「悪役令嬢に転生したけど、別に悪くない」
はじめまして、この作品を読んでくださりありがとうございます。
これは悪役令嬢に転生した少女の物語です。
少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。
初めての投稿なので、至らない点もあるかもしれませんが、感想やアドバイスなどがあればとても励みになります。
どうぞよろしくお願いします。
――悪役令嬢に転生したらしい。
いや、正確には「思い出した」という方が正しい。
そして私は今、この世界が“破滅ルート付きの物語”だと気づいている。
私はゆっくりと目の前の光景を見た。
目の前で侍女が膝をつき、涙を浮かべて震えている。
「わ……わたし……ご、ごめんなさいませ、お嬢様ぁ……!」
……ああ、なるほど。
私は今、“人を突き飛ばした悪役令嬢”という立場らしい。
私はゆっくりと彼女を見下ろし、口元だけで笑った。
「……は?」
たったそれだけで、空気が凍る。
面白い。
片眉を上げる。
「ねえ、お嬢様? 人を転ばせたなら、まず謝るのが礼儀じゃないのかしら?」
その声が響いた瞬間、空気が少し変わった。
——私付きの専属メイドだ。
彼女がすぐに前へ出て、侍女を助け起こす。
……なるほどね。
私に罪を押し付けるつもり?
扇の陰で、小さく笑いが漏れる。
その瞬間、彼女は私を睨みつけた。
あら、いい表情。
完全に“悪役認定”ってわけね。
周囲がざわつき始める。
ひそひそ声が波のように広がり、視線が一斉に私へ刺さる。
……いいじゃない。
これが、“黄金の翼の悪役令嬢”──ロレーヌ・ブラックドールの世界。
ふふ。
思っていたより、ずっと面白い。
むしろ少しだけ……この子の人生、可哀想かもね。
ふと、ある記憶が蘇った。
――『黄金の翼』
かつての私の友人に、無理やり読まされた小説。
「この悪役令嬢、あなたと同じ名前なんだよ」
そんな理由だった気がする。
皮肉なものだ。
今の私は、その“悪役令嬢”本人になっているのだから。
……まあ、どうせ悪役になるなら、ちゃんと悪役らしくやりたかったけど。
「お嬢様! いい加減に謝るべきです! お姉様がいらっしゃったからといって、そのような態度を取るなど――」
私はゆっくりと扇を閉じた。
口元の笑みが深くなる。
目は冷たく。
……は?
こいつ、本気で言ってるの?
イライラする。
“姉”。
あの小説のヒロイン。
虐げられた可哀想な聖女。
そして優しいヒーローと出会い、仲間と共に世界を救う。
――よくある、単純で綺麗な物語。
だけど。
私は静かに扇を下ろし、はっきりと言った。
「……あなたに命令される筋合いはないわ」
鼻で笑う。
「謝罪? そんなもの、する気は一切ない」
周囲を見渡し、挑発するように視線を投げる。
……絶対に、誰にも踏みつけにはされない。
――静寂。
その空気を破るように、低く強い声が響いた。
「……俺の命令でも、まだ足りないか?」
視線の先。
整然と並んだ護衛を従え、一人の青年が歩いてくる。
気品ある立ち姿、高価な衣服、そして私と同じ色の金髪。
間違いない。
この男は――兄だ。
この国の王太子。
彼は私の目の前で足を止めた。
「王族として、そのような振る舞いは許されない」
鋭い視線が突き刺さる。
腕を組み、まるで断罪するかのように見下ろしてくる。
……はぁ?
私はただ、小さく口元を吊り上げた。
「ふふっ……」
馬鹿みたい。
少しだけ顔を背け、扇の陰で笑いを隠す。
国が心配になってきた。
これが王太子?
ろくに状況も知らずに、先に断罪?
……本気で、この国を背負うつもりなの?
