表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

接近

In vitro1     コリン



 「ブラック。ブラック。どこにいるの」

 ハーシェルは裏庭を歩きながら呼んだ。 雨曇りの、すこし冷たい風の吹く日である。その日、ブラックはハーシェルの家に来ていた。

 かれらが古代建築の修復現場の上で会って半年目、ハーシェルは初めて〈楽園〉で知り合った友人を家につれてきていた。いや、正確には二回目だが、一人目はかれの家の隣家の少年であったため、まだ幼かったハーシェルとその少年は招くともなくしょっちゅう互いの家を行き来していたのである。

 ブラックが今回来たのには前段があった。まずブラックが、唐突に、隠者さまとかれと三人で食事をしているときにこういったのである。

 「俺、ハッシュの家に行ってみたい」

 日中、隠者さまの家に来ている家政夫の作っていったポトフと、ハーシェルが用意した簡単なサラダとパンの夕食をとっていた隠者さまとハーシェルは、顔を上げた。

 「僕のうち?」

 葉野菜とベーコンののったフォークを口元でとめたまま、ハーシェルはいった。

 「そう。おまえんち」

 ブラックはフォークを置いて、かれを見返した。

 「なんで」

 「行きたいから」

 無心な黒くまたたく眸が、ハーシェルのうす青色の眸をとらえた。ハーシェルは隠者さまの方を見たかったが、ブラックに気づかれるとまずいので、話をそらすようにふたたびうつむいてポトフをつついた。 いやな思い出がよみがえってきていた。



 かれがブラックを家につれていきたくないのにはわけがある。

 今まで誰にも、隠者さまにさえいっていないが、いつかいってしまいたい気持に駆られている、理由である。

 七歳から〈楽園〉で暮らしてきたハーシェルはいつしか、自分たちが〈楽園〉で果たす役割が単なる研究という名目をこえた、アンティークのスパイであることに気がついていた。

 それは、考えてみれば、最初にこの話をもちかけてきたのが研究職でなく軍事総長だった点からも疑えた。それに気づかなかったのはかれがまだ幼かったためだ。だがだんだんと成長する過程で、かれは、自分が知らず知らずのうちにアンティークのスパイをしていることに気がついてしまったのだった。

 そもそもかれら第三人類には、個人的な体験・記憶を|収蔵≪プール≫する場所がある。サード・ウェブが管理する通称、カルマ・フィールドである。

 それにアクセスするには本人である証が必要だが、かれらの世界の中心である母なるサード・ウェブへの道のりは遠く、その間になんらかの情報漏洩ルートが存在したとしても不思議はない。アンティーク自身にも、第三人類にはないそうした情報獲得能力があるという説もあるくらいである。

 とすれば、強力な情報収集力をもつエアが、〈楽園〉に潜りこませたスパイから、スパイ自身に知られずにそうしたなんらかの情報漏洩ルートを使って情報をひきだす――スパイ自身のカルマ・フィールドに不法にアクセスする可能性もあるといえる。

 それは、最初は単なる想像に過ぎなかったが、ハーシェルが十二歳のときのある出来事によって決定的に、かれの中で現実として認識されるようになったのである。


                    *


 ハーシェルには、まだ学校に上がる前に一人の同年代の友人がいた。

 その子は、かれが一人で〈楽園〉に来たときから隣家に住んでいる子供であった。髪が茶色く、目が青く、ひっそりとしたたたずまいをもつその子は内省的なところがあり、基本的に人に執着することのないハーシェルに親しみを抱かせた。

 預かり親も感じやすい、淡白な人柄ではあったが、年齢的に離れていることもあってハーシェルは距離をおいていた。そうした中、同い年で性格的に似たところもあるこの少年と、かれはいつしか互いに家を行き来するようになった。

 それは、今考えてみると、その少年にとくに際立ったところがあったというより、ハーシェルがつねに同じ人間と一緒にいたがるという性質をもっていたことが大きかった。とくにその頃のかれは今よりもっと、自分と世の中の差を痛いほど感じていたし、変化しなければという思いに駆られていた。

 十六歳になった今の方が焦燥感は強いけれども、感じる強さはまだ幼かった当時の方がはるかに上だった。隣家のその子はかれをその悩みと反対の方向へつれていく作用があった。

 ハーシェルは、変化したいと思いながらも、いつも、自分の軸になるものを求めていた。その頃はそれが、その子とそれをとりまく世界であった。その子のそばに行けば、自分は変化せず、また変化することを求められもしないという安心感があった。それが一時的なものにせよ、箱庭的な静かさがその子にはあった。実際、病弱なその子は、学校から帰るといつも自室で過ごしていた。

 しかし、その子にもまた変化への希望はあり、ハーシェルの知らぬ間にその子は別な学校の試験を受け、高い教育を授けるその内陸の施設に合格していたのだった。

 それを、初めて六月のバラの咲く庭で聞かされたとき、ハーシェルはその子が去ってから泣いた。手紙のやりとりはできるが、会えるのはたぶん年に一度、その施設は勉強に集中させるため、外出や外泊を極端に制限している、とその子から聞かされたからだった。

 「ハーシー、君はどこからきたの」

 かれがその子からそう訊かれたのは、その子が出発する予定の日の数日前である。

 そのとき、かれはその子の部屋でふとんに顔をうずめていた。かれは人前で泣くことはなかったが、泣きそうになるといつもなにかで顔を隠すようにしていた。

 風邪をひいて寝ていたその子は、治りかけでベッドに半身を起こしていた。途中でハーシェルが声を詰まらせ顔をふせると、黙って手をのばしてかれの髪をなでた。そのとき、そう訊いてきたのである。

 ハーシェルは顔を上げた。その子がなにをいっているのか、最初のうちはわからなかった。だがその考え深げな透きとおった目を眺めるうちに、その子のいいたいことがわかってきた。

 ハーシェルは言葉に詰まった。その子は決して無理強いに人からものを訊きだす子ではなかったが、かれはどうしてよいかわからずに目をそらした。

 こたえることはできなかった。常識的に考えればそうだった。

 もしもその子を含むアンティークが、自分たちは一つの仮構された地球型環境の中で生きる|試験管内≪イン・ヴィトロ≫の存在であることを知ったら。自分たちの生活史が、より上位のものによって監視され、記録され研究されているとしたら。

 ハーシェルは自分を他人の身において考えるということを自然にできる人間だったので、その事実を告げることができなかった。それは、エア上層部が恐れているようなアンティークの覚醒――より高度な自己決定権へのめざめを生むことになるとすら考えていなかった。ただ単純に、その子の誇りを傷つけたくなかった。

 ハーシェルの口が止まったまま動かないのを、その子は責めるでもなく、待ち飽きるでもなく眺めていた。失望したようすもなかった。

 おそらくその子には、なんとなくハーシェルのおかれた難しい立場が理解されていたのではないか、とハーシェルは後になって気づいた。そうでなければ、いくら考え深いとはいえ、あんな受容的な態度はあの年の子供ではとれないだろう。

 そう思うとかれはますます、その子が訊いた意味が通り一遍の意味ではなく、根本的な意味を持ったものに思えた。

 その夜、家に帰ってから、かれは一晩中その質問のことを考えつづけた。そして翌日、翌々日も、その子に会いにいかなかった。

 かれのきまじめな性格は、その子に嘘をつくことも、質問を受け流すこともできなかった。できるとすれば、正直にこたえるか、こたえられない理由をこれまた正直にいうしかできない。

 そのため、かれは会いにいけなかった。その分、会いたい気持は募った。やがて、玄関のベルが鳴り、その子がよそ行き着を身につけて前に立ち、別れを告げるのではないかと恐れた。こうしている間に、その子との時間が、残り少ない時間が失われてしまうことを恐れた。

 うす紫の夕もやにけむる午後、かれはいつものように窓ガラスによりかかって隣の家のモチノキの生垣と自分の家の|天人花≪てんにんか≫の生垣を眺めた。≪≫

 あの生垣。ほとんど一体化しているようなあの生垣は夏の間に刈りこまれてやっと向こうが見えるようになる。

 その生垣の目を通して、自分とコリンは出会ったのだった。かれは思った。あの生垣。あの生垣にあけた孔から、初めて自分はコリンのところへ行き、コリンもまた自分のところへ来たのだった。

 でも、行ってしまう。コリンは永遠に、自分のもとから去ってしまう。

 「ハーシー、どうしたの」

 息せき切って駆けつけたハーシェルが呼び鈴を押すとまもなく、コリンが現れた。のどかに、いつもの白いセーターを着て立っている。

 「話したいことがあるんだ。花井戸のところまで出てこられる?」

 ハーシェルは彼を昔よく遊んだ、裏庭の奥のバラ園にいざなった。

 そこには、枯れ井戸の上に板をわたして、その上にさらにつるバラをはわせた釣鐘型のケージがおいてあった。その上に、幼い頃かれらはよく手袋をして登ったものだった。

 その日、コリンはもう元気を回復していたので、かれらは一緒に裏庭へ出た。雨上がりの庭は湿っていた。秋口の冷たさと柔らかさがほどよくブレンドされた空気だった。

 「登ろうよ、ハーシー。昔みたいにさ」

 なにも変わったことがなかったかのようにコリンが上を見上げていった。二人で秋枯れた花のないバラ園を通って、その中心にある花井戸に着いたときだった。

 「登れるよ、あのときより僕たち、ずっと大きくなったろ?」

 大丈夫?という目をして見たハーシェルに向かって、コリンは静かにふりかえった。コリンは、どんなときでも、一つ一つのしぐさが静かだった。

 「僕、手袋をもってくるよ」

 ハーシェルが家へ駆けもどろうとすると、コリンは首をふって止めた。

 そしてそのままゆっくりと、場所をえらんでつかみながら、鉄のケージを登っていった。素手ではあったが、黄色く枯れはじめたバラの棘を上手によけて天辺に達した。

 「君も登っておいでよ、ハーシー」

 コリンはバラの木におおわれた天辺に立って呼んだ。

 そうして見ると、子供の頃以来、立ったことのなかった場所に立っているコリンはとても大きく見えた。ここまで大きくなったのだ、という思いがハーシェルの内にわいた。

 ハーシェルも同じようにしてケージに登った。鉄の棒は硬く冷たかったけれども、昔よりずっと細く思えた。ふれるものの一つ一つが、昔と同じ動作をくりかえすことで、自分たちが大きくなったことを実感させた。

 登ると、街が見わたせた。 かれらの住む山際の地区から、ずっと海の方まで続いている白や灰色、赤茶色でできた街並みが。それらがまるで点描画のように、起伏のない街を構成していた。わずかに突出して見えるものといえば、石灰を精製している|街工場≪まちこうば≫の煙突と海からくる天然ガスの球形の貯蔵庫、それにいくつかある学校と公園を包む緑くらいであった。

