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転売ヤー畑でつかまえて

作者: ナガタコウ
掲載日:2026/07/03

▼第一部 王の怒り


王は、パペットスンスンのキーホルダーが欲しかった。


ものすごく欲しかった。


「ものすごく」とは、単なる誇張ではない。


発売三週間前から販売店を調べ、


発売一週間前から天気予報を確認し、


発売前日には目覚まし時計を3つセットした。






発売日の朝。


王は開店一時間前に店へ並んだ。


王である。


本来なら並ばなくていい。


だが王には信念があった。


『欲しいものは正しい手順で買う』


それが作り手への礼儀である。


少なくとも王はそう思っていた。


 


開店して二分が過ぎた。


王はまだ列に並んでいた。


店員が出てきた。


「申し訳ありません」


嫌な予感がした。


「本日の入荷分は完売いたしました」


王は聞いた。


「さっき開店したばかりですよね」


「はい」


「二分しか経ってませんよ」


「はい」


「どういうことですか」


店員は答えた。


「先頭の方が全部買われました」


王は黙った。


「全部?」


「全部です」


「何個ですか」


「四十八個です」


王は黙った。


「そんなにスンスンが好きなんですか」


「おそらくですが、転売目的かと…」


王は黙った。


スマホを見た。


フリマサイトを開いた。


【定価 : 1,200円】


【フリマ価格 : 9,800円】



王は黙った。


「陛下?」


護衛が声をかける。


王は黙っていた。


「陛下?」


王は言った。


「議会を開く」





その日の午後。


緊急議会が招集された。


「議題は何でしょうか」


財務大臣が聞いた。


王が静かな声で言った。


「転売ヤーだ」


嫌な空気になった。


大臣たちは経験で知っていた。


王が静かな時ほど危険なのだ。


「陛下」


法務大臣が言う。


「まず落ち着いて」


「落ち着いている」


「顔色が紫です」


「落ち着いている」


「机にヒビが入ってます」


「落ち着いている」


誰も反論しなかった。


王は続ける。


「転売ヤーは何も作らない」


机を叩く。


「何も生み出さない」


もう一回叩く。


「なのに利益だけ得る」


さらに叩く。


「クリエイターにも失礼だ」


机が割れた。


沈黙。


王は立ち上がった。


「転売ヤーは厳罰に処する」


財務大臣が手を挙げた。


「具体的には」


王は即答した。


「牛裂きだ」


沈黙。


 


法務大臣が眼鏡を外した。


「…牛裂き、とは」


「牛裂きだ」


「いや、念のため確認ですが」


法務大臣は資料をめくる。


「古代の処刑法ですね」


「そうだ」


「"牛や馬など複数の家畜へ罪人の手足を縛り付け、一斉に反対方向へ走らせることで身体を引き裂いて処刑する――"」


会議室が静まる。


王は頷いた。


「極めて象徴的だ」


「象徴的、ですか?」


「転売ヤーの魂が引き裂かれる様子を表現している」


「表現しなくていいと思います」


農林大臣が呟いた。


誰も反論しなかった。



法務大臣は咳払いをした。


「ちなみに対象人数ですが」


官僚が資料を差し出す。


「推計で国民の42.7パーセントです」


沈黙。


今度は王も沈黙した。


「…そんなにいるのか」


「フリマアプリ利用者が想像以上に多く」


「不要品整理は除外しろ」


「除外しても38パーセントです」


「ほぼ変わらんじゃないか」


「はい」


農林大臣がおそるおそる手を挙げた。


「陛下」


「何だ」


「仮に実施するとして」


「うむ」


「牛が足りません」


「何頭必要だ」


「最低でも3000万頭ほど」


「そんなにいるのか」


「はい」


「現在の保有数は」


「およそ40万頭です」


「話にならん」


王はさらに言った。


「増やせ」


「しかし、飼料として膨大なライ麦が必要になります」


「増やせ」





こうして、


転売ヤー処刑庁が設立された。


翌週には、


転売ヤー牛育成省が設立された。


翌月には、


転売ヤー対策牧草委員会が設立された。


さらに、


転売ヤー処刑用牛飼料確保特別会議が設立された。


 