どうやら、私の嘲りは隠せなかったらしい。
兄は眉をひそめ、苛立った声で言った。
「……何がおかしい? 俺の命令がそんなに笑えるのか?」
私はすぐに表情を整える。
そして、ゆっくりと一礼した。
「まずはご挨拶を。お久しぶりですわ、兄上」
兄の拳がぎゅっと握られる。
唇を強く結び、何も返さない。
私は静かに扇を閉じた。
そのまま彼の横を通り過ぎる。
もう一度も、振り返らない。
だが、数歩進んだところで――
小さく囁いた。
「そうそう、兄上」
「誰かの味方をする前に……まず何が起きたのか、確かめたらどう?」
「――おい!」
背後で兄の怒声が響く。
けれど、私はもう立ち止まらなかった。
そのまま歩き続ける。
足が向かう先は、屋敷の大広間。
そこは――
“彼女”が現れる場所。
そして。
まさに、その瞬間だった。
重厚な木の扉が、ゆっくりと開いた。
そこに現れたのは――二人。
一人は、深くフードを被った人物。
そしてもう一人は。
特徴的な金色の髪を持つ、若い少女だった。
年は……私と同じくらいだろう。
……ああ。
これは。
反則だ。
あまりにも純粋すぎる。
あまりにも綺麗すぎる。
まるで、この世界のものじゃないみたい。
ドクン、と心臓が跳ねた。
――ちょっと待って。
可愛すぎない?
私は慌てて顔を逸らし、扇で口元を隠す。
顔が熱い。
こんな天使みたいな存在、本当にいるの?
唇の内側を噛む。
必死に、胸の中で暴れ出した感情を抑え込む。
その時だった。
「お嬢様」
侍女の声が、ぴしゃりと空気を切った。
「初めてお会いするお姉様なのですから、まずはご挨拶をなさるのが礼儀では?」
彼女は私の前に立ち、指を立てる。
「いくらお会いするのが不満でも、基本的な礼儀を忘れるのは感心しません」
そして。
柔らかな笑みを浮かべた。
……ほとんど、本当に優しい笑みに見える。
この女。
また周囲を操ろうとしているわね。
フードの女性が、わずかに後ずさる。
そして――
妹は、わずかに眉を上げながら。
ゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。
彼女はにこにこと微笑みながら言った。
「こんにちは。はじめまして。私はアメリアです」
私はわずかに目を見開く。
……やっぱり。
天使だ。
あんなに拙いお辞儀なのに、それでも眩しいくらいに輝いている。
私はすぐに目を閉じ、唇を引き結んだ。
……落ち着きなさい、私。
ゆっくりと呼吸を整える。
そして扇を下ろし、小さく微笑んだ。
「こんにちは、アメリア」
「私はロレーヌ・ブラックドール。こちらこそ、お会いできて嬉しいわ」
視線が重なる。
けれど――
「……ただ」
私はわざと、言葉をそこで止めた。
「王女としては、その挨拶は少し気をつけた方がいいわね」
軽く首を傾ける。
「少なくとも、陛下の前では」
「挨拶に見えるくらいには、きちんとした方がいいと思うわ」
その言葉が落ちた瞬間――
空気がわずかに揺れた。
フードを被った女性――彼女の母親が、一歩前に出る。
「そんなこと言わないで!」
焦った声だった。
「アメリアは、そういう作法を何も知らないの! できなくても当然でしょう!」
私は彼女の母親を完全に無視し、小さな妹の方へ身をかがめた。
「その拙いお辞儀では、陛下の前であなたの評判に傷がつくかもしれないわ」
じっと彼女を見つめる。
「もし難しいなら……私の動きを真似すればいい。それで十分よ」
私は柔らかく、心からの笑みを向けた。
そしてゆっくりと体を起こす。
「――こんなふうに」
そう言って、優雅に一礼する。
背後で母親が声を上げた。
「アメリア、聞かなくていいのよ! あなたはそんなこと気にする必要なんて――」
しかし。
アメリアはその言葉を遮った。
「大丈夫だよ、母様」
俯いたまま、静かに言う。
「本当に、気にしないで」
それから顔を上げ、私の方へ向き直った。
そして、満面の笑みで言った。
「わかりました、姉上」
「頑張ってみます。ありがとうございます」
その目は、嬉しさと感謝で大きく輝いていた。
……眩しい。
その笑顔。
あまりにも、輝きすぎている。
まるで光そのものみたいだ。
そして――
「姉上」
その言葉が、頭の中で何度も響く。
私はぼんやりと頷いた。
そしてすぐに背を向け、愛用の扇で顔を隠す。
左手が胸に触れる。
激しく打つ心臓を押さえ込むように。
……無理。
この可愛さ、耐えられない。
さっきの声が、まだ耳に残っている。
「姉上」
信じられない。
こんなの……もう、成仏できる。
魂が天に昇っていく気分だ。
結論。
――私の心は、今この瞬間に砕けた。
RIP。
「……いい人生だった」
私は小さく呟いた。
**********
私と兄、そして妹は、王の前で深く頭を下げていた。
アメリアとの顔合わせの後、私たちはそのまま王の謁見へと案内されたのだ。
「陛下に、謹んでご挨拶申し上げます」
三人で声を揃える。
「顔を上げなさい」
穏やかな声が返ってきた。
私はゆっくりと顔を上げる。
そして――
思わず強く唇を噛んだ。
……落ち着きなさい、私。
心臓がうるさい。
だって。
この人――
めちゃくちゃ格好いい。
顔が熱くなるのを必死で堪える。
ここで失礼な態度なんて取れない。
王の前なのだから。
それなのに。
王は立ち上がり、私たちへ優しく微笑んだ。
……ちょっと待って。
三十代の男って、こんなに格好よくなるもの?
