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Optimization -幸せにしてあげる-  作者: kouzi3
第1章 アタシの仕事
5/10

(5) 心機一転

・・・

 

 「どうしたんだ、彼女?…何か、資料の山に埋もれてるけど…」


 (…どうもしないわよ。仕事してんのよ。仕事!)


 「凄い…な。今日は、まだ、一言も無駄口を叩いてないんじゃないか?」


 (そう言うアンタたちこそ、無駄口叩いてないで仕事しなさいよ。仕事!)


 「…アレって…もしかして…仕事…してる?」


 (そうに決まってるでしょ!?…勤務時間中よ…他に何するっていうのよ?)


 「おい。困ったな。俺、今日、傘もってきてないんだよ…どうしてくれるんだ?」


 (雨なんか降らないわよ!!…失礼ね)


 「見ろよ、目の下のクマ…ひょっとして、徹夜したのか?…酷い顔だな」


 (!!!…酷い…顔?)


・・・・

 

 「あーーーーーーーーーーー!!!。もう、うるさい!静かにしてよ!」


 アタシは、遠巻きに様子を窺っては、ヒソヒソと勝手なコトを言う同僚たちに集中を乱され、遂に怒りを爆発させた。


 まったく、冗談じゃないわよ。普段は、アタシが職場内のピリピリとした雰囲気を和ませようと少し話をしただけで「遊んでないで仕事しろ!」…とか、うるさく言うくせに。

 どうして、アタシが口を開く間も惜しんで、一所懸命に仕事をしているっていうのに、アレコレとうるさく言ってくるわけ?

 

 「ネイさん…。皆が、不気味だから…事情を確認してこいって…」


 殺気立っているアタシのところへ、いつも通りに眠そうな顔をした山下が、おどおどとしながらやってきた。腹ぺこのライオンの前に自ら進み出る子羊か…アンタは。


 「…ちなみに、ライオンと子羊が、同じ場所にいることって…少ないと思うんですけど…あと…どうせなら、ライオンより女豹とかの方が、カッコいいんじゃ?」

 「んなっ!?…何で、アンタ…どうしてアタシの心が読めるわけ?」

 「…いや。画面に…表示されてるし…」


 山下が、ぬっと差し出した指の先には、アタシが資料から参考となる部分をメモするために開いていた携帯型思考入力手帳デバイス「ポメラニアDm7-100」だ。

 どうやら、入力思念に混ざって、雑念までもが記録されてしまったらしい。


・・・

 

 「あぅ…。アタシ、だからコレ苦手なのよね…」

 「普段から使ってれば、意図しない入力はちゃんとフィルタリングできるように慣れるハズなんですけどね…」

 「き、今日のアンタ…な、なんか攻撃的ね?」

 「そうですか?…そうでもないと思いますけど?…そうなのかな?…どう思います?」

 「だ!!…だから、何で一周回った感じでアタシに聞くのよ。それも、攻撃の一種だとしか思えないわ」


 アタシは、山下のヘンテコな問いに律儀にコメントを返す。

 でも、山下はアタシの言葉を半分も聞かずに、クルッと背中を向けて、もう皆のところへ戻ろうとしている。


 「ちょっと!アンタ、皆から事情を確認して来いっていわれたんじゃなかったの?」

 「あぁ…。もう良いです。分かりましたから…」

 「な、何が分かったっていうのよ!?」

 「えっ?…だって、それ。仕事じゃないですよね?…だから、皆さんに、アレは遊んでるだけだから心配要らないって…お伝えするんです」

 「ちょ…ちょっと、待って。まてまてまて。な、何を根拠に、ひ、アタシが、あ、遊んでいるなどと…し、失礼なコトをのたまうのよ…アンタは!?」


 背中を向けたまま話していた山下は、そこで再びクルッと体をこちらへ向ける。

 で、スタスタとこちらへと戻ってきて、アタシの前に立ち止まる。

 そして、失礼にも、乙女の顔に向かって人差し指を突きつけながら…


・・・

 