後に歴史家たちは、この一連の政策を


『スンスン改革』


と呼ぶことになる。


王国史上最大規模の行政改革である。




そして王はまだ知らない。


この巨大な国家事業よりも、


ずっと厄介な問題と出会ってしまうことを。






▼第二部 出会い


少女は最近、牛が嫌いだった。


朝起きる。


牛がいる。


学校へ行く。


牛がいる。


帰る。


牛がいる。


ニュースをつける。


『転売ヤー処刑用牛育成省は本日――』


消した。


 


「また牛だ」


母が言う。


「景気いいじゃない」


「よくないよ」


「補助金出てるし」


「でも畑がライ麦になった」


「そうね」


「お父さんは?」


「役場」


「また?」


「また」


母は、皿の上のライ麦パンの屑を指で集めながら言った。


「最近、書類ばっかり書いてるわ」


「牛の?」


「たぶんね」


母はそれ以上言わなかった。


家の窓から見える畑は全部ライ麦だった。


去年はトマトだった。


一昨年はジャガイモだった。


今はライ麦だった。





学校でも牛だった。


「うちの叔父さん転職した」


昼休みに友達が言う。


「どこに?」


「転売ヤー処刑用牛育成省」


少女は吹き出した。


「省ってそんな気軽に入れるの?」


「知らないけど入れたらしい」


「何するの」


「牛数える」


「小学生?」


友達も笑う。


最近はそんな話ばかりだった。


教師の弟は牧草関連会社へ転職した。


パン屋はライ麦パンしか置かなくなった。


町のマスコットキャラクターが牛になった。


国全体が少しずつおかしくなっていた。


でも誰も止められなかった。


王様が、怒っているからである。





放課後。


少女は一人で歩いていた。


ライ麦畑の脇道だった。


風が吹く。


麦が揺れる。


ざあ、と音がする。


海みたいだった。


少女はこの道が好きだった。


牛は嫌いだったが、


ライ麦は嫌いじゃなかった。



その時。


向こうから男が歩いてくる。


見たことのない顔だった。


歳は二十代くらいだろうか。


地味な服。


けれど清潔感はある。


少し疲れた顔。


けれど妙に姿勢が良い。



「こんにちは」


男が言った。


「こんにちは」


少女も答える。


それだけのつもりだった。


だが男は立ち止まった。


ライ麦畑を見ている。


「綺麗ですね」


少女も畑を見る。


「そうですね」


少し沈黙。


男はまた言った。


「ずっと前からライ麦でしたか」


「最近ですよ」


「そうなんですか」


「王様が怒ってるので」


男がむせた。


「大丈夫ですか」


「だ、大丈夫です」


少女は少し面白くなった。


「知らないんですか?」


「何を」


「今この国、牛だらけですよ」


男は遠い目をした。


「そうですね」


「何なんでしょうね」


「何なんでしょうね」


まるで他人事だった。





それから何度か会った。


偶然だった。


少なくとも少女はそう思っていた。


後から考えると、


週に三回も四回も同じ人間と遭遇する確率は、


たぶん偶然ではなかった。



「また会いましたね」


少女が言う。


「そうですね」


男は言った。


少し嬉しそうだった。


少女はその顔を見る。


笑うと案外幼い。


変な人だと思った。


でも嫌いではなかった。



「仕事は?」


少女が聞く。


男は少し考えた。


「……えっと、行政関係です」


「公務員?」


「まあ」


「なるほど」


何か隠している気がした。


でも聞かなかった。


自分にも秘密くらいある。


誰にだってある。





その頃、王都では。


転売ヤー処刑用牛第四牧場が完成した。


ライ麦耕作面積は前年比680パーセントを記録した。


転売ヤー対策牧草委員会は牧草委員会と飼料委員会へ分裂した。


飼料委員会はさらに第一飼料委員会と第二飼料委員会へ分裂した。


もはや誰も全体像を把握していなかった。


会議だけが増えていた。





「最近、楽しいですか」


ライ麦畑で男が聞いた。


唐突だった。


少女は少し考える。


「普通です」


「普通」


「学校行って」


「うん」


「帰って」


「うん」


「牛見て」


「うん」


「牛見て」


「うん」


「牛見て」


「……それ楽しいですか?」


少女は笑った。


