出会い
In vitro1 修復現場
かれが住む海に面した町にはいくつか、古い石造建築があった。
小高い丘の上に建つそれらは、まわりに木のやぐらが立てられ、器用にそれをわたり歩く修復のための大工たちがいる。
雨の日には彼らが休むので、高いところの好きなかれはよくそのやぐらの上に登った。
かれが両手でやっと包めるくらいの垂木を登りきると、白っぽい砂の舞う壁のいただきにたどりつく。壁には、もとは窓であったろう場所にトンネルほどの大きさの孔があいている。かれはその孔の中にごろんと横たわり、とりとめのない夢想にふけるのが好きだった。
そこで、ブラックに会ったのだ。ブラックのことは、かれは初めて|寮≪ドム≫に入った頃から知っていた。たぶん向こうは気づいていなかったろう。かれは入って二ヶ月で寮をやめてしまい、|滞在≪ステイ≫先から二時間かけて学校に通うようになった。これですこしは人馴れするか、と期待していた預かり親も、それですっかり諦めてしまった。
かれはひとりきりになるのがなにより好きなので、多少気になるものがあってもあえて近づかず、そのままにしておいた。その一つがブラックだった。
その日も、かるく湿った|垂木≪たるき≫を伝って、海を背にいつもの孔の中へと入ろうとしたとき、かれは上からぶらさがる二本の脚に気づいた。長い、黒い脚である。かれと同じ制服の、粗い|格子≪こうし≫織りのスラックス。それをぶらぶらと揺らしながら、誰かが上で寝ころんでいた。
そのとき、誰だかはわからなくても、かれは声をかけるべきだったろう。だがかれはいつも人が花に対するように人に対した。つまり、花は自分を見もしないし会いにもこないが、自分は花を十分に見ている。他人は、かれにとってそういう存在だった。とくにその脚はじつに自由に揺れていて、誰にも邪魔されたくない感じがした。そこでかれはその下に坐って、いつものように自分の夢に沈みこもうとした。
「おい」
ついにしびれを切らしたような声がしたとき、かれはうとうとしかけていた。
「いつまでもなにをしてるんだ」
かれは飛びおきた。ブラックは例の張りのある、なんとなくいつまでも耳に残るような声でいった。
「なんでここに来ないんだ」
かれは――驚いた。てっきりブラックは、なぜ自分に声をかけないのか、と怒ったのかと思ったのだ。相手は自分より年上であり、先輩とはそうしたもののようだからだ。
「上の方がいいだろ、広くて」
ブラックはつけたすようにいった。その声は――なんと表現したらいいのかわからない。ブラックの声は、すこし押しつけがましいくらいに響く。きっと俳優や音楽家や、声を職業にする人に向いている声なのだと思う。まるでいつも自分の声を聞いてくれ、いいたいことに耳を傾けてくれ、といっているように聞こえる。かれが最初に注目したのもその声だった。それからそのすっと伸びた背すじ、動き――あまりじっとしていない、いつも興味のある方に向かって歩いていく子供のような動きに気づいた。
だが今のブラックの声は、いつもよりややトーンを下げていた。遠慮がちな感じがある。
「ここは僕の定位置なんだ」
かれはいぶかしみながらこたえた。
「だから黙ってそこにいるのか」
ブラックは初めて上から顔を出した。陰になって表情は見えない。
「犬か猫みたいな奴だな。じゃあいいや。俺はブラック。あんたのことは知ってる。1―Bの奴だろ」
僕もあなたのことは知ってる。かれはそういうべきだったろう。だがかれは事態の不思議さにとらわれて、ほとんど身動きができないでいた。そうこうしている間にブラックはまた話を進めてしまった。
「みんながあんたのことなんていってるか、知ってる?」
どうもテンポが合わない。
もう少しゆっくり話してくれればいいのに、とかれは思った。といって、別にブラックは早口なわけでも、相手の話す間をあたえない喋り方をするわけでもなかった。クラスの者が話すように、いやむしろ彼らよりもはっきりと、一語一語耳に残るように話している。しかしかれはもともと話し出しに時間がかかるうえに、今はまたブラックが自分を認識しているということの意外さに、まだ足元をすくわれた状態であった。
「……ハッシュっていっているのさ。ハッシャ バイのハッシュ」
かれはぽかんとした。
Hush
しー、静かにという意味である。ハッシャ バイは眠れ。子守唄のことでもある。
「寝てるからさ」
ブラックの調子は笑みをふくんだ。
「いつも眠そうにしているし、耳に栓をしてるだろ。しかも眼鏡をかけてるくせに、人を見るとき目を細めるし。度が合ってないのか?」
そうか。眼鏡をかけっぱなしだから見えないのか。
かれはうっかりかけたままの眼鏡をはずした。いつかけたのだろう。一人のときははずすようにしているのに。
はずすと、ブラックが手をのばしてきた。かれはその両手をつかんだ。まるでそれはかれを引き上げようとしているかのように見えたからである。かれがつかまなければ、そのまま両手を使ってかれを持ち上げそうな雰囲気すらあった。
上へ上がると、ブラックは一人だった。なんとなく、仲間がいてもいいような気がしたので意外だった。ブラックはいつも仲間と連れ立っていて、校内の人気者であった。幅ニメートルもない崩れかけた壁の上を、思わず見回したかれの手を、ブラックはすこし自分の方へ引いた。まるでまわりに人がいないと、自分はだめになってしまう、という感じだった。
よしよし、よくきた、とその目はいったように見えたが、その口からすべり出たのは、予想もしない言葉だった。
「眼鏡がないほうがいいな。目がはっきりする。伊達眼なのか。見えるみたいじゃないか、なくても」
いいたいことをいうな、とかれは思った。自分の言葉ははっきり口から出ないので、すこし悔しい感じもしたのだ。
さっきっから負けっぱなしだ。
「度が入ってるよ。かけると目が小さくなるだろ」
ブラックはぱっと笑みを浮かべた。
「やっとしゃべったな、ハッシュ。それが、それか」
笑う、というのはこういうことなのか、とかれは思った。その顔は、笑いというものを笑ったことのない人に教えるような顔であった。いつまでも心に残る夕映えのような明るい笑顔である。
ブラックはそのまま検分するようにかれを眺めていた。眼鏡なしで人前にいるのは慣れていない。かれはもじもじして後ろに退がった。
「いいじゃないか」
ブラックは画廊の主人のようにいう。
「眼鏡がないほうが数段いい。はずせよ」
命令するような調子である。
「俺といるときははずせよ」
「見えないんだ」
かれは慌てて手に持った眼鏡をかけた。
「ほとんど見えない」
「その方がいい」
ブラックは笑いながらまた鼻からそれをとりあげた。
「なにされてるかわかんないだろ」
「わからないと困るじゃないか」
わけのわからないことばかりいう。かれは手をのばしてそれをとりもどそうとしたが、ブラックはいじわるする子供のようにそれを高々とふりかざして立ち上がった。
「わからなくていいのさ。なにもかもわかっているとつまらない。――綺麗だな」
ブラックは眼鏡をかれに向かって陽にかざしながらいった。
「返してよ」
かれの背はブラックの胸くらいまでしかない。この半年で大分背がのびたが、それでもまだクラスでは下の方だった。すでに二年のブラックとはまだかなりの体格差がある。
「返してほしかったら相撲をやろう」
「スモウ?」
「日本の格闘技だよ。昔の、地球の」
「やったことない」
「じゃあレスリングだ」
「ない。ボクシングならあるけど」
「ボクシング?それは駄目だ。顔が傷む」
ブラックは格闘技が好きなくせに顔が傷つくのが嫌なのか。そのちぐはぐさにかれは思わず笑ってしまった。ブラックはじっとそれを見ていた。またなにかいうのかと思ったが、意外にも今度はかれが口をひらくまで黙っていた。
「返してよ。僕もう帰らなくちゃ」
ブラックは素直に眼鏡をさしだした。もっとごねるかと思っていたのに、意外だった。
「どこにいくんだ」
不思議にさみしそうな様子を見せて、彼はたずねた。いつも人に囲まれているから、たまに一人になると駄目なタイプなのかもしれない。
「家へ。それから、温室へ」
「温室?」
「家の近くに、温室があるんだ。そこを手伝ってる。体の悪いおじいさんがいるから」
「ふーん……」
眼鏡をかけながらこたえたかれを、ブラックは名残惜しげにみつめた。
「だから時々花の匂いがするんだ」
「え?」
「そういってたよ。クラスの奴が」
その言葉に、かれはなんとなくこそばゆいような、恥ずかしいような気持がした。
「じゃあね、ブラック」
かれが石壁を降りようとすると、ブラックが手を出して脇を支えた。人にもてるだけあって、親切心には富んでいるらしい。
「また来いよ、ハッシュ」
ブラックは上からそう声をかけた。命令口調というより少し、頼むような感じだった。
In vitro1 隠者さま
「その男の子はおまえと友だちになりたいんだな」
温室でしばらく手伝ってからいれたお茶を飲みながら、隠者さまはいった。隠者さま、とかれは仇名で呼んでいるが、本名はたしかS・なんとか……異国風の名前だったはずだ。
隠者さまは長年かれのステイ先に住んで、植物の研究に携わっている。助手は何人か雇っているが、皆休日には帰ってしまう。隠者さまは日中は戸外には出られないので、かれはなるべくここに来て手伝うようにしていた。もちろん、無給だ。
かれがそもそもこの温室に出入りするようになったのは、この家の生垣が毎年見事に色のちがう花を咲かせていたからだ。
かれはその頃はまだ近くの学校に通っていた。通るたびに花に見入っては、なぜ同じ木から毎年ちがう色の花が咲くのだろう、といぶかしく思った。そのうちきっとこの中の庭園や温室――それは八階建てで付近の家々からも突出していたが――に秘密があるにちがいない、と思った。まだ七歳くらいのときだ。 そしてあるとき、忍びこんだ。