 「だって、その目の下のクマ。…僕、言いましたよね。『社会人として…どうかと思いますよ』…って」

 「な、何で、そこで急に、社会人として…云々をアンタに言われなきゃいけないのよ?」

 「その大量の資料。『地球…生命誕生までの奇跡』、『テラフォーミング…地球外惑星に生命を育める環境は整備できるか?』、『環境保全大全』…全部…仕事と関係ない資料じゃないですか?…ってことは…」

 「か、関係ないことないわよ!…わ、我が社の技術力で、何か、社会の環境について貢献できる提案ができないか…って。か、画期的な企画なら、売れるかもしれないじゃないの!?」

 「へぇ…。うまいこと言いますね」

 「な…何よ。その目は。い、嫌味な言い方しないで」

 「いや。違いますよ。心から感心しているんです。その言い訳、僕も使わしてもらおうかな。いや。実際、終業後に調べ物して、夜中にあんな疲れること毎晩やってると、正直、目の下にもクマができちゃいますよね…。うん。良いアイデアを教えてもらっちゃったな。今日から、僕もそうしよう。…今度、いつか、お礼しますね」


 一人で何やらしきりに感心して、山下は再び背を向けてアタシから去っていく。


 「…夜中に…あんな疲れる…ことぉ?………!!!…ま、まさか…」


 アタシは、右手を肩の辺りでヒラヒラさせながら去って行く山下の背中を目で追う。

 そして、アタシは思い至る。山下が夜なよなやっているという…疲れること…


・・・

 

 「いやん…エッチ!…って、何考えてんの!?アタシ。しかも山下なんかで。オエッ」


 あー。もう、何だかなぁ…。

 せっかく、朝から集中して調べ物をしていたのに、アタシは急にやる気がしなくなってしまい、椅子の背もたれに体を預けて大きく伸びをした。


 思いっきり仰け反って、寝不足で凝り固まった体の筋を伸ばす。

 事務室の天井の蛍光灯の光が、眩しくてアタシは目を瞑る。

 アゴを天井に突き出すようにして、頭をグッと後ろに反らすと、椅子の背もたれがギシっと音を立てると、アタシのルーズボブの髪が重力に従って後ろに流れ…


 「何をしているのかしら?…あなたは。椅子も会社の備品なのよ。そんなに体重を掛けたら壊れてしまうじゃないの」


 目を開けると、オバァがアタシの顔を上から覗き込んでいる。

 げっ!…ヤバイ…また、お小言もらっちゃう!?…今日は、1時間コースかも!?

 そのまま体を戻したら、オバァの顔に頭突きをしてしまうので、アタシはかなり無理な体勢で体を捻って、椅子の背もたれを抱きしめる格好へと姿勢を変える。

 …って、そんな上手く体が動かせるわけないから、背もたれを抱きしめたままで下半身は椅子からずり落ちちゃったんだけど…


 「そんなに驚かなくても良いわ。別に、小言を言うつもりはないから。だけど、今日は随分と真剣に仕事をしているのね…」


・・・

 

 ありゃ?…お小言じゃない…の?

 オバァが、普通の姿勢に戻ってくれたお陰で、アタシも普通に椅子に腰掛け直すことができた。


 「…あ。はい。あの、良い企画を考えるためには、マズ、基礎的な知識を、もっと、広く、そしてある程度は深く…って、そう考えたんです」


 せっかく褒めてくれてるようなので、アタシは煙たがらずに真面目に返事をしてみた。

 オバァは私の机の上の資料に視線を飛ばす。

 あぁ…。ジャンルが片寄ってる…とか、我が社の業務に関係あるのか?…とか、言われちゃうかしら?…さっき、山下にも言われたし…


 「随分と…壮大なテーマの企画を考えるようね。でも、ナレッジを増やすのはとても良いことよ。あなたは今まで、発想はとても面白いのに、基礎的な知識を疎かにするから企画の内容が現実味を欠いてしまうきらいがあったの。それに気づいただけでも、大きな進歩と言えるわね」