 「話したいことって、なに」

 ハーシェルが思わず街の眺めに見入っていると、コリンが頃合いをみはからったように声をかけた。彼は生成りのズボンに手をつっこみ、ハーシェルと同じ方向を見ていた。

 ハーシェルは唾を飲みこみ、ぽつぽつと、きっとコリンにはこの世のものとも思われない長い話を始めた。

 それは地球滅亡から、地球人類の脱出、彼らが宇宙空間での移動にからむ不利益から自分たちの生みだした機械人類に滅ぼされたこと、

 その機械人類=第二人類がそののち長い時を経て、地球人類がそもそもつくりだしたヒーラ・コンピュータ――別名サード・ウェブによって滅ぼされたこと、

 その後コンピュータのみが宇宙に伸び広がる時代が長くつづいたこと、

 しかしそのコンピュータ社会が原因不明の|自壊≪じかい≫システムによって悩まされたこと、

 自壊システムの波及を食いとめるために非プログラム化された人為制御を必要としたこと、そのため第三人類が生み出されたこと、

 やがて永遠と思われた第三人類の再生に遺伝子の劣化からくる限界が認められるようになったこと、

 そこで第三人類は独自に新しい人類の創造を夢みて地球型生命圏の試作に乗りだすようになったこと、 そしてついにエアという機関の中でアンティークという知的生命を生みだすに至ったことにまで及んだ。

 こんなに長い話をしたのは初めてだった。

 「それで」

 コリンはもとの蒼白な顔のまま話を聞き終えた。

 「君はその第三人類だというの。そんなにいろんなことを、知っているというのは」

 声はすこしだけしわがれていた。

 ハーシェルはやや頬をそめ、うつむきがちにうなずいた。そんなことはないと思ったが、コリンに、ハーシーは自意識が過剰すぎる妄想家だと思われるのはつらかった。

 しかしコリンはさすがにそういう態度はとらなかった。ただじっとハーシェルの目をみつめていた。

 「僕たちは」

 やがて発されたその声が、高く澄んで秋空にふるえた。

 「そのアンティークだというの、君は」

 ハーシェルはうなずいた。

 このとき、かれはアンティークに初めて、かれらが創られた存在であることを告げた第三人類となった。

 しかしハーシェルはこの瞬間を、非常に個人的なものだと考えていたので、チリン、と高く呼び鈴が鳴り、郵便屋が間髪をいれずコリン宛ての書留を届けてきたときにもなにも思わなかった。

 「郵便屋だ」

 コリンがいった。

 「|親≪シニア≫がいないんだ、夜勤だから」

 コリンはケージを飛び降りた。

 コリンの父は医者をしており、夜も時々働きに出ていた。アンティークは自分の親のことを、|父≪パパ≫と|母≪ママ≫とか、ときに|あの人≪ディア≫とか、いろいろに呼んでいたけれども、正式には(シニア)というのが正しかった。コリンのうちは比較的堅い家だったので、彼はいつもそう呼んでいた。 生垣をまわって門扉まで行くと、いつもの郵便屋が白い封筒をもって立っていた。

 「どこからだろう」

 コリンは受けとってすぐ封筒をひらいた。たぶん、進学間近でそれに関する書類ではないかといつも郵便を気にしていた時期だったのだろう。

 ハーシェルは今でもそのときのコリンの無心なうつむいた横顔を思い出す。

 すこし毛玉のついた白いニットの高い襟に、あごをうずめるようにして彼は読んでいた。その内容をハーシェルは知らない。後になって、あの手紙を見たいと思ってコリンのうちを探させてもらったときにはもうなかった。コリンの親も知らなかった。郵便局まで行ってあの郵便屋に訊いてみようとさえしたが、訪ねたときにはもうその局員はいなかった。転勤になったのだといわれ、その先は教えてもらえなかった。

 その夜、コリンは熱を出した。

 四十度近い高熱で、あっというまに全身が真っ赤に腫れあがった。夜中じゅう、帰らないコリンの親に代わって、ハーシェルが呼ばれて看病をした。氷と濡れタオルで体を冷やしたが、まったくよくならずにかえって熱は上がるばかりだった。

 ハーシェルは病院へ行こうといったが、コリンは病院のお父さんを起こすのは可哀そうだから、といって明け方近くまで粘った。さすがに消耗してきたコリンが、ハーシェルの親の出す車で病院に行くことを受けいれたときには、もう彼の唇はかさかさに乾いて、汗もほとんど出なくなっていた。

 病院の救急外来に出てきた彼の親は、そのときはまだ意識のあったコリンを叱って、すぐさま集中治療室へ収容した。コリンの血圧は下がりはじめていた。

 毒素にやられたんです、おそらく細菌の、とコリンの親はハーシェルの親にいっていた。薄暗い廊下で、様子を聞こうと待っていたかれだけを残し、二人はつきあたりの窓の方へ行って話した。

 そのささやく声の断片から、ハーシェルはコリンがまずい状態になっていることを知った。毒素が、とか、抗体がない、届くのには時間がかかりすぎる、とかいった声が半闇の奥かした。かれは身をすくませてそれを聞いた。

 結局、コリンは集中治療室で、生死の境をさまよったあげく、三日後に死んだ。最後までハーシェルは病室に入れてもらえなかった。

 病名は、ハーシェルにははっきりとは知らされなかったが、おそらく細菌の感染だろうということはわかった。なにもかもが悪夢のようで、なにかにつかまっていなければ実感がわかない三日間だった。

 ハーシェルは毎日学校にも行かず、病院でコリンの命がすこしずつ止んでいく音を聞くような気がしていた――廊下の奥のささやき声や、病院の中の不思議な音――おそらくは機械のうなりや、衣ずれ、よくわからない気配に耳をかたむけた。そうすることで、コリンに会えないまでも、身をそわすことができるような気がした。

 どうしてこんなことになってしまったのか、三日前までケージの上で自由に立っていた彼がなぜ今立ち上がることもできないのか、考えてみる余裕すらなかった。

 考えることができたのは、コリンが死んでからずっと経った後のことである。葬式が終わったバラ園で一人、ケージを見上げていたときのことだった。

 そこでかれはあの郵便屋がもってきた封筒を受けとる前後のことを思い出した。コリンは顔を上げ、封筒を畳んでしまいながらいった――

 「ハーシー、僕は君のいったことを、よく考えてみるよ。すぐには理解できないけれど。でも長い時間をかけて考えれば、君という人がわかってくるかもしれない。君は嘘はつかない人だ」

 すこし涙ぐんだかれの顔に顔をよせて、コリンは呟くようにいった。

 「……君はきっと僕がいなくても大丈夫だ。君が僕を必要とするのは、僕が君の分身だからだ。でも僕はこれからいろんなことを学んで、いろんな人と接して、変わる。そしたら君はもう僕を分身と思うことはできなくなるだろう。でもハーシー、今離れても離れなくても、それは必ず来ることだから。だから、ハーシー、泣かないで」

 最後の言葉は、ちょっとコリン自身が涙ぐんでいるような調子だった。

 「きっといつか、君は自分の分身でない、本当に心魅かれる誰かに会うよ。そしたら、きっと君も変わる。でもそれは悪いことではないから。ハーシー、君はきっと幸せになれる」


                    *


 コリンはあのとき、なにを予感していたのだろうか。なにかを告げられたのだろうか。

 わからなかった。けれどもその言葉はおそらく、彼がいつかハーシェルのためにいいたいと用意していた言葉だったのだろう。ふいに思いついたとか、ちょっといってみるとかいったことは考え深いコリンにはなかった。

 ハーシェルはそれ以来このコリンの、祈りと予言と慰めのないまざった言葉の中で生きてきたようなものだった。

 その呪文のような言葉とコリンの死は、かれの中に自分の運命に対するくっきりとした認識を生みだした。

 自分は、長くここにいてはいけない。

 それがその認識の核だった。

 ここにいればいるほど、自分の近づいたアンティークに、害を及ぼすことになる。その危険を生んでしまう。

 度の合わない眼鏡も、耳栓も、学校でなるべく目を閉じているのもそのためだった。入学して以来、ブラックに注目しながら決して近づかぬようにしていたのもそのためだった。

 なにより、早く変わらなければならない。早く仕事ができる身になって〈月〉へ帰らなければいけない。そう思った。

 だが、〈楽園〉で自然免疫を発達させ、獲得免疫の暴走を制御するというもくろみが行き詰った今となっては、残る方法は二つしかなかった。



In vitro1   井戸と、鳩と、変身の物語



 「ハッシュ。ここだよ」

 ハーシェルが顔を上げると、ブラックは花井戸の鉄柵でできた円蓋の上に坐っていた。うす曇りの空をバックに、なんとなく飛び立つ前の鳥のように見えた。

 「そんなところでなにしてるの、ブラック」

 ハーシェルはやや声をふるわせていった。その場所は、かれにとって、いやおうなくコリンを想い出させる場所だった。そこに、あの日のコリンと同じようにブラックが乗っていることが嫌な感じをわかせたのである。

 「鳩を見てたんだ」

 「鳩?」

 お茶がすんでから、ブラックはひとしきりサイドボードの絵や写真などを眺めていた。黒い胡桃材のボードの上には、かれと預かり親のあまり似ていない写真も置いてあった。

 その日、預かり親はいなかった。

 ハーシェルはブラックの押しに負けて彼を家に呼びはしたものの、わざわざ預かり親が半日以上かけて出かけていく隣町の市の日に呼んだのだ。預かり親は、古い版画や切手やコインや、スプーンといった細々したものを集めるのが好きだった。

 ブラックはしばらく写真を眺めてから、ふーん、たしかにいい人そうだよな、と呟いた。それからかれに向かって、おまえの部屋は?と案内を乞うように首を上げた。

 ハーシェルの部屋はなにもなかったが、ブラックを部屋に入れることをあらかじめ考えていなかったかれはまごついた。なにも変な――とくにかれの出自を推測させるものがなかったかどうか確かめねばならない。

 そこでかれが部屋へ行っている間に、ふいにブラックが猫のようにいなくなってしまったのである。

 客間の深緑色のカーテンの陰や、台所や化粧室をひととおり探してからハーシェルは彼をみちびくようにあいている居間の窓に気がついた。居間の窓はかなり低く造られていて、そこから庭に出入りできるようになっていた。

 庭は朝露の匂いがまだする芝生の先に、預かり親の丹精しているバラ園があった。小さなものだが、つるバラのアーチや花井戸があって、細々としたあしらいに満ちている。

 その中の十字に交差した径の中心にかつての井戸――今はつるバラを生やした鳥籠のような鉄檻があり、その天辺が柵からも見えていた。その上にブラックがいたのである。

 「そう、鳩。鳩の群れだよ」

 ブラックはぼんやりと空に吸われるような目をして見上げている。

 そこにはもう彼が見ていたという鳩の群れはなかった。彼が見ていたのはもはや飛び去った鳩の幻影か、あるいはどこか別の場所で、駅や校舎のような高い木のある場所でふいに風のような音を立てて舞い上がる鳩の群れだったのかもしれない。