夜、灯のついてない鉄門を登って、小さな青い誘蛾灯がほのみえる館の方へと砂利道を進んだ。館の右手には温室があり、館そのものは時代風の、赤レンガと灰白色調の石組みでできていた。壁には縦長のフランス窓が並び、その下の花壇にはよく手入れされた花々が植わっていた。屋根は三角の破風造りで、正面の重厚な車寄せの上に丸いアーチをのせたベランダがついていた。
それだけ見ると、まるで植物好きのお金持ちの家ででもあるかのようである。実際、かれの預かり親はそう思っていた。
しかしかれはそんなことは信じなかった。毎年ちがう花を咲かせられる木など、ただの趣味で創れるわけがない。かれは子供ではあったが、他にそうは見られないことを、なんでもないこととして流すことはできなかった。
ここへ来るまで、かれはその理由をいくつか想像してみた。一つは、ちがう花の咲く小枝を|接木≪つぎき≫している可能性である。
しかし、かれは以前、足の裏を傷つけたときに皮膚がぺろりとむけてとれかかったことがあった。かかりつけの医者に行くと、そのままガーゼを当てておけば元に戻るかもしれないといわれた。そして実際にそのとれかけた皮膚はついた。
かれはその後、自分の別なすりむき傷の上に鳥肉を持ってきてのせたり、鳥肉の上に別な鳥肉をのせたりしてくっつくか観察したものだった。それらはすべて、くっつかなかった。つまり、他人では駄目なのだ。同じもの同士でないとくっつかないということがわかった。
もう一つは、その生垣がなにか特別な刺激を受けているから、という可能性がある。たとえば虫とか、肥料とか、水とか。しかし毎日見張ってみても、これといって変わった世話をしている様子はない。いつも同じ作業着を着た人が、ごく当たり前の水と思われる水をホースでまいているだけだ。
だからかれはなにかの刺激が、はっきりとはさとられない仕方で、あの屋敷の中から出ていると思った。それを見極めるために、屋敷内に忍びこむ必要があった。
ほのじろい月明かりをあびた砂利道を進んでいくと、やがて右手の針葉樹の木立の間に、芝生とその向こうの温室が見えた。ガラス張りのドームをのせた八階建ての温室である。その中には多くの木々が、ところせましと植わっている。暗い影をぬって飛ぶ鳥の影も見える。
見上げながら進んでいるうちに、いつのまにかかれは木立を通りぬけて、芝生の上に歩みでていた。芝生の向こうには温室がある。そう思ったがその前に三日月型のプールがあった。月明かりと誘蛾灯をあびて、白い石の底に青い水をたたえている。温室はその水明かりをゆらゆらと反射して静まっていた。
そのとき、かれはふとプールの三日月の端に、月光をあびた人影があることに気づいた。プールの縁石の白い色調が、まるで氷の上にいるように見えた。
かれは相手が自分を見ていることに気づいたので、そのまま逃げずに進んでいった。自分が見える程度には相手にも見えているとすれば、逃げたところでしょうがない。
近づいていくと白いベンチに坐った相手は、薄茶色のフードの中からゆっくりと会釈した。まるで客人をもてなすしぐさだった。
かれは面食らって会釈を返しつつ相手を見た。相当な老人である。顔には秋の木の葉を散らしたような染みが一杯あり、わずかに見える眉毛は白髪だった。鼻が高く目が鋭い、いかにも賢そうな人物ではあるが、簡易ベンチにすわって月を楽しむような風情のわりには表情がとぼしかった。かれには優しいそぶりを見せたが、その真意はわからなかった。
「なにをしているのだね」
老人はやっと訊いた。ややくぐもった、ささやくような声音である。
かれはなるべくあやしまれないようにはっきりと、ここに来た理由を説明した。
説明の間、老人は黙って眠るように聞いていた。説明が終わるとうなずいて、その疑問は尤もだ、といった。そして、ついて来い、と立ち上がった。その動作は意外としっかりしたものだった。
あなたは何をしていたんですか、とかれはついていきながらたずねた。老人がなぜあのプールの横に一人で、まるで何時間も前からそこにいたかのようにじっとしていたのかが気になった。
「月明かりをあびていたのだ」
老人はかれの歩幅に合わせてこたえた。
「私は先天性の病気でね、少年、昼間は外に出られないのだよ」
かれは老人の顔を見上げた。
「だから光をあびるために、外に出る。古代地球の月光は、太陽の反射光だったから紫外線を含んでいたが、ここの月光は本物の光ではないから、私の体にも害を及ぼさない」
かれがじっと見ているのに気づいて、老人は初めてひそと笑った。そしてようやく、かれらがともに〈月〉から来た人間であることを示す挨拶をしたのだった。
以来、かれは老人の温室に出入りするようになった。
老人の助手たちも皆かれと同郷の人間だったので、週末になると息抜きのために帰ってゆく。かれと隠者さま――とかれは呼ぶようになった――は、それぞれ別の理由で帰ることができなかったが、地上では同じ医者にかかっていた。〈月〉から時々出張で来る医者だった。
かれらはやがて自分たちの病気について話すようになり、ある程度お互いの悩みについて理解するようになった。とくに年長の隠者さまの方が、若いハーシェルの悩みに深い理解を示すようになった。
「ハッシュか。いい仇名だな。おまえの特徴をよくとらえている」
隠者さまはかれの注いだ茶をとりあげ、珍しく急きこんだ調子で報告するかれを見た。
「その男の子はおまえと友だちになりたいんだな」
「ブラックが?」
かれは茶色の琺瑯びきのポットを置いた。
「そんなことはないよ。ブラックはとても変わってるし、友だちも沢山いるから」
「でもおまえみたいな子はおらんのだろう?」
隠者さまは足された茶を満足げにすすった。
「それは…わからないけれど、でもブラックはすごく個性的だから、僕みたいにおもしろみのない人間とはつきあわないと思うんです」
「おまえは自分が考えるほど不細工じゃないよ」
隠者さまは急にとんちんかんなことをいいだした。とハーシェルは思った。
「よいところもある。それが彼の気に入ったんだろう」
「……ブラックはすごく変わっている」
かれは少し黙った後、茶には口もつけずに呟いた。
「僕は彼が校内誌に書いた小説を読んだことがあるんです。それは、今まで読んだことのない不思議なものだった。ある男がダストシュートの研究をしていて、やがて〈伴侶〉を見つけて〈生殖〉をする。〈生殖〉って、つまり有性生殖のことだけど……彼ら――アンティークは普段は無性生殖をして、刺激を受けたときだけ有性生殖をするっていうじゃないですか」
「刺激……というより、恋だろうな」
隠者さまは訂正した。
「おまえはまだ理解できないだろうが、アンティークにとって恋とは敗北なのだよ。本当の恋をするということは、自分より大切なものができるということだから、自分という生命にとってはある種の危機なのだ。飢餓とか疫病とかいった環境ストレスに等しい」
隠者さまはこの辺に独特のこだわりがあるらしかったが、かれの方はその先の話がしたかった。
「とにかく、その小説では彼らが〈生殖〉をしてちょうど一年経ったとき、男はダストシュートに飛びこんで自殺するんです。でもそれはちっとも悲しい風に描かれてなくて、まるで楽しいピクニックに行くみたいなんです。男がなぜそんなことをしたのか、その小説にはなにもいってないけど、男が自殺する数年前、親友と屋上で話していて、男は、飛び降りはなぜするのかわからないっていう人がいるけれど自分はそうは思わない、それは別な世界への扉をひらく行為なんだっていうんです。つまり誰もそうしてみた後のことは知らないわけで、そうした行為には必ず未知の変化への可能性が含まれているんだ、と」
隠者さまはかれをみつめた。
「でもおまえはその小説を読んだから、ブラックに注目したわけじゃないだろう?」
「なぜ僕が彼に注目してるって思うんです、隠者さま」
かれはめずらしくやや尖った声でこたえた。かれはめったに声を尖らす人間ではなかったが、今はふいに図星を指されて動揺してしまった。
「おまえがよそであったことを話すのは初めてだからだよ。しかもこれほど早くにね」
「……彼は、すごく足が速いんです」
しばらくおいて、かれはすこし上向きかげんの目で話しはじめた。この際、一気に話したいことをしゃべってしまえという感じだった。
「スポーツも得意で、サッカーはフォワード。入って初めての校内大会で、彼は何種目でも優勝してた。それからいつも人をひきつれて歩いている。笑いころげたり、ものすごい勢いで走りだしたり、急に、わめきだしたりする。とても気ままで、勝手なんだ」
どこへ行くかわからない、とハーシェルはつけたした。いえることはこれですべていい終えた、という感じだった。しかしまだいい残したことは沢山あった。それらはまだ形をとらず、印象のまま残っているブラックの顔や、体や、空気のようなものだった。
「だがとても優しい男だろう」
隠者さまは決めるようにいった。
「その子は一度うちにつれてくるべきだな。もしおまえがつれて来なくても、その子はきっとおまえの前に現れるだろう。そうなるならわしが見てやったほうがいい。いずれわしたちの秘密にふれる恐れもなきにしもあらずだし、その方がむしろ安心だよ」
In vitro1 温室へ
木の葉がしぶくように踊っている。
白い砂を|刷≪は≫いた校庭をはさんで、校舎をレースのようにおおうそれらの木を眺めながら、ハーシェルはため息をついた。握った鉄棒のはるか先には、窓から身をのりだすようにした鈴生りの生徒たちがいる。にぎやかに笑い交わす声が、葉音を縫ってひびいてくる。
突然、こつんと頭を打つものがあった。小指の先ほどの石が頭をはねて、地面に転がった。風の向きとはまったくちがう、真上からの衝撃にかれは首をひねって見上げた。
「見過ぎなんだ、馬鹿」
鉄棒の後ろの登り棒に、ブラックが止まっていた。棒の天辺、十五メートルはありそうな高さに、曇天をバックにしてカラスのように止まっている。ここから見上げると棒をはさんで組んだ脚とか、靴を脱いで裸足になった足の裏とか、普段は見えないそんなものしか見えないが、しかし声ですぐブラックとわかった。