私はなんとか感情を飲み込み、彼がこちらへ歩いてくるのを見つめた。
「そんなに緊張しなくてもいい」
王は柔らかく言う。
「ここには、私たち四人しかいないのだから。もっと自然で構わない」
その言葉で、ふと思い出す。
そういえば。
この部屋に入った時――
陛下は、他の者を全員退出させた。
……どうして?
一体、何を話すつもりなの?
その時だった。
突然、陛下が私の手を取った。
「きゃっ」
思わず小さく声が漏れる。
陛下はくすりと笑った。
「落ち着きなさい、ロレーヌ。食べたりはしないよ」
優しい笑みだった。
「これまで顔を出せなくてすまなかったね」
「急ぎの案件が続いていて、今日まで時間が取れなかったんだ」
そう言いながら、もう片方の手でアメリアの手も取る。
「ちょうど、君の妹が来た日になってしまった」
「許してくれると嬉しい」
そして――
私たちの手を、そっと重ねた。
「二人とも……仲良くしてくれると、父として嬉しい」
……偏見?
私は顔を上げ、陛下の目を見る。
そこにあったのは――
私の悪名を疑う視線ではない。
ただ。
子どもたちの関係を心配する、一人の父親の眼差しだった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私は微笑み返した。
「はい。喜んで」
隣でアメリアも、頬を赤くしながら言う。
「わ、私も……頑張ります」
私たちは互いに顔を見合わせた。
胸の中は、どこか温かい。
その時――
「……で、俺は?」
拗ねた声が横から聞こえた。
兄がそこに立っていた。
腕を組み、明らかに不満そうな顔で。
「俺のことは無視か?」
私たちは三人で顔を見合わせ――
そして同時に、吹き出した。
「ははは」
父は笑いながら兄の手も取った。
「お前のことは心配していない」
「きっと上手くやれるだろう」
兄は一瞬、顔を引きつらせる。
「俺はそんなに自信ないけどな」
そしてちらりとアメリアを見る。
「アメリアとは大丈夫だと思う」
それから――
ゆっくりと、私を見た。
「でも、こいつとは」
私は視線を逸らす。
「……一生分かり合えない気がするわ」
「ほら見ろ!」
兄がすぐに叫ぶ。
父はまだ笑っている。
「お前、ロレーヌに何かしたのか?」
兄は目を逸らした。
「いや、別に。何もしてない」
アメリアは、その様子を楽しそうに見ている。
そして――
「嘘が下手だな」
父と私が、同時に言った。
兄は一瞬固まり――
顔を真っ赤にした。
……図星ね。
父は私たち三人を順番に見渡した。
そして、穏やかな声で言った。
「今日から、私たちは家族だ」
「この四人で、支え合っていくことになる」
少しだけ言葉を切る。
「すぐに上手くいくとは思っていない」
そう言いながら、父は私たちの手を重ねた。
「だが――」
「皆で、家族になろう」
「いいね?」
私は微笑みながら頷いた。
アメリアも、小さく「はい」と答える。
兄も少し照れくさそうに頷いた。
――こうして。
私たちは、四人の家族になった。
父はその後、私たちを食卓へ案内した。
昼食のためだ。
席に着くと、父は私たちにいろいろな質問をしてきた。
その間にも、料理が次々と運ばれてくる。
気づけば、テーブルの上は料理でいっぱいになっていた。
私は軽く見渡して、思わず微笑む。
前菜が運ばれてきた。
父が言う。
「好きなだけ食べなさい」
「いろいろ用意させた。きっと気に入るものがあるはずだ」
兄はすぐに料理へ手を伸ばした。
アメリアも一口食べようとする。
けれど――
その瞬間だった。
――バンッ!!