 「おりて…こない?」

 ハーシェルはいった。

 「鳩はもういないよ、ブラック」

 「鳩ってさ」

 ブラックは聞いていないかのように口にした。

 「誰がリーダーなんだろうな」

 「え」

 「見てると誰がリーダーなんだろうなって思う。いつも、奴ら突然飛び立つだろ、皆で。で、空の上をぐるぐるまわって、一番先を飛んでいる奴がリーダーなのかなって思って見ていると、途中でそれがいれかわったりして、結局誰がリーダーなのか、飛び立つ指揮をしていたのか、結局全然わからないんだ。それが知りたくて見てるのにさ」

 ブラックは黙った。

 それは、どう思う?、というようにもとれたし、彼一人の思考に沈潜している間のようにも思えた。

 ブラックには、そういうところがあった。知り合って初めて気づいたのだが、ブラックは日中、人といるときはつねに生命力をあたりにまきちらすような活気に満ちていて、その人好きのするはっきりした物言いや顔立ちにさらに魅力をあたえていたが、夜、あるいは一人でいるようなときはその生命力を奥深くしまって、なにか永遠と相対しているかのような静かさにひっこんでしまうのであった。

 もちろん、ハーシェルは夜、一人でいるときのブラックに会ったことはなかったが、ブラックがいうには、彼は夜、零時から二時の間、いつも二時間だけ読書をするのだそうだ。そのとき、彼は非常に集中していて、読んだものはほとんどそらで思い出せるくらい真剣に読むのだといっていた。

 だからあまり速くは読めないし、読んだものの数も決して多くはなかったが、そのほとんどを彼は内容だけでなく一字一句までそらんじていた。

 彼がいうには、人間は教科書や実用書以外で同じものを二度読むことはほとんどないのだから、読んだものはせめて頭に刻みこみたいのだそうだ。

 そして二時から夜明けまでの間、彼はじっと考える。読んだものについて、また、そのほかのいろいろなことについて。

 いつか、なにかの話のついでにブラックがそういうことをいったとき、ハーシェルは意外の感に打たれた。ブラックという人はスポーツと演劇と馬鹿騒ぎと、それから自分と過ごす温室での比較的おとなしい時間とで成り立っているものとばかり思っていた。その彼がひとり、だれにも知られずに過ごす時間があるなどとは思ってもみなかった。

 しかしいわれてみるとブラックはこうして突然物思いにふけることがあり、そうなると彼はなかなかそこから戻らず、まわりに誰もいないかのようにひっそりとしてしまうのであった。

 そして今、やや長めの髪を風になびかせて坐っている彼は、すこしだけ憂いをおびて見えた。彼がそんなふうに見えることは本当に稀だったので、ハーシェルはかすかに不安をおぼえた。

 「そんなに、気になる?鳩が…」

 ややおいてハーシェルが声をかけると、ブラックは檻の上でにやっと笑った。

 「俺におまえ以上に気になるものはないよ」

 それは彼がよく悪友たちにいう戯れに似ていた。おべっかという感じがしないのは彼独特の高いところにいる感じのためかもしれない。かれはそれからひらりと地に飛びおりた。

 「俺はおまえの天使だからな」

 もうすっかりいつものブラックに戻ってかれの手をとろうとする。ハーシェルは思わず噴きだした。

 「ブラックは天使というより、カラスという感じだよね」

 いつも黒い服を着ているから、と並んで家に向かって歩きだしながらかれはいった。

 鳩のことも、コリンのことも、なぜか急にこの世から消えうせたように穏やかな気持になった。少なくともハーシェルはそうだった。ブラックも表情を見るかぎりそうだった。

 ブラックがひらりと飛びおりたことが、雰囲気をきりかえる絶大な効果を発揮したようだった。演劇に手を出しているだけあって、ブラックの動きには手の一振り、マントのひるがえり一つで場面を転換する役者のように鮮やかなところがあった。

 「カラスか。そういえばそんな名前の作家がいたな。地球に」

 「地球。古代地球?」

 アンティークは古代地球の言葉を使う。古代地球を自分たちがかつていた土地と認識し、その文化を愛好している。

 それは第三人類が、彼らを自分と同じ文化を持つようさりげなく誘導したためであった。その目的はいつか彼らに自分たちと同じフィールドで働いてもらうため、また単純に彼らがやりとりする情報を収集しやすくするためであった。

 しかしアンティークは、本来は強い思念波による会話能力を持っていた。エアにはどうしても聴取できない、親しい者のみの間で成り立つ個人差の大きい能力である。ただ、今ではより便利な地球語に押されて、めったに交わされない幻の言葉となってしまっている。

 この点からもわかるように、アンティークはじつは第三人類が思うほど第三人類には似ていない。地球人類にも似ていない。姿かたちが似ているのは、たとえば水辺に生える草が、相互にまったくちがう進化の道をとりながら環境に合わせて似てきたように似てきただけの結果だった。

 「そう、地球の。カラスって意味の名前を持ってる、カフカっていう作家がいたんだ。そのカフカってのの作品にさ、『変身』っていうのがある。ハッシュは呼んだことある?」

 「ない」

 見上げるとブラックは両手を黒いズボンのポケットにつっこみ、上を向いて歩いていた。

 「――『変身』っていうのはさ、主人公がある朝めざめると、急に巨大な虫に変わっていたっていう話なのさ。読んだ人は皆その設定にびっくりするし、それがまた淡々と落ちるべきふうに話が落ちていく現実っぽい書かれ方に驚くんだけど、俺が恐いと思ったのはさ、それよりも主人公がだんだん虫っぽくなっていって、はじめは人間の味覚や衝動をもっていたのに新鮮なミルクより腐った残飯が口に合ったり、天井や壁を這いずりまわったりしはじめるところなんだ。外見が変わっただけじゃなく、主人公は内側からも少しずつ虫に変わっていくんだ、誰に強要されたわけでもないのに。俺は夜中に、その元は人間だった主人公が天井を喜んで這いずりまわっている姿を思い浮かべてぞっとしたんだ」

ブラックの横顔は高い鼻がまっすぐな線をえがいて、一見すると秋の湖のように静かだった。が、よく見るとほんのすこし、小鼻がぴくぴくとふるえていた。

 「夜中に読んだからじゃない?よけい恐いと思うけど」

 ハーシェルはあえて月並みなことをいった。ブラックがなにを感じているのか、わかりそうな気がしたけれども、それに言葉によってふれるのは難しい気がした。どんなに共感できたとしても、人には月並みなことしかいえないときもあるのだ。

 ブラックはちょっとかれを見下ろして笑った。なんとなく人が犬を見下ろすような、いてくれてほっとしたというような顔だった。だがそれは決して悪い感じではなかった。

 「そうだな。きっとそうだな」

 ブラックは両手をポケットからとりだした。彼の手は白くて大きいので、そうすると白いシャツの面積が広がったような、視界の白と黒の比が入れ変わったような印象を受けた。

 「で、おまえの部屋には入れてくれんの?」

 ブラックは今度こそかれの手をとった。まるで自分の方がかれを案内するみたいだった。

 「うーん…あんまり入れたくないけど」

 「なんで」

 ブラックはにやにやする。

 「人を入れたことがないから」

 「じゃあよけい、いい。おまえもいつかは誰かを入れなきゃいけないわけだから、それが俺っていうわけだな」

 かれがそのよく意味のわからない理屈に首をかしげると、ブラックはまた笑っていった。

 「いつか、わかるよ、ハッシュ。いつかおまえも誰かを部屋に入れなきゃならないってことが」



In vitro2     ノック



 「うん。うまい」

 ブラックはそういうと、青い果実をほおばったまま寝ころんだ。ハーシェルは、陽ざしが波のような影を投げているその顔を見下ろした。

 「青い実のほうが甘いんだ」

 「自家受粉だからね。目立つ色になって動物を惹きつける必要がないんだ」

 ハーシェルの声は湖からの風に紛れた。

 二人は丘の麓の湖をかこむ、森の入口の草地に来ていた。

 湖からの涼しい風が、午後の日をさえぎる|下枝≪しずえ≫をさわさわと揺らしている。

 木はすべて彼が核分裂の頃から丹精したものだった。島の北側の実験塔で、電気刺激によって発芽させ、西側の森にある空調塔で苗木まで育てあげて移植したのだ。それらの実が赤から黄、黄から青へと変じていくのが、彼のひそかな自慢だった。

 といっても、その価値を知るのは、彼の上司の佐古耀一郎ぐらいであったから、その自慢も時おり佐古が来たときに発揮される程度のつつましいものであった。派手さのない、彼の孤独な研究の価値を知る者は、彼の信じるところでは佐古耀一郎だけであった。

 それゆえ、彼は佐古に絶対の信頼と信念ににた忠誠を抱いていた。実際佐古は、彼のきわめて理性的な目から見ても首肯できないことはほとんどいわず、その刃物のように秀でた眉目同様、非の打ちどころのない端整さをその思考にもそなえていた。

 また、それを理解させる力も佐古は並外れたものがあり、ハーシェルは時々、その思考を眼前に図面を広げられるように理解できるときがあった。そんなとき彼は、佐古の思考とじかに交わったような恍惚を感じた。

 それは、基本的に他者の観察者であり研究者であるハーシェルにとって無上の喜びであった。

 「でも、あれだね」

 果物を食べおえたブラックは、口もとをぬぐいながらいった。

 「こうして見ているとよくわかるんだけど、この島ってこの実を食べる動物がいないのかな。どの木も実がほとんど残ってる」

 ブラックが青く長い指で示した枝々は、こぶしくらいの実がどれもたわわに実っている。

 「するどいね」

 ハーシェルはうれしそうにほほえんだ。

 「この種を食べる虫や鳥はいないんだ。基本的に、どこにいっても一人で生きていけるよう、自家受粉体に調整してある」

 「自家受粉体?」

 「自分の中の|雌性≪しせい≫成分に自分の中の|雄性≪ゆうせい≫成分を混ぜ合わせる方式さ。アンティークなんかはそうするだろ?」

 ブラックはちょっと眉をしかめた。

 「うーん……だったかもしれない。ずっと昔に学んだことだから、よく覚えてないけど」

 エアでは、基本的なアンティークについての知識は、飛行士といえど必須科目である。

 「そっか。この話、おもしろくない?」

 「いや、おもしろくないわけじゃないよ。ただ、さ、俺はあんたとちがって専門じゃないから……わかりやすくはないよね」

 「そうだね……」

 「大体、自分が持ってる手札を混ぜ合わせてなにが変わるんだろうなって気がするよ、自家受粉って。アンティークもそうだけど。あいつらのはその、単位生殖っていうんだっけ?」

 「単為生殖だね。たしかに持っている手札――遺伝子は変わらないんだけど、それを今回、どれを捨てて、どれを使う――実際の変化として発現させるかは、個々の細胞が決めてるんだ。ただ次世代に伝えるために倉庫にしまっておくだけの遺伝子と、今生ではっきり活躍させると決めた遺伝子の内容によって、生き物の在り方は変わってくる。だから僕たち、人間の遺伝子の総量をほかのもっと単純な生き物――たとえば花とか爬虫類とかの量と比較すると、量だけでは花とか爬虫類の方がじつは大きかったりするんだ。逆にいえば、彼らはただ遺伝子の量だけから見たら、人間にもほかの生き物にも変化しうる可能性を持ってるともいえる」