「え……?」
風で顔にかかる前髪をめくって、かれは思わず問い返した。
「見過ぎなんだっていったんだよ。おまえ、ここんとこ、二年の校舎ばっか見てるだろ。俺に用があるなら来い。聞いてやるから」
「……ブラック、いつからそこにいたの?」
かれは恥ずかしいと思うより先に、彼がそこに現れたことの不思議さに打たれていた。
「今」
ブラックは旗のように風を受けながらいう。その黒いズボンがはたはた鳴る。
「おまえの声を聞いて飛んできた。風に乗ってな」
ハーシェルは思わずぷっと噴きだした。
「なに笑ってんだ」
ブラックはまた小さな石を魔術のように手のひらから出してぽんと投げた。それは見事に鉄棒にはねかえってかれの方に来た。
「うまいね」
「そこはほめるところじゃないだろう」
ブラックはやや憮然とした調子で素直に石のつぶてを受けたかれの方を見下ろした。
かれはようやく、ブラックの顔を見た。かれより黒い髪、黒い目をしている。髪の長さもかれより長く、ほとんど校則ぎりぎりの長さだ。
「それより俺がここにこうして、来て止まっていることの方が不思議だろうが」
「うん。そうだね」
ハーシェルはうなずきながら、この三日間、ほとんど無意識のうちにこの場所に来てブラックのいる校舎の方を見ていたことを思い出した。隠者さまにああいわれて以来、なんとかしてブラックに声をかけねばと思いながら過ごしてきたのだ。
「――ねえ、ブラック」
上の彼が見えるよう、精一杯首を上に傾けてかれはいった。
「今日……か、いつか、温室に来ない?」
「温室?」
「こないだ話したろ?僕がよく行っている温室。そこの隠者さまが会いたがっているんだ、君に」
「俺は会いたくない」
ブラックはにべもなくこたえる。
「案内するよ、僕が、紹介する、隠者さまに」
かれが一生懸命いうと、ブラックはうさんくさそうにかれを見た。
「なんでおまえがつれてくんだ。|新手≪あらて≫の宗教勧誘かなにかか」
「ちがうって。ただ君に会いたいんだってさ」
「なんでその人が俺のこと知ってんだ。おまえが話したのか」
不機嫌である。
「うん。そうだけど」
かれはすこしその雰囲気に|退≪ひ≫きながらいった。
「すこしだけど」
「俺は俺のことを噂されるのが嫌いだ」
ブラックは宣言した。
「人からとやかくいわれるのが嫌いなんだ。こんな奴だっていう先走ったイメージを持たれて、会いたいとかいわれるのも真っ平なんだ」
「……」
今日のブラックはこの間とちがう。と、かれは思った。この間ほど優しくない。
「ごめん」
かれがいうと、ブラックは傲慢にかれを見下ろした。
「おまえがここに登ってくるなら、許してやるよ」
「そこに?」
行けない、とかれは思った。かれは逆上がりも登り棒もできない。手の力が弱すぎるのだ。
「それは難しいよ」
金色の羽毛のような眉をよせてかれがいうと、ブラックはふと優しい目になった。
「いいよ、じゃあ」
す――とんと急に重力がきえたようにブラックがかれの前に降りてきた。あまりにあざやかなので、それは落下というより地面が吸いよせたように見えた。
「案内しろよ、これから行ってやるよ」
「授業は?」
「休講休講。自主休講」
「勝手だなあ」
かれが呆れると、ブラックは笑いながらその額をこづいた。
「勝手なのはおまえの方だろ。俺をいいようにしてんだからさ」
そうでもないと思うけど。
ハーシェルはその気ままな様子に、心の中で反論した。
ハーシェルの住む地区は、ブラックには珍しいらしかった。もともとかれの住む地区は、学校から十区画以上離れている。バスを使っても二時間弱、歩くと三時間はかかる距離だ。
「山の中なんだな」
斜面を蛇行する一車線の道でバスを降り、それから先は歩く。かれには馴れている道だったが、家が海のそばだというブラックはあたりをきょろきょろと見回した。
「花が咲いているな。緑の花だ」
「それは花じゃない、がくだよ、ブラック」
足もとの車道のわきに生えている草を見て、かれはいった。春にぽっこりと指ぬきに似た花を咲かせるゆびぬき草が、黄みがかった緑のがくを広げている。
「ふーん。詳しいな」
「地元だからね」
「この辺に昔から住んでいるのか」
「いや……六歳頃から」
「それまではどこにいたんだ」
上に。とハーシェルは心の中でこたえる。
「……また、別の場所だね。同じようなとこ。よく覚えてない」
ブラックは、こたえがよどんだことにまったく気づかぬかのように話題を転じた。
「ハッシュの親御さんて、どういう人なんだ」
「普通の人だよ。普通の……いい人だよ」
「まるで他人みたいないいかただな。いい人だよ、なんて」
今度はブラックが食いついてきた。
「普通、自分の親のことはけなすだろ。でなきゃ、いいたがらないとかさ。おまえ、じつは親とうまくいってないだろ、そのいいかた」
「そんなことないよ」
かれはあわてて否定した。預かり親とは、うまくいっている。預かり親はアンティークだが、子供のない一人住まいで、もうずっと以前から上の世界に順応できない第三人類にステイ先を提供している。とても静かな、水のような目をした人だ。
「ふーん……まあどっちでもいいけどな」
ブラックは本当にどうでもよさそうにいい、手を頭のうしろにまわして伸びをした。
「しかし遠いな。なんで寮をやめちゃったんだ」
「やっぱり……そう思う?」
「そりゃ思うだろ?これだけ遠きゃ。まあおまえがあの寮に順応できるとも思わないけどな。学校でさえ、耳に栓をしてんだからさ」
それはちがう。とハーシェルは思った。
僕は上の世界に順応できないように、この世界に順応できないわけじゃない。
|上≪エア≫では、たしかにあの空気密度や温度差に耐えられるだけの皮膚シールドを装備することができなかった。上ではそうした人間を無意味に飼っておくだけの余裕はない。
だから六歳になったときここへ来た。上では五歳で皮膚シールドを、六歳で脳腔付随システムを装備するというステップを経て職員として本採用になるのだ。
そもそも――研究員としてその才能を見込まれてエアで再生されたハーシェルは、残念なことに皮膚シールドへの強烈な接触アレルギーがあった。
仮装備前の皮膚シールドの|貼布試験≪パッチテスト≫をした二週間後から、貼った場所だけでなく全身の皮膚が真っ赤になった。その後水疱化した皮膚から、細菌が入り死にかけるところまでいったのだ。
治癒後、使えない職員としてエアから抹消されることだけはかろうじて免れたが、ハーシェルはそこで行き場を失った。皮膚シールドがなければ、巨大な宇宙船に等しいエアで、宇宙に準じるハードな環境に耐えて仕事をしていくことができない。
こうして、一人悶々と幼児塔で日を送っていたハーシェルのもとへ、ある日軍事総長からメールが来た。
政府外郭、非公式の生命技術集団エアのトップは、このとき、実質的に軍事部門の長である軍事総長が兼ねていた。表向きはエア最高審議会が意思決定をしていることにはなっていたが、実際は諜報局をその傘下に有する軍がすべての実権を握っていた。
総長の動画はこういっていた。
「もし君が求めるならば、アンティーク研究の一環として〈楽園〉に滞在する機会を与えよう。任期は三年で、ある一定の年限まで延長できる。その間に君の体質に対する有効な治療法が確立されるかもしれないし、君自身の体質が変化することもあるだろう。これは医局からの受け売りだが、エアではあまりにも病原体が少ないために、それらに乳児期に接することでできてくる自然免疫の発達が阻害され、その代償として、今回君のアレルギーの原因となった獲得免疫が暴走するケースが増加している。したがって今回の君のケースは決して個人的な問題ではなく、エア全体のモデルケースとして上層部では重く見ている。もし君が下の世界で自然免疫を発達させ、獲得免疫を制御するようになるなら、これは一つの治療法として有効性を証立てたことになるのだ。アンティーク研究は名目に過ぎない。まずは下の世界に行って、色々な雑菌にふれてみたまえ。成功を祈る」
ハーシェルはこれを受け入れた。
総長の言葉は難しかったが、幼いながらにそれしか方法がないことを理解した上でのことだった。そうしてかれが〈楽園〉へ降り、協力者のアンティークである預かり親の家に間借りするようになってから、十年が過ぎた。
三年ごとに、かれは一度〈月〉へと戻り、皮膚シールドを貼布してみるのだが、あの青い皮膚シールドを貼ったところは、貼った直後から激しい痛みと赤みが生じて貼り続けることができなかった。
三年、六年、九年と、かれの下での滞在期間は延び、かれももうこの方法がだめであることが薄々わかってきた。
今回の滞在期限が切れたらおそらく、次はもうない。かれはちがう道を選択をしなければならない。ちがう方法で皮膚シールドアレルギーを克服しなければならない。それにはたぶん多くの変化が、犠牲がつきまとうのだとしても。
その覚悟とともにかれは最近すこしずつ、初めはただのおまけと思われた任務が重く感じられるようになってきていた。総長が名目に過ぎないといった、あのアンティーク研究の任務である。
そのきっかけは、いくつかあるが、それゆえにかれは人に接するときは極力、度の合わない眼鏡をかけたり、耳栓をしたりするようになった。
だがそのことは隠者さまですら知らない。かれの中でだけ醸されてきた考えであった。
「まあとりあえず眼鏡ははずせよ」
ブラックがまたかれの顔から眼鏡をとりあげた。義務のような調子である。
「どうせかけなくても見えるんだろ」
そしてそれをヘアバンドのように、自分の長い前髪にかける。
「これは要するにバリアなんだ」
ブラックはまったくそのとおりのことをいって、にやっと笑った。
空気は、夕方になるにつれ、すこしずつ蒸し暑くなってきていた。風がおさまってきたためかもしれない。海に近いこの町では、曇天の日は日中の熱気がこもったようになって、すこし遅れて蒸し暑くなることがあるのだ。