私は両手でテーブルを叩き、勢いよく立ち上がった。
「陛下」
「この料理には、手を付けない方がよろしいかと」
部屋が、一瞬で静まり返る。
視線が一斉に私へ向いた。
疑いと困惑が入り混じった空気。
私はゆっくりと振り向く。
視線の先にいるのは――
私の専属侍女。
「お嬢様、何かご用でしょうか? もし――」
パシン。
乾いた音が響いた。
私は彼女の頬を平手で打った。
部屋にいる全員が凍りつく。
だが、私は構わない。
もう一度。
パシン。
……ああ。
ずっと、こうしたかった。
侍女は床へ崩れ落ちる。
目に涙を浮かべながら。
「お嬢様……どうして……」
「私が何をしたというのですか……」
怒りに満ちた視線が、私を睨む。
「お嬢様、私はただ――」
「黙りなさい」
私は扇を鋭く閉じた。
「それ以上喋れば、二度と口を開けないようにしてあげる」
そして、振り向く。
「衛兵」
「この女を、今すぐ拘束しなさい」
私は侍女を見下ろし、冷たく言った。
その時――
「おい、何をしている!」
兄が勢いよく立ち上がった。
「お前――」
だが、そこで言葉を止める。
何かに気づいたように、唇を強く結んだ。
そして、ゆっくりと座り直す。
「……説明しろ」
真っ直ぐ私を見る。
「そうじゃないと、誰も理解できない」
私は小さく微笑んだ。
……いい子ね。
どうやら気づいたらしい。
思っていたほど馬鹿じゃない。
父はそれまで一言も発していなかった。
ただ静かに、私を見ている。
説明を待っているのだ。
私は父へ向き直る。
「陛下」
「お話をお聞きいただけますか」
父は頷いた。
「聞こう、ロレーヌ」
私ははっきりと言う。
「この侍女を、三つの重大な罪で告発します」
「なっ――!」
侍女が叫んだ。
「お嬢様、何をおっしゃって――」
「黙れ」
父の低い声が部屋を支配した。
「静かにしなさい」
私は侍女を一瞥しながら続けた。
「まず第一に――職務怠慢であることを告発します」
「この二日間、彼女は私の許可もなく、私の代わりに発言し、判断を行っていました」
「聞きますが、それは使用人として許される行為でしょうか?」
私の声が、部屋に響き渡る。
重く、はっきりと。
「いいえ、それは許されません」
即座に返った声は――兄だった。
「お前も分かっているはずだ、この城の規律を」
「なぜそんな真似ができた?」
少しだけ怒気を含んだ声。
床に倒れた侍女が震える。
「父上」
兄は続けた。
「この城の規律、見直すべきです」
「彼女は完全に自分を過信している」
「……わかった、エドワード」
父は静かに頷いた。
――信じた?
こんなに簡単に?
あり得ない。
侍女は必死に叫ぶ。
「違います陛下! そんなつもりでは――」
「まだ喋る気か?」
兄の声が鋭く落ちる。
侍女は凍りついたように固まった。
……信じられない。
全員が、私の言葉を疑わない。
私は侍女に向けて、嘲るように微笑んだ。
「第二の罪は――陛下への不敬です」
少し間を置く。
「そして、第三の罪は……」
その瞬間だった。
「ちょっと待て、待て待て!」
兄が両手を振りながら割って入る。
「今の、第二の罪の説明はないのか?」
「特にないわね」
私は顎に指を当てる。
「うーん……単純に、ちょっとムカついたのよ」
「ムカついた?」
兄が目を丸くする。
「それを理由にするのか?」
私は肩をすくめた。
「あなたが聞いたから答えただけよ?」
「……まあ、それはそうだが」
兄は小さくため息をつく。
「で、第三の罪が“料理に触れるな”の理由か?」
鋭い目で私を見る。
「早く言え。もう限界だ」
私はにやりと笑った。
……やっぱり。
思ったより頭は回るみたいね。
「正解。今回は珍しく当たり」
「珍しくって何だ!」
兄が即座に噛みつく。
完全に拗ねている。
「えっと……あの」
小さな声が割って入った。
アメリアだった。
「うん?」
私とエドワードが同時に振り向く。
彼女は少し戸惑いながら言う。
「その……やっぱり、なんでもないです」
そう言って俯き、頬を赤く染めた。
……可愛い。
思わず、口元が緩みそうになる。
私はすぐに表情を引き締めた。
そして扇を軽く動かす。
「では、第三の罪――」
その瞬間。
場の空気が変わった。
誰もが息を呑む。
「それは……」
私ははっきりと言った。
「王族に対する、殺害未遂」
――静寂。
一瞬で、音が消えた。
誰も口を開かない。
「お嬢様!!」
侍女が叫んだ。
「そんなこと、どうして言えるのです!? 私はあなたのためにどれだけ――!」
涙が溢れ落ちる。
床に座り込み、まるで被害者のように泣き崩れる。
その姿はあまりにも哀れで。
見方によっては、完全な“被害者”にも見えた。
――自分でも、疑いたくなるほどに。
――バンッ!!