 ブラックは口をあけてハーシェルを見ていた。

 「あんた……変なことを考えるね」

 「そう?」

 「あんたはつまり、植物から人間を作りたいのかい?この植物から、たとえばアンティークのような生き物をさ。だからあの水たまりで、両生類の実験をしてるのかい?」

 「それはまあ……――いろいろあるよ、アイデアだけはね」

 ハーシェルはうつむきがちにいった。昨日聞いた、班会議の見学者からの指摘が耳によみがえっていた。それは彼の研究の根幹を突く鋭い指摘だった。

 「ねえ、ハーシェル」

 ブラックが立ち上がった。長い手足を投げだすように伸びをして、

 「あんたはこの島で一人で住んでるの」

 と訊く。ハーシェルはいじっていた木の葉から顔を上げた。

 「そうだよ。人間はね。猫はいるけれども」

 「――ああ、さっきの猫か。じゃあほかに、あんたが話したり一緒にご飯を食べたりする人間はいないわけだ」

 「うん」

 「さみしくない?」

 「ないね。ここではやることが沢山あるし、生き物も沢山いるから。それに四、五日に一遍は、|主任≪チーフ≫ともウェブで話をするし」

 「チーフ?」

 「私の上司だよ。共同研究者だ」

 ハーシェルはほほえんだ。

 「そいつとしか話をしないの。そいつ以外とは?」

 「ない。班会議には出るけど、あまり人の大勢いるところで話すのは好きじゃないんだ」

 緑の葉がゆらめくような影を投げるハーシェルの顔を、ブラックはじっとみつめた。

 「人があんまり好きじゃないんだ?」

 「……そうだね、そうでもないけど、むしろ興味がある方だけど、みつめててもこたえが出ない感じがして。ここにいて植物を育ててるほうがいいや」

 「植物がいいんだ」

 「動物も作ってはいるけどね。でも植物のほうがいい、|融通無碍≪ゆうずうむげ≫だから」

 「旅?融通無碍?」

 「体の発生がいろんな方向に向かうことができるっていうことだよ。宇宙では、船の中のスペースも限られるし、状況によって必要とされる物質もちがうから、なるべく形態や生化学合成系が自由に変化する生き物の方が好ましいんだ。僕はその研究をしている」

 「変わってるね」

 ブラックは呟いた。

 「あんた、すごく変わってる。俺は、研究者は、アンティークのことばかり研究してるのかと思っていたよ」

 「そういう人もいるよ。『|夜の国≪ナイト・ランド≫』の斎田博士とか。王道だよね」

 「『夜の国』ね……聞いたことはある」

 ブラックはやや伏し目がちになった。

 「……あんたは、そっちの方には行かないんだ」

 「斎田博士はちょっとアクの強い方だから。今生ではほとんど会ったこともないんだ。報告は読んでいるけどね。それに僕は王道に向くタイプじゃない」

 ハーシェルは森の中を歩きだした。森はそのままなだらかに、西側のプールへと下れるようになっていた。ブラックも歩きだしながら尋ねた。

 「植物をのせた宇宙船を飛ばしたいんだ?」

 「そう。とりあえずまずは、この島を植物でいっぱいにしたい。でも、この島の生き物を宇宙船に載せたいわけじゃないんだ。この島で得た結果を、ゆくゆくはアンティークに応用したい。アンティークを守り、伝えてゆくことがエアの使命だからね。アンティークは僕たちが思っていたよりずっと、宇宙船の中で旅するのに向いてない。僕たちはウェブにコントロールされているけれど、アンティークをコントロールしているのはこの〈楽園〉の自然だから、この自然をコントロールするかアンティーク自体をコントロールするかしないかぎり、かれらがよいかたちで宇宙の中に出ていくことはありえないだろう」

 「よい、かたち?」

 「それがなにかを、今僕たちは模索してるんだ」

 「チーフとかい?」

 「そう」

 ハーシェルはうれしそうに空を見上げた。木の間の空は高々と青く澄んでいた。

 「それがエアの役割だから。エアの名の由来を君は知ってる?〈楽園〉のアンティークを守る大気という意味で名づけられたんだ。エアの心が、宇宙に出たのちまでもかれらを包んで守るように。僕はそう、その名をつけた人から聞いた」

 「ふーん……」

 ブラックはうつむきがちに鼻の下をこすった。

 「あんたも結局、第三人類なんだな」

 その声はあまりにも静かだったので、ハーシェルの耳にはとどかなかった。

 「そうだ。もしよければ、僕の木のコレクションを見せてあげようか。タピオカ・プールに行く前に。この近くに空調塔があるんだ。行く?」

 「――そうだな。行ってもいい」

 話に夢中になっていたハーシェルは、相手の様子が変わったことに、このときまったく気づかなかった。


                    *


 「中にある木は外にある木の改良型なんだ」

 森の中に立つガラスの指ぬきのような空調塔の中に入ったハーシェルはいった。

 「中では新しい木を開発している。まだ外の世界に出せるまでになってない木をね」

 彼が回転ドアを押すと、向こうから冷たい空気が吹きつけてきた。

 「あ――冷たいね」

 「中はすこし温度を下げてある。部屋ごとに二十度、十六度……零下二十度まである」

 「ふーん……でもこりゃ、いいや。このくらいの温度の方が一番体にしっくりくる」

 「エアの標準温度は四度だからね」

 ハーシェルは大小さまざまな木にかこまれた空間をまっすぐ中央に向かって歩いた。足もとは土が露出しているが、壁や天井はほとんど見えぬほど緑におおいつくされている。

 「変なものがあるね」

 ブラックは上を見上げた。木の狭間にぽっかりとただよう、緑の雲のような物体がある。

 「ワタアメノキだよ」

 ハーシェルは太い灰色の支柱に巻きついたらせん階段を昇りだしながら、いった。

 「綿花状の体のまま、不時着する場所を探してただよってるんだ」

 「へえ…栄養はどうしているのかな」

 「光と雨と空中の土埃の中の微量元素で合成してるんだ。でもどこかに不時着しないと、十年で枯れる。ほんとはもっと長くしたいんだけど」

 ハーシェルが苦笑した。ブラックは階段の手すりから手をのばした。

 「でも綺麗だ、緑が」

 葉はかすかな音を立てて、まるでブラックに話しかけるようにそよいでいる。

 「ここの木はみんな人なつっこいね」

 手で葉波をかきまぜながらブラックがいうと、ハーシェルは小首をかしげた。

 「木には心はないよ、ブラック」

 「かもしれないけど、ここの植物はみな感じがいいなって思ってるんだ。あんたが育ててるからかな。果物も美味いし」

 それとも、とかれは手を伸ばした。

 「あんたといるからかな」

 「?」

 「髪」

 「え?」

 「すこしウェーブがかかってるんだな」

 ハーシェルは、ブラックが髪にふれていることにようやく気づいたという顔をした。

 「伸ばしたらいいのに。あんたすごく綺麗な髪をしてる。光みたいなさ、まじりけのない金髪で」

 「そうかい?」

 ハーシェルはあまりその重要性がのみこめないという顔で、

 「でも作業のとき邪魔なのだよね。暑くるしいし」

 話を変えるように階段の手すりから手を離し、上を向く。

 「ほら、こっちには、いろんな木を植えている。葉の形で区別してるんだ。形がギャザーみたいなのはギャザーウッド、レースみたいなのはレースウッド、フリンジウッド、フリルウッド、ワッシャーウッド、プリーツウッド……」

 上には柱にとりつけた棚一面に、苗木を植えた鉢が並んでいる。ちょうどこの春芽吹いたような、新鮮な緑のものばかりだった。ブラックはその一つ一つにふれた。

 「綺麗だな」

 指さきできゃしゃな葉先をためす。

 「俺はここに来るまで、草木がこんなに美しいものだとは思わなかった」

 「そう?僕は植物ほど美しいものはないと思っていたよ」

 「うん、そうだね。俺はそもそもそんなに植物に接したことがなかったんだ。いつも空ばかり見ていたから。俺はこの世で一番美しいのは空だと思っていた。ちょうどあんたの目みたいなさ」

 「……」

 「真昼の空は、あんたみたいな色をしている。朝方は、ちょうどあんたの口みたいな色に染まる、夕方は……」

 ブラックは手を伸ばしてハーシェルの口にふれようとした。が、彼が硬直して黙っているのを見て手を下ろした。

 「まあ空でも植物でもどっちが一番なんてことはないよね。どっちも綺麗だ」

 「そうだね」

 ハーシェルもあいまいにあいづちを打った。だんだんと変化してきたブラックの様子に、とまどっているかのようにみえた。

 「ハーシェル、もっと上へ行く?」

 かれはごく自然なしぐさでハーシェルの手をとった。

 「あ?――ああ」

 面食らった顔でハーシェルがうなずくと、ブラックは楽しそうに先に立って歩きだした。

 「あんたのこの温室を、俺にもっと見せてくれよ。俺は全部見たいから」

 そのとき、手すりにとまっていたハチがかれらが歩きだすのに合わせて飛び上がった。

 ハーシェルがほどなくごく自然なしぐさで自分の手をはずしてしまったので、手持ち無沙汰になったブラックは、そのハチが針のない種であるのを見定めるとさっと手を出してそれをつかんだ。

 生きものにあふれた〈楽園〉の飛行士である彼は、羽虫が飛行士の注意を殺ぐことで時おりひきおこす事故のことをよく知っていた。そのためなかば無意識のうちに、こうした生き物を身の回りから排除してしまう癖がついていた。

 ハチは、手の中であっけなく砕けた。

 それがカシャという、奇妙に金属的な音を立ててはじけたとき、ブラックは一瞬眉をこわばらせ、ハーシェルに遅れないようについていきながら手をひらいた。

そこには、キバチをよく模した羽根と、胴の残骸と、明らかに人工物とわかるIC――|内蔵コンピュータ≪インターナル・コンピュータ≫――の核があった。



In Vivo     みたび、エア諜報局



 「やはり、かれはあやしいですね」

 諜報局内偵部門主任、カーンはコントロール・パネルをはじきながらいった。

 「どうです、主管。この言葉、『綺麗だ』はアンティークを示すキーワードですよ。これが自然と口に出るのは、ましてや適切に使えるのはアンティークくらいです」

 「どうかな」

 彼の上司はのんびりと応じた。彼は浮き足立つということがほとんどない人間である。

 「同じ言葉は、ハーシェルも使っている。研究職の話を鵜呑みにはしないことだ。聞いたところだとこの言葉は、第三人類でも古代地球フリークやアンティーク保護員はかなり自然に使いこなせるそうだ――もちろんブラックがそうだというデータはないが」