それは多少標高の上がった、かれの住むこの地区でも同じことだった。
「あれが温室か」
まだすこしざわめきのある樹木のあいだから、緑の陽の反射を受けて、エメラルドのように光っている温室の天辺がちらと見えた。
「そう。まだ電気はついていないね」
「ずいぶんでかそうだなあ」
「八階あるからね。昼間は助手の人たちが世話をして、夜からは僕と隠者さまが見るんだ。隠者さまは温室のわきについた研究室で暮らしてる。夜にならないと出てこないんだ」
「夜行性なのか」
猫みたいな扱いである。
「まあ……そうだね。昼、出るのは好きじゃないんだ」
「ふーん」
二人はそれから、黙って歩いた。
夕日は、海に落ちはじめていた。曇天らしく、ぼんやりとした光を投げながら、水平線をあわく紫色に染めて、すこしずつ世界を闇に包んでいく。まるで包装紙に包まれるプレゼントのような気分だった。
門に着くと、かれは呼び鈴を二度鳴らした。それでかれが来たことがわかるのだ。
ブラックはいとも静かだった。
ひらかれた|門扉≪もんぴ≫を抜け、砂利道を通って芝生に入り、さらに三日月型のプールに達しても、うんともすんともいわなかった。ただ時おり上を見上げて、木の葉を揺らす風の向きをたしかめるように目を細めた。
かれらが着く頃には、庭には池をはかなく照らす、青い照明が点っていた。
その弱さは隠者さまにいわせると、決して愉しみやこけおどしのためではなく、単に照明の経費節約のためなのだそうだが、湖面に映った灯りはとても幻想的に見えた。なんとなく、いつここに来ても何のために来たかを一瞬忘れさせるところがある。
人生も、そういうものなのかのしれないな。とハーシェルは時々思った。
人生も生命も、一瞬一瞬、自分がここに生きている理由を小刻みに切り刻むこうした陶酔のかけらによって成り立っているんじゃないだろうか。
ちょうど光る砂粒と、なんの変哲もない沢山の黄色い砂粒とが混ざりあっている海の砂みたいに。紙に残せるようなことはみんな黄色い砂の方にあるけど、光る砂粒の方が次の一瞬へゆくパワーをあたえてくれる。でも光る砂粒のそうした魔法は、決して後へは伝えられない。言葉にも遺伝子にも残せない。
そんなことを思った。
ブラックはいとも静かだった。
そういうときのブラックは、まるで黙って完全にかれの考えに同意しているような、かれの変調に耳を傾けているような感じがした。そういうありかたがとても好もしかった。
温室に達してドアをあけると、外のざわめきがのりうつったように一瞬、屋内の木が揺らいだ。
かれはブラックに中に入るようにうながし、扉を閉めた。ブラックはあまり沢山の木が生えている様子に、すこしだけひるんだように見えた。
「隠者さま」
そこここにしかけてあるインタフォンの一つを押して、かれは呼んだ。
隠者さまは、この時間には必ず起きている。朝九時に寝て、午後四時に起きる。それから湯をわかしてコーヒーを飲み、煙草を一本吸ってから仕事にとりかかる。一区切りつくと食事をする。
今はその朝食とも夕食ともつかない食事が終わった時間だろう。
「見ているよ、ハーシェル。入ってきなさい」
隠者さまのしわがれた声が、木の陰に隠してある拡声器から流れた。
「ちょうどやかんの湯がわいたところだ。お友だちに紅茶にするかコーヒーにするか、なににするか訊いておきなさい」
ハーシェルは横のブラックが、体をぐっとこわばらせるのがわかった。うっそうとした樹木の陰から、声がぬっと現れるように響いたのだ。かれはそのとき、自分より一頭背の高いブラックの手を、ぎゅっと握ってやりたい気持がした。
「大丈夫だよ、ブラック。隠者さまはとても優しいから」
ブラックはかれの方は見なかった。ただじっと、木々の間に目を走らせた。
林の奥に、隠者さまの研究室に通じるらせん階段があった。古さびた階段を上りきったところに、研究室の入り口がある。ドアの上の曇りガラスの嵌めこみ窓が、中からの灯りでほの光っていた。
かれらが入口に達すると、待ちかねたように扉がひらいた。
「待っていた、ハーシェル。ブラック、君も」
ブラックはなにもいわずに奥をみつめた。ハーシェルはそのとき、ひきしまったブラックの顔から、自分がなにか大きな変化のボタンを押したことを感じた。
In vivo エア諜報局
「それはおもしろい作戦だな」
諜報局内偵部門主管はいった。
「もう始めているのかい」
「ええ。一見、非効率的に見えますが、決して闇雲に行っているわけではないので」
こたえた方は、それで時間がかかるすぎることを弁解できると思っているみたいだった。
「結局かれらは、来ているとしても同じ星系か近傍の星系から来ているので、大体同じ遺伝系のクローンだと思うのです。それなら弱点も似通っているし、同じ刺激に反応する」
「しかしその系をさがすのが大変だろう。〈楽園〉から放出したアンティークは、もうかなりの数に上るはずだ」
「百三十です、主管。そう多くはありません。さらにここまで来るのには、ある程度選ばれた能力と傾向がありますから、研究班に残る知能、性格検査等の記録を調べて、エア内に不法に潜入している可能性のある系をたった四つの系に絞りこむことができました」
「なるほど」
主管は部下の手際のよさに感心した。
彼自身は最近まで長い休みをとっていたのである。
脳をストレッチするために毎朝する庭園作りのシミュレーションゲームをあけたところで部下から交信がきたのだが、彼が〈眠り〉につく数百年前はそんな話は諜報局でもおくびにも出されなかった。
それが今やエア中で、常に流れつづける古代庭園の|遣水≪やりみず≫のようにささやかれている。
「エアでは、主管」
久しぶりにめざめた彼に、ウェブを介して挨拶してきた部下はいったものだ。
「もうずっと以前から、私たちが創造し、放出したアンティークが姿を変えて舞い戻ってきているという情報があるのです。かれらがなんで入りこめたかというと、かれらは我らの中心であるサード・ウェブ以下のすべての通信網に侵入して、エアの人員に関するデータを抽出、改竄して隠れ蓑にしているからだというのです。かれらはほら、例のすべてのウェブにフリーパスでアクセスできるというスーパー・ウェブにつながっているというので。もちろんこれは立証された能力ではありませんが、研究職の連中と話してみると、かなりの数の人間がその実在を信じているもののようです――彼らは皆、地球人類は多かれ少なかれ持っていたんだといいますがね。それがつまり、彼らの開発したアンティークがかなり色濃い地球人の似姿――再現であることの証のように彼らは思っているんですね、主管?」
起きぬけでまだ頭のはっきりしない主管は、部下の長広舌にボリュームを操作するしぐさをした。それが部下の目に止まったらしい。
「いや。ちょっとデータを出そうと思って」
「直近のですか。すでにそちらに送っておきましたよ。それから主管のおられない間、当部署で試験的に始めることにした作戦についても」
「作戦?」
「放出されたアンティークのデータはすべて研究部門にとってあります、主管。そこからかれらの弱点をさぐりだし、そこを撃つような作戦をぶつけるのです」
「なるほど」
上司の男は無表情にいった。
「それはおもしろい作戦だな」
いいながら、手元で別な操作をしはじめた。
部下にはちょうど見えないように、さりげなく手の位置を移動する。別端末へのアクセス路が、画面の下に登場する。何百年も〈眠り〉につく前に見慣れた、同志間の特殊用路だった。
S……と彼はその名を打ちはじめた。
In vitro2 かれが降った日
かれが降った日、島はその日もいつものごとく、快晴に近いまでに晴れわたっていた。
ハーシェルはその日も朝の用事を片づけ、浜へ出た。それは彼の日課だった。
昨日は久しぶりの班会議に出て、その後悶々として眠れなかったのだが、そのために寝坊したりということは彼にはなかった。
|潟≪ラグーン≫は碧く澄み、桟橋状につきだした環礁のあいだには白く波打つ|外海≪そとうみ≫が望めた。今は満ち潮なので、環礁のところどころが切れて外海のやや荒い波風が入ってきている。
ハーシェルはなんとはなしにいつものように、浜に腰かけて砂をいじりはじめた。
これは理由のない彼の習慣で、毎朝数十分、そうすることで気持が落ち着いて仕事に集中できるのだった。砂は白やベージュの貝や珊瑚の入り混じったかけらからできている。
「細胞の無毒化か……」
しばらく、無心で砂いじりをしていたハーシェルの口から、ふと独り言がもれた。
口にしてから、彼ははっとその言葉を心に反芻した。
まったく忘れていたつもりでいたのに、私はよっぽど気にしているんだな。
それは昨日、初めて班会議に参加した見学者が口にした言葉だった。
無毒化、とは細胞からウイルスなどの病毒素を完全に排除することを指す。あの黒髪の見学者は、それが生物に施せないことが、ハーシェルの研究計画の最大の弱点だと指摘していた。
彼は、ハーシェルの上司の|佐古耀一郎≪さこよういちろう≫が技術部からの引き抜きを狙っているという、若く聡明そうな見学者だった。
ハーシェルは頭を振って、立ち上がった。こうしてはいられない。こんな子どもじみた真似に費やす時間があったら、さっさと自分の研究の弱点を克服しなければ。
膝を払って身を起こすと、ふいに空を貫いて、沖合に一条の飛行機雲が降りてくるのが見えた。
この島への補給機だろうか。しかしそれはつい数日前、定期便が物資を落としていってくれたはずだ。 そう考えて見上げていると、その機は尋常でない煙を上げて落ちはじめた。
火炎こそ出なかったが明らかに事故による墜落を思わせる落ち方だった。ハーシェルは息を呑み、あわてて近くにあるボートハウスに走りだした。
着水と同時に、機体は火炎を上げて爆発した。
ハーシェルがボートを出して水に浮かべたのとほぼ同時だった。
彼は口をあけてそのさまを眺めた。根っからの文民の彼は、ものの爆発するところなど、実験のとき以外見たことがなかった。
