は立ち上がると、自分のデスクまで行き人事部に内線をかけ、さっそくアタシが提案したとおりに「お試し研修」の件を人事に伝えたようだ。
「…うん。そうだ。いや、譲れんな。この条件が飲めんというなら、この話は無しだ。ん。あぁ。企画開発部長には、ワシの方からもその旨伝えるから心配はいらん。じゃぁ、分かったな?…うむ。ならよろしい」
そんな感じに早口に捲し立てて内線を切ると、こちらを振り返ることもなく足早に去って行った。
う~ん。本当に、部長って…けっこう格好いいわよね。ノーチェックだったわ。
まぁ…もう、けっこう良い歳だから、対象外だけどね。当然。
「安藤さん…。ゴメンなさいね。あなたの将来にとって、決して悪い話じゃないのに反対したりして…」
「い、いえ。小原課長が色々とプラス面やマイナス面を考慮して下さってるのは、ちゃんと伝わってきてますから。…あの。れ、礼儀しらずのこんなアタシですけど、ちゃ、ちゃんと感謝してるんですよ?」
「…ふっ。ありがとう。あなたは決して礼儀知らずなんかじゃないわ。戻りましょう」
「はい。山下の奴に、ちょっと礼儀というものを教えてやらなくっちゃ」
・・・
次長に頭を下げて、アタシと小原課長は部長応接を後にする。
自席へと戻ったアタシは、早速、ヤマシ~太の奴を探して彼の席の方を見回したけど、あの後自席へと戻らなかったのか…山下の姿は見えない。
「安藤さん。企画開発部へ行くんですってね。皆、応援してるから、頑張ってね」
「え?…み、皆って?…も、もう知ってるの?」
アタシが、山下をサーチしてキョロキョロしていると、向かいの席の西村さんが声を掛けてきた。既に、アタシの異動…というかお試し研修のコトを知っているようだ。
西村さんの声や表情が比較的、好意的だったのも意外に感じた。
以前に、営業部から企画開発部への異動が決まった主任がいたけど、その時は結構、やっかみやら何やらで、その主任は散々皆から敵視されてしまったのだ。
「あはは。何、言ってるのよ。山下くんが部長応接で…あんな大きな声で叫ぶんだもの、皆に聞こえないわけ無いじゃない」
「…あぁ…。それも…そうか」
「それにね。そもそも、課長と二人で部次長に呼ばれるなんて滅多にないでしょ?だから、皆、何事か…って、仕事そっちのけで聞き耳を立ててたしね」
ははは…。営業部のメンバーって、こういう感じだから他の部署から一段下に見られるのよね。成績最下位のアタシが言うのも何だけどさ、皆、仕事を一番には考えてない…っていうか…。
・・・
「…でね。山下くんが、あんまり安藤さんのコトを酷く言うもんだから、皆、彼に反発しちゃってね。やっぱり彼が元企画開発部だったからかしら?…中には、彼が企画開発部からのスパイで、安藤さんを引き抜きに来た…的なコトを言う人もいたけど…それにしたって、安藤さんのコトを良く知りもしないで『お荷物』だなんて酷いわよね」
「うぅ…。ま、まぁ…否定も…できないけど」
「そんなコトないわよ。次長も言ってたけど、私たち皆、安藤さの明るくて元気なところに励まされて頑張ってるんだし、安藤さん…自分で気づいてないみたいだけど…皆の企画案に結構的確なアドバイスしてくれてるから、それで皆の営業成績上がってたりするのよ。私も…この間の企画商品、安藤さんの一言がなかったらモノになったかどうか…」
え?
アタシ…アドバイス…なんかしたことあったっけ?
西村さんからの意外な感謝の言葉に、アタシは眠気も少しとんで、考える。
…あぁ。確かに、皆から時々、企画案を見せられて…アタシ、直感的に思いついた馬鹿みたいな感想を言ってたっけ…。え?…アレが…アドバイスになってたの?