 カーンはじれったそうに、

 「まあそれはそうかもしれませんが、しかし主管、かれは気づいてないんですよ、我々が盗聴していることに。あの島では二人きりだと思ってかなり油断して喋っている。ハーシェルの協力さえ得られれば、ブラックにもっと口を割らすことだってできるでしょう」

 「ハーシェルの?」

 「ええ。この話しぶりだとブラックは、相当ハーシェルに気を許している。なにかに誘っているような雰囲気すらある。おそらくそれはかれらアンティークが近日中にエアにしかけてくる計画なのでしょう。ウェブ上の、出所不明のノイズ様通信波も日増しに増加しています。かれらが近くなにか起こそうとたくらんでいることは明らかです」

 「たしかに今、暗号班はその内容を読み解くのに必死だ」

 「ですがあのノイズがアンティークが使う|心語≪しんご≫の一種であったとしたら、アンティーク以外に解読は難しい。かれらにかれらの言葉以外で、我々の仲間に語ってもらうしかない」

 「それがハーシェルというわけか」

 「ええ。ハーシェル自身、ブラックに不審を抱きはじめているのは明らかですから、その源をつきとめる必要があるといえば乗ってもらえるでしょう」

 「どうかな。彼は怪我人には優しい男だ。しかも駆け引きは苦手そうだ」

 「たしかに嘘はつけないでしょうが、ただブラックを今よりももっと受け入れるそぶりをしてくれればいいのです。ところで佐古はなんといっていますか、彼について?」

 「なにも。あれ以来なにもいってこない。作戦の進捗状況については逐一報告させているが」

 「それも妙な話ですね。他班の長である斎田博士から作戦終了をうながすような圧力があったのに、肝心の上司である佐古からは作戦についてなにもいってこないとは」

 「なにか考えがあるのだろう……佐古というのは、我々が思っている以上に慎重な男だ。我々に何もいってこないのは、斎田博士の出方を見ているためかもしれん。私は、彼がなぜハーシェルに連絡をとらないかがむしろ気になっている」

 「それすらも我々に盗聴されるからかもしれませんね。ですが、佐古は本当になにも気にしていないのかもしれません。彼は、我々や軍部がどれほど今回の作戦を、潜入アンティークをあぶりだすことを真剣にとらえているか理解していないのかもしれません。しょせん一般人ですから、軍事総長とも昵懇の斎田博士とちがって、潜入アンティークたちの脅威に実感もないはずです」

 「たしかにな。エアの非軍事職には潜入者の存在すら幻想だと思っている者がいる。軍部や諜報局が自己の存在意義を強調し、内部の人間に対する内偵をやりやすくするための口実だと思っている者が。佐古もそうなのかな」

 「一度彼と話をしてみたいものです」

 カーンはいった。

 「ハーシェルを動かせるのはどうやら彼だけのようですし、彼とアポイントメントをとることはできませんかね、主管」

 「そうだな――」

 主管はやや気がすすまなさそうに、目を泳がせたが、結局、

 「そうだな。佐古に連絡をつけてみよう」

 といった。そのときだった。カーンの手もとの画面が点滅して、新たな情報が表示された。

 「主管」

 カーンは、それへ目を落とした数秒後に顔を上げた。

 「斎田博士からの呼びだしです。今すぐ博士の|研究室≪ラボ≫に、作戦の経過報告と今後の見通しについて説明に来るようにと。軍事総長からの指示書も添えてきています」

 「総長から?もう?」

 主管は目をみひらいた。

 「ずいぶん早いな。どんな圧力をかけたんだろう」

 「それだけ博士に政治的な実力があるということですね」

 カーンはしぶい顔をしながら立ち上がった。

 「『夜の国』か」


In Vitro1     猫と魂と永遠の別れについての会話



 「送ってくよ、ブラック」

 バラをつたわせた門のところで、ハーシェルはいった。秋枯れのバラはしぼんだ茶色の花弁を散らし、歩道の向こうまで流されていた。

 「高台だから空がよく見えていいな」

 並んで歩きだしてしばらくしてブラックがいった。両手をポケットにつっこんだまま、明るい茜色の空を見上げている。

 二人の前には坂道にそって、長い影ができていた。ハーシェルは黙ってうなずいた。

 「あ、猫だ」

 ブラックが突然声を上げた。白い塀の上にちょこんと、やせ型のぶち猫が坐っていた。白地に黒いケープのような斑点をつけている。

 「首輪をつけてないな。野良猫かな」

 「半野良だよ。僕んちで時々、餌をやってる」

 「おまえんちの猫なのか」

 「いやちがうけど」

 ハーシェルは説明した。

 「僕の親は猫アレルギーだからうちでは飼えないんだ。もともと近所の家がもらってきた子猫だったんだけど、大きくなったら模様が変わって、白と黒のぶち猫になったもんだから、話がちがうって捨てられちゃったんだ」

 「それもひどい話だな。ていうか、猫の毛皮って変わるんだ、模様が?」

 ブラックが猫に近づきながら訊く。猫と視線を合わせながら、みいみいと小さな声真似までしている。

 「変わるよ」

 ハーシェルは夕日をあびたその背中にいった。

 「ゴーストタビーっていうんだ、そういう、一時的にあらわれてきえる縞」

 「知らなかったな」

 ブラックはついに手を伸ばしてぶち猫にふれた。猫はおとなしく頭をなでられた。

 「縞がきえたばっかりに捨てられるなんて、おまえも難儀な奴だな」

 猫はひとなつこく、ぐるぐると喉まで鳴らしてブラックの手に顔をあずけだした。

 「隣の家の人は前に縞猫を飼っていたからね。同じ模様のがほしかったんだって」

 「クローニングすればいいじゃないか。そんなに同じ猫がほしいなら」

 |生体複製≪クローニング≫技術は、このアンティークの世界でもすでに農林・畜産の分野で開発されている。

 「できないんだ」

 「え?」

 ブラックは顔を上げた。

 「どうして」

 「猫の毛皮を決めるのは遺伝子だけじゃないから。遺伝子の後のできごとだから」

 「……」

 「昔、同じことを考えた人がいたんだ、地球で。僕たちが今猫と呼んでいるのと同じような愛玩動物をクローニングして売りだそうとした人が。でも保存した細胞から造りだしたクローンは、オリジナルとまったく同じ模様にはならなくて、全然ビジネスにならなかったんだって」

 「へえ……」

 ブラックは首をかしげた。

 「なんで同じにならないんだろう」

 「細胞には、持っている遺伝子が働くようスィッチを入れる作用があって、専門用語ではエピジェネティクスというらしいんだけど、それ次第では持ってる遺伝子がまったく同じでも、同じ模様にはならないんだ」

 「そうなんだ」

 ブラックはもう一度ぶち猫に目を落とした。

 「こいつもそうなのかな――……スィッチね」

 ブラックはようやく猫の顔から手をはなした。猫は名残り惜しそうに首をもたげる。

 「また今度。おまえが縞猫じゃなくなっても、この優しいハーシェルおじさんがおまえの面倒を見てくれるよ」

 

 

 「猫の模様って、だから、魂みたいなもんだなって思う」

 また並んで歩きだしながら、ハーシェルはいった。

 「魂?」

 ブラックが横からそれを見下ろす。ハーシェルは坂道の砂を蹴りながらつづけた。

 「そう。コピーもとれないし、呼びもどすこともできない。細胞みたいな物質とちがって、きえたら再現することができないんだ」

 「思い出みたいだな」

 「そうだね……思い出……」

 ハーシェルは考えこむようにうつむく。夕日がその金髪を赤々と染め、燃え立つように輝かせた。

 「今ここにいる瞬間を、とっておくことはできないんだなって思うことはある……もう一度同じ景色や状況を、感じることはできないんだなって。そんなものなのかもしれない……同じ模様をした猫には、遺伝子が同じでももう二度と会えないっていうことは。それで、それは猫だけじゃなくて、人間でも芸術でも、生垣や石ころやにおいだって、同じものは二度と再現できないんだ」

 「おまえはそれにずっと前に気づいたんだな」

 ブラックはいった。

 「それでそれをいつも考えてる」

 「……いつもではないけど」

 「だからいろいろ調べたんだろ、エピジェネティクスとか、ゴーストタビーとか」

 「それは、まあ。猫だけなのかと思ってさ、その現象が」

 「でもそれが生物全般に見られるものだとわかってがっくりきたんだろ。同じ人間にはもう二度と会えないから」

 「……」

 「誰かが死んだんだな」

 ハーシェルはブラックの顔を見上げた。ブラックはこころもち上を見上げていた。

 「訊かないよ」

 「……」

 「永遠の別れくらい、おまえだって、俺だって、誰だって経験してる。だから訊かない。おまえのいうとおり、毎瞬間毎瞬間、おれたちは別れを告げてるんだ、もう会えないものに向かって。だから俺は目をみひらいてる。耳をそばだててる。絶対に寝たりするもんかって思う。夜寝るとその夜はどんなだったか、永遠にわからなくなっちゃうだろ?できるだけ起きて、その日、夜空はどんなだったか、空気がどんだけ冷たかったか、朝の光や鳥の声や、なにもかも全部、俺は知りたい」

 「……ブラック、それで、いつ寝ているの」

 ハーシェルが驚いてたずねると、ブラックはふふんと鼻で笑った。

 「いつだろうな。授業中かな」

 「でもブラックは勉強はできるじゃないの」

 「俺はもともと、ちょっと寝ればすむ方なんだ。おまえみたいに年じゅう寝られる方が不思議だよ」

 ブラックはちょっと得意そうに、からかうように彼のこめかみをつついた。

 「さあーて」

 そして急に声を上げる。

 「もうこのへんでいいよ。ハッシュ」

 坂は終わっていた。かれの住む丘は街に尽きていた。

 やや広めの道路をはさんで、新興住宅地のどれも同じような家々が両脇に並んでいる。暗く陰った一階と対照的に、二階の窓だけが夕日を反射して目のように見えた。

 「いいの?」

 駅はまだ大分遠い。バスがつかまるところまででも、まだ三十分は歩く距離だ。

 「いいよ。おまえはもう帰れよ。おまえんちのほうが人通りが少ないんだからさ」

 といってもこの眠ったような街で、路上犯罪などめったに起こらないのだが、ブラックにはブラックなりの思案があるらしかった。

 「俺はのんびり行くからさ。じゃあな」

 彼は背を向けて後ろ手に手をふった。その影が長く地に落ちて、鳥のような影を作った。

 「じゃあね、ブラック」

 ハーシェルはなんとなくさみしい気持で、その背ろ姿をしばらく見送った。

 ブラックとはいつもいろいろな話をする。そのすべてを正確に憶えていられないのが、もの悲しくなるようないろいろな話を。

 かれがそれを忘れぬように思い出しながら数歩あるくと、靴の先に見慣れた革靴が並んでいた。かれはハッと顔を上げた。

 「|養父≪とう≫さん」

 いつも穏やかな雰囲気の預かり親が、いつになくこわばった顔で立っていた。

 「どうしたの……いつからいたの?」

 いつ隣町から帰ってきたのか、同じ道路沿いの向こうの歩道も、この道路の入口のT字路も、ほとんど注意していなかったハーシェルは思わずそう訊いていた。

 「さっきだよ」

 預かり親は柔らかな口調は崩さずこたえた。だがそれはいくらか棒読みに聞こえた。

 「おまえが人と歩いてるのが見えたから、ここで待っていたんだ。一緒に帰ろう」

 「……」

 「家を見せたんだね」

 預かり親は歩きだしながら、いった。

 「おまえが友人をつれてくるなんて、初めてだ」



In vitro2     コンタクト



 「ブラック。なにをしているの」

 青い夕闇が落ちはじめていた。

 熱線の色をした太陽が沈みかけ、その光が西空をだんだら模様に染め上げていた。

 ハーシェルが昼の仕事を終え、ブラックを飛行機の浮いている礁湖へとつれていったとき、かれは手伝いの申し出を断り、一人で海に入っていった。それから大分長いこと、機体から動こうとしなかった。