それはなにか急に現れた巨大な滝か噴水のように、白い煙が海面にあふれだし、それが遠く離れたところにいる彼の目もいぶした。
煙が収まるまでしばらく彼は目をつぶって顔を伏せた。鼻を刺激する臭いが減ったのを確認して恐る恐る目をひらくと、案の定、煙は靄のように退きはじめていた。
青い空がまだらな煙の向こうに見えはじめた。
その中に、白いカリフラワーのような落下傘が、一つ、ふわりと宙に漂っていた。
ハーシェルは驚いてそれを見上げた。
もう長いこと――ただ一人の上司と臨時の出張助手以外は誰も、この島を訪れたものはなかった。彼の研究成果については、通信機で逐次上へと送られていたし、必要な物はすべて軍用機が落としていってくれた。彼はそのくらい、世間と没交渉の生活をしていたのである。
だが今、こうなってしまった上は、彼は何百年かぶりで、あの遭難者を――未知の人間を島に引き上げなければならないのだ。
ハーシェルはじっと、落下傘を見上げた。
「あんたは|第九天使≪クラウド・ナイナー≫かい」
水に浮いた白い花のような落下傘の中で、気を失っているように見えた相手は、目をあけて彼を見るなりそんな軽口を叩いてみせた。
「俺は今天国にいるのかなあ」
かれの目には青い空と、船の上から屈みこんでいるハーシェルしか見えなかったにちがいない。
「地上だよ、ここは。君はまだ死んでない」
「あんたは」
相手は切れた唇から血を流しながらいいづらそうにいった。
「金色の髪が天使みたいだ。誰かにいわれたことはない?」
「ない。僕の髪のことを口にしたのは君が初めてだ」
ハーシェルがうなじや頭の骨折がないか、マニュアルに沿ってしどろもどろに確かめていた。だがなぜか相手は嬉しそうに喋りつづけた。
「みんな朴念仁なんだなあ……俺ならあんたに会った瞬間、その髪のことを口にするね。それからその天使みたいな顔も。あんたはほんとに花みたいな口をしている。うすい桜貝色のね。目も綺麗な海みたいな色をしている。俺は死にかけているのかなあ……」
「死にかけちゃいないよ、それだけしゃべれれば。それよりちょっと協力してくれないか。はい、これは何本に見える?」
目の前にかざした指の本数を数えさせ、さらに簡単な麻痺のチェックをしてからハーシェルは額の汗をぬぐった。
どうやら問題はなさそうだが、やりなれないことをさせる。真面目な彼はこういうときは、いつも余裕がなくなってしまう。
相手はそんな彼の心も知らずに、いとも優雅に漂っている。顔こそ蒼白だったが、巨大な純白の落下傘を睡蓮のように広げた中にゆうゆうと寝ている。
「ちょっと」
ハーシェルはその体をかるく揺すった。
「意識があるなら起きてくれないか。君をこちらの船に引き上げたいが、君のその落下傘のはずし方がわからないんだ」
相手は黒い切れ長の目を、薄目にあけたままにやっと笑った。
「わからないなら教えてやるよ。手を……」
かれの手を贈りものでも受けとるように両手で包むと、自分の胸へひきよせる。
「ここと……ここと、ここを、この順で押す。やってごらん」
スイッチはちょっと固かったが、何度か力をこめて押すうちにひらいた。カチッと最後に音がして、落下傘が離れだした。
「さあ、こっちへ」
「あーあ。俺は今、天国のアイスクリームの上で天使様を抱く夢をみてたのに」
相手はよくわからないぼやきとともに、彼に抱え起こされて船に上がった。ごろりと甲板に横たわると、そのままいびきをかいて眠りはじめた。目立った怪我はなさそうだった。爆発する前に飛びだしたのが幸いしたのだろう。
ハーシェルはそれを横目に見ながら、岸に向かって漕ぎだした。
In vitro1 夏と温室と植物にまつわるいくつかの会話
「ハッシュ!寝てんのか」
暑い日であった。ハーシェルが思わず木陰の涼み場で、ごろんと横になりかけたとき、じょうろとスコップを背負ったブラックが通りかかった。
「またそんなところで寝て。蚊に食われるぞ」
春以来、定期的にこの温室に出入りするようになったブラックは、あいからず黒のズボンとTシャツといういでたちだが、頭にはすっかり馴染んだつば広の麦藁帽がのっている。隠者さまの助手からの借りものだ。
「いいよ、別に」
ハ ーシェルはあくびをしつつ冷たい木肌に頬を寄せた。
「よくない。蚊に食われると痕になる」
すでにかれへとたかりはじめている蚊を払いながら、ブラックはかれを巨大な|千年木≪せんねんぼく≫の下から引きだした。ハーシェルはおかしそうな笑みを隠してされるがままになった。
ブラックという人は、つきあってみてわかったのだが、案外痕に残ることを気にする方である。自分ではかなり豪快なタックルやヘディングをするくせに、かれが蚊に刺されり掻きこわしたりしようものなら目の色を変えて虫除けスプレーを買ってくる。日焼けも嫌いで、自分も塗るからおまえも塗れと、日焼け止めを投げてよこす。
かれは今までどんなときでも日焼け止めなど塗ったことがなかった。しかしブラックは、目の下にすこしそばかすができただけでも、もっときちんと塗れとかれの頭をこづくのである。
「今を保つってことは大切なんだ」
かれが、面倒くさいなあ、とぶつぶついいながら塗っていると、ブラックは妙にきっぱりした口調でいった。
「走りつづけてなきゃ今を保つことはできない。おまえにはその自覚がなさすぎる」
日焼けしないとか掻きこわさないって、そんな重要なことかなあ、とかれは首を傾げたものだ。
今もまた、ブラックはかれに自分のハチ避けの手甲を脱いでわたした。かれはそれを素直にはめ、ブラックとともにまだ水をやっていない上の方の区画に向かって歩きだしながら、ブラックが初めてここに来た日のことを思い出した。
ブラックは最初、明らかに緊張していたが、意外なほど尋常に隠者さまに挨拶をした。
隠者さまはいつもの枯葉色のフードと一続きになっているガウンを着て坐っていた。ようこそ、ブラック、会えると思っていたよ、といって手をさしだす。
ブラックはその茶色いしみだらけの手をとって少し不審そうに握手をした。声の張りのわりに隠者さまの手や顔は老けている。隠者さまはブラックの視線にとくに気を悪くしたふうもなく柔らかく微笑した。 握手はその柔らかさと不審感を結び合わせるように、かれの目の前で二、三度揺れた。
「紅茶があるよ、ハッシュ」
隠者さまは車椅子をまわして向きを変えた。すぐ横のサイドテーブルに、いつものかれらが使っているものとはちがう、綺麗にみがかれた銀の茶器がのっていた。
「綺麗な食器ですね」
「|賀門≪がもん≫に出させたのだ。特別なお客だからな」
隠者さまは助手の名を出した。助手たちはすでにいなかった。
それからいつものようにハーシェルのサービスで、三人は湯気の立つ茶器を囲んでお茶にした。隠者さまの部屋にはきちんとしたテーブルがなかったので、研究机と予備の机を並べて坐った。
それからかれらはいろいろな話をした。好きな本の話から、スポーツ、格闘技、食べ物、など。聞きながらハーシェルは、隠者さまが並々ならぬ興味をブラックに対して持っていることに気づいた。
隠者さまはかれよりはるかに、もうずっと以前からこの地に来ている。〈月〉の助手も使ったが、この地のアンティークを使ったこともあり、今のように衰える前はかなり多くのアンティークとも接触があったという。
それなのにブラックに対して興味を抱く理由がハーシェルにはわからなかった。自分のためばかりとは思えない。ブラックもその隠者さまの態度に気づいたのか、時々ちらとかれの方へ視線を投げた。
ブラックは、目上の人と対しているせいか、話していると意外なほど彼の尋常な部分しか浮かび上がってこなかった。その年頃の少年とちがうところといえば、質問の一つ一つにきちんとしたその時点での回答を持っている点だけだった。彼はわからない、とか、ない、とこたえることは一度もなかった。
でも、ブラックの本質は、とハーシェルは心の中で思った。
ブラックの本質はこんなきちっとした型に嵌った会話じゃなく、今日昼間、登り棒の上に忽然と姿を現したこととか、そのまま平然と石つぶてを投げつけてくるところとか、そういうところにあるんだといいたかった。こんな借りてきた猫みたいなブラックなんか、きっと終わって数秒後には彼自身が笑い飛ばしているにちがいない。
「煙草は、ブラック?」
「いりません」
「感心だな。このハッシュは、出会ったときは吸っていたのだよ」
隠者さまはいつのまにかブラックにつられてかれのことをハッシュといっている。ハーシェルは煙草のことをいわれて少し顔を赤らめた。
「この子は素直な子でね、悩んでいることがあるとすぐ麻薬に手を出したがる」
隠者さまはそれをおかしそうに眺めて、いつもの細巻き煙草をくわえた。
「俺ならすぐ止めさせますね。俺は、こいつには綺麗な肺のままでいてほしいから」
ブラックはアーモンド型の目をちらりとかれへ走らせていった。ちょっと怒っているようだった。
「はっはっは」
隠者さまは珍しく声を上げて笑い、かれの方に向かっていった。
「まるで保護者のようだな、ハッシュ」
その夜、かれは夢をみた。
黒いカラスのようなマントを広げたブラックが、カラスのように風にのってきて登り棒の先に止まるのを。よく見るとそれはマントではなく、学校指定の冬のコートで、ただ裏地を返しているだけなのだが、かれはそれを見てブラック、ブラック、そんなところにいると見つかってしまうよ!とわけもわからず叫んでいるのだった。
ブラックは、そのときは、おまえが呼ぶから来たんだともなにもいわずに、ただ黙って上の方を見ていた。夢でありながらその様子が、目に焼きついて離れなかった。
以来、ブラックは隠者さまの求めで、時々温室に遊びに来るようになった。
隠者さまに会える時間は限られるので、自然その前後でハーシェルのする温室の仕事を手伝うようになった。初めはなんでこんなことが楽しいの、とか、植物が多すぎる、とかぶつぶついっていたが、だんだん慣れてきて三日に一遍はやってくるようになった。
「そういうのって、僕にはできないな」