「とにかくね、今回は安藤さんの企画開発部行きを悪く言う人、この営業部内には一人もいないと思うわよ。まぁ、その分、山下くんが…村八分?的な感じにどうしてもなっちゃうけどね。でも、仕方ないよね。あんな酷いことを、大きな声で叫んじゃったんだから」
あぁ…。馬鹿ね、山下の奴。
アタシなんかのコトで、どうして彼が急にムキになったのかは分からないけど…
・・・
ただ、アタシには、あの山下の発言に本当の意味での悪気があったとは思えなかった。
何となくだけど…分かるのよね。
同類?…っていうのは、何となく癪にさわるけど…。
山下も、アタシと一緒で、思ったことを後先考えずに素直に口にしちゃう…そういうタイプだと思うのよ。
アタシの直感的な一言が、皆にとってアドバイスになったのは、アタシが遠慮とか相手がどう感じるかをあまり気にしないで素直な感想を言っちゃうところが…たまたま、他の人の意見にはない部分で的を射ちゃっただけなんだと思うけど。山下にも、アタシと同じような、悪気の無い…そういう素直さを感じるのよね。
だから、アタシは、気を使いながらじゃないと会話の出来ない他の同僚よりも、生意気だし、口も悪い山下と話すことの方が多かったんだ。
まるで…「泣いた赤鬼」みたい。
アタシは、古くから伝わる自己犠牲精神を持った鬼の悲劇の物語を思い出しす。
むむ。ということは、この場合、アタシが赤鬼か?
アタシは、自分がトラ皮のパンツを履いて、金棒を持ち、金髪もじゃもじゃの天パーに2本の角を生やして、真っ赤なになって裸の胸を両腕で隠してる…セクシーな姿を思い浮かべてしまって…赤面する。
「あ。安藤さん。見てみて。ほら、あの小原課長の所へ、今、来てる人、企画開発部の人じゃないの?…そういえば、1時間ぐらい前にも覗きに来てたみたいだけど…」
・・・
西村さんに言われて、アタシは小原課長の席の方を振り返る。
あ。緒上さんだ。
「そうか、あの時も、きっと山下くんに用があったというより、安藤さんを見に来たのかもしれないね」
ほとんど興味本位の噂話的なノリで話しかけてくる西村さんに、アタシは愛想笑いを浮かべて曖昧な頷きを返しながら、もう、意識は小原課長と緒上さんの方に集中してる。
親しげな優しい笑みを浮かべる緒上さんに対して、課長席に腰掛けて緒上さんから目を逸らしている小原課長の表情は硬い。
どこか…拗ねているようにも見える小原課長を、アタシは少しだけ可愛らしい…なんて思ってしまった。
何を話してるんだろう?
アタシのコトかな?…それとも、二人は同期だ…って言ってたから、何かアタシの知らない、二人だけの話をしてるのかな。
それとも…二人は…何というか…その…そういう関係だったり…するのかしら?
アタシが、上手く言葉にできないモヤモヤとした気持ちと格闘していると、小原課長と緒上さんが二人してアタシの方へ近づいてきた。え?…何なに?
そして、硬い表情のまま、小原課長がアタシに告げる。
「安藤さん。あなたの研修。今日から。たった今から…なんですって」
・・・
・・・
「どうですか?…ネイさんの様子は」
終業時刻を告げるアラームと同時に、山下は営業部の執務室を後にして、企画開発部企画開発室の執務室へ向かった。
誰にも挨拶せずに急ぐように部屋を出たのは、寧子の心配をしたから…というよりも、営業部内での山下の風当たりが何故かとても強くなっていたからだった。
自分がどうして皆から冷たい目で見られているのか、空気の読めない男を自認する山下にはちっとも理解できなかったが、よく考えれば寧子以外の同僚とは元々ほとんど会話らしい会話もしたことがなく、別にどうでも良いか…と割り切ることにした。
「あぁ…アキラか。安藤さんは、今、ラボの方で…眠ってもらっています」
黒くて太いフレームの眼鏡を少し下にズラして、上目使いに山下に視線を向ける緒上。
緒上の手元にはシートタイプのシミュレーション・デバイスが数枚広げられており、一番上の一枚に各種パラメータを設定している最中だったようだ。
「え?…眠って…っていうことは、ネイさんアッチの世界へ行ってるんですか?」
「いえ。それでは脳を休めることができません。ラボの方で…と言えば、お前なら分かるかと思ったんですがね。分かりませんか?」
「ラボ…?あぁ…ラボか。え?…ラボ?」
「ふむ。それは、分かっていない時の反応ですね。仕方ありませんね。本当は眠っている女性のいる部屋になど、我々、むさ苦しい男が近づくべきではないのですが…」
・・・
緒上は、そう言いながら黒縁眼鏡を外して立ち上がる。
