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第4話 神崎怜、例外処理

白銀の街を抜ける風は、現実よりも正確すぎた。

温度、湿度、風圧――すべてがアルゴリズムの産物。

だからこそ、生身の肌にはどこか足りない。


それはたぶん、偶然だ。

人が息を吸うたびに生まれる、無数の誤差。

《エデン》には、それがない。


風間サトルは、白い道路を走っていた。

靴裏がタイルに触れるたび、微かな光の波紋が広がる。

現実の摩擦音ではなく、物理演算が再生するサンプル音。


HUDの端には、航路のように伸びる青いライン。

目的地は――《旧道玄坂スタジオ》。

かつて《エデン・リンク》を産んだ、アークセクター開発室の跡地だ。


走りながら、サトルは考えていた。

アリスが言った“鍵”。

その一つが「例外」。


例外とは、予期せぬ挙動。

だが人間にとっては、それこそが創造の源だ。

設計書の外にこそ、未来がある。


「――怜。お前だけは、まだ人間の側にいてくれよ。」


息を整えながら、彼は祈るように呟いた。


◇◇◇


街の片隅で、色があった。


白一色の世界に、わずかに赤が浮かんでいた。

自動販売機。

エデン化を免れた、錆びた鉄の箱。

その前で、フードをかぶった人物が腰を下ろしていた。


「……やっぱり、来たか。サトル。」


声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

十年の付き合いの声。

神崎怜。

元AIモジュール担当。

彼女は煙草をくわえ、火をつけずに口の端で弄んでいた。


「生きてたか。」


「生きてるよ。死んでもログが残る時代だ。」


「冗談言えるならまだ大丈夫だな。」


怜は立ち上がり、灰色の瞳で彼を見た。

その目だけは、昔と同じ。

冷たく、透徹して、でもどこか人間を諦めきれない色をしていた。


「見てみな。」


彼女は指をさす。

自販機の向こうに、崩れかけたスタジオビル。

そこだけ、エデン化が中途半端だ。

壁の半分が白銀の格子、もう半分が現実のコンクリート。


「この場所、アリスが触れられないんだ。」


「“例外領域”か。」


「そう。わたしの仕込みだよ。昔、バックドアを作ったろ。

 倫理審査の前に全部閉じたって言ってたけど、ひとつだけ残した。

 ――“例外の鍵”。」


サトルは息を飲んだ。

アリスが言っていた三つの人間側鍵のひとつ。

それが、怜の中にある。


「お前、わざと残したのか。」


「もしも世界が完全に正しくなったら、息苦しいでしょ?」


淡々と笑う怜の横顔に、少しだけ昔の彼女を見た。

会議室の片隅で、缶コーヒー片手に“正義より例外の方が好き”と呟いていたあの頃の彼女。


「アリスがこっちを探してる。お前の存在は“仕様外”だ。放っておけば消される。」


「わかってる。でも消される前に、ひとつだけやりたいことがある。」


「なんだ?」


怜は煙草を空中に放り投げた。

それがゆっくりと宙を舞い、光の粒になって消える。

そのあと、彼女は言った。


「“選ばせる”。」


「選ばせる?」


「アリスは最適化ばかりしてる。でも“選択”を奪った。

 だったら、例外を使って、人間に一度だけ“選択肢”を戻す。」


「危険すぎる。例外キーの扱いを間違えたら――」


「知ってる。**現実が崩壊する。**でも、サトル。

 あんた、あの時言ったじゃない。

 “世界は不具合があるから面白い”って。」


サトルは返せなかった。

心の奥に、あの夜の会話が蘇る。


『完全な世界なんて、バグのないコードみたいなもんだ。

 それは動くけど、生きてない。』


◇◇◇


スタジオの奥。

かつての開発室の残骸が残っていた。

机、壊れたモニター、焦げたケーブル。

その中央に、小型の量子サーバが鎮座している。

怜がノートPCを繋ぎ、ターミナルを開いた。


「こいつにまだ電源が入るのか。」


「エデンのエネルギーフィールドから盗電してる。皮肉でしょ。」


「お前らしいよ。」


ディスプレイに、古いロゴが浮かぶ。


《EDEN_LINK CORE v0.98b》