ハーシェルはブラックとともに最上階に登るらせん階段を上がりながらいった。温室の外には今日も晴れ上がった空と遠く雲の去りかけた海が望めた。
「なにが」
一足先に着いたブラックは水道の蛇口をひねっている。
「来たり、来なかったりだよ。ブラックは今日来たら|明後日≪あさって≫来るか、|明明後日≪しあさって≫来るかわからないでしょ。その間に植物が枯れたりとか、心配じゃない?」
「だっておまえや助手さんたちがいるだろ?俺しか見てない植物なんて、ほんのこれっぽっちっきゃないぞ」
「でもあるんでしょ。この温室のすべてを世話するなんて一人では無理だもの。絶対、昨日見た人の記憶が一番たしかだよ。人間てさ、いつも見てるものには愛着がわくけれど、たまにしか見ないものには愛着がわかなくて放置しちゃうものなんだよね……」
「おまえなあ……俺はこの温室の世話のほかに、サッカーやって学祭の委員長やって、しかも演劇部の出し物にまで友情出演するの。おまえみたいなひきこもりの一人っ子とはわけがちがうっての」
「ブラックだって一人っ子じゃないの」
単為生殖するアンティークは、一人親一人っ子が基本である。
「俺には兄弟がたくさんいるの、|寮≪ドム≫に。飲み会もあるし、飯もつれてくし、けんかの仕切りや草刈りもあるし、|子孫≪こまご≫はどんどん増えてくし、忙しいわけ、基本的に」
それでこんなに世話好きなわけか。
とハーシェルは初めてブラックの生活の一端をうかがわせる言葉を聞いて思った。
かれらの通う学校の寮には、親子制度というものがある。新入生が入寮するとその一つ上の学年から親が決められ、親となった生徒は寮のしきたりや設備の利用、分担する仕事について教える。また新入生が入寮してからの食費やこづかいも負担してやる。新入生の方は親を親として立てるだけでよく、翌年、自分が親になったときに、同じことを下の人間にしてやるのだ。
寮で他人同士が暮らしやすくするための知恵なのだろうが、孤独癖の強いハーシェルにとっては苦痛だった。ブラックはしかし十二の頃から寮暮らしをしているから、どんどん増える子孫というのは、その頃からの蓄積を指すのだろう。
「だから俺は植物にばかりかかずらってはいられないわけ」
頸にかけた白いタオルを、バンダナのように髪に巻きなおしてブラックはいった。
「でもほら、枯れちゃってない?ブラックが買ってきた、この太陽草」
「いや、こいつは水をやれば必ず復活する」
といって、ブラックはじょうろからシャワーのように水をかけはじめた。ハーシェルはそれをかがんで眺めながら、
「僕だったら毎日水をやりに来ないと耐えられないなあ……」
「俺はこうやって枯れきったところに、水をやって二時間後くらいにこいつがしゃんと花を咲かせているところを見るのが好きだ」
その方が生きてる、って感じがする、とブラックは満足そうにつけくわえた。
「だいたいおまえはものごとを定型的に考え過ぎんだ」
ブラックはじょうろのシャワーの口をはずして、ごくごくと水を飲みはじめた。よく日焼けした喉もとへあふれた水が流れおちる。
「で」
手の甲で口をぬぐいながらブラックはかれの方を見た。
「おまえの方はどうなんだよ。あの話のこたえは出たのか」
「え」
「ほらあの、おまえがこの屋敷に来ることになったきっかけっていう、あの生垣の花のことだよ。毎年ちがう色の花が咲く理由だよ」
「ああ、あの話」
ブラックはここに来るようになってしばらくして、どうしてハッシュはこの屋敷にくることになったんだ、と訊いたのだ。
「植物って不思議でしょ」
ハーシェルは植木鉢の花に肥料をやりながらこたえた。その日はすこし曇っていて、頭上で温室のガラスごしにも、風のうめく声が聞こえてくるような日であった。
「動物は、ある程度初めから決まって生まれてくる。たとえばこんな大きさに育つとか、こんな形になるとか……同じ動物なのに、背丈が何十メートルもちがうとか、寿命が何百年もちがうとか、生殖年齢がばらばらとかいう動物はいないでしょ、なんでだと思う?」
「でもそれは植物も同じだろ?寿命はともかく、初めから決まって生まれてくるのは」
ブラックは、彎曲した巨大な熱帯樹の枝を枕でもかかえるようにして寝そべっていた。
「同じじゃないよ、ブラック。その木だって、スペースの少ないところで育てばとても小さく育つし、環境のよくないところでは他の同種の木よりも早く花を咲かそうとする。花粉になって、早くもっと他のよいところへ移動しようとしてね」
「――ああ、つまり、動けないから自分の方を変えるってわけか、植物は」
当たり、とハーシェルはほほえんだ。ブラックはまぶしそうにその笑顔を見た。
「動けない分、植物は生まれてから環境に合わせて自分を変える、大きさも、形も、生殖の時期も……発生学的にすごくルーズで融通が利くんだ」
「動物は自分で環境の方を変えるからな」
ブラックは片手で手近の小枝をひきよせ、別な枝にひっかけるようにして影を作った。
「そう…でも植物はまわりに合わす、風の強さ、光の方向、植えられた鉢、酸素濃度……だから同じようなところに育つものは、同じような特徴をしてる。あれは決して遺伝的に似てるからじゃなくて、同じような環境に適応したから同じようなものになったんだって。専門用語ではそういうの、|収斂進化≪しゅうれんしんか≫っていうらしいね」
「高山植物とかだろう?皆、背は低いくせに黄とか青とか、同じような色してるもんな」
「あれは遠くからでも虫に見つけて来てもらうためらしいよ、山の稜線は見通しがいいから。雪との見分けもしっかりつくしね」
「背が低いのは風が強いからか。……だから植物のが面白いってわけ?」
「そうだね……」
ハーシェルは静かにスコップを動かした。これ以上話すと、自分がなぜ、なにを悩んでいるかまで話さなければならなくなる。
「それももちろんあるし、もともとこのうちの生垣に気がついたのが最初なんだ」
「生垣?」
そこで正直にかれが魅せられた生垣の謎について話したところ、ブラックはすっかり聞き入ってしまい、話はうまくそらされたのだった。
「で、あれって結局なんでだかわかったのか」
一度疑問を出されると、意外とわかるまで諦めないらしいブラックは、その後も折にふれかれにこう訊いた。そのわりに自分で調べたりということはしないらしかったが。
「うーん……いくつか説は立ててるんだけど」
「隠者さまは教えてくれないんだろ」
「そりゃ。なにごとも自分で考えなって人だからね」
「でもさ、俺、こないだあんたがいったことと合わせて考えてみたんだけどさ、あんたがいってた、植物は動物とちがってかなり自分を決めないで生まれてくるってことを考えると、やりかたはどうにせよ、隠者さまがあの生垣を毎年ちがった色で咲くように作り変えるのは、そんなに難しいことじゃないんじゃない?」
ブラック……一応考えてるんだ。
と、ハーシェルは口にこそ出さなかったが、勝手気ままで、人のいうことなど時々聞いているのかいないのかわからないようなブラックが、ちゃんと覚えて考えに入れることもあるのだ、ということに感動した。
「……それはそうなんだけど、でも植物でも花はほかの部分とはちょっと、ちがうんだ」
「?そうなの」
「そうなの。植物の中でも、花だけはかなり厳密に初めからこういう形、色、大きさっていうふうに決まっていて、そう短期間で簡単には変えられないようにできてるんだ。なんでかっていうと、花はやっぱり生殖器官だから。花粉を媒介する虫や鳥がそう簡単に変わらないのに、花だけが変わっちゃうと、いつも来てくれる虫や鳥が来なくなって自分が繁殖できなくなっちゃうから」
「ふーん……盆栽みたいなわけにはいかないわけか、花は」
「枝や葉だけなら、小さな鉢に植えかえて根を切り詰めたりすれば小さくできるけど、花は無理。だからあの生垣はよけい不思議なんだ。植物はほかの部分なら、根が茎になったり、葉が根になったり、かなり自由に変えられるけどね……成長した後も、動物がお腹の中でする|胚発生≪はいはっせい≫と同じことをする生き物だからね」
「じゃあ、つまり、あれだ」
ブラックは急に話に興味をなくしたかのようにいった。
「あの生垣の花は、花じゃないんだ。それ以外のものなんだ。そういうことってあるだろ、ほら、がくが花みたいに見えるとかさ」
え……という目をしてハーシェルは彼を見た。
「そういうことだ。おまえはものごとを正攻法で考えすぎんだよ」
結論が、そんなでいいのかという目をするかれにブラックはウインクをして見せた。
「花じゃなけりゃ、風とか酸素濃度とか、適当に変えてやれば変わるんだろ、植物は。一回隠者さまに訊いてみるといいね、あれはほんとに花なんですかって。俺は絶対、一杯食わされてるんだと思うね」
In vitro2 巣
「めざめた?」
ハーシェルが助けたかれが目をさましたのは、それから七時間ほど経った頃のことである。
ハーシェルはそれまでにあらかたのことは済ませていた。
機体こそ回収できなかったが、かれを自分のツリーハウスへと運びこみ、手当てをし、着がえさせ、その制帽にあったIDを確認して〈月〉に連絡することまで済ませていた。彼は不器用ではあったが、必要なことは間をおかず片づけることができた。
ハーシェルの報告に、つねに人手不足の〈月〉は、彼の報告を聞いてありきたりの航空事故だと思ったらしく、調査の人員は明後日まで出さない、といってきた。
「医者は?かれは怪我をしているんですよ」
ハーシェルが驚いて訊きかえすと、相手はテレスクリーンの向こうでこたえた。
「あなたの話じゃ大丈夫そうだ。申し訳ないが、こちらも季節風の変わり目で大気の調整で忙しい、できたら先生の手を割いて二、三日面倒をみていただけるとありがたい」
なんてことだ。
ハーシェルは消えていく画面を前に首をふった。
擬似衛星監視塔である〈月〉の職員は知らないだろうが、班会議で一日留守にしたことは別としてもこの島にはやることが山ほどあったのだ。しかもそのすべてを機械以外の誰にもまかせず自分の手でやるのである。