 「…は。あ。はい。あ、ありがとうございます」

 「せっかくそれに気づいたのなら、焦っては駄目よ。知識は1日や2日で身につくものではないわ。どうせ、今まで何ヶ月も売上ゼロなんだから、もう2~3か月は成果が出なくても仕方ないと思いなさい。私も何も言わないから」

 「い。いえ。が、頑張って、出来るだけ早く結果を出しますから…」

 「だから…焦っては駄目と言ってるでしょ。付け焼き刃のナレッジではなくて、本当のナレッジを身につけなさい。良い?…これは上司としての命令よ」


・・・

 

 思いがけず思いやりの籠もったアドバイスに、アタシは、いつもとは違う妙に優しいオバァ…いや…小原課長を、驚いた顔で見つめてしまう。


 「…ど、どうしたんですか?課長…何か、優しいですよ?」

 「む。失礼ね。あなた。私は、別にいつもと変わらないわよ。いつもと違うのは、あなたでしょ?…あなたが頑張ってるなら、私はいつでも温かい目で見守るわよ」

 「す、すいません。失礼しました」

 「…いいわ。とにかく頑張りなさい。でも、頑張り過ぎても駄目よ。睡眠はちゃんと取りなさい。目の下のクマ…酷いわよ?…女は身だしなみも仕事のうちなんだから。とにかく、長続きするためには、根の詰めすぎは良くないから、少し休憩なさい」


 少し照れたように頬を染めて、小原課長はアタシにウィンクをしてから、颯爽と体を捻って課長席へと戻っていった。

 わぁお。オバァ…なんてあだ名で呼んじゃってたけど、課長ってよく見ると結構、綺麗な肌してたのね。それに、ウィンク…とか、ちょっと色っぽいし。

 褒めてもらったせいか、アタシの中で、少しだけ小原課長への好感度が上がった。


 「ふわぁ…ぁ」


 しばらく無意識に課長の後ろ姿を見つめていたアタシだったけど、急に疲れを感じて大きな欠伸が口から漏れてしまう。

 そうね。少し休憩した方がいいかも。居眠りしちゃうわけにはいかないけど。

 アタシは、買い置きの缶コーヒーを飲んで、両手で目の辺りをマッサージした。


・・・

・・・

 

 「アキラ。彼女の様子はどうですか?」


 山下アキラが、自販機のある喫茶コーナーで冷たいココアを飲んでいると、先輩の緒上が声を掛けてきた。

 彼女…というのは、当然、ネイ…すなわち安藤寧子の事だろう。


 「…あ。先輩。見て下さいよ。この自販機。昨日より温かい飲み物の割合が増えてるんですよ。僕、冷たい方が好きなのに」

 「ふぅ。相変わらずマイペースですね。アキラ」

 「夜の間に、入れ替えたんですかねぇ?…あ。夜と言えば、ネイさん。何か…夜更かししてるみたいで、目の下にクマを飼ってましたよ」

 「…やっぱり」


 緒上は、「自販機の入替話」のついでのように答えるアキラを、特に無礼とも思わなかったようで、考えるような表情をしながら、さらに問いかける。


 「どうして、彼女は…今日、休まなかったんでしょうか?」

 「ほへ?…え?…ネイさん、今日、休む予定だとかって、言ってましたっけ?」


 アキラは、緒上の疑問に、質問で答える。

 昨日、この場所でネイを含む3人で話をした時に、そんな話をした記憶はないからだ。


・・・

 

 「…アキラ。お前は、少し、自分のしでかした事を甘く考えていますね。アレを3錠も同時に飲んだ彼女の体に、どのような副作用が出るのか…少しは考えて見たらどうなんですか?…今のところ、直ちに【死】に至るような徴候は見られませんが…」

 「あぅ…。【死】…って。そんな、大げさな」

 「アキラ…お前は、実験当初のアポトーシス機能を付与されていなかったナノタブが、機能も失わず、体外へ排出されることもなく必要以上の働きを継続した結果、癌化と同様な悪影響をもたらしたという歴史を学ばなかったんですか?」


