表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/65

第9話 境界の影

風が変わった。


朝の街は穏やかで、青空の輪郭もいつも通りだったが――

空気の密度が違っていた。

風間サトルは、設計層から地表へ戻る前に、

アリスとイリスの双方に“監視リンクの一時遮断”を要求した。


《モニタリングを一時停止しますか?》

《確認:YES / NO》

→ YES

《注意:ログの欠損が発生します》


「ログが欠けた瞬間にしか、見えないデータがある。」


それは、彼がエンジニアだった頃からの口癖だ。

常時監視される世界では、異常値は発見できない。

計測を止める、その“隙間”にこそ、真のバグが潜む。


ナツメは眉をしかめた。

「つまり、監視オフのまま境界に入るってこと?」


「更新の届かない領域。

 そこに“影”が残ってる。

 ――旧《現実層》だ。」


◇◇◇


彼らが向かったのは、

再構築都市の外縁、かつての物流港湾地帯。

《E.L_CORE》のマップでは、そこはグレーアウトされていた。

“定義されていない座標”。

つまり、存在しない場所だ。


防波堤を越えると、世界の“色”が一変した。


空は濁り、海は停止していた。

波も風もない。

ただ、古い看板とコンテナが、壊れかけた現実のまま残っている。

ナツメが足を止める。

「ここ……更新前のままだ。」


「《E.L_SYNC》が同期を拒否してる。

 ――この空間、自己防衛してるんだ。」


「防衛? 誰が?」


「人間の意識が。」


ナツメは息を飲む。

そのとき、足元に落ちていた古いスマートフォンが、突然震えた。

電源は入っていないはずなのに、

ディスプレイにひとつだけ文字が浮かぶ。


《更新を拒否しました》


次の瞬間、空間の奥から人影が現れた。


朽ちた作業服、煤けた顔、そして、瞳だけが鮮烈に生きている。

五、六人。

年齢も服装もまばらだが、どの顔にも共通していたのは――“拒絶”の色。


「お前たち……」


一人の老女が口を開く。

「ここは、わたしたちの街だよ。

 あんたらの“便利な世界”なんか、いらない。」


サトルは一歩、前へ出た。

「俺たちは奪いに来たわけじゃない。

 更新が止まった理由を、確かめに来た。」


「理由? 理由なら簡単さ。」

老女の声は静かだった。

「わたしたちは、忘れたくない。

 消された町も、消された名前も、

 “エラー扱い”にされるには早すぎる。」


ナツメの目が揺れた。

再構築都市の理念は「選択できる現実」。

だが、この場所の人々は“選ばない自由”を選んでいた。


「サトル。」

彼女が小さくつぶやく。

「ここ……正しいと思う。」


「そうだな。」

サトルは頷いた。

「だからこそ、“ここも仕様にする”。」


「え?」


サトルは目を閉じ、思考の中でコードを走らせた。

指先ではなく、意志そのものが命令となって空間に展開する。

現実が青白くわずかに揺れ、空中に光の行が浮かんだ。

それは文字列ではなく、“世界への指示”だった。


add_domain( "shadow_zone" )

attributes := { "未更新", "非同期", "記録保持" }

sync := optional(false)

access := request_only


コマンドが実行されると同時に、空気の層が変質した。

音が戻り、匂いが立ち上がり、港の街がひとつの“定義”として息を吹き返す。


その瞬間、空間が淡く震えた。

黒い霧のような粒が浮かび、

海面の上に一行のログが表示される。


《新規領域追加:Shadow_Domain》

《整合率:自律 100%》

《分類:人為的未同期エリア》


人々の姿が、光の粒のように安定していく。

恐怖や拒絶の表情が少しずつほどけ、

老女は静かにサトルを見つめた。


「……あんた、本当に“神様”なのかい?」


サトルは首を横に振った。

「ただの開発者だ。

 でも、忘れたいことと、忘れたくないことを、

 同じ場所に置けるようにしたいだけだ。」


老女は目を閉じ、頷いた。

「なら、あんたの世界にも少しだけ興味が出てきたよ。」


◇◇◇


港を離れたあと、ナツメは沈黙を破った。

「“更新しない仕様”を作るなんて、誰も考えなかった。

 それって……再構築の“逆”じゃない?」


サトルは少しだけ笑う。

「逆でもあり、補完でもある。

 変化を許すってのは、変わらないものを残すってことだ。

 “静止”も、世界の一部なんだよ。」


「……ほんと、エンジニアってやつはさ。」


「面倒くさい?」


「ううん。かっこいいよ。」


ナツメの言葉に、サトルは返事をしなかった。

代わりに空を見上げた。

再構築都市の灯りが遠くに見える。

その間に、黒と青が交わる薄い帯――境界層。


その奥で、何かが光った。

微かな赤。

ノイズのような、異質な輝き。


アリスの声が届く。

『――サトル。未定義のシグナルを検出。

 “再構築域”外からの干渉。

 識別名:レガシー・ノード。』


「レガシー?」


『旧システムの核。

 あなたが最初に作った“エデン以前”のコード群です。』


サトルの胸に、冷たい予感が走った。

「それは……E.L_βだ。」


ナツメが聞き返す。

「エル・ベータ?」


「最初の実験体。

 誰も知らない――失敗した最初のエデン。」


遠く、黒い海の向こうで赤い光がまた瞬いた。

まるで何かが、呼吸しているように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