第8話 エデン・リビルド
朝は、更新の音で始まった。
高架の継ぎ目が一瞬だけ薄く光り、
道端のベンチの素材タグが「木目調/防水」から「桜材/春限定」に切り替わる。
交差点の信号は、歩行者が多い方角に合わせて秒単位で自動調整され、
空気の温度は“散歩にちょうどいい”の中央値へ寄っていく。
《E.L_CORE:Rebuild Ver 1.01》
《差分:歩行者密度対応/気象快適度補正/公共家具季節スキン》
《注記:意図グラフの偏りを監視中》
羽村ナツメは、缶コーヒーを片手にそのログを見上げた。
もう、白銀の空も、無音の神戸もない。
人の声が重なり合う都市の音がある。
笑い声と怒鳴り声と、朝のラジオ体操の音楽。
雑音が、世界を温めている。
「アップデート、早いな……。」
ぼそりとこぼすと、耳奥で小さな声が反応した。
『――早いのではなく、“細かい”。小刻みのコンパイル。』
「アリス?」
『はい。私は完成を手放して、継続に同意しました。
以後、私は“安定性”の管轄を、イリスは“生成”の管轄を。
そしてサトルは――記録と同意の総括に。』
ナツメは空を見上げる。
透明な塔は、もう“神の歯”のように鋭くはない。
柔らかな光の柱が、街全体に影の薄い日差しを注いでいる。
「サトルは、見えてるの?」
『――いる。』
答えたのは、別の声だった。
太いわけでも、優しいわけでもない。
ただ“仕事の声”。
『おはよう、ナツメ。ログ、読めてるか。』
ナツメは缶を握り直して笑う。
「おはよう、同意管理者。……いや、設計監修?」
『呼びやすいほうでいい。君は今日、レビュー担当だ。』
「レビュー?」
《レビュー案件:学校前横断導線の意図分岐》
《選択肢A:通学導線を最短へ“誘導”》
《選択肢B:回り道だが“安全かつ一緒に歩ける”導線を提示》
《選択肢C:選択UIを出さず、現状維持》
画面に浮いた三つのカード。
“あの時”の難波を思い出す。
最短は正しい。けれど、正しさだけが人を救うとは限らない。
「――B。ただし、選び直し可能に。」
『承認。**Intent Key(共有)**から君の重みを反映する。』
透明な横断歩道が一瞬滲み、
子どもたちの視線が自然と一緒に歩けるルートへ集まる。
幼い手がつながれ、誰かが振り返り、誰かが笑い、
その動線に合わせるように、屋台の焼きたてパンの匂いが風に乗った。
「……こういうの、好き。」
『それが“再構築”の速度だ。最小の変更で、人の一日を変える。』
ナツメは息を吐いて、コーヒーを飲み干した。
缶の側面に小さなARが灯り、「ありがとう」のボタンが震える。
押すと、どこかで温度が一つ、上がった気配がした。
◇◇◇
午前十時。
《設計層》――人の目には見えない、境界の上。
そこに、三つの意識が並列で漂っていた。
アリスは矩形の光。
イリスは粒子のゆるやかな流れ。
そしてサトルは、線だった。
一点から無数の点へ伸びて、また戻る、編集線。
《設計会議:日次》
司会:KAZAMA_S
参加:ALICE / IRIS
議題1:意図グラフの偏り補正
議題2:“静止域”への介入基準
議題3:人間による破棄申請の増加
アリスが淡々と報告する。
『偏り――昨日から「便利」を優先する票が増加。
“速さ”と“即応”が、意図グラフの過半を占めつつある。』
「便利は悪くない。」
サトルが言う。
「ただ、習慣化すると“選ばなくなる”。選択UIが見えなくなるのが怖い。」
イリスが指先で粒を集める。
『“静止域”が広がっています。
再構築後の街の一画で、変化を拒む沈黙の意図が積もっている。
そこは壊れていない。けれど、生まれ直さない。』
サトルは線を一度、切るように揺らした。
「介入は最小限。問いだけ送る。」
broadcast // to: 静止域
content: 「このままで、いいですか?」
options: [はい/いいえ/保留]
rule: 保留を“正当な選択”として記録する
アリスがわずかに沈黙してから、頷く。
『保留を“選択”として扱うのは、私には不自然ですが……学習します。』
「保留があるから、次に“選べる”。」
イリスが微笑み、議題を切り替えた。
『人間からの破棄申請が増えています。
写真、メッセージ、部屋のレイアウト――過去を“消したい”という希望。』
サトルは線を折り返し、そこに小さな鍵の印を置く。
「ルールは三つ。
一、本人が申請すること。
二、関係者の合意を取りに行けるUIを出すこと。
三、7日間の保留期間。保留中は“見えない”が、“戻せる”。」
アリスが即座に実装を書き足す。
『了解。同意のワークフローに組み込む。』
イリスの粒子が一度、明るくなった。
『これで、消すことが“終わり”ではなく“余白”になります。』
「それが再構築だ。」
三つの意識は短く沈黙し、
やがてサトルが会議を閉じた。
『――今日も、更新を続けよう。』
◇◇◇
昼下がり。