 緒上が、両手を腰に当てて、心底呆れたといった表情で首を横に振る。

 アキラは、少しだけムッとしたらしく、慌てて反論する。


 「し、知ってますよ。そのぐらい。でも、だから今のアレにはアポトーシス機能を組み込んであるんでしょ?…もう、あれから一晩経ってますし、そもそも飲んですぐに一回分は効き目が出てたわけですから…少なくとも1錠分は、もう老廃物として体外へ排出されてるハズですよ」

 「お前は幸せな奴ですね。そんな単純なことなら…確かに何の心配もいりませんが。ナノタブには、抗免疫機構も組み込まれています。そうしないと、そもそも期待した治療効果を発揮するまえに、生来の免疫機構によってナノマシーンが滅殺されてしまいますからね。…それが、3錠分。同時に抗免疫機構が作用した場合にどうなるか…」


 アキラは、今はネイと同じ営業部にいるが、昨年までは緒上と同じ企画開発部総合開発室に所属していた。だから、ネイが居ない二人だけの今日の会話は、どうしても技術よりになる。意味不明の専門用語が並んでいるが、二人に取っては共通知識らしい。


・・・

 

 「だって、3錠とも基本的には同じナノマシーン…同じ有機質でしょ?…なら、免疫機構への影響だって1錠分のときとそう違いが無いんじゃないですか?」

 「…素人のようなことを。だから、お前は営業部へと異動になったりするんです」

 「いや。違うって知ってるでしょ!?…僕の異動は…」

 「冗談です。しかし、免疫機構に関するお前の解釈が、素人的だというのは本気で言ってるんですよ。量的にも3倍の負荷が免疫機構にかかります、それに…有機質としては同じですが、アレは1錠ずつ、識別子としての遺伝子情報が変えてあります」

 「あ…そうか」

 「あ…じゃ、ありません。各錠剤に含まれる識別子の異なるナノタブ同士が、互いに互いを異物として認識し、抗免疫機能によって攻撃し合うということもあり得ます」


 それを聞いたアキラは、飲みかけの冷たいココアの缶を緒上の方へと何故か突き出し、首だけを大きく下に向けて足下を見ながら考える。

 ちょっと、待て…ということなのだろうか。

 緒上は、首を傾げながらアキラの次の言葉を待つ。


 「…ちょっと、待って下さい。えっと、3錠の抗免疫機能が互いに攻撃し合ったなら、今頃は3錠とも自滅して…心配することは無いってコトじゃないっすか!?…なぁ~んだ、心配して損したぁ~♪」


 満面の笑みを浮かべて、手に持ったココアの缶を口元に引き寄せるアキラ。

 口に付ける前に、緒上に向かって、乾杯?…のような仕草をしてから、ぐいっと飲む。

 緒上は、そんな脳天気なアキラを、半眼になって呆れたように見つめている。


・・・

 

 「少しも心配なんかしていなかったように見えましたが…でも、アキラ。抗免疫機能が、確実に全ての機能を破壊し合えば…お前の言うとおり、何の心配も要りませんが…もし、機能の一部だけ…例えば、アポトーシス機能だけが失われていたとしたら…」


 緒上は、その先の恐ろしい結末を自分の口からはとても言えなかった。

 しかし、そんな心配性な緒上とは対照的に、脳天気なのか天然ボケなのか…とにかく万年眠そうな寝ぼけ顔のアキラの笑顔は消えない。


 「そんな狙ったかのような機能喪失はあり得ませんよ。大丈夫ですって」

 「まぁ。私の取り越し苦労であるほうが…良いとは思いますが…」

 「それより先輩。明日、どこで御馳走してくれるんですか?」

 「御馳走?…私が?」


 きょとんとした顔をする緒上に、アキラがムキになって抗議する。


 「え。先輩、忘れたんですか!?…明日、ネイさんと3人で食事会をするって…言い出したのは先輩じゃないですか?…当然、一番年長だし、稼ぎも良い先輩のおごりだって…期待してたのに!」