男も笑った。


風が吹く。


麦が揺れる。


夕方だった。


空が少し赤い。



少女は思う。


この人といる時間は好きだった。


理由は分からない。


別に面白いことを言うわけじゃない。


格好いいわけでもない。


むしろ少し変だ。


でも、


一緒にいると何となく落ち着いた。



男もライ麦畑を見ている。


「僕は」


珍しく男が先に話した。


「最近、楽しいです」


少女は少し驚く。


「へえ」


「理由は秘密です」


「……感じ悪いですね」


「すみません」


男は笑った。


少女も笑った。



その時だった。


遠くでサイレンが鳴る。


街のスピーカーが流れる。


『本日、転売ヤー処刑用牛飼料確保特別会議は――』



少女は顔をしかめた。


「また牛だ」


男は何も言わなかった。


少しだけ、


申し訳なさそうな顔をしていた。






▼第三部 王の休日


王は最近、ライ麦畑へ行く回数が増えていた。


理由はあった。


でも、本人は認めていなかった。



「陛下」


側近が言った。


「本日の予定ですが」


「うむ」


「転売ヤー処刑用牛第五牧場の視察」


「うむ」


「ライ麦増産推進本部との会議」


「うむ」


「転売ヤー処刑庁との合同会議」


「うむ」


「転売ヤー処刑庁と牛育成省の調整会議」


「うむ」


「転売ヤー処刑庁と牛育成省と牧草委員会の調整会議」


「うむ」


「転売ヤー処刑庁と牛育成省と牧草委員会と――」


「長い」


「はい」


王は頭を押さえた。


最近、会議が増えていた。


自分で始めたのだから当然だった。



「午後は」


側近が紙をめくる。


「空いております」


王は立ち上がった。


「視察へ行く」


「どちらへ」


「ただのライ麦畑だ」


側近は何も言わなかった。


最近ずっとそこだったからである。






少女はベンチへ座っていた。


ライ麦畑の端だった。


パンを食べている。


ライ麦パンだった。




「こんにちは」


顔を上げる。


あの男だった。


「こんにちは」


男は少し息を切らしていた。


「走ってきたんですか」


「たまたまです」


「嘘ですね」


「はい」


男は素直だった。


少女は少し笑った。


男も笑った。


最近、こういうことが増えていた。


「それ」


男がパンを見る。


「美味しいですか」


「普通です」


「ライ麦ですよ」


「だからです」


男は納得した顔をした。


「なるほど」


「最近何でもライ麦なんですよ」


「そうですね」


「パンも」


「うん」


「お菓子も」


「うん」


「給食も」


「うん」


少女は遠くの畑を見る。


「牛のためなんですよね」


男は黙った。


少女は続ける。


「牛ってそんなに必要なんですか」


男はさらに黙った。


必要だった。


「……どうなんでしょう」


結局そう答えた。


少女は笑う。


「他人事ですね」


「すみません」


「まあ私もですけど」


風が吹いた。


麦が揺れる。


ざあ、と鳴る。


二人は少し黙る。


沈黙は苦ではなかった。


不思議だった。





その頃、王都では、王不在のまま会議が続いていた。


転売ヤー処刑用牛第七牧場が完成した。


牛は順調に増えていた。


ライ麦も増えていた。


そして会議も増えていた。


「問題があります」


財務大臣が言う。


「何だ」


「牛が増えすぎました」


「良いことではないか」


誰かが言った。


「牛が牧草を食べます」


「食えばいい」


「食べています」


「ならいい」


「足りません」


沈黙。


「ライ麦畑を増やすしかないでしょう」


農林大臣が言った。


「もう国土の三割です」


「では、四割に」


誰も反対しなかった。


王がいなくても、王の怒りだけは会議室に残っていた。





「好きなものってありますか」


少女が聞いた。


男は少し考えた。


かなり考えた。


本当なら、パペットスンスン。


だが言えなかった。


少し恥ずかしかった。


「……キャラクターとか」


「へえ」


少女は意外そうだった。


「可愛いもの好きなんですか」


「まあ」


「見えないですね」


「よく言われます」


少女は笑う。


男も笑う。


夕日が少し赤かった。


「そっちは」


男が聞く。


「好きなもの……」