 最初、ハーシェルは、かれが部分的な修復やとりはずしを試みているのかと思った。

 しかし浜に坐って見ていると、ブラックは途中でかなり長いこと、手を止めて空に顔を向けていた。まるでそうすることで、かれにしかない独自のやりかたで空と連絡をとってでもいるかのようだった。それはふとハーシェルになにかを思い出させた。具体的には思い出せないが、夕空に向かって、眸を上げて、空となにかやりとりしているような横顔を見たことがあった気がした。

 暖炉のような空がやがて昏さをおびて消えいりだしたとき、ハーシェルはいいかげん思い出し疲れて思い出せず、諦めてかれに声をかけた。

 「ブラック。なにをしているの」

 「ああ――うん」

 ブラックはややあって返事をした。茫としている感じだった。

 「通信機、壊れてるの」

 「壊れてる」

 結局、ブラックは空手で戻ってきた。

 「待たせた。ごめん」

 浜から立ち上がったハーシェルが、なにかいう前に機先を制するようにいう。ブラックはなにか訊かれたくないことがある様子だった。

 「……ああ、いいよ。帰ろう」

 「今日の夕飯は?」

 「なんでもいいけど……スープとサラダかなあ」

 「いいね。俺も手伝うよ」

 「コクピットは?あのままにしておくの」

 「いかれてる。回収しても埒が明かない。本部が迎えをよこしたらそのとき持ってくよ」

  と、そのとき、下を向いたブラックの胸からなにかが落ちた。

 「あ、これ――」

 小さな、ハート型の木の葉である。ブラックはそれを拾いあげた。

 「さっき可愛いなと思って拾っといたんだ、温室で。ほら昼間あんたと採りに入った、あの森の一等美味しい実のなってた背の低い木の改良型のさ」

 「なんで持ってきたんだい」

 「いや、持って帰って育てようと思って」

 「育てる?」

 その葉は、葉先がさざなみのように波打っている。ちょうど地球のプリーツレタスに似ていて、ハーシェルがプリーツウッドと名づけた木であった。

 「そう。あんただったけ、植物は茎や葉からでも根が出てきて育つっていったの」

 ブラックは手の中でその小さな葉をまわしながらいった。楽しそうな調子だった。

 「私が?そんなこといったかな」

 「ほら、昼間、融通無碍だとかなんだとかいってたろ」

 かれはそれをもうほとんどなくなりかけた空の明かりに向かってかざした。

 「これはちっちゃくて葉がふわふわしてて、あんたに一番似ていると思ったんだ」

 「私に?」

 「そう。髪をのばしたあんたにさ」

 ブラックは顔を向けてほほえんだ。ハーシェルはあいまいにうなずきかえした。



 「ただいま、イデア」

 半日、閉めていたツリーハウスの中はむっとしていた。空調で自動的な換気もしているのだが、この季節はどうしても湿気がこもってしまう。

 ハーシェルが暗がりで壁のスィッチを押すより早く、ブラックの手が背ろからのびてきて灯りと送風扇のスィッチを押した。

 飛行士だけあってこういう物の位置はすぐ覚えてしまうらしい。

 同時に食堂からどすんと落ちる音がして白と黒のぶち猫が居間に出てきた。もぐるような姿勢でブラックの方を警戒しつつも、ハーシェルの足もとへきて背中をこすりつける。

 「それがあんたの猫か」

 「そう。名まえはイデア。肥ってるだろう?」

 「自慢そうだな」

 イデアは彼と話しているブラックの方を不思議そうに見上げた。

 「毛づやがいい」

 ブラックが屈んで目を合わせると、警戒を解くようにかれの方へ首をのばした。

 「栄養がいいからね。運動もさせてるし」

 「キャットフードは上から来るのか」

 「そう。ここでは作れないからね」

 イデアはもうブラックの手の中で頭をころがしている。

 「どうやって手に入れたの」

 エアでは生命種の個人所有は禁忌である。エアだけではない。サード・ウェブが支配するすべての宙域で禁忌中の禁忌となっている。

 生命種の個人所有を許すということは、その繁殖をサード・ウェブ以外のものの手にゆだねるということになる。

 それは、サード・ウェブを頂点とする現在の完全に階層化された社会を乱しかねないおそれがあった。

 エアはその唯一の例外であったが、エアの生命種はエアが独自に開発したものなので、すったもんだの末、なんとかサード・ウェブの追認を得ることができたのだった。

 だがエア自身も、やはり自身が生みだした生命種に関しては厳格な管理を行っており、たとえハーシェルら研究者であっても研究目的以外での個人所有は禁じられていた。

 「イデアは〈楽園〉からもらってきたんだ」

 「〈楽園〉から?〈楽園〉の猫なのかい」

 「そう。僕は昔〈楽園〉に留学していたことがあってね。そのときにイデアの祖猫(おやねこ)に会ったんだ」

 「あんたが、〈楽園〉に?」

 「うん。一時(いっとき)だけどね。僕は持病があって、最初の頃、上ではうまく暮らせなかった。それで研究のテーマを探しがてらに下の世界に身をおいてみないかってことになってね」

 「それは、この孤島とかじゃなく?」

 「そう、街でね。実際にいたのは十年くらいかな」

 「へえ……」

 ブラックは、そんなことがあるんだ、という目をして彼を見た。

 昔の、法規のまだ緩かった頃のエアとちがって、今では〈楽園〉と上の世界との交流はかなり制限されている。ハーシェルの研究所が、絶海の孤島とはいえこの〈楽園〉の中にあるのも例外的なことだったが、実際彼がアンティークに立ち混じって暮らしていたことがあるとなると、いかに昔とはいえ例外中の例外といえた。

 「あんたは、俺が思っていたより、大物なのかもしれないな」

 ブラックはじゃれつく猫を足で相手しながら立ち上がった。

 「ずいぶん特別扱いだ」

 「そんなことはないよ」

 ハーシェルは苦い記憶がよみがえったようにいった。

 「僕はいつも人から出遅れてる。〈楽園〉に行ったのも決して僕のためだけではないんだ」

 「この猫はそのときもらったの」

 ブラックは気づかないようにたずねた。

 「……そう、イデアの|祖猫≪おやねこ≫はちょっと変わったいきさつがあってね。幼い頃に一時期あった縞がきえて、それで縞猫がほしかったのにっていう理由で捨てられて、それを僕が拾って育てた。その僕が〈楽園〉を去るときに、イデアはまだ生きていたから、預けられる人もなくて、そのままつれてきてしまったんだ」

 「へえ……縞が途中できえるなんてあるんだ」

 「あるよ」

 ハーシェルはツリーハウスから木のうろにあいた冷暗所へ入っていった。半闇の中で、食材の載った棚を手探りする。

 「花の模様も、猫の縞も、いろいろなものが生きているうちに変化する。遺伝子が変化しなくても、その遺伝子を働かせる転写因子が発動するかしないかで変化するんだ」

 「テンシャインシ?」

 「たんぱく質だよ。細胞の中の。この卵やミルクみたいなね」

 それらの食材をとって冷暗所から出てくると、ブラックは今やすっかり彼になついてしまったイデアを足にからませて待っていた。

 「だから、イデアなのか。あんたにアイデアをあたえたから」

 「それもある。あとイデアには、真実在という意味もあるしね」

 「真実在?」

 「プラトンだよ。読んだことない?」

 「ない。でもそれってずっと昔のことなんだろ?あんたがイデアをもらってきたのは」

 「うん。でもその後も生殖細胞はずっと保存してあるから、電気刺激で単為発生させることはできる。一応研究目的という建前があれば研究者には許されてるんだ」

 「やっぱり特別扱いじゃないか」

 ブラックはハーシェルが持ってきた卵をとりあげてその頭を打つふりをした。ハーシェルは笑って木のボウルをさしだした。

 「あんたはやっぱり、俺が思っていたよりずっと、優秀で大切にされてる研究者なんだ」

 ブラックは台所の椅子に腰かけて、泡立て器で卵をまぜだしてしばらくしていった。なんとなく、自分を納得させるようないい方だった。俺が思っていたよりずっと、というところに力がこもっている。

 ハーシェルはふりかえった。

 いつもの彼ならすぐ、そんなことないよ、というところだったが、ブラックの様子がそのことを喜ぶような、残念がるような、もっとちがうことを考えているような、なんとも判断のつかない様子だったのでためらわれた。

 このブラックという青年はこういう、なにを考えているのかわからない態度を時々とることがあった。だが彼はたとえば佐古といるときには、その真意が見えないと感じたことは一度もなかった。

 「……そうでもないよ」

 結局、ハーシェルは場つなぎのためにそうこたえた。

 「もうそのくらいでいいよ、卵は」

 「あ、ああ」

 ブラックはちょっと放心したような目を上げてボウルをわたした。

 「これはなにを作るの。オムレツ?」

 「いや、食後のパンプディングにしようと思って」

 卵はすでにきれいなカナリヤ色になっていた。

 ブラックはほうと息をついて、頬杖をついて窓の外を眺めた。日はすっかり暮れていて、アメノキの細い気根の間から、わずかに青く光る海と月が見えるばかりである。

 「湿気が出てきた」

 ブラックは呟いた。たしかに、送風機をかけたにもかかわらず、空気のむっとする感じはさきほどより強まってきていた。

 「|嵐≪スコール≫がくるんだ。夜から」

 ハーシェルはボウルにミルクや刻んだバナナを足しながらいった。

 「いつもそうなんだ」

 「そっか。じゃああそこに行くのは明日だな」

 「あそこ?」

 「ほら、昼間いってたあの海辺の木だよ」

 「ああ。パオノキ」

 「あれに泊まりにいこうっていったじゃないか、あんたと」

 「……そうだねえ……でもここんとこ毎日雨だからね」

 忘れていなかったのか、というように、ハーシェルはうやむやな返事をした。

 「でも朝には乾くんだろ。行こう。明日、早起きしてさ」

 「うーん……今日も夜まで仕事なんだけど」

 たまっているから、とハーシェルが嫌な顔をすると、ブラックは駄々っ子のように、

 「じゃあ昼でもいい。昼でも、一瞬でも、俺はあそこに寝ころがりたい。あんたと」

 「寝ころがるのは私も好きだけどね」

 ハーシェルが譲歩すると、かれは勢いづいて、

 「じゃあちょうどいい。行こうよ、あそこに。明日さ」

 と、いった。まるでピクニックにでも行くような感じだった。



In vivo     |夜の国≪ナイト・ランド≫

 