 「安藤さんの分はともかく、何で私がお前の分まで奢らないといけないんですか?…っていうか、報酬だけなら、私よりもアキラ、お前の方が上なんじゃないですか?」

 「ま………まさか…。そ、そんな、コトあるわけないじゃないですか?」

 「ふぅん。惚けますか。まぁ、良いでしょう。別に金に困っているわけではありませんから、出せと言うなら出しますが…」


・・・

 

 「やった。ご馳走様でぇ~す」


 アキラは、残ったココアも飲み干すと、「それじゃ。あんまり休憩が長いと、またネイさんに嫌味を言われるんで!」…と手を振って休憩室を後にする。

 自分でゴミ箱に入れていけば良いものを、何故か緒上の手に空き缶を押しつけて…


 「ふぅ…。まったく、困った奴です」


 緒上は、仕方なくアキラの代わりに空き缶を回収ボックスへと入れる。

 そして、備え付けの手洗い場で手を洗いながら、一人で呟く。


 「飲んだのは3錠…。プレゼンテーションの直前に一度。帰宅途中の電車内で一度。そして、夕べの一晩中で…計3度。特に副作用もなく、別々に3錠を服用した場合と同じならば…これで全ての錠剤の効果は切れるハズですが…」


 白いハンカチで手を拭いながら、緒上は手洗い場に備え付けられた鏡を見る。

 少し長くなり過ぎた長髪に、自然なウェーブがかかったヘアスタイル。

 顔の輪郭は、男にしてはややスッキリとしすぎた卵形。

 眉は濃すぎず、薄すぎず…のどっち付かずで、目も少女漫画に出てくる優等生のような威厳の無さだ。緒上は、他の男たちが耳にしたら怒り出しそうだが、自分のその顔立ちがあまり好きではなかった。…やがて、鏡から目を離し呟く。


 「…とりあえず。今夜。どうなるか…しっかりとモニタリングするとしましょう…」


・・・

・・・

 

 「そうか。バナナって、栄養分…有機質が豊富な土壌じゃないと駄目なんだ…。あの人気ゲームで砂浜にしか植えられないってルールになってたけど。ナニナニ…水はけの良い土地が良いのか…。あぁ、ということは砂地でも良いけど、栄養は必要ってこと?」


 アタシは、テラフォーミングや環境の資料を読むのに飽きてきたので、今度は生物学や植物学の参考書を読むことにした。

 し、仕事よ。もちろん。

 ちゃんと、仕事に「も」、この知識は活かすつもりなんだから、誰が何と言ってもこれは仕事なんです。


 口の脇にココアの滴を付けたまま休憩から戻って来たヤマシ~太の奴も、今度はアタシの読んでいる参考書をチラッと見ても、何も言わずに自席へと戻っていったんだから。

 なんだか、事情を知ってるっぽい山下だけど、その山下にも遊んでいるように見えないなら、この参考書はセーフね。セーフ。


 自分でも、誰に何の言い訳をしようとしているのか意味不明なことを考えながら、アタシは資料を読み進める。

 もう、かなり目がショボショボしているが、ただでさえ営業成績の悪い私が、勤務態度まで「元気『の』仕事」…何て言う不名誉な役割に満足していたら、いつ解雇クビにされちゃうか分からないもんね。眠いなんて、言っていられない。頑張らなきゃ。


 何やかんや言って、昨日の「元気『の』仕事」発言への傷は、まだ癒えていない。


・・・

 

 そりゃぁ、アタシにとって「元気」は何よりの長所よ。

 あの次長の発言は、とってもショックだったけど…でも、だからといって元気じゃなくなりたい…なんてコトは思わない。

 駄目なのは「の」だ。

 もう、それしか仕事として成立していないような言われ方は、いくらアタシでも傷つく。

 だから、せめて「に」か「な」…えっと分かり難いわね。

 つまり、「元気『に』仕事」か、「元気『な』仕事」っていうふうに、あくまでも「元気」って言葉は、「仕事」に対する副詞か形容動詞として使って欲しいのよね。


 「元気『の』仕事」…だと、仕事=元気…ってことになっちゃうでしょ?