立ち上がりながら、広げていたシミュレーション・デバイス・シートをまとめて重ね合わせ、トントンと縁をテーブルの上に落として角の位置を整える。
どうせ後でまた広げるのだから、広げたままにしておいても良さそうなのに、席を立つ時にはついつい机の上を整えてしまうあたりが、緒上の几帳面な性格を物語っているな…と山下は表情をゆるめた。
「そういう締まりのない表情をするから、あまりお前を連れて行きたくないんですが…まぁ、一応、お前にも状況は把握しておいてもらったほうが良いでしょう。さぁ、ラボへ行きますから、そちらの無塵衣に着替えてください」
「うへ。僕、この服、肌触りが気持ち悪いから嫌いなんですよね」
「もう、お前のそのセリフは聞き飽きました。無塵衣を着る度に同じことを言わないでください。さぁ、行きますよ」
緒上は、自分も無塵衣に手早く着替えると、通称「王妃の鏡」と呼ばれる個人認証装置の前に自分の両眼をかざし、その下部にあるパッドに両手の平を押しつける。
「開け…ゴマ」
少し照れた感じに、極めて古典的なパスワードを唱えると、何も無い壁に見えた部分に通路が現れる。完璧なセキュリティ・システムなど理論的に不可能だが、「王妃の鏡」は顔認証、網膜認証、音声認証、指紋認証、手相認証、静脈認証などを同時に行う、マルチ認証システムである。
・・・
古くからある認証方式を複数寄せ集めただけのようにも思われるが、それらの古典的な認証と同時に、パスワードを唱える時の表情筋の微妙な動きの癖や、脈拍、手の平や眼に微弱な信号を投射し、その反応や脳波の乱れなどを複合的に解析するという複雑な処理を、ほんの一瞬で完了するという極めて念の入ったシステムである。
つまり、今から二人が入っていこうとする「ラボ」と呼ばれる区域が、極めて秘匿性の高い場所であることが窺われる。
緒上が、その通路へと入り、山下がそれに続く。
山下が通路へと入った直後に、壁に開かれた通路への口は自動的に元の単なる壁へと復元される。
あれだけ厳重かつ執拗な承認を要するにも関わらず、承認行為を行っていない山下までもが通路への侵入を許されたのは、「王妃の鏡」に組み込まれたKaaSと呼ばれる仮想思念が、直前の緒上の会話と承認時の思念を読み取って、緒上が二人でラボに入ろうと考えていることを理解した上で、その承認を行ったためである。
KaaSとは、Knowledge As A Serviceの頭文字をとった略称であり、カーズと発音されるクラウド型知識データベースサービスで、古くからある人工知能(AI)や仮想人格(VM)に変わる最新のテクノロジーで、仮想思念という新たなカテゴリに属するものである。
緒上は、後をついてくる山下を振り返ることなく、お構いなしにどんどん奥の区画へと進んで行く。
少し前まで企画開発室の一員だった山下は、別に遅れても支障はないという感じで、慌てることなくゆっくりと後をついていく。
・・・
しばらく進むと、緒上はカプセル型の機器の前で足を止めた。
そして、始めて後の山下の方へと振り返る。
「コイツが何だか、覚えていませんか?」
「…あ。試験用量子通信遮断容器だ。…そうか。なるほど」
「お前が、安藤さんを企画開発室へと異動させる案を提案した時点で、既にお前がコレの存在を念頭に置いていたのだと思いましたが…違ったのですね?」
「いや。悔しいけど…コレをそんな風に利用するなんて、思いつけませんでした。僕が考えたのは、全身麻酔だとか、気絶させて意識を奪っちゃうだとか…そういう荒っぽい方法だったんですけどね」
「怖いことを考えてたんですね。お前は。全身麻酔というのは、結構、危険なんですよ?ナノタブ治療が一般に普及しつつある今となっては、よほどの緊急手術が必要な時以外はされませんし、その場合でも専門の麻酔技師が付くのは昔から変わっていません。気絶させる…なんて言う野蛮なのは、そもそも却下ですし」
呆れる緒上の前を横切って、山下は量子通信遮断容器へと近づく。
安藤寧子が服用したシムタブと呼ばれる錠剤の正体は、胃腸から吸収されるナノマシーンであり、血管を通って脳へと至りプログラムされた脳の領域へと定着すると、そこで脳との間で量子的に情報のやり取りをし、この地域に試験的に敷設された量子通信基地局との間で無線通信を行い、仮想世界を構成するサーバとの間で情報をやり取りするためのナノマシーン・デバイスだった。
技術としては治療用のナノタブと同じであるが、用途が仮想体験を目的とした訓練用システムであるためシミュレーション・タブレット(シムタブ)と呼ばれている。