それは彼が人づきあいが苦手だったからばかりではなく、彼の上司の佐古耀一郎――アンティーク及び|共進化≪きょうしんか≫技術研究班主任の佐古耀一郎の方針のためでもあった。佐古はつねづね、研究者はなるべく一人で自分の研究のオリジナリティを追及した方がよい、といっており、彼はそれを忠実に実行していた。
しかし不慮とはいえ客が来た以上、手厚く扱うというのがまた彼の性分でもあった。
彼はアメノキの気根のたれる窓辺でPCを閉じると、とりあえず食事をしよう、と思った。
彼が朝食のスコーンの残りをもう一度溶かしバターにくぐらせて天火に入れ、コンデンスミルクを落とした卵焼きを作っていると、背後から人の来る気配がした。
窓ごしにかれの姿をみとめたハーシェルは声をかけた。
「めざめた?」
卵の火に注意しながら見ていると、かれはちょっとよくわからないというように頭上の寄木張りのアーチをなでた。
「……半夢半醒」
上の空な感じでそうこたえ、そのままゆっくりとハーシェルの後ろに近よった。おびやかさないように気を使っているようにも見えた。
「……なんか、すごいことになってない?」
かれが見ていたのはハーシェルの面した窓の外だった。
そこでは、ハーシェルには馴れっこだったが、こげ茶のすばしこい雪玉のようなリスたちと、白黒のむささびのようなぶち猫の空中戦がくりひろげられていた。
「あれ、なに?」
かれは瞬きもせずいった。
「あんたのペット?どっちも?」
「猫の方だけ」
ハーシェルは玉子焼きを皿にうつしながらいった。
「肥っているけど、いい動きだろう。彼にもすこし運動させないとね」
「いい匂いだ」
かれは初めて調理台の方を見た。
「オーブンにもなにか入ってるね」
「スコーンが焼けるから」
ハーシェルは台所と一続きになった、食堂のささやかな張り出し窓を指さした。
「あそこのテーブルの上へこれを持っていってくれないか。あと、これも。飲みものは発酵乳でいいかな」
「いいよ。大好きだ」
かれは、怪我人とは思えないはきはきした態度で果実と卵ののったボウルと、発酵乳の入ったデカンタを窓辺へ運んだ。
「今度は動物たちがこっちに来るかもしれない」
「来ないよ。もう彼らも巣に帰る時間だ。動力切れになるからね」
ハーシェルが湯気の立つスコーンを籠に入れて持っていくと、かれはすこし思いを飛ばすように、張り出し窓のまわりのベンチによりかかって外を見ていた。黒い髪に黒い目の、どこといって特徴のない青年だが、寛いだ感じが優雅な印象をあたえるところがある。
「落ち着いてるね」
「どこにいても家に一人でいる感じがする、といわれることがある」
フォークとナイフを受けとりながらかれはこたえた。
「初対面とか相手のテリトリーとかで緊張しないんだ。だからあんな失敗をするんだな」
光があたりを洗うように窓から流れこむ。
「あの事故のこと?あの事故はなんだったの」
ハーシェルが訊くと、かれは光の中で笑った。
「低気圧だよ、この近くにわだかまってた。ちょっとした巡回だし、近くに寄っちゃいけないのはわかってた。気流調整局が南西方向にコントロールしてるのは知ってたし。でも思ったよりそのスピードが速くて、つい巻きこまれっちゃったんだ」
あ、とそこでかれは声を上げた。
「コクピット!そういえば今どこにあるんだろ。回収してこなきゃ」
「まだ海に浮いてるよ。環礁の中だから、しばらくほっといても遠くへはいかない」
メタルフルーツの深紅のジェリーのような果肉を、ナイフでスコーンに塗りながらハーシェルはこたえた。
「そうか…あんたはもう〈月〉と連絡をとったのか。俺はどのくらい寝てたのかな……」
ふたたびちょっと自信なさげな様子になって訊く。
「ほんの半日ばかりだよ、ブラック。君の名前も知ってる。〈月〉に確認した。君のことはしばらくここで面倒見させてもらう。〈月〉は人手が出せ次第、事故の調査に人をよこすそうだけど、今は季節柄、ちょっと余剰の人員がないそうなんだ」
ブラックはきょとんとした目でハーシェルの説明を聞いていた。
やっと会話らしい会話になってきた、とハーシェルは思ったが、ブラックの方はまだ少し朦朧としているらしい。これらは本来、めざめてすぐに話題にすべきことだったはずだ。
「なるほど。そうか。俺はあんたのとこに間借りしてるんだな。というか、今日着いたばかりなんだな」
では、今までは、なんだと思っていたのだろう、とハーシェルは思ったがなにもいわなかった。そして、糖蜜は、と手近のポットを勧めた。ブラックがやや困ったように、もじもじして|生≪き≫のままの発酵乳を手にとったからである。
「かなり酸っぱいよ、そのまま飲むと」
「あ、ああ。ありがとう」
ブラックは琥珀色の蜜をスプーンでかきまぜながら彼の方を見た。
「俺はてっきり、もう死んで生まれ変わったのかと思ってたんだ」
ややおいて、発酵乳を飲みほすと、その底をのぞきこみながらかれは呟いた。
「でもあんたと最後に会ったときのことは憶えてた。だからさっき、起きたとき、あんたが朝食を作ってるのを見てああここはもう別の世界なんだなって思ったんだ。この前は、ちょっと先取りして次の世界で会うことになってるあんたを見たんだって。だから、ちょっと、びっくりしたんだ」
それで妙に落ち着いていたのか、自分の家にいるみたいに。
ハーシェルが納得顔でうなずくと、相手はまだ照れたりぬように目をそらした。目の先には、光があふれでる水のように窓辺から食卓に広がっている。天井についたブーメラン型の木の扇風機は、静かな音を立てて回っている。最後のスコーンをサービスして立ち上がろうとすると、ブラックは小さな声でいった。
「俺は随分、いろいろなことをあんたにいったんじゃない?多分……海で会ったとき」
「それはいっていた。髪がどうとか、天使がどうとか。きっとまだ頭の働きが本当じゃなかったんだね。もうほとんど覚えてないよ」
ハーシェルがブラックを気づかっていうと、かれはほんのしばらく、じっとしていたが、やがてふいと立ち上がって台所へ行ってしまった。
「?…どうしたの。どうしたの、ブラック」
驚いて追っていくとブラックは荒っぽい感じの目で彼をふりかえり、早く朝飯の後を片づけよう、といった。
食事を終えた二人はまずそれぞれに身じたくをした。
それぞれに、といってもハーシェルのツリーハウスは居間、台所、食堂、寝室というきわめて簡素なものだったので、着がえもまずブラックが彼の寝室でして、それから彼がするといった具合だった。
ブラックはそれまで彼の薄水色のガウンを着ていたが、今度は彼の作業着を借りることになった。彼自身は薄黄緑の、ゆったりした作業着をまとった。
「ゆですぎたソラマメみたいな色だね」
作業着を着て出てくると、ブラックは腑に落ちないといった顔でいった。そういうかれ自身、つんつるてんの麻色の服を着ているところは、どう見ても冴えない感じだった。
「長年着てるからね。日に焼けて色があせたんだろう」
ハーシェルは必要なものの入ったナップザックを肩にかけた。
「歩きで行くのかい。エア・タクは?」
「あるけど、ここではほとんど使わない。この島はとても小さいから、半日で大体まわれるし、なるべく人工的な排煙で系を撹乱したくないんだ」
「ふーん……」
ハーシェルのきわめて研究者的な説明でわかったのかどうか、ブラックはあいまいな応答をした。自分なりにかみくだいているような顔でもある。
「あんたはこれから仕事なの」
「そう。実験生物の面倒を見なきゃ。そのほかにいろいろ用事もある」
「俺のコクピットは後でもいいけど。あんたのいうとおり、環礁の中でしばらくは安泰だっていうんなら」
「なら、助かる。日が暮れるまでにいろいろ片づけなきゃいけないことがあるんだ」
ハーシェルは靴から顔を上げてにこ、と笑った。
「俺が来たことが悪かったみたいだね。いろいろ世話してくれて、ありがとう」
ハーシェルについて梯子を降り、丈高いすすき野原を歩きだしてしばらくしてブラックがいった。
「ハプニングだからしょうがないよ。私もよく嵐で出しっぱなしにしていた機械を壊したり、それで何日も実験が頓挫したりってことがある」
「あんたの仕事は実験なの?」
「そう……実験と、実験のための環境を整え、その結果を管理追跡していくことかな」
「ずいぶん沢山あるんだね。エアの兵役のスライド・ローテートみたいなもんかな」
エアでは職員が少ないため、つねにサブスペシャリティを二個以上持つことが義務付けられている。そのため年に何週かは他の部署に勤務してそれを磨いておくというスライド・ローテート制度があった。
もちろん、ある程度適性をみきわめて割り当てるので、その職種もブラックのような飛行士ならば整備士や兵士などを兼務することが多かった。
「研究職にスライド・ローテートはないよ。私がこの島でやることが多いのは、助手を採用していないからだよ。やることはほとんど、自分か、機械を利用してやっている」
「この島の管理を?」
ブラックはちょっと驚いたようにいう。
「この道の整備とかあの家の管理とかも、全部あんたがやっているの。それはいくらなんでも大変なんじゃない?あんた一人では、重い物だって持ちあげられそうにないし――」
ブラックは、自分の腕の半分ほどしかない太さの彼の腕を見た。
「私が持ち上げられないような物は、基本的にこの島には持ちこまないようにしてるんだ。大きな物もすべて分解して運べる。あの木の家も分解して私一人で下ろせるんだ」
ブラックはしばし立ちどまって、前をゆくハーシェルの背中をみつめた。
「ブラック?」
ハーシェルがふりかえると、かれは、なんでそこまで、という顔をしていた。
「……細かい、系を撹乱する因子をなるべく島から排除したいんだ。助手を採れば、その汗や生体内の常在菌叢がどうしても島に入りこんでくる。この島はなるべく純系統の生物で実験をしたいから、そういうのは困るんだよ」
「うーん……」
今度はブラックはさすがにいっている意味がわからないというように顔をしかめた。