 「『|夜の国≪ナイト・ランド≫』とは」

 エア研究部門第十二班班長、|斎田奏一≪さいだそういち≫博士はいった。

 「そもそも、休眠期に入った細胞を使って行う実験をさしていった言葉にすぎない」

 斎田博士とそのラボの見学者は、実験棟の一画に来ていた。

 淡いクリーム色のラボは、いくつかの実験設備をそなえた小部屋に分かれていて、それらが蜂の巣のようにいりくんだ廊下で連結されていた。

 廊下からは窓を通して中でなにが行われているか見ることができた。小部屋のいくつかは灯りがきえていたが、ほとんどは博士の配下の助手たちが白衣姿で各々の仕事にとりくんでいた。

 ピペットで試薬をとりわける者、核酸増殖機を動かしている者、顕微鏡をのぞいている者、試験管内に培養のための培地を作っている者……それらは窓にスクリーンをまったく下ろさずに見学者に公開された。それは、博士がこの見学者を、いつにない厚遇で迎えていることを示していた。

 実際、今日の見学者はただ一人であったが、その目にやどる理知の光はただごとではなかった。黒髪黒目に浅黒い肌をし、背はわりあいと高かったが、手足の方はひょろりとしてまだこれからも成長する感じがあった。

 助手たちは時々、博士とともに回ってくる彼に目を投げ、誰だろうという目を見交わしあった。

 「あれを見たまえ」

 博士はその長細い、いかにも研究者らしい白い顔に浮いた皺をのばすような無表情でいった。

 「あそこでは今、核融合が行われている」

 そこでは白い実験台の上に五十センチメートルほどの黒い箱がおかれており、助手の一人が近くのタッチ・パネルでモニター画面を見つつ操作していた。

 「核融合?移植ではなく?」

 研究者のあいだでは、「夜の国」計画が、休眠期に入り体のいろいろな細胞に分化できる全能性を獲得した核を、ほかの細胞に移植する技術に成功したことは知られていた。

 今回の見学者はまだ正式に研究職に昇格したわけではなかったが、技術者として他部門の研究を手伝っていたことと、本人の情報収集力とによってすでにそのことを承知していた。

 「そう。細胞核の融合だ」

 博士は笑みを浮かべてうなずいた。見学者が正しいところで反応したことが気に入ったようだった。

 「パラメシウム――いわゆるゾウリムシで行われるような細胞核同士の融合だ。君も知っているかな、〈楽園〉のアンティークがゾウリムシによく似た生殖システムを持つことを」

 「――ええ、話には聞いています。かれらは通常、無性生殖で増殖し、ある一定期間を過ぎると|接合≪せつごう≫――一種の有性生殖を行う、ということは」

 「厳密にいえば期間だけの問題ではないがな」

 博士はいかにも専門家らしい注釈をつけた。

 「実際には有性生殖のスィッチは、外的刺激や個々の遺伝系に蓄積された遺伝子異常の量も影響して入るのだ。が、まあそれはともかく」

 博士は見学者をみちびくようにガラス窓に近づいた。

 「我々のチームはその有性生殖を第三人類でも行えないか、極秘に実験している。むろん、有志の者の体細胞でだ。我々の生殖細胞はサード・ウェブの厳格な管理下にあるからな。だが我々の『夜の国』構想は、もうすでにその段階まで進んでいるのだよ」

 見学者はじっとガラス窓の向こうで行われている、一見地味なその細胞核融合実験をみつめた。

 その沈黙を質問ととったかのように、博士はいった。

 「なぜそんなことをするかわかるかね。我々はあらゆる生殖方法を手にしなければならないからだ。ただアンティークを得ただけでは、我々の代わりにかれらに宇宙の汚れ仕事を押しつけるというに過ぎん。我々が新たな生命種を生むことで望んでいたのはそんなことではない。我々はあらゆる生殖システムに通暁し、あわよくばそれを己がものとし、いついかなる場所でも生きぬいていける融通性――強固さを獲得しなければならない。そう、種としての強固さを。アンティークはそのためのステップに過ぎない」

 「……なるほど」

 ガラスから顔を上げた見学者の目は、意外にも博士と同じ、一等研究職のような自信と知性とにみちていた。

 「『|夜の国≪ナイト・ランド≫』はアンティークの次の段階の構想なのですね。だから軍部など、研究職以外の方にも賛同者が多いわけなんですね」

 「……君もよく知ってるね。そうした専門外のことを」

 博士はちょっと痛いところを突かれた、という顔をした。この一見、人畜無害そうな若造にも意外と政治的な嗅覚があるようだ、と見直したようだった。

 「まあ人類は希望をほしがるものだ、いついかなるときでも」

 博士は急に、エアという巨大な宇宙船の中にいる自分――その同僚たち、そしてその他の宇宙で働く幾千万の同胞たちに思いを馳せたかのようにいった。

 「人類はなにかにつながっていきたいと思うものなのだ。こんな船の中ではなく。どこか外へ、ちがう世界へ、自分を伝えたい、遺したいと思うものなのだよ」

 見学者はなにもいわなかった。それは博士の「夜の国」計画に賛同するとも、その政治的な意図のはっきりした研究内容に反発するともどちらともとれなかった。

 もともとこの見学者は、政治的なことに決して鈍いタイプではないようだったが、あまりにもまだ研究者としては無垢であった。正確にいえばまだ研究職にすらついていない見習いであり、その目が純粋な知的興味によってしか輝かないのも尤もといえた。

 博士は性急に彼のこたえを求めることを諦めたかのように目をそらすと、

 「そういえば」

 腕の時計に目を止めた。

 「二時から人と会う約束をしていた。君も来るかね」

 「いいんですか」

 見学者はけげんそうな顔をした。

 「ああ。私としては研究者全員の首をそろえて接見したいくらいなんだ。研究職全体の個人的権利と知的所有物の保護に関し、諜報局員に正式にものを申し入れるつもりなのだ」

 「諜報局に?」

 「そうだ。本来佐古耀一郎がやるべきことなのだが、あの男はこういうことに関してはなかなか動きたがらない。自分の管轄する班の人間が、諜報局の活動にまきこまれているというのにそしらぬ顔だ」

 見学者はなにもいわなかった。彼はつい昨日まで、その佐古耀一郎の班に正式な所属先を決める前に一定期間許された見学者として参加していたのである。そのときに佐古の班の会議に聴講に来ていた斎田博士とも顔見知りになり、今回の見学に誘われたのだった。

 「それはどなたなのです」

 見学者が口をひらいたとき、廊下のつきあたりで開扉をうながす報知音が鳴った。

 「来たな」

 博士はその漂白したような顔を上げた。

 「まあ君も来たまえ。参考になる。誰がその人物かはすぐわかるだろう」



In vivo     虚実



 会見を終え、斎田博士のラボを出た諜報局員二人はゆっくりと歩きだしながら、それぞれ会見を反芻するように目を落とした。

 会見の内容は単純だった。

 研究職の実質上のトップである斎田博士の話は、研究職をまきこんだ内偵活動のすみやかな中止と研究員の保護を訴えるものだった。事前に総長から来ていた内容と同じだったので拍子抜けしたが、それだけに今回わざわざ呼びだした理由は、自分の軍に対する影響力を見せつけるためだけのようもとれた。

 実際、同席していたすでに研究職採用が決まっているという青臭い感じのする青年も、自分がなぜ同席させられているのかわからないという顔をしていた。その彼に対する博士のデモンストレーションの意味もあったのかもしれない。

 「得るものは少なかったですね」

 部下であるカーンがいった。

 「そうだな」

 上司の方も気のない返事をした。

 博士が切った期限は二日。今日も含めてのことなので、作戦遂行に許された時間はあと一日ということになる。

 「まあ博士のいうことも尤もなのだが。このまま進めば、こちらの意図に気がついた目標が、研究員に危害を加えないという保証はないしな。追いつめられれば、さらに研究員が保持する研究成果にも手をふれかねない」

 「それを質にとられるのが、研究職としては一番恐いということなんでしょうね……」

 カーンもうなずいた。

 博士の言い分は強硬だったが、その理由はけっして不当なものではない――。窮したカーンがその生硬な顔をゆがめたとき、背ろから声をかける者があった。

 ふりかえると、さきほどの同席した青年が、自分も会見が終わったというように外廊に出てきたところだった。

 「お待ちください。すこし話が」

 近づいてくると長い手足がさらに長く見える。まだ筋肉のつきの足りない、骨っぽい感じのする青年である。青年は知的な目を光らせ、彼に比べれば鈍い表情を浮かべている諜報局主管とその気落ちした部下の顔を見下ろした。

 「ここではなく、どこか近くの部屋に入りませんか。お話したいことがあるのです」



 「お話とは、なんです」

 三人で近くの個室に腰をおちつけると、主管はさっそく用心しながらいった。

 「さきほどのハーシェル博士をまきこんだ作戦のことですが」

 青年はごく落ちついた様子で話しだした。

 「この作戦のほかに、研究員をまきこんだ作戦はあるのですか」

 「いや。ほかにいくつかの潜入アンティークをあぶりだす作戦は進行しつつあるが、研究員で今回の作戦にかかわっている者は彼だけだ」

 「そうですか」

 青年は一瞬、考えるように目を伏せた。

 「ではハーシェル博士の作戦は、非常に重要な作戦、ということになりますね」

 主管は、青年がなにをいっているのかわからない、という目をしてカーンを見た。

 カーンは一種真剣な、気持の入った目で青年をみつめていた。

 「私が思うに……今回の作戦はもうすこし長く続けるべきだと思います。斎田博士には逆らうようですが」

 「なぜ?」

 「二日で終わらせてはほとんど何の収穫も得られないからです。あの島にいるブラックは、黒と目星がついたとしても、他の仲間からはおそらく捨石にされるでしょうし、かれ自身、拘引されたとしても自分の命とひきかえに仲間の情報を漏らすことはしそうもない」

 「なぜそう思うのです」

 カーンがかさねて質問をした。身をのりだしたわけではなかったが、その顔はあたかも彼がそうしたかと思うほど真剣だった。

 「さきほどのお話を伺ったところだと、ブラックは上の仲間たちとあえて連絡をとっていない節があります」

 青年は澄んだ表情でいった。

 「とるとしても心語によってとり、それ以外のやり方ではあえてとっていない節がある。かれはそうすることで、上にいる仲間たちを守ろうとし、同時にこちら側の出方を窺っている。エアがかれに目をつけ、内偵していることを、かれはおそらく気づいているのです」