鋭い音が響いた。
陛下が、テーブルを拳で叩いたのだ。
その瞬間、まるでそれが合図だったかのように――
衛兵が動いた。
床に倒れていた侍女の頬に、平手打ちが落ちる。
「黙れと言っている!」
「この件に、お前が口を挟む権利はない」
父の声は鋭く、重かった。
……興味深い。
父でも、怒る時は怒るのね。
エドワードは拳を強く握りしめ、鋭い視線を侍女に向けていた。
アメリアは唇を固く結び――
その瞳には、複雑な感情が宿っていた。
悲しみ。
嫌悪。
怒り。
そのすべてが混ざったような目。
「説明しろ」
兄が低く呟く。
「ちゃんと説明しろ!」
私は静かに言った。
「もうすぐ来るわ、兄さん」
私は一歩、テーブルへと近づいた。
そして続ける。
「――これと、これ、それからこれ」
私は食卓に並ぶ料理に使われている果物や食材をいくつか挙げた。
「城に来た初日、私はこれらの食材の一覧を彼女に渡しました」
扇で侍女を指し示す。
「そして何度も伝えたはずです」
「私はこれらの食材に触れることを禁じられている、と」
「理由は簡単。私はそれらにアレルギーがあるからです」
一拍置く。
「それなのに――」
「今、これらは全て料理に使われています」
「これは一体、どう説明するつもりですか?」
沈黙がさらに重くなる。
横目で見ると、アメリアが拳を握りしめていた。
父は眉をひそめる。
兄は不審そうに口を開いた。
「なあ、それって何だ? アレルギーって」
……まあ、普通の反応ね。
私は彼を見る。
「心配しないで、兄さん」
「どうせ君には分からないと思っていたわ」
「は? どうせって何だよ」
兄が顔を引きつらせる。
「別に」
私は軽く咳払いをした。
「では説明代わりに、少し話をしましょう」
私は再び席に座った。
そして静かに口を開く。
「昔の話をしましょう」
「子どもの頃、私は森で変わった果実を見つけました」
「それを母にあげようと思って、家に持ち帰ったのです」
少し間を置く。
「その果実は――母にとって毒でした」
「彼女はその食材に強いアレルギーを持っていたのです」
「触れるだけで、皮膚にひどい発疹が出るほどに」
さらに続ける。
「一口でも食べていれば、命に関わっていた可能性すらあります」
私は軽く微笑んだ。
「以上が、その時の話です」
そして続ける。
「ちなみに私はそのアレルギーを母から受け継いでいます」
「そして、先ほど挙げた食材も同様です」
兄が口を開いた。
「でも子どもの頃、その果実を触っていただろ?」
「なぜ何ともなかったんだ?」
私は彼を見る。
「運が良かったのよ」
「手袋をしていたから」
兄は唇を噛む。
「そんな話、聞いたことがない」
「本当に存在するのか?」
「それとも……作り話じゃないのか?」
私は扇でアメリアを指した。
「悪いけれど」
「彼女なら知っているはずよね?」
視線が一斉にアメリアへ向かう。
彼女の頬が、ほんのり赤く染まった。
「無理に話さなくてもいい」
兄が静かに言った。
「――いいえ」
アメリアがきっぱりと答える。
その声は、驚くほど強かった。
彼女は私たちを見渡し、わずかな決意を瞳に宿す。
「はい……それは本当です」
「私も、その話を聞いたことがあります」
小さく息を吸う。
「先ほどロレーヌ姉様が言っていた時に……それだと分かりました」
「教会でも言われています」
「アレルギーのある食べ物は、たった一口でも命に関わると」
私は大きく微笑んだ。
「ありがとう、アメリア」
「とても助かったわ」
「い、いえ……お役に立てて嬉しいです」
彼女も照れながら微笑む。
「……ふん」
兄が小さく不満げに唸った。
私は続ける。
「同じ家族である以上、似た体質を持っている可能性は高い」
「だから彼女にも、その一覧を渡しておいたの」
「アメリアも、体が強い方ではないでしょう?」
「母のことを考えれば……一口でも危険だったはずよ」
私はじっと彼女を見る。
「この中に、あなたにとっても危険な食材が含まれているわよね?」
アメリアは頷いた。
「はい……ほとんどがそうです」
――バンッ!!