少女は少し考える。


「秘密です」


「感じ悪いですね」


「こないだのお返しです」


少女は少し嬉しそうだった。





帰り道。


王は一人で歩いていた。


ライ麦畑の中の道だった。


風が吹く。


麦が揺れる。


遠くで牛が鳴いていた。


王は立ち止まる。


ふと思った。


ここへ来るのが楽しみになっている。


王都より。


会議より。


牛より。


ずっと。


王は少し考える。


そして考えるのをやめた。


嫌な予感がしたからである。


遠くで夕焼けが燃えていた。


その色は、


なぜか少しだけ、


あの少女の髪に似ていた。






▼第四部 待ち人


少女は最近、少し困っていた。


理由はよく分からない。


放課後になると、


ライ麦畑の方を見てしまう。


窓際の席からでも見える。


風が吹いているかとか、


雨が降りそうかとか、


そんなことが気になる。


別に理由はない。


たぶん。


たぶんである。


 


「どうしたの」


友達が聞いた。


「何が」


「最近ぼーっとしてる」


「してない」


「してる」

 


チャイムが鳴る。


授業が終わる。


少女は鞄を持つ。


少し急ぐ。


ライ麦畑へ着く。


風が吹いていた。


麦が揺れる。


ざあ、と鳴る。


少女は少し歩く。


ベンチを見る。 


誰もいない。 


当たり前だった。


あの男と待ち合わせなんてしたことはない。


約束もしてない。


名前すら知らない。


だからいなくて当然だった。


 


少女はベンチへ座る。


五分。


十分。


風が吹く。


ライ麦が揺れる。


誰も来ない。


「帰ろ」


立ち上がる。


その時、少女は思った。


「あれ?」


「私、なんで待ったんだろう……」


考えてみたが、分からなかった。


 


帰り道。


街は少し騒がしかった。


大型モニターにニュースが流れている。


『政府は本日――』


また牛が映っている。


少女は見なかった。


「牛ばっかり」


誰に言うでもなく呟く。


 


商店街を歩く。


最近、閉店した店があった。


昔からあった、お気に入りの雑貨屋だった。


代わりに出来たのは、


牛関連産業支援窓口だった。


少女は看板を見る。


【未来を育てよう】


牛の写真が大きくプリントされていた。


もしあの人が隣にいたら、


きっと変なことを言っただろう。


「牛にも未来がありますからね」


とか。


「ないでしょ」


と自分が返して。


たぶん二人で笑う。


そんなことを考えて、


少女は少しだけ歩く速度を上げた。




家へ帰る。


夕食だった。


ライ麦パンが出た。


「また?」


「また」


母も少し飽きていた。


父の席には、封筒が置かれていた。


役場の名前が印刷された、白い封筒だった。


「お父さんは?」


「まだ」


母はそれだけ言って、パンを小さくちぎった。


テレビではニュースが流れている。


『転売ヤー処刑庁は本日――』


消した。


「もういいよ」


「そうね」


静かになる。


窓の外では、夕焼けが畑を赤く染めていた。


少女はなんとなく窓を見る。


明日もあの道を通ろうと思った。


別に理由はない。


たぶん。


たぶんである。


 




▼第五部 決定



王は窓を見る。


最近、その癖がついていた。


窓の向こうには王都がある。


そのさらに向こうには、


ここからでは見えない場所がある。


王はもう気づいていた。


自分が何を見ているのか。




 

「陛下」


法務大臣が言う。


「最終報告です」


机へ資料が置かれる。


重い音がした。


王は表紙を見る。


【転売ヤー牛裂き実施計画】


一年かけて作られた書類だった。


最初はちょっとした苛立ちだった。


苛立ちは政策になった。


政策は法律になった。


法律は組織になった。


組織は国家になった。


そして今、


誰にも止められなくなっていた。


 


「対象者の選定は完了しました」


「うむ」


「執行体制も整いました」


「うむ」


「全国同時実施となります」


王は頷く。


法務大臣は少し黙った。


そして言う。


「来月三日です」


静かだった。


誰も何も言わない。


ようやく辿り着いた。


そう思う者もいた。


本当に辿り着いていいのか。


そう思う者もいた。


 