 「……さとられない方法で、盗聴をしていたつもりだが」

 カーンは押しだすようにいった。

 青年の話は、すべて推測だが、いわれてみるとたしかにあの夕方の浜でブラックが何をしていたのかというと、それしか考えられないような気もしてくる。

 「盗聴は、どんな方法で?」

 「ミツバチや蛾に模した盗聴器を島に飛ばした。あの島の動物の多くは機械体だと聞いたから、それにまぎれて忍びこませれば目立たないと思ったのだ」

 「たしかにハーシェル博士の島に本物の動物はほとんどいないはずですが」

 青年はつまらなさそうに、

 「博士がそれをブラックに明かしているとはかぎりません。それに、博士の島の植物はすべて自家受粉体のはずだから、受粉のためのミツバチや蛾はいらないのです。それを、博士はかれにいいませんでしたか?」

 主管とカーンは絶句した。

 そういえばたしかに、ハーシェルはそういう話をブラックにしていた。それに動物のすべてが機械体であることも、ハーシェルはブラックにはっきりとはいっていなかった。|猫≪イデア≫のことを真実在などと、ほのめかしてはいたものの――

 「――なるほど。たしかにそうだな」

 ややあって、主管は負けを認めたようにうなずいた。

 「君のいうとおり、今までのハーシェルの説明を聞いたかぎりでは、ブラックが我々の飛ばした盗聴器に不審を抱くのも尤もだ」

 「かれが気づいているとしたら」

 青年はつづけた。

 「かれはそのことを心語で仲間に告げたでしょう。そうしたら、かれのよそにいる仲間はますます警戒して、我々に尻尾をつかまれまいとするはずです」

 「失敗か」

 主管は呟いた。より生きのいいカーンですらうなだれたように目をおとした。敵をさぐるつもりの作戦が、逆により敵を警戒させるきっかけとなってしまったとしたら、それも当然だった。

 「もし本当に潜入アンティークの全容をお知りになりたいと思うなら」

 青年が口をひらいたのと、カーンが顔を上げたのがほぼ同時だった。

 「もうすこし、まだできることがあります」

 「それは?」

 カーンが今度こそ本当に身をのりだした。

 「ブラックに他に連絡をとるように圧力をかけるのです」

 「圧力?」

 「そうです。かれがどうしても早急に連絡をとらなければいけないような事態にあの島をもっていくのです。我々はもちろん、心語の解析はできません。ですがその連絡がもたらした変化の出た部署を調べ上げれば、ブラックが今どこに仲間を持っているか、つきとめることができるはずです」

 「その、事態とは……」

 青年はそこで初めて、得意そうにほほえんだ。

 「それこそがあなたの当初考えていた作戦ではありませんか、カーン少佐。あなたの考えた、実を避けて虚を撃つ作戦です」



In vitro2    兄弟



 夕食を終えた後、ハーシェルはブラックに好きにするようにといって自室にこもった。

 それがいつもの、彼の夜の過ごし方だった。それから四時間ほどデータの解析に没頭するうちに必要な実験のアイデアがわいてきて、時々横たわっては考えをまとめた。

 もう寝ようか、と思ったとき、彼はようやくブラックのことを思い出した。

 立ち上がって食堂に見にいくと、ブラックはまだ食卓に坐っていた。その足元にイデアが毛皮の敷きもののように寝そべっている。

 「ブラック、どうしたの」

 ハーシェルはしばらく待ってから小さな声でいった。ブラックがまたなにか、自分の中に語りかけるような顔をして目を閉じていたからである。

 外ではいつしか雷鳴が鳴り、窓ごしに雨混じりの風が打ちつける音がした。雷は鳴っているのに光のない、黒い夜が窓の外に広がっている。

 「眠るの」

 「いや」

 ブラックはようやく目をひらいた。それからまったくふつうの表情で彼を見上げた。

 「俺の人生で一番幸せだった十分間を思い出していたんだ」

 ハーシェルは一瞬、面食らったが、次の瞬間、ブラックがなにを思い出していたかがなんとなくわかる気がした――それは今朝がた、かれが居間においた青更紗の長椅子の上でめざめて、台所へきて、ハーシェルの立ちはたらく姿を見たとき、それから食堂の張り出し窓で、ゆったりと日をあびて今のように坐っていたときのことを指しているのだろう。

 そう、思った。

 「俺はあのとき、生まれ変わったと思ったんだ。いきたいところへたどりつけたと思ったんだ」

 あたたかい声を、ハーシェルはなにか胸をしめつけられるような気持で聞いた。ブラックの表情はあいかわらず感動的でもなくふつうのままだったが、かれがそれをどんなふうに考えているか、声の調子から感じとることができた。

 「ブラック」

 君は帰った方がいい。

 早く、上に帰った方がいい。

 そういおうとしてハーシェルは眸を上げた。そのとき、居間の入口の扉が風でひらく音がした。

 風と雨の舞いこむ音が、湿気とともに食堂にとどいた。

 「嵐になってきたね」

 ブラックは立ち上がって、それを閉めにいった。もうすっかりめざめたかのような、しっかりした動作だった。

 「おもしろいから、ちょっと外に出てくるよ、ハーシェル」

 ふいに、ブラックは彼をふりかえっていった。戸口のところで、風と雨と闇の向こうを、ちょっとのぞくように透かし見た後であった。

 「え?」

 「もしよければ先に寝てて。そのへんをぶらついてくる」

 「この雨の中を?」

 「この雨だから出たいんだ。俺は雨や泥が好きだけど、飛行機に乗っているとあびるなんてめったにないから。先に寝てて」

 子供のように笑って、かれは扉を閉じた。


                    *


 闇の中で、かれらはしばらく黙ったまま歩いた。

 かれらの背格好は驚くほど似ていたが、それは暗視モードゴーグルでもつけていないかぎり誰にも見分けられなかった。それだけあたりの暗闇は深く、雨もあっというまに熱帯特有の豪雨になっていた。

 先頭をいく方が浜辺の際の叢林を指し、二人はその木陰へと急いだ。どちらもいうことが沢山あり、それでいて互いに一緒にいることが目的ではなかったからだ。

 木陰にたどりつくと、うっそうとした木の下ですこしだけ雨脚が弱まった。一人がそれで一息つくように顔をぬぐった。他方がそれをし終える間もあたえず、いきなりその胸ぐらをつかんで殴った。

 殴られた方は後ろざまに太い幹の根元に倒れた。かれは殴った方を見上げた。

 (なぜもっと早く連絡しなかった)

 殴った方はかれらにしかわからない|心語≪ことば≫で語りかけた。

 (おまえはこの島で一日なにをしてたんだ)

 (怪我をしていたのさ)

 (ぴんぴんしてるじゃないか)

 (……この島の様子を探ってたんだ。この島はいろいろ見張り装置がしかけられている。今この雨の中も俺たちのまわりには、話を聞こうとしてついてきたモニター機が飛んでいるはずさ。真っ暗闇の夜でよかったよ)

 (ふん)

 怒っている方は、殴られた方がかれを刺激しないようそろそろと立ち上ったのをにらんだ。

 (俺とおまえを同時に見たって、見る奴が見なければなにもわからないだろう。実際、あの人はわからなかった)

 (……あんたは、あの人を知っているの)

 (知ってるどころか。俺はずっとあの人を探してたんだ。こんなところに隠れてたとは。知ってたらもっと早く来たはずだ)

 (どうやって来たの)

 (この近くに船を隠してある)

 殴った方は、エアでよく使う飛翔潜水艇でこの近くの海域に降りてきたらしい。ちょうど豪雨だったのがよい目くらましとなって、すんなり島に近づけたのかもしれない。

 (ストーン)

 殴られた方は殴った方に顔をよせた。

 (この島はふつうじゃない。なにかしかけがあると思う。あんたが今日来たことをあの方は知っているの)

 (あの方は知らない。あの方はここにあの人がいることを、ずっと知っていて隠してたんだ。俺があの人を探してるのを知ってるのにさ)

 (そりゃ、あんたはリーダーだから――あんたがこうやって持ち場を離れると、現場も混乱するんじゃない?)

 (おまえらが俺のいうとおり動いていれば、混乱なんかしやしないさ。俺はとにかくあの人に会いたい。この目で本当にあの人かどうか確かめたいんだ――あの人がおまえの送ってきた影像どおりかを)

 (どおりだよ)

 殴られた方はふてくされたようにいった。

 (…でも今夜はやめてくれ。あの人はもう寝てるんだ)

 (寝顔でいい)

 (だめだよ。あの人はとても敏感だから。あんたがそばに来たら起きちゃうよ)

 (おまえなら起きないのか)

 (それはわからないけど)

 (起こすくらいがちょうどいいのさ、あの人には)

 ストーン、と呼ばれた方は笑った。

 (おまえじゃ毒がなさ過ぎるんだ、ウッド。とにかく顔だけは見にいく。案内しろ)

 (あんた、いつまでいるつもりなんだ。あんたには仕事があるだろ?)

 (仕事はここにいながらやるさ。あの方が俺にいわなかったのは、いえば俺がここに来ることを知ってたからだ。想定済みの事態なのさ)

 ストーンは超然とした態度でいった。

 彼は、つねに自分中心に世界が回っているような雰囲気をただよわせることのできる稀有の人間だった。そしてそれは、決して悪いことではなく、ある意味でまわりの方向性を決めてくれる羅針盤のような作用を持っていた。

 (会って、どうするつもりなんだ。あんた、あの人に俺たちはアンティークだっていうつもりなのか。ここには隠しモニターが山ほどしかけられているんだぜ)

 (いうかいわないかは会ってから決める。でももしあの人が協力してくれるなら、俺たちはエアのモニターの目をかいくぐって協力し合えるはずだ。ここはあの人の島なんだろ?)

 (そりゃそうだが)

 (あの人を俺たちの仲間にひきずりこみたい)

 (――)

 (だから俺が来たんだ。おまえじゃだめだから。俺たちの計画はどんどん進んでいる。エア側が気づいてきてるからもう時間がないんだ。あの方にまで手が及ぶ前に俺たちは脱出しなけりゃならない。だろ?だがここであの人を離したら、俺はもう当分あの人に会えない。でも、ここで諦めなきゃ、俺たちが手をとりあって楽しく笑う日がくるかもしれない、俺があの人をつれていく場所には。俺の気持をほんとうに理解してくれる日がくるかもしれない。俺は、ずっと、その日を待ってたんだ。その可能性に、賭けたいんだ)

 (…………わかったよ)

 ほかにいうことがない、というように、ウッドはいった。さんざん言葉をさがしたが結局、それ以外見つからない、といった感じだった。

 (……あんたが、そういうなら、そうするしかないんだろう――……でも俺は、あんたに協力しきれるかは、わからないよ…………)

 最後の言葉は、途切れようとする心語の闇の中にのまれた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