 そりゃ…元気にしてるだけで、それが仕事になって、お給料を貰えるなら楽だけどさ。

 なんか…さすがに、一人前の社会人の仕事がそんなんじゃ…情けないわよね。


 「おっと。いけない、いけない。いつまでもクヨクヨしない。アタシには責任があるんだから。…社会人としてね。もちろん。知識の習得、知識の習得」


 アタシは、気持ちを切り替えて目の前の資料へと意識を戻す。

 バナナは砂地でも育つってことは、問題は栄養…有機質が不足している…ってことなのだろう。

 待てよ…。水はけ…って、一見良さそうに見えたけど、海の真ん真ん中にある砂の小島よね。砂だからって、水はけが良いとは限らないのかしら?

 だって、水が捌ける場所が無いものね。むしろ、無限に水が供給されちゃうし…。

 それも、海だから…海水?…が。


・・・

 

 アタシは、海のことに考えが及ぶと、今度は魚類の生態に関する資料を手に取る。


 「え…と。鮭、シャケ…しゃけ…は…あ。あった。このページだ」


 考えもなく鮭の稚魚を海へと放流してしまったけど、鮭の稚魚って海水の中で生きていられたのだろうか。

 アタシのイメージの中では、鮭なら川から海へ旅立って、再び川へと産卵のために戻って来る…という単純なストーリーしか浮かばないから、海水でも淡水でもどちらでも生きられる便利な魚…っていう感じで、それで選んだんだけど。


 そう言えば、魚って、良く「淡水魚」とか「海水魚」っていう分類をするわよね。

 そう考えると、鮭って、一生のうちに川と海の両方を行き来するんだから…不思議な魚よね。普通の魚とは違うのかしら?


 調べていくと「広塩魚こうえんぎょ」とか「広塩性魚」とかいう分類があるということが分かった。


 「へぇ…。鮭の他に…ウナギも同じ分類になるんだ。そういえば、ウナギで有名なあの湖って、海水と淡水が混ざり合った汽水湖とか言うらしいって聴いたことあるけど…そういうのも関係あるのかな?…マグロとか…そういうのは海水魚だよね…ふむふむ」


 新しい知識を吸収するのが何だか心地よくって、アタシは鼻歌交じりに独り言を呟く。

 一口に海水魚と言っても、それにも沿岸だとか外洋表層だとか深海とか色々あるらしい。


・・・

 

 確かに、海…とか言ったって、場所によって全然、環境が違うもんね。

 そう言えば、会社だって、部署が違えば環境が全然、違うと思うのよね…。

 アタシには、営業部の仕事…環境…とかが、合って無いってことかなぁ。

 今年に入って契約の一本も取れないし、オバァには怒られてばっかだし、次長には「元気『の』仕事…」とか言われちゃうし。


 あ。そうだ。

 アタシ、意外と企画とか開発向けなんじゃないかしら?

 だって、こうやって色々と調べるのって、今まであんまり経験したことしたこと無かったから、自分でも気づかなかったけど、楽しいし、適性があるんじゃないかしら?

 ほら。あの夢の中のジウっていう男性ひとも、私の発想を「面白い」って褒めてくれてたし。

 そうかぁ~。アタシ、才能あるのかぁ~。企画開発ね。今度、異動希望を出してみようかな。オバァがビックリしちゃうかもな。


 「安藤さん。遊んでいるよりはマシですけど、皆の邪魔です。その鼻歌は、止めてくれないかしら?…そんなに唄に自信があるのなら、今度、部内の懇親会の2次会かなにかの時に、じっくりカラオケを聞かせてもらいますから」

 「は!?…あ、アタシ、唄ってました?…ご、ゴメンナサイ。つ、つい楽しくて」

 「…仕事が楽しいのは何よりです。だけど、遊び場ではないのよ。気を付けて」


 さっき、ちょっぴり優しいと思ったオバァだけど、やっぱりいつも通り厳しかった。

 アタシばっかり直ぐに叱るんだから。山下の奴だって、あんなやる気なさそうなのに。


・・・

 

 アタシは、立ち上がってオバァと同僚たちに、ぺこぺこと頭を下げてお詫びしながら、片肘をついてだらしない姿勢でマンガのようなものをペラペラとめくっている山下を恨めしそうに睨む。


