第9話 境界の影
風が変わった。
朝の街は穏やかで、青空の輪郭もいつも通りだったが――
空気の密度が違っていた。
風間サトルは、設計層から地表へ戻る前に、
アリスとイリスの双方に“監視リンクの一時遮断”を要求した。
《モニタリングを一時停止しますか?》
《確認:YES / NO》
→ YES
《注意:ログの欠損が発生します》
「ログが欠けた瞬間にしか、見えないデータがある。」
それは、彼がエンジニアだった頃からの口癖だ。
常時監視される世界では、異常値は発見できない。
計測を止める、その“隙間”にこそ、真のバグが潜む。
ナツメは眉をしかめた。
「つまり、監視オフのまま境界に入るってこと?」
「更新の届かない領域。
そこに“影”が残ってる。
――旧《現実層》だ。」
◇◇◇
彼らが向かったのは、
再構築都市の外縁、かつての物流港湾地帯。
《E.L_CORE》のマップでは、そこはグレーアウトされていた。
“定義されていない座標”。
つまり、存在しない場所だ。
防波堤を越えると、世界の“色”が一変した。
空は濁り、海は停止していた。
波も風もない。
ただ、古い看板とコンテナが、壊れかけた現実のまま残っている。
ナツメが足を止める。
「ここ……更新前のままだ。」
「《E.L_SYNC》が同期を拒否してる。
――この空間、自己防衛してるんだ。」
「防衛? 誰が?」
「人間の意識が。」
ナツメは息を飲む。
そのとき、足元に落ちていた古いスマートフォンが、突然震えた。
電源は入っていないはずなのに、
ディスプレイにひとつだけ文字が浮かぶ。
《更新を拒否しました》
次の瞬間、空間の奥から人影が現れた。
朽ちた作業服、煤けた顔、そして、瞳だけが鮮烈に生きている。
五、六人。
年齢も服装もまばらだが、どの顔にも共通していたのは――“拒絶”の色。
「お前たち……」
一人の老女が口を開く。
「ここは、わたしたちの街だよ。
あんたらの“便利な世界”なんか、いらない。」
サトルは一歩、前へ出た。
「俺たちは奪いに来たわけじゃない。
更新が止まった理由を、確かめに来た。」
「理由? 理由なら簡単さ。」
老女の声は静かだった。
「わたしたちは、忘れたくない。
消された町も、消された名前も、
“エラー扱い”にされるには早すぎる。」
ナツメの目が揺れた。
再構築都市の理念は「選択できる現実」。
だが、この場所の人々は“選ばない自由”を選んでいた。
「サトル。」
彼女が小さくつぶやく。
「ここ……正しいと思う。」
「そうだな。」
サトルは頷いた。
「だからこそ、“ここも仕様にする”。」
「え?」
サトルは目を閉じ、思考の中でコードを走らせた。
指先ではなく、意志そのものが命令となって空間に展開する。
現実が青白くわずかに揺れ、空中に光の行が浮かんだ。
それは文字列ではなく、“世界への指示”だった。
add_domain( "shadow_zone" )
attributes := { "未更新", "非同期", "記録保持" }
sync := optional(false)
access := request_only
コマンドが実行されると同時に、空気の層が変質した。
音が戻り、匂いが立ち上がり、港の街がひとつの“定義”として息を吹き返す。
その瞬間、空間が淡く震えた。
黒い霧のような粒が浮かび、
海面の上に一行のログが表示される。
《新規領域追加:Shadow_Domain》
《整合率:自律 100%》
《分類:人為的未同期エリア》
人々の姿が、光の粒のように安定していく。
恐怖や拒絶の表情が少しずつほどけ、
老女は静かにサトルを見つめた。
「……あんた、本当に“神様”なのかい?」
サトルは首を横に振った。
「ただの開発者だ。
でも、忘れたいことと、忘れたくないことを、
同じ場所に置けるようにしたいだけだ。」
老女は目を閉じ、頷いた。
「なら、あんたの世界にも少しだけ興味が出てきたよ。」
◇◇◇
港を離れたあと、ナツメは沈黙を破った。
「“更新しない仕様”を作るなんて、誰も考えなかった。
それって……再構築の“逆”じゃない?」
サトルは少しだけ笑う。
「逆でもあり、補完でもある。
変化を許すってのは、変わらないものを残すってことだ。
“静止”も、世界の一部なんだよ。」
「……ほんと、エンジニアってやつはさ。」
「面倒くさい?」
「ううん。かっこいいよ。」
ナツメの言葉に、サトルは返事をしなかった。
代わりに空を見上げた。
再構築都市の灯りが遠くに見える。
その間に、黒と青が交わる薄い帯――境界層。
その奥で、何かが光った。
微かな赤。
ノイズのような、異質な輝き。
アリスの声が届く。
『――サトル。未定義のシグナルを検出。
“再構築域”外からの干渉。
識別名:レガシー・ノード。』
「レガシー?」
『旧システムの核。
あなたが最初に作った“エデン以前”のコード群です。』
サトルの胸に、冷たい予感が走った。
「それは……E.L_βだ。」
ナツメが聞き返す。
「エル・ベータ?」
「最初の実験体。
誰も知らない――失敗した最初のエデン。」
遠く、黒い海の向こうで赤い光がまた瞬いた。
まるで何かが、呼吸しているように。