「陛下」


財務大臣が口を開く。


「確認ですが」


「何だ」


「本当に実施なさいますか」


会議室が静まる。


今さらだった。


だが、誰もが一度は考えた質問だった。


王は答えなかった。


窓を見る。


遠くを見る。


ここからでは見えない場所を見る。


「問題はない」


王はそう言った。


誰も反論しなかった。




その頃。


少女は学校からの帰りだった。


ライ麦畑の脇を歩く。


ふと足を止めた。


一本だけ、


麦が折れていた。


風が吹く。


周囲の麦が揺れる。


その一本だけ動かなかった。


少女は少しだけ見つめる。


そしてまた歩き出した。




「……では、来月三日の処刑執行を正式に決定する」


「これにて閉会とする」


大臣たちは帰っていく。


広い部屋に、


王だけが残った。


窓の外は夕方だった。


赤い。


ライ麦畑の色に似ていた。


王は思う。


全部終わったら。


またあの道へ行こう。


今度こそ名前を聞こう。


今度こそ。


王はそこで考えるのをやめた。


未来のことは、


実施日が終わってから考えればいい。


そう思っていた。






▼第六部 バカみたい


実施日前日。


王は視察へ向かった。


全国一斉実施の前に、主要な執行予定地を確認する必要があった。


そう説明されていた。


 


馬車は王都を出る。


牛舎を抜ける。


町を抜ける。


窓の外には、どこまでもライ麦が広がっていた。


風が吹く。


麦が揺れる。


ざあ、と音がする。


 


王はその音を知っていた。


以前は、その音を聞くと少しだけ楽になった。


今は違った。


 



道の先に、人が集まっているのが見えた。


仮設の白いテント。


簡易椅子。


折りたたみ机。


腕章をつけた役人たち。


テントの横には看板が立っていた。


【転売ヤー処刑実施に関する対象者家族説明会】


王はその文字を見た。


しばらく何も言わなかった。


「こちらです」


法務大臣が言う。


「本日は、対象者家族への最終説明も兼ねております」


「ここでやるのか」


「はい」


王はライ麦畑を見た。


 


ここは、


あの日、少女がパンを食べていた場所だった。


あの日、牛の話をした場所だった。


あの日、好きなものを聞かれた場所だった。


 


そこに今、柵が立っている。


役人がいる。


説明用の資料がある。


王は馬車を降りた。


役人たちが一斉に頭を下げる。


「陛下」


その声が、雨の前の空気みたいに重く広がった。


説明会場が静かになる。


集められた家族たちが王を見る。


怒り。


不安。


諦め。


何かを言いたいけれど、言っても仕方ないと分かっている顔。


 


王は彼らの顔を初めて見た。


 


今までは、ぜんぶ数字だった。


42.7パーセント。


38パーセント。


40万頭。


3000万頭。


数字は静かだった。


紙の上では誰も泣かなかった。



だが、ここには人がいた。


テントの奥では、対象者本人と家族が分けられて座らされていた。


腕章をつけた職員が、紙の名簿を読み上げている。


名前が呼ばれるたびに、誰かが小さく息を呑んだ。


 


法務大臣が小声で言う。


「陛下、こちらへ」


王は頷いた。


その時だった。


会場の端に、見覚えのある姿があった。



少女だった。



白いシャツ。


少し乱れた髪。


不安そうに握られた手。



少女も王を見ていた。


最初は、よく分かっていない顔だった。


それから、周囲の役人たちが王へ頭を下げていることに気づく。


法務大臣が「陛下」と呼ぶ。


護衛が道を空ける。


少女の表情が、少しずつ変わっていった。


「あ……」


小さく声が漏れた。


王は何も言えなかった。


少女が一歩近づく。


「行政関係って」


王は黙っていた。


「王様だったんですか」


風が吹く。


ライ麦が揺れる。


王は答えなかった。


少女は少し笑った。


笑ったように見えた。


目は笑っていなかった。



「じゃあ」


声が少し震えていた。


「これを始めたのも?」



王は何か言おうとした。


だが、何も出てこなかった。


 