 「あ?…これ、マンガじゃありませんよ。マンガに見えるかもしれませんけど…IT系の基礎知識を解説するHOW-TO本です」

 「別に、アンタが何読んでるかなんて、気にして無いわよ。って、どうして、いつもアンタは、他人の心を読んだようなコトを言えるワケ?」


 山下は、両手を広げ身振りだけで大げさに「さぁ?」というポーズをして、再びマンガ…のような解説本に目を移した。

 アタシも、ヤマシ~太の奴なんかに構っている暇はないので、再び資料に目を移す。

 眼精疲労のためか、若干、頭痛や肩こりがするが、業務終了時刻まであと僅かだ。

 頑張ろう。


 えっと、で、鮭が海水と淡水の両方に対応できるのは…なるほど、うろこに他の魚と違って、体内へ入ってくる塩分の濃度を調節する機能があるのか。

 でも、それって生まれたばかりの…えっと仔魚しぎょだったけ?…の時から出来るのかしら。アタシは、ちょっと疑問に思う。

 だって、もし可能なら、ワザワザ、体を傷だらけにしながら親鮭が川を遡る理由がないような気がするんだ。


 「う~ん。ハッキリと書いてないけど、やっぱり卵は淡水で産む必要があるみたい」


・・・

 

 ネット端末でナレッジ・データベースにアクセスすると、いくつかの鮭の育成事例が見つかった。どれも、綺麗な澄んだ水でないと鮭の仔魚は死んでしまうとある。


 「ふ~ん。鮭の育成って難しいんだね。でも、小学生とかでも先生たちと一緒に頑張って育てて…放流とかしてるんだ。偉いなぁ。あ…そもそも、海水だと鮭の卵って浮かんじゃうんだね。それじゃ、他の魚に食べられちゃう。それも川に帰る理由かな?」


 鮭は卵から生まれたあとは、しばらく上手に泳ぐこともできないらしい。

 お腹にくっついた袋から栄養をとったり、流れてくるプランクトンを細々と食べながら、川底でジッとしているらしい。

 だから、水槽で飼育した場合でも、水槽の底にずっと沈んだままで、死んでる?…とかと勘違いしそうになるそうだ。

 しかも、とても弱々しくて、中には底に沈んだまま死んでしまうのもいるらしい。

 海に出られるようになるのは、泳ぐ力を身につけて水面の方へと浮上してから。


 鮭の種類によって海に出るまでの期間は数ヶ月~2年ぐらいと大きく違うらしいけど、海に出てからは、きっとより大きな魚に食べられないように生き残る必死の闘いが始まるのだろう。

 そして、次の命を産むために、また生まれた川へと帰ってくるんだ。


 そういう、デリケートな鮭の稚魚を…アタシは、何の知識も考えもなく、海へと放ってしまった。

 唇を噛みしめながら、アタシは資料を睨む様に読む。


・・・

 

 そもそも、あの海の水質はどうなんだろう?

 とても澄んでいるように見えたけど。


 あ。

 でも、潮の香り…ってしただろうか?

 あと、磯の香り…って感じも無かったような?


 そうだ。

 あの砂浜には、貝殻の一つも落ちていなかった。

 あの砂浜には、カニも、ヤドカリも…アタシが苦手なグニュグニュした感じの奴も…海草のようなモヤモヤしたものも…何も無かった。


 どういうことだろう。

 どういうことだろう。


 あの、ジウという男性ひとは、色々とあの世界の設定のことを話してくれたけど、残念なことに、知識の無いアタシには、それすらも良く理解できなかった。

 今日、たった1日。眠気と闘いながら、ちょっとやそっと資料を読んだからって、急にアタシの知識量が増えることはないけれど、でも、やっぱりアタシは色々と学ばないといけないんだろうな。


 それが、この営業部での自分の仕事にも、ちゃんと繋がるのだということを、アタシはやがて少しずつ理解していくことになる。


・・・

次回、「副作用?(仮題)」へ続く。

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