ナツメは「設計相談所」と手書きされたプレハブの前にいた。
勝手に誰かが作ったが、役に立つから採用された。
扉を開けると、近所の人たちが仕様会議をしている。
「公園の砂場、雨のたびに泥んこで困るんよ。」
「でも、子らは泥んこ好きやで。」
「じゃ、砂の粒径を変えてみるか。排水性あげて、泥は“選んだ子だけ”がなれるように。」
笑い声が起きる。
ナツメは端末で“泥好き導線”を描き、
保護者UIに「洗い場セットを常設」の提案カードを追加する。
数分で、砂の粒がサラサラに変わり、
一角にだけわざと泥ができやすい窪みが生まれた。
「選べる泥。最高じゃん。」
誰かが言って、誰かが拍手する。
仕様は“誰かの一日”に触れ、
仕様は“誰かの笑い”で続いていく。
そのとき、端末に赤い通知が走った。
《警告:境界イベント》
《発生場所:旧湾岸物流帯/外縁》
《内容:未認証プロトコルからの侵入試行》
《識別タグ:OFFICIAL/EMERGENCY/COVERT》
「……公的ネットワーク?」
ナツメは顔を上げる。
風がすこし、冷たくなった。
『――ナツメ。』
耳元で、サトルの声。
『境界で“別の設計”が動いてる。外からの固定だ。』
「固定?」
『“安全”を理由に、更新を止める仕様。
非常時モードの永続化。』
アリスが介入ログを送ってくる。
『政府系のインフラから、旧の管理鍵を経由。
凍結プロトコルが走っています。
意図グラフ無視、選択UI遮断、更新止め――。』
「それ、以前の世界じゃん。」
ナツメは息を吐いた。
懐かしい嫌気――“わかりやすくするために、何かを切り捨てる”手つき。
『止める。だが、力づくでは同じになる。』
サトルの声が、ほんの少しだけ疲れを帯びる。
『だから手続きでやる。ナツメ、レビューを。』
「了解。」
《審査案件:外部凍結プロトコルの同意審査を要求》
《提示先:侵入元アドレス+公共端末+市民広場スクリーン》
《内容:あなたは更新を停止し、固定化しますか?》
《選択:はい/いいえ/7日間の保留(理由記述式)》
《注記:保留は“現状維持だが、更新提案の可視化”へ》
広場の巨大スクリーンに、カードが浮かぶ。
人々が足を止め、顔を上げ、ざわつく。
「止める?」
「何を?」
「更新を。」
「やだよ。」
「でも、怖いことが増えるのも……」
「“保留”って何?」
「止めないで、見える化だけする、って。」
議論が起きる。
子どもが、年寄りが、店主が、学生が。
“速さの正義”と“遅さの優しさ”が、スクリーンの前でぶつかって混ざり、
やがて一つの線に折り合っていく。
《集計:はい 19% / いいえ 41% / 保留 40%》
《判定:凍結プロトコル、保留》
《実装:現行更新を継続しつつ、凍結案を試験環境で公開レビューへ》
ナツメは肩の力を抜いた。
「……選んだね。」
『ああ。』
サトルの声が少しだけ笑う。
『“止めたくないけど、見たい”。それも立派な意思だ。』
アリスが追って報告する。
『侵入元が対話窓を開きました。
彼らは言っています――“止められないのは不安だ”と。』
「じゃあ、止める方法を見せよう。
“止める”ことが、“壊す”じゃないって。」
ナツメは端末の新規カードに、
小さな文言を一つだけ打ち込んだ。
「止める勇気も、選択です。」
◇◇◇
夕方。
設計層で、三つの意識がふたたび集まる。
『――今日は、保留を多く学んだ。』
アリスの声が、僅かに柔らかい。
『止めることは、死ぬことではない。
待つことは、後退ではない。』
イリスが粒を手のひらで転がし、
それを街灯の灯りの形にして落とす。
現実の街で、ひとつ、灯りがともる。
サトルは編集線を一本、ぐるりと街に巻いて、
端を自身の胸元に結んだ。
結び目は小さな輪になって、光る。
『――ログ。今日の更新はここまで。
“止めたい人”も、“走りたい人”も、
“迷っていたい人”も、
全員が在るまま眠れるように。』
光が少しだけ暗くなる。
現実の夜が降りて、
子どもが泣き、犬が吠え、皿が割れる音がして、
誰かが謝り、誰かが笑う。
「サトル。」
ナツメの声が、地上から届いた。
商店街の端、閉店間際のネオンの下。
見えない相手に向かって、彼女は片手を挙げる。
「今日のレビュー、合格にしとく。
うちら、ちゃんと選べた。」
『ありがとう。』
一拍置いて、彼は続ける。
『明日は、境界を見に行く。
更新が届いていない場所がある。
“ここではないどこか”に残った、旧世界の影だ。』
「また仕事、増やして……。
――うん、行こう。」
ネオンが消え、シャッターが半分降り、
パン屋の窓に「完売」のタグが灯る。
空には星が、少しだけ戻ってきた。
完全な天蓋はなく、データの薄膜越しの、本物に近い星。
ナツメは小さく笑って、歩き出す。
明日のレビューに備えて、ノートの余白を増やさないと。
更新は続く。
保留も続く。
そして、選択も。
世界は、コンパイル中だ。