ハーシェルはそれでいい、というようにほほえんだ。
かみくだいていうのは簡単だ。だがそれをわかるようにいうと、まるでかれが来たことが邪魔みたいに聞こえてしまう。ブラックはただでさえここに来たことを申し訳なく感じている。それに追い討ちをかけることはない。第一、ブラックがすぐにも帰れないのは純粋に〈月〉の事情からであり、かれはここにいたくて滞在するわけではないのだ。
ハーシェルの笑みはそういうことをすべてのみこんだ笑みだった。
「さあ、もうすこしで見晴らしの丘に着くよ」
すすき野原はゆるやかな上りにかかっていた。上るにつれて周囲の景色も見わたせるようになっていた。
野原の左には海からの風をさけるように木が立ち並び、その白い木肌から鯨のひげのような長い気根を垂らしていた。
「メリーゴーランドみたいだ」
ふと立ちどまったブラックが呟いた。裾や袖が海からの風にはためいている。
「メリーゴーランド?」
「そう。あの形とか大きさとか。糖衣をかけたメーゴーランドみたいだ」
ハーシェルはやや照れくさそうに笑って、あれはパオノキというんだよ、といった。
「パオ?」
「昔の遊牧民が住んだテントだよ。ちょうどあんな、上がつんとした丸いケーキのような形をしててね。海辺であの樹形を保つのは、けっこう難しいことなんだよ」
ブラックはその誇らしげなひびきには気づかぬように、むしろ上の空でこうこたえた。
「あの中で眠ったら気持いいだろうな」
「え?」
「あれさ。木のすきまから風が流れてきて、きっと夜には星も見えるだろう。あの中で眠ったらきっと素晴らしいだろう」
「そうかな」
「眠ったことないの、あんたは」
「まあそうだね。私はほかに住む家があるしね」
「そうじゃないよ、普段住まないような場所だから泊まりがいがあるんだよ、えーと…」
「ハーシェル。そういえばまだ名のっていなかったね」
「ハーシェル、今日あそこに泊まらないか、二人で」
「あそこに?」
ハーシェルはその唐突な申し出に驚いた。
「雨が降ったら?嵐がきたら?あそこはかなりうるさいよ」
ブラックはまったく意に介さないというふうに笑った。
「家に帰ればいいだろ、そのときは。それともここは人を食う蚊とか動物が出るのかい?」
「いや、出ないけど、そんなことをしたことがないから……」
「じゃあちょうどいい。初めてのことをしよう、俺とあんたで」
「うーん……」
ハーシェルが渋い顔をすると、ブラックは嬉しそうに笑った。
「せっかく俺が来たんだからさ。あそこで寝たら、きっと〈リゾート〉に来たみたいな気がするよ」
見晴らしの丘は三角形の島のほぼ中心にあり、島の全貌を望めるようになっていた。
丘の麓のくぼ地に森にかこまれた湖があり、その湖の北側にかれらが立つ丘があった。
丘から西側を見下ろすと、細く光る川が流れていた。そのきえいりそうな光の端に、点々と小さな水たまりがあり、数珠状に西側をふちどってすすき野の中に消えていた。
すすき野の先の北の岬には、白い卵型の建物が建っている。それがハーシェルの実験塔であった。
島の西側は外海に面していた。明るいレースのような緑林のふちの海食崖には、濃紺の波が打ちよせている。
東側は対照的に、明るいエメラルドグリーンからピーコックグリーンに変化する凪いだ美しい内海が広がっていた。
ツリーハウスのある辺りは緑に包まれて見えなかったが、その先にはハーシェルがブラックを拾った白い砂浜が広がり、沖にはカニの爪のような緑の環礁がつらなっていた。その端の海の底の|珊瑚礁≪リーフ≫は、|碧瑠璃≪へきるり≫の波の反射をうけて夢のようにゆらめいていた。その浜から南に向かって、白い三角の凧のような枝をもつ木や、褐色のメノウのような縞のある木がまばらに生える丘が望めた。
「あんまり建物らしい建物がないね」
ひとわたり島を見わたしてからブラックがいった。
「あんたの仕事場はどこなの。あの白いアーモンドみたいな建物かい」
「あれもそうだけど、むしろ外で働いていることのほうが多いんだ。今日はいろいろやることがあるけれど、まずはタピオカ・プールの様子を見にいきたい」
「タピオカ・プール?」
「この下の水たまりだよ。今実験中なんだ」
ハーシェルはうれしそうに西側の水たまりを指さした。
「なにを実験してるんだい」
「両生類。卵を孵化させているところなんだ」
ブラックは青い空の下で、きらきらとかがやくその眸を横からみつめた。
「いつか君にも見せてあげるよ。今日が無理なら、明日にでも」
「――あーあ。しっかし、暑いなあ」
ブラックは額の毛をかきあげた。
「喉がかわいた。なんか水でも持ってくればよかったね」
「それなら、もうすこし行くとあるよ」
ハーシェルは、自分の気持に水をさすようなブラックの唐突なセリフにも、気を悪くすることなくこたえた。この、自然に従順に他人を受け入れる態度は彼の天性というべきもので、だからこそ上司の佐古耀一郎は、彼が他人に左右されることなく研究を続けられるようこの島での研究を奨励したのだった。
実際この島に来てからの方が彼は考えがよくまとまるようになった。職員にはつねに人と接していないとだめだという人間もいたが、彼は自分はこうやって一人でいられる巣を作らないとだめな人間だと思っていた。
だから今日、この新しい来訪者を迎えて、彼はいつもとちがう状況にとまどい、その唐突な言動に振り回されてしまっていた。その唐突さが飛行士という職種からくるのか、ブラックという個人からくるのか、ハーシェルにはわからなかったけれども、一方でこのブラックという青年にはつねに相手を思いやるようなところがあり、それが穏やかな波のように打ちよせてくるのが感じられた。それは決して居心地の悪いものではなかった。
だがハーシェルはやはりかれには、この島の核の部分は見せまいと思った。
というのもブラックにはやはり、自分には想像もつかない力が潜んでいて、それがひとたび発揮されればこの島の産物など容易に吹き飛んでしまう気がしたからである。
それは単なる予想というより、動物の生存本能に近い、研究者としての直観であった。
In vivo ふたたび、エア諜報局
「彼をこの作戦に使うのは反対だ、と研究部門からクレームが来たよ」
諜報局内偵部門主管はいった。
「研究職トップの|斎田≪さいだ≫博士からだ」
「ああ、あの『|夜の国≪ナイト・ランド≫』の」
部下の男はいった。今回の作戦を立ち上げた責任者である。
「研究職に上下はないはずですが」
上司より切れるが、どちらかというと杓子定規に物事を考える部下はそっけなく応じた。
上司はあいかわらず手元で造園シミュレーションゲームをいじりながら、
「それはたんなる建前だ、カーン。今の研究の主流からすれば、トップは明らかに斎田博士だ。なにしろ『夜の国』の創始者だからな」
「夜の国」計画は、実際のところ、成功すればエアに巨万の富をもたらす計画であった。
政府外郭として行動を拘束され、一方で世界の支配者であるサード・ウェブからも敵性組織としてにらまれているエアにとっては、「夜の国」計画は希望の光だった。
しかしその内容の詳細については、他組織からのスパイをおそれて、エア一般の人間には公表されていない。斎田博士はじつはもうその計画の一部を完成させており、エア上層部はその成果を使って政府高官や他宙域と取引しているという噂もある。すべては推測の域を出ないが、いずれにせよ現在の研究職で最も力を持っているのが斎田博士であることはまちがいない。
「佐古耀一郎という若造もだいぶ頑張っているらしいが、まだ博士を圧倒するほどの力はないようだ。自分が実際に研究をするというより、若手の育成に手腕を発揮するタイプらしいが。ハーシェルというのはその佐古の班のエースらしい」
「佐古からもクレームが来たんですか」
「いや。佐古からはない。だが逐次経過を報せてくれといってきた。彼も気にしているらしい。ハーシェルはかなりいい仕事をしているらしいな、あの島で」
「彼はアンティークとの接触歴があるんですよ」
部下はややむきになったように、
「そんな人間は、めったにいない。彼には、今回の作戦に協力してもらわねば」
「だがそれはもうだいぶ昔のことだろう。私も彼の略歴を走査したんだが。彼が持病のアレルギーを克服する以前のことだ。本人ももう憶えてはおるまい」
「カルマ・フィールドをひらけば思い出しますよ、主管」
「まあそれはそうだろうがね。しかし自分の実験で忙しい研究職が、研究員時代ならばともかく、そんなただの子供の頃など、思い出したいと思うかね。少なくともそう頻繁に走査はしまい、いくら我々の寿命が地球人類やアンティークとはかけはなれた長きにわたるとはいってもね。彼はきっと憶えていないだろう」
「ならばなおのこと好都合です」
部下の男は冷たくいった。
「変にアンティークの幼なじみに情けをかけられても困る、もしそうであった場合の話としてですが。彼には潜りのエア・スタッフのアンティークをあぶりだす作戦に無自覚にのってもらえばいいだけで、それ以上のことは期待していません。ただかれらが本物かどうか、かれらの本尊は誰なのか、最終的になにが目的かを突き止められればそれでいいのです」
「ふむ」
上司は頤にふれてうなずいた。庭いじりの手は止まっていた。
「しかしやりすぎるなよ、カーン。研究職に怪我させるとまずい。彼らはやはり『金の卵を産む鵞鳥』だ。とくにハーシェルは斎田博士も、ナンバー2の佐古耀一郎も気にしている人材だ。今回の件を根にもたれると困る」
「そこはうまくやりますよ、主管。総長も今回の件には乗り気です。実際、研究職は最近のさばりすぎてますしね。エアの熱源獲得の鍵を握っているという強みからなんでしょうが。それこそあの『夜の国』のおかげですよ」
「そうだな」
主管は心ここにあらぬように相槌を打った。なにかを、考えているふうだった。
「おそらく『夜の国』をどう利用するかが、エアの今後千年を決めるだろう。総長もそれを感じているんだな」