・・・
緒上は、量子通信デバイスの開発段階において、外部の量子的ノイズの影響を遮断して各種試験を行うための試験用容器が、寧子が服用したシムタブの量子通信をも遮断可能であることに気づいたのである。
ラボの見学と称して、寧子をこの容器のところまで連れてきて、CTやMRIのようなモノだと嘘をついて、寧子をこの容器内に試しに横たわらせた。
事前に、執務室の方で、睡眠導入剤を少量入れたコーヒーを飲ませておいたこともあり、緒上の専門用語を並べ立てた難解な機器の説明を横たわった状態で長々と聴くことになった寧子は、緒上の思惑どおり、程なくスースーと寝息を立て始めた。
まぁ…、寧子の消耗の具合から考えると、睡眠導入剤など無くてもすぐに寝息を立てることになったようにも思うが…。
少し狭いが何とか膝を曲げれば寧子を寝かせた状態で容器の蓋をすることが可能だったので、緒上はシムタブがサーバと接続し、寧子が再び仮想世界へとアクセスしてしまうより前に、彼女を量子通信網から隔離したのである。
「で…サーバの方のログは?」
「確認しました。安藤さんがアクセスしている形跡はありません」
「じゃぁ…ネイさんのバイオロジカルなコンディションは…」
「そうですね。若干ですが、良好な値を示しつつあります。まぁ…まだ若いですからね、2~3日の徹夜ぐらいは十分に耐えられるんでしょう。羨ましい限りです」
「あははは。さすがネイさん。ちょっとやそっとじゃ倒れたりしないんですね」
「安心するのは良いですが…笑うのは不謹慎ですよ。アキラ」
そう。依然として、寧子の脳に結びついた3錠分のシムタブが消滅したワケではないのだ。
そして、いくら彼女のためと言っても、未婚の若い女性をこのまま一晩ラボ内の容器に寝かせておくわけにも行かない。下手をすれば、両親から捜索願いが出てしまう。
・・・
「確認したところ、安藤さんは残業で遅くなることも希なようですし、終業時間後はどこかへ寄り道することも珍しいそうです」
「そうか。ってことは、あんまり長々と寝かしておいてあげられない…ってことですね。あ。そうだ!先輩、そう言えば…一昨日の約束では、今日は3人で食事会を開くってことになってませんでしたっけ?」
「…そうでした。すっかり忘れていましたが。でも、どうせ今はそれどころじゃないでしょう。そろそろ、安藤さんを目覚めさせて自宅へ帰さないと…」
「いや。だから先輩。ひょっとして、ネイさん、家族に今日は遅くなる…っていって出社してるんじゃないかなってことですよ」
「あぁ…。なるほど…ですが、それをどう確認しますか?…誘った私ですら、この状況の中で忘れてしまっていたぐらいです。一番の当事者である安藤さんが、忘れてしまっているという可能性も高いですよ?」
「なら、本人に聴いてみればいいじゃないですか。簡単なことですよ」
緒上が、あっと…声を上げる間も無く、山下は量子通信遮断容器の蓋を開けてしまう。
寧子は今、睡眠状態にあるから、このままだとすぐにシムタブを通じて仮想世界にログインしてしまうのだが…
「ほら。ネイさん、いつまで寝てるんですか!?起きてください!!」
【ペシっ!】
「んむぅ~?」
・・・
山下は、遮断容器から折り曲げた足だけを覗かせる寧子のスネに向かって、容赦なくデコピンならぬスネピンをお見舞いする。
寧子は呻き声を上げるものの、すぐに起きる気配はない。
そこで山下は、今度は寧子の足の裏をくすぐろうと…
【ゲシッ…ドカッ…バタン…きゅぅ~】
近づいた瞬間に、寧子から壮絶な蹴りをもらって吹っ飛び、ラボの壁面へと激突した後、崩れるように倒れて白目を剥いた。
「な…な…なに、何?…何しようとしてくれちゃってんのよ!?…セクハラ?…いや、ハラどころじゃないわよね?コレ。もう、犯罪でしょ!!このドスケベが!」
上半身が遮断容器の中に入ったままなので、若干くぐもった声で叫ぶ寧子には、自分の足に対して不埒な真似をしようとした者の正体がまだ分かっていないハズだ。
寧子が体を何とか容器の外に出すと、向かい側の壁の下には、倒れている男性と、その男性をオロオロしながら見ている緒上がいた。
「あれ?…緒上さん?…あぁ。アタシ…研修で…ん?…あれ?…そこで倒れているのは山下?…っていうか、何かスネが痛いし。痛いってことは夢じゃないよね?…てか、アレ?何だか少しだけ、頭がスッキリしてる?…ん?…ん?」
状況の飲み込めていない寧子は、緒上に視線で説明を求めるのだった。
・・・
次回、「何のために?(仮題)」へ続く