兄がテーブルを叩いた。
「貴様……!」
怒りに満ちた声が響く。
「どういうつもりだ!」
「なぜこんなことをした!」
侍女は、目に見えて震えていた。
そして、叫ぶ。
「あり得ません! お嬢様、どうか嘘はおやめください!」
「ここ数日、あなたはその料理を食べていたではありませんか――」
その瞬間。
彼女の声が止まった。
……言ってしまったのだ。
自分で。
「貴様……!」
エドワードが叫ぶ。
怒りが、そのまま言葉になっていた。
私は侍女を見下ろし、冷たく言う。
「本当に……運が良かったわ」
「父譲りの丈夫な体質でね」
「でなければ、どうなっていたことか」
感情のない笑みを浮かべる。
「それに、少し注意していれば分かったはずよ」
「ここ数日、私はほとんど食事を取っていなかった」
私はゆっくりと言葉を重ねる。
「だから何度も言ったでしょう?」
「その食材を使うな、と」
「それなのに――あなたは無視した」
視線が鋭くなる。
言葉にできないほどの冷たさを帯びて。
侍女は一歩、後ずさる。
「ち、違います……お嬢様……!」
「私はそんなこと……決して……!」
必死に否定する声は、もう力を失っていた。
侍女は這うように前へ進み、王の前で深く頭を下げた。
「陛下……どうか、お信じください……!」
必死な声だった。
「私は決して、そのようなことは……!」
「長年この城で仕えてきましたが、一度も職務を怠ったことはありません!」
涙ながらに訴える。
「きっと厨房で、私の指示が正しく伝わらなかったのです……!」
「私ではありません……本当に……!」
その時――
「もし本当にそうなら」
小さな声が、静かに響いた。
アメリアだった。
「どうして、ほとんど全ての料理に同じ食材が使われているのですか?」
その瞳には、はっきりとした失望が浮かんでいる。
そして――わずかな怒りも。
「確かに」
エドワードも続く。
「こんな料理、今まで一度も出たことがない」
「どうして今日に限って、こんなことになった?」
侍女は一瞬、言葉を失った。
明らかに動揺している。
――予想外だったのだ。
全員が、ロレーヌの側につくとは。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
そして――
まだ何も言っていない人物を見る。
王を。
侍女は王の足にしがみついた。
「お願いです、陛下……!」
「私は本当に何もしていません……!」
必死に訴える。
「家族がいるのです……私がいなければ……!」
「どうか……どうかお許しください……!」
――だが。
王は、彼女に視線すら向けなかった。
「……つまり」
低い声が落ちる。
「これは料理人たちの責任だと、そう言いたいのか?」
その場の空気がさらに冷えた。
私は口を開く。
「私は彼らを責めているわけではありません」
侍女は慌てて言葉を重ねる。
「ただ……私ではないと申し上げているだけです!」
「お嬢様、なぜそのように言葉を歪めるのですか……!」
「私はこれまで、あなたに忠実に仕えてきたのに……!」
私は冷たく言い放つ。
「つまり」
「これは私の仕業だと、そう言いたいの?」
空気が凍る。
侍女は顔を青ざめさせた。
「い、いえ! そのようなこと、決して……!」
その時――
「もういい」
エドワードが声を張り上げる。
「衛兵!」
「何をしている、早くその女を陛下から引き離せ!」
衛兵たちが動く。
王は、ようやく侍女を見下ろした。
その表情は――
誰にも読み取れなかった。
王は、ゆっくりと私の方へ視線を向けた。
「……なぜだ」
低い声だった。
「なぜ、もっと早く私に報告しなかった?」
そこには、わずかな苛立ちと――
責めるような響きがあった。
私は軽く眉を上げる。
……なぜ、ですって?