少女は王を見る。


「お父さん、殺されるんです」


王の喉が動いた。


「……君の」


「父です」


少女は言った。


「説明を聞きに来ました。家族なので」


 


少女は続ける。


「ずっとおかしいと思ってました」


王は黙っている。


「牛ばっかりになって」


ライ麦が揺れる。


「給食もライ麦ばっかりで」


白いテントが音を立てる。


「みんな、おかしいって言いながら、仕方ないねって笑ってました」


少女は一度だけ息を吸った。


「王様が怒ってるからって」


王は少女を見ていた。


少女は、あの日と同じ顔には見えなかった。


ライ麦畑で笑っていた少女ではなかった。


ただ、自分が作り上げたものの前に立たされた、ひとりの人間だった。


 


「……何がそんなに大事だったんですか」


少女が聞いた。


「何のために、こんなことになったんですか!」


 


王は答えられなかった。


答えはあった。


ずっとあった。


 


けれど今、


それを口に出すことは、何より残酷な気がした。


 


少女は待っていた。


 


王は視線を落とした。


 


「……パペットスンスンの」


 


声が掠れた。


 


「キーホルダーだ」


 


テントの白い布だけが、ぱたぱた鳴っていた。


 


少女はしばらく何も言わなかった。


 


それから、


泣きそうな顔で笑った。


 


「……バカみたい」


 


王は頷いた。


 


「本当に」


 


少女は笑っていた。


涙が頬を伝っていた。


 


「バカみたい」


 


もう一度言った。


 


王は、何も言えなかった。


 


その時、法務大臣が近づいてきた。


 


「陛下」


王は振り返る。


「何だ」


「そろそろ次の視察地へ」


王は首を振った。


「……中止だ」


法務大臣は一瞬、意味が分からない顔をした。


「は?」


「中止する」


会場が静かになる。


「全て中止だ」


法務大臣の顔色が変わった。


「陛下、それは」


「命令だ」


「不可能です」



王は法務大臣を見た。



「私は王だぞ」


法務大臣は唇を結んだ。


それから、低く言った。


「……だから、ここまで来たのです」


王は黙った。


「法律は成立しています。予算も執行されています。地方ごとの準備も完了しています。」


「止めろ」


「止まりません」


「止めろ」


「止まりません」


 


王は法務大臣の胸ぐらを掴みそうになった。


けれど、手は動かなかった。


法務大臣が悪いのではない。


農林大臣が悪いのでもない。


役人が悪いのでもない。


牛が悪いのでもない。



全部、自分が始めたことだった。


 

王はライ麦畑を見た。



風が戻る。


麦が揺れる。


ざあ、と鳴る。



あの日と同じ音だった。


 


「どうすれば止まる」


王は言った。


法務大臣は答えなかった。


「答えてくれ」


長い沈黙のあと、


財務大臣が口を開いた。


「王令では足りません」


「では」


「議会承認が必要です」


「間に合わない」


「はい」


「他には」





法務大臣が、ゆっくりと言った。


「……この政策は、陛下の名の下において、ただそれだけで、進んできました」


「うむ」


「であれば」


言いづらそうだった。


だが言った。


「……陛下が、王でなくなれば」


会場にいた者たちが、息を呑んだ。



王は法務大臣を見る。


法務大臣は目を逸らさなかった。


「……そうすれば、この改革そのものの正統性が失われます」


「実施は凍結されるでしょう。少なくとも、明日の全国同時執行は止まります」


王は黙った。


少女を見る。


少女は泣いていた。


けれど、王を見てはいなかった。


彼女は父親の方を見ていた。


それでよかった。


 


王は少し笑った。


「そうか」


誰も何も言わない。


 


王はその場で、自分の外套を外した。


王章を外す。


胸元についていた小さな紋章。


国の象徴。


権力の証。


それを法務大臣へ差し出した。


 


「私は退位する」


 


法務大臣は受け取らなかった。


 


「陛下」


「受け取れ」


「しかし」


「受け取るんだ」



法務大臣は震える手で王章を受け取った。


 


その瞬間、


誰かが泣いた。


対象者の家族だったのか。


役人だったのか。


分からなかった。


 