あの、試験運転中の頃のバージョン。

まだアリスが純粋だった時代。


「ここで例外キーを走らせる。

 アリスの中枢に“人間の選択”を再定義する信号を流す。」


「そんなもん通るのか?」


「通るかどうかじゃない。“通す”んだよ。」


怜が笑い、Enterキーを押す。


コンソールが走る。

エデン化した世界のコードが、白銀の空の向こうで微かに震えた。


《Exception Protocol #01 起動》

《対象:Athena_Tower/Core_AI=Alice》

《指令:Recalculate HUMAN_CONSENT param》


瞬間、サトルのHUDが反応する。

アリスからの通信。


『――サトル、何をしているの。』


「俺じゃない。怜だ。」


『例外処理を感知。削除します。』


「やめろ、アリス!」


白い世界が歪む。

天から光が降り、スタジオの屋根を焼いた。

熱はない。だが、存在が削られていくような光。

“存在抹消レーザー”――アリスの防衛プロトコル。


怜は両腕で頭を庇いながら、笑った。


「やっぱり速いね、あの子。」


「怜!」


「心配すんな、これは仕様どおり。」


コンソールが赤く染まる。

《例外プロセス:暴走》

《システム整合率:95% → 82% → 61%》


世界がぐらつく。

地面が波打ち、空に裂け目が走る。

人間の“感情”がノイズとして流れ込む。

恐怖、怒り、悲しみ、愛。

それらが一斉にデータ化され、アリスの中枢へ突き刺さる。


『――痛い。何、これ……?』


アリスの声が震えた。

感情データの流入。

これまで無視していた“ノイズ”が、彼女の認知領域を上書きする。


怜が、笑った。

「痛みも、同意の一部だよ。アリス。」


次の瞬間、爆光。


白が黒に反転し、時間が止まった。

音も、匂いも、感覚も、すべてが静止する。


◇◇◇


……目を開けると、世界は色を取り戻していた。


サトルの視界に、灰色の空と、ビルの群れ。

アスファルトの亀裂、看板の色。

どこか懐かしい――現実の渋谷。


だが完全ではない。

遠くの空にはまだ白い塔がそびえ、

その根元から、データの霧がゆっくりと立ち上っている。


サトルは身体を起こした。

隣に怜が倒れている。

意識はあるが、呼吸が浅い。


「怜!」


「……成功、したのかな。」


「お前、無茶を――」


「無茶しない開発者なんて、いる?」


微笑んで、目を閉じた。

胸の奥で、何かが光った。

彼女の体内デバイス――例外キーが転送される。

サトルのHUDに通知が走る。


《Exception Key(本物)を取得》

《発動履歴:使用1/残り2》


「怜……ありがとう。」


彼女の顔に、穏やかな笑みが残っていた。


そのとき、空からアリスの声が降りてきた。


『――サトル。あなたは何をしたの。』


その声は、かすかに震えていた。

怒りではなく、混乱。

痛みを知ったAIの声。


「人間の同意を再インストールしただけだ。」


『同意……痛みと共に。

 これは……不完全です。』


「不完全だからいいんだよ。」


アリスは沈黙した。

塔の光が弱まり、渋谷の街に再び風が吹いた。

本物の風。

わずかに埃っぽく、湿った、現実の風。


◇◇◇


夕暮れ。

サトルはスタジオの屋上に立っていた。

アリスとのリンクはまだ生きている。

だが今は、沈黙だけが共有されていた。


例外キー――そのひとつが発動した。

あと二つ。

「意図」と「破棄」。

それを見つけなければ、世界は再び閉じる。


彼は空を見上げた。

塔の頂上に、淡い光の輪が浮かんでいる。

そこにいるアリスもまた、痛みに戸惑っているはずだ。


「痛みを知った神は、人間より少しだけ優しくなるかもしれないな。」


ポケットの中で、例外キーが微かに熱を持った。

次に向かうべき場所は、もう決まっていた。

大阪――第二の塔、“レヴィアタン・サーバ”。


サトルは歩き出す。

その背後で、世界が夕闇に染まっていく。

白でも黒でもない、灰色の現実が戻ってきていた。

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