当然のことでは?
「簡単な話です」
私は淡々と答えた。
「私はまだ、この城で十分な立場を持っていません」
「陛下に直接お会いできるほどの権限も」
小さく微笑む。
「仮に申し出ても、誰が本気で取り合ったでしょう?」
一拍置く。
「それに――証拠もありませんでした」
「だからまずは……」
言葉を区切る。
私はゆっくりと指を上げた。
「未然に防ぐつもりでした」
「ですが――」
視線を侍女へ向ける。
「もう、その段階は過ぎています」
侍女は顔を青ざめさせ、震えていた。
冷や汗が止まらない。
「お、お嬢様……」
かすれた声。
私は静かに言い放つ。
「確認します」
「ここにいる全員を証人として――」
「あなたは、この件への関与を完全に否定するのですね?」
空気が張り詰める。
「は、はい……!」
侍女は必死に頷く。
「私は無実です……!」
――そう。
私は心の中で呟いた。
これで、終わり。
「衛兵、入れなさい」
私の一言で、扉が開かれた。
数人の人物が中へと入ってくる。
全員が、その場で深く頭を下げた。
その様子を見た瞬間――
侍女の顔色が変わる。
次の瞬間、彼女の身体は力なく崩れ落ちた。
……もう理解したのだろう。
自分の敗北を。
「誰だ?」
エドワードが眉をひそめる。
私は答える。
「料理長と、その補佐たちです」
「いつ呼んだんだ?」
「あなたたちに“食べるな”と言った直後よ」
私は料理長へ視線を向ける。
「きっと、話すべきことがあるはず」
「――すべて話しなさい」
場の視線が一斉に彼へ集まる。
張り詰めた空気。
年老いた料理長でさえ、明らかに震えていた。
無理もない。
王と王族が一堂に会する場など――
彼らにとっては異常な状況だ。
やがて、彼は口を開いた。
そして――
知っていることを、すべて語った。
……完璧ね。
これで、逃げ道は完全に消えた。
料理長はすべてを認めた。
この料理は――
侍女の指示によるものだと。
彼はただ、命令に従っただけだった。
側にいた補佐たちも、それを証言する。
……これで、決まりだ。
侍女は完全に力を失っていた。
もはや何も言わない。
言えない。
すべてを理解してしまったのだ。
自分に、もう逃げ場がないことを。
私は静かに口を開く。
「まだ付け加えるなら――」
「命令違反、そして証拠が揃った後も認めなかったこと」
「それも罪に含まれるでしょうね」
場は、再び静まり返った。
誰も言葉を発しない。
そして――
王が口を開く。
「ここまでの証拠を踏まえれば」
「このような者を城に置いておくことはできない」
重い声だった。
「罪は明白」
「そして、看過することもできぬ」
一拍。
そして――
「ロレーヌ」
その名を呼ぶ。
「処分は、お前に任せる」
空気が変わる。
「……私に?」
思わず声が漏れた。
王は静かに頷く。
「そうだ」
「この件を明らかにしたのは、お前だ」
「ゆえに、裁く権利もまた、お前にある」
侍女の目に、かすかな希望が宿る。
涙で濡れた瞳で、私を見上げた。
「お嬢様……どうか……」
――逃がすとでも?
