風
初盆なんだから、帰ってこい。
親父のその言葉が慰めにすぎない事は、わかっていた。
鞄の中のケータイに手を伸ばす。何かが指先に当たり、手紙や電車のチケットと一緒に送られてきた飴の袋だと思い至った。途端に、苦い味が口の中に広がる。いらないと何度言っても、子どもの頃好きだったからと、田舎から送られて来る琥珀色の飴だ。
袋を奥へと押し込み、ケータイを取り出した。芳しい情報は今日も届いてはいない。
絶え間なく体を揺さぶる昼下がりのローカル線の振動は『世界一の株のディーラーになる』と息まいて東京へ飛び出していった男を同情するかのように穏やかで、むかついた。
視界の端で、景色が後方へ飛んで行くのを感じる。どうせ、灰色の、寄る辺ない感情を切り貼りしたような風景に決まっている。眺めても、息苦しいだけだ。
顔を伏せ、膝に置いたパソコンの画面に目を落とす。一瞬で、信頼は裏切りに、栄光は紙くずに、永遠は刹那に代わる。成功のセオリーは他者のデマゴギー。隙を作ればあっという間に食いものにされるのだ。簡単に価値が翻る市場では息も抜けず、目まぐるしく変遷する数字に齧りつく。
きっと、どこかに勝機はある。まだ、まだ俺は、負け犬なんかじゃないはずだ。
子どものはしゃぐ声が聞こえた。同じ車両に乗っているのだろう。ボックスシートでは、他の客の姿は見えない。
楽しげに何かを話す高い声に、柔らかな女の声が返事をした。
胸に痛みが走る。キーボードの上で踊っていた指が止まった。
と、窓が音と立てて激しく揺れた。突然、世界が闇に飲み込まれる。驚き顔を上げると、瞬きをするように頭上の灯りがついた。
ハッとし、慌てて画面に目を落とす。
「くそっ」
そうだ、トンネルだ。地元に着く手前にある、くそ長いこいつの事を忘れてた。
キーを何度か叩くが、画面は時の流れを忘れたようにフリーズしている。電波が途切れたのだ。時計を見る。トンネルを抜ける時間を計算する。キーボードの上で無意味に指が地団駄を踏んだ。
泣き声が、した。
舌打ちしながら乱暴にパソコンを閉じ、座席から顔を出す。闇を恐れた子どもを、なだめる女の声が聞こえた。たぶん、母親なのだろう。
なんだよ、トンネルくらい……。
座りなおした。頬杖をついて窓の外に目をやった。
ぎょっとする。
暗闇に浮かぶ青白い顔の、尻尾を巻いて田舎に戻る負け犬が、こっちを見ていた。
――これが、今の俺。
乾いた唇から笑みが零れる。こみ上げる弱気を震える拳で握りしめた。頬がひきつり、目頭が熱くなる。慌てて目を瞑る。が、闇の中の闇は、さらに深く、逃れようがなかった。
頑張ったさ。できる限りの事はやったんだ。休みも、褒美も、安らぎも無く、母さんの病状の悪化を聞いても、とにかく、がむしゃらに走ったんだ。
「俺、間違っちゃいなかったよな……」
最後に聞いた母さんの声は、ケータイ越しだった。帰って来られないのかという親父から、電話を取り上げた母さんは、一言、掠れる声で俺にこう言った。
「大丈夫」と。
葬式すら出られなかった。死者を弔うより、死にかけの会社を立て直すのに必死だった。でも、結局のところ、もがけばもがくほど、出口は遠のいて……。
「お兄ちゃん」
顔を上げると、少年が立っていた。
「お兄ちゃんも、トンネル、怖いの?」
少年は日に焼けた顔で、にっと笑う。
「大丈夫」
「え?」
「母ちゃんが言ったんだ。トンネルは、いつか必ず抜けるって。だから、怖がらなくていいんだよ」
体から力が抜けていく。少年の顔を改めて見た。涙の跡があった。目が、まだ赤い。
「そっか……そうだよな」
しがみついていたパソコンを、鞄にしまった。ひょうしに、飴玉の袋が転がり出る。俺はそれを開けると、少年に差し出した。
「一緒に食うか?」
―― 刹那、世界が眩いほど輝いた。
振り返る。目を、瞠る。大きな海と、果てしない空が広がっていた。視界いっぱいに。
清々するほどの青と、目に痛いほどの陽の光に、目を細める。窓を開ける。風が舞いこみ、熱を拭ってゆく。頬に太陽のぬくもりを感じ、草の匂いがした。
小さな包み紙を開け、口に放り込む。
電車がゆっくり、スピードを落とし始めた。