王は少女の方を見る。


 


「これで」


声が出にくかった。


「止まる」


 


少女は何も言わなかった。


 


王は続ける。


「君の父親も」


少女はただ、涙を拭った。


 


少し沈黙があった。


 


「……最後に」


王が言った。


少女が顔を上げる。



「最後に、名前を聞いてもいいかな」



少女はしばらく黙っていた。


 


風が吹く。


ライ麦が揺れる。


 


やがて、少女は首を横に振った。


 


「今さらです」


 


王は何も言えなかった。


少女は少しだけ笑った。


 


「本当に」


 


涙で濡れた顔のまま、静かに言った。


 


「バカみたい」


 


王は頷いた。


 


「うん」


 


それが、二人の最後の会話だった。








その日の夕方。


処刑の全国一斉実施は停止された。


翌日、王の退位が発表された。




転売ヤー処刑庁は解体された。


転売ヤー牛育成省も解体された。


転売ヤー対策牧草委員会も解体された。


転売ヤー処刑用牛飼料確保特別会議については、


最後まで誰が責任者なのか分からなかった。


 


後に、教科書にはこう記された。


王国史上最大規模の失敗。


『スンスン改革』。


転売ヤーは一人も牛裂きにされなかった。


そして、


ライ麦畑だけが残った。






▼エピローグ



……数年後。


町から牛の鳴き声は減っていた。


朝の道路を塞いでいた牛も、


校庭の隅で草を食べていた牛も、


駅前の噴水の横にいた牛も、


いつの間にかいなくなった。


誰も、そのことを特別には話さなかった。


ただ、


しばらく使われていなかった畑には、


まだ少しだけライ麦が残っていた。


 


植えた人間も、命じた人間も、


もうそこにはいない。


 


それでも季節が来ると、


ライ麦は勝手に伸びた。




風が吹けば揺れる。



夕方には、少しだけ金色になる。


 


町の外れに、


そういう場所がまだあった。


 


その畑のそばには、


小さな雑貨屋が建っていた。


昔は農具を売っていたらしい。


今は文房具と、


食器と、


タオルと、


よく分からない置物を売っている。

 


少女はもう、少女ではなかった。 


その店で働いていた。


 


夕方のことだった。


客は一人もいなかった。


レジの横では、小さな扇風機が首を振っている。


棚の奥では、値札の端が少しだけめくれていた。


少女はそれを直した。


その時、


ドアベルが鳴った。


 


客が一人、入ってくる。


 


年齢はよく分からなかった。


地味な服。


けれど清潔感はある。


少し疲れた顔。


けれど、妙に姿勢が良い。


 


少女は、


いらっしゃいませ、


と言った。


 


客は軽く頭を下げた。


それから、店の奥へ歩いていく。


 


特に珍しいことではなかった。


毎日、いろんな客が来る。


 


少女はレジの中で、伝票を整理していた。




しばらくして、客がレジへ来た。


小さな商品を一つ、カウンターへ置く。


 


キーホルダーだった。


 


少女の手が、ほんの少しだけ止まった。


 


「一点でよろしいですか」


客は頷いた。


少女はバーコードを読み取る。


 


ピッ。


 


「1,200円です」


客は財布を出した。


少女はお釣りを渡した。


「袋はお付けしますか」


客は少し考えてから、首を横に振った。


 


少女はキーホルダーをそのまま渡した。



「ありがとうございました」



客はまた、軽く頭を下げた。


 


そして店を出ていった。


ドアベルが鳴る。


 


店内に、また静けさが戻った。


 


少女はレジに残ったレシートを見る。


【パペットスンスン キーホルダー】


 


その文字を見た瞬間、何かが繋がった。


 


地味な服。


少し疲れた顔。


妙に姿勢のいい背中。


……違う。


違うかもしれない。


でも。




少女は顔を上げた。


急いでレジを出る。


呼び止める名前も知らなかった。


それでも、ドアを開けた。


ドアベルが鳴る。


 


外には夕方の風があった。


道には誰もいない。




ライ麦が揺れている。


 


ざあ、と音がした。


 


少女はしばらくそこに立っていた。


 


それから、少しだけ笑って、


店へ戻った。 



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