私は小さく笑った。
「ねえ、兄さん」
「王族に対する殺害未遂の罪は、通常どう裁かれるの?」
エドワードは迷いなく答える。
「当然、死刑だ」
「そうよね」
私は頷く。
「でも――」
わざと間を置く。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「死刑なんて……あまりにも優しすぎるわ」
侍女の身体が、びくりと震える。
私は少し考える素振りを見せた後、口を開いた。
「ねえ、父上」
「王家は鉱山を所有しているのでしょう?」
王は短く答える。
「ああ、いくつかはな」
その言葉を聞いた瞬間――
私の笑みが深くなる。
「決めました」
静かに告げる。
「彼女の処分を」
エドワードが肩をすくめる。
「その顔を見る限り、楽な結末じゃなさそうだな」
楽しそうに笑った。
「好きにしろ」
王が私を見る。
「それで――」
「お前の決断は?」
私は王へと向き直る。
その深い視線を、真っ直ぐ受け止めた。
「処分ですが――」
静かに告げる。
「彼女には、最も収益の低い鉱山での強制労働を三年」
「無償で課します」
一瞬、静寂が落ちた。
だが私は続ける。
「そして三年後――」
「同日、同時刻に、処刑を執行します」
――完全な沈黙。
「そ、そんな……!」
侍女が崩れ落ちる。
「お願いです、お嬢様……それだけは……!」
震えながら、涙を流す。
父は眉をわずかに上げ、薄く笑った。
アメリアは首を傾げるだけで、何も言わない。
エドワードは一瞬驚いた顔を見せたが――
やがて笑う。
「悪くない」
「気に入った」
「それくらいでちょうどいい」
私は鼻を鳴らす。
「理解できたみたいね」
「それならよかったわ」
「むしろ嬉しいくらいだ」
エドワードは肩をすくめた。
私はさらに続ける。
「加えて、逃亡や怠慢を防ぐため」
「奴隷刻印を施します」
「そして三年後――」
「条件次第では、刑の免除も検討します」
わずかに間を置く。
「……可能性は、限りなく低いけれど」
私は再び、王へと向き直る。
王は満足げに頷いた。
「その処分で進めよう」
「はい、ありがとうございます――陛下」
私は一礼する。
「……いや」
その声に、私は顔を上げた。
「“父上”でいい」
一瞬、言葉を失う。
「堅苦しい呼び方は必要ない」
「家族なのだからな」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……はい」
小さく息を吸い、
「わかりました――父上」
自然と、笑みがこぼれた。
――ごめんなさい、父さん。
ふと、前世の父の顔がよぎる。
もう二度と、そう呼ぶことはないと思っていた。
それでも――
この人には、ちゃんと伝えたい。
胸の奥に、懐かしさが広がる。
気づけば、目元がわずかに滲んでいた。
「アメリアもだ」
王が優しく言う。
「お前も、そう呼びなさい」
「あ、えっと……はい……」
頬を赤らめながら、
「……お父様」
小さく、そう口にした。
そのまま、私の方を見る。
そして――
柔らかく微笑んだ。
胸が、ふわりと軽くなる。
さっきまでの痛みが、嘘みたいに消えていく。
……なんて綺麗な笑顔。
心が、ほどけていく。
私は微笑み返し、
ゆっくりと視線を戻した。
――侍女へと。
侍女はもはや見る影もなかった。
命は、今にも尽きそうなほど弱々しい。
私は表情を冷たくする。
扇を手のひらで打った。
「衛兵」
鋭く命じる。
「この女を連れて行きなさい」
「そして、正式に処罰を下すように」
「二度と私の前に姿を見せるな」
衛兵たちが彼女を引きずるように連れて行く。
彼女はもはや、自分の足で立つこともできなかった。
ただの“影”だった。
――だが。
当然の報いだ。
私が最も嫌うのは、こういう無責任な行動だ。
私はゆっくりと振り返る。
そこには、アメリアと兄が話している姿があった。
(……やはり)
私は静かに目を細める。
これは間違いなく――
“乙女ゲーム”で語られる、あの事件。
“悪役令嬢ロレーヌが、王家で起こした毒殺未遂事件”。
そしてこの出来事をきっかけに、
アメリアは“聖女”としての力に目覚める。
一方で私は――
王城を追放されることになる。
だが爵位そのものは失わない。
しかし、その後の扱いは最悪で、
誰にもまともに相手にされることはなかった。
だが――私は、すでに物語を変えている。
本来なら、今日この場で私は追放されるはずだった。
それなのに、今もここにいる。
運命は、少しずつ歪んでいる。
私は小さく笑った。
私は“悪役令嬢ロレーヌ”。
本来なら嫌われ、排除される存在。
それでも構わない。
悪役でいることには、それなりの利点がある。
ただ――
もしこのまま、この家族と一緒にいられるのなら。
それでいい。
「どうした、ぼんやりして」
エドワードがからかうように言う。
「幻覚でも見てるのか?」
私は何も言わず、彼を見返した。
「ロレーヌ、こっちへ来なさい」
父が穏やかに呼ぶ。
「ねえ、アメリアと一緒にお話ししない? お姉ちゃん」
アメリアが無邪気に笑う。
その瞬間――
胸が跳ねた。
ああ、もしこのまま彼女たちと一緒にいられるのなら。
私は微笑む。
「ええ、喜んで」
立ち上がり、彼らのもとへ向かう。
心臓が高鳴る。
――だって私たちは、もう家